甘くて、おいしい

「……なんか、美味そうな匂いすんな」

 くんくん、空閑は鼻をひくつかせた。イチゴのような、甘くておいしそうな匂い。つい先ほどまでは存在しなかったものだ。どこから香っているのか、心当たりならある。その匂いを感じたのはそいつが近寄ってきてからだから。
 それを連れてきた張本人、虎石はぱちぱちとまばたきをしてから、ああ、と笑った。

「甘い香り? んじゃあ、これじゃね?」

 スッと、ポケットから何かが取り出される。それを目で追いかける。細長い、それは。
 ピンク色の可愛らしいパッケージ。とても男が持つために考えられたものとは思えない。てっきり女の話か香水の瓶のどちらかが出てくるのかとばかり思っていたが、どちらでもないそれが何なのか空閑にはわからず、首を傾げた。

「リップクリーム。こないだデートした子猫ちゃんがさぁ、『虎石く〜ん、今度私とキスする時に塗ってぇ』ってくれたんだよ」
「……へえ」

 くんくん。子猫ちゃんの真似らしい少し高めの猫撫で声に眉をひそめつつ、空閑はまた鼻をひくつかせた。鼻が慣れたのか、最初に香った時よりも匂いが弱く感じる。それでも自分に塗ってないのに匂いを感じるほどのものを鼻の下に塗って臭くないんだろうか、と無駄な心配をしてみた。
 虎石がそのリップクリームを揺らしながら得意げに語る。

「これ、舐めておいしいリップクリームっつーやつで、」
「食えんのか」
「いや、食って美味いもんじゃねえと思うけどなっ。唇に塗ったやつをこうやって舐めると…、ん、甘え」

 ペロリ。紅い舌を見せつけるように動かして、下唇を舐める。それを口の中にしまい込み、虎石は口角を吊り上げて笑った。リップクリーム、それと唾液。唇が艶やかに光を反射している。
 ふむ、空閑は短く唸った。

 ──舐めると、甘いのか。

 じいっと、唇を見つめる。あれが、甘くて美味いのか。

「一応これ、イチゴ味でさ。どんなもんかと思って試しに塗ってみたんだけど…結構悪くねえな。愁も味わってみたいってんなら、特別に貸してやってもいいぜ?」
「なら、」

 空閑と虎石は幼馴染で、腐れ縁で、今はクラスメイト、そして恋人。ヤることもヤっている仲だが、虎石は空閑が諦めるほどの女好きである。だからなのかなんなのか、やたらと男だの女だの、気にする。男のプライドがどうたらこうたら、要するにその手のことには素直じゃない奴なのだ。
 つまり、キスしたい──と、いうわけで。
 ペラペラと言葉を紡ぐその唇に、甘い香りを放つその唇に、何の匂いもしない無口な唇を重ねてやった。
 驚いたように見開かれた目と見つめ合う。またイチゴのような香りがふわっと鼻腔をくすぐって、虎石の唇を舐めると確かに甘かった。甘い口づけ、なんてものは柄じゃないが、味に釣られてキスをするというのはらしいかもしれない。
 ぺろり、ちゅう、唇が甘い。がっつり頭を押さえ、ぽかんと小さく開いた唇だけを堪能する。悪くないが、やっぱり匂いが強すぎる気もする。クラクラするような甘い香りはリップクリームだけのものか、それとも虎石の唇から香るから余計にそうなのか。わなわなと震える唇からはもうほとんど人工的な甘さを感じない。なんとなく甘い、普段のキスの味になってきた頃。

 ──スパン!

 思い切り、頭を叩かれた。

「いってえな」
「自分の! 唇に! 塗って! 舐めろこのバカ」
「うまかった」
「そりゃよかったな、コノヤロー」
「何が不満なんだ」
「愁、お前にはもうちょっとムードっつーもんを大事にしようって気はねえの? 今じゃなかったっつーの。ったくオレの計画を全部潰しやがって…」
「計画?」
「あーあーなんも言ってねえ」

 フン、虎石はそっぽを向いて口をへの字に曲げた。何が不満だったのか。
 チラリ、視線だけがこちら側。首を傾げる空閑を、虎石は信じらんねえという目で見てくる。しかし空閑は間違った行動だとは思っていない。舐めると甘いリップクリームだと教えてくれたのは、その唇だから。

「キス…したいから、んなもんわざわざつけて来たんじゃねえのか」

 そっぽを向いたままの頬が、リップクリームのパッケージのようなピンク色に染まっている、ように見える。一度逸らされた視線がまたジロリと戻ってきた。への字の口がつんと尖って今はひょっとこみたいになっている。
 それから急に顔がこちらを向いて、ガッと胸ぐらを掴まれた時にはもう唇がぶつかっていた。甘い残り香と、少し荒いキス。乱暴だったのはそれだけで、あとは柔らかい感触を楽しませてくれた。唇と、その先も。
 薄く開いた隙間から舌が入り込んできて、こちらの舌を絡め取っていった。擦り合わせて、ちゅっと吸って、口の中を舐める。互いの唾液だけで味はしないはずなのに、ほんのり甘い気がした。
 空閑も虎石も、お互いにお互いの頭を抱えるようにしてキスを深める。味付きのリップクリーム、そんなものは発端でしかない。くちゅ、ぴちゃ、ぺちゃ、唇を貪る音と息遣いだけが二人きりの部屋に響いた。

「ん、…ふ……んむ、…」
「は……ん、んん…」

 たっぷり堪能した後。チュッとキツめに唇を吸うのは終わりにしろという命令だ。要望通りおとなしく離れてやると、胸元をドスンとど突かれた。

「痛えな。いいかげんにしろよ」
「るっせ。オレの予定を狂わせた愁が悪いんだよ」
「だからなんだ、その予定だ計画だってのは」
「……はあ」

 ジロリ。そしてまた大きなため息。
 虎石はリップクリームの蓋を開け、底をくるくると回してスティックを繰り出した。そしてそれをたっぷりと唇に塗りたくる。空閑はその様子を黙ってじっと見守っていた。
 念入りに、そんなに塗る必要あんのかってくらいに塗り込んで、天ぷらを食べた後のようにツヤツヤになった唇がニイッと笑った。

「舐めさせてやろっか」

 パチン。ウインク付きで、そのセリフ。
 これが漫画だったら星でも飛んでくるところだ、空閑ならその星を叩き落とす。ついでに今のセリフの語尾にはハートがついているだろうから、そっちは受け取っておいてやる。
 無反応とも取れる空閑のリアクションにはお構いなしのようで、虎石はやれやれと肩を竦めた。それから人差し指を空閑に向かって突き立てて。

「って、計画だったんだよ。まず愁の嗅覚舐めてたわ。気づくか? フツー。人の唇の匂いなんて、キスでもしようとしなきゃわかんねえって。オレがこれ出して、味付きなんだよ、かーらーのー、舐めさせてやろうか、って作戦丸潰れ。マジありえねー」
「………キスしに来た、ってことでいいんだろ」
「うるせー黙ってろ。せっかくの軌道修正も台無しにしやがるし」
「……で、結局何が不満なんだ」

 一通り言い分を聞いてやって。それでもやっぱり何が悪いのかよくわからなかったからもう一度尋ねた。少し手順が狂っただけで、概ね思惑通りではないのだろうか。
 はあぁ、虎石が大袈裟なため息をついた。またそっぽを向いて、ムッと唇が拗ねる。

「オレは、負けてねえからな」
「は?」
「そうだよ、オレは負けてねえ。待てのできねえ愁の負け…、よし、それだ!」
「はあ? いつ俺とお前が勝負したんだ」
「……今?」
「聞くな」

 はあ、今度は空閑がため息をついた。今? と首を傾げたその顔は酷く間抜けで、虎石の言うところの子猫ちゃんが見たらどう思うかと考えたが、これはあざといと言われるのかもしれない。虎石も特に勝負事として話をしていたわけではないようだ。どうせ負けた気がする、それは癪だ、とかそんな感じだろう。
 ──負けた気がする。ああ、なるほど。
 空閑はフッと口元を緩めた。虎石が不思議そうに眉をひそめたのが見える。

「お前、自分からキスしたかったのか」

 は、と息のような声を漏らし、虎石は固まった。何か反論しようとして口をぱくぱくとさせる様子がまるで魚みたいだ。みるみるうちに顔が赤く染まっていく、これは金魚だ、祭りの屋台で掬うやつ。
 と、空閑が呑気にそんな場違いなことを考えていると、虎石がわたわたと手を動かし始めた。ちげえ、と否定するようにブンブン振って。

「や、べっつに、キスしてえとかじゃなくて…えっと、愁がしてえって言うんならキスさせてやろうかな〜って思ってたんだよ。それなのにオレがよしって言う前に愁ががっついてくるから悪りぃの」
「俺は犬か」
「躾のなってねえ…、な」
「へえ。じゃあ躾けてもらおうか。慣れてんだろ、犬の世話」
「まあな。つっても、スケベな犬はお前だけで十分だけどな」

 ニヤリ。口角を吊り上げた虎石が、おいでおいでと手招きをする。ご機嫌ナナメにさせておくと面倒な奴だから従ってやる、今は犬だ。
 頬を挟まれ、虎石の顔が真正面にやってきた。唇は艶やかで、甘い香りを放っている。これをもう一度味わいたい、だから空閑は黙って待てをした。
 虎石の目がスゥと細くなって、満足そうに喉を震わせ笑う。

「舐めてえ、って顔してる。愁がどうしても…ってんなら、舐めさせてやってもいいぜ」
「待てができたらご褒美あんだろ、エサ」
「ん…そうだな。ご褒美やんよ、愁。ほら……よし」

 頬を挟んでいた手のひらがするりと滑り、頭を撫でて引き寄せる。許しの言葉に誘われて、再びその甘いのを口に含んだ。イチゴ、人工的なあの香り。
 色々言い訳が必要なご主人サマはご苦労なこった、犬らしくぺろっと舐めながら。キスしてえ、ヤりてえ、どれもお互い様なのに虎石はいつも理由をつけたがる。なんかムラッとした、ではダメらしい。そのくせ仕掛けてくるから面倒臭い奴なのだ。

 ──まあ、その面倒臭い奴じゃなきゃダメなのは、俺なんだけどな。

 ちゅう、ちゅく、ぺろ、たまの二人きりだ。もっとたくさん食わせてくれんだろ、問いかけた瞳に映るのはゾクゾクしたようなグレーの瞳。虎石が首に腕を絡め、体重を使ってゆっくりと引き倒してきた。返事はオーケー、いや、よし、か。
 さっきよりもたくさん塗ったらしい、まだほんの少し甘さが残っている。唇だけでなく口の中も絡め合う舌もみな甘い気がした。甘くて、美味い。ああ、それはいつものことか。
 雰囲気の話ではないが、甘い口づけ──案外、自分たちらしいのかもしれない。キスが甘く感じるのは愛し合っているから、と何かで目にしたことがある。そう囁いたところでこいつは認めようとしないだろうから黙っておこう。幸い、黙っているのは得意だ。
 ちゅっ、ちゅう、くちゅ。触れるだけ舐めるだけで短いのも深くてしつこくて長いのも好きだ。キスが好きかと問われればそうだと答えるが、相手が違うのならば特別したいとも思わない。虎石とするから好きなのだ。
 だらり、名残惜しそうな糸を垂らして唇を離す。もっと味わいたい、反面、ふと思い出したから。虎石の指に握られっぱなしのリップクリームを奪い取る。

「ん、…なに、愁。気に入った?」
「……まあ、そうだな」
「もっかい塗ってやろっか。それとも、愁が塗るか?」
「どっちでもいい。なくなるまでやる」
「……は?」
「これを寄越した女には悪いが…次、使う機会はねえな」
「ま、待て。今日だけで使い切る気かっ? さすがに無理だっての!」
「今更お前の女好きをやめろとは言わねえけどな、それとこれとは別だ。今度キスする時に塗って、だったか? 今度はやらねえ」
「いやそれと今日使い切るってのも別だろっ!  無理、ふやける、っんぐむ」

 奪い取ったリップクリームの蓋を開け、テキトーに繰り出してから虎石の唇に押し当てる。自分の唇にもあまり塗ったことがないのに他人の唇なんて加減がわからないが、まあ虎石だからいいだろう。色気のない声を聞きながら塗りたくり、またキスをする。
 バシバシと頭や背中を叩かれても気にしない。いやイラッとはしているが、そんなことよりこの甘いのを使い切る方が優先だ。時間をかけて楽しんでいたらこいつはまたふらふらと女のところへ行ってしまう。散々人のことを犬扱いしてくれたが、リードで繋いでおきたいのは虎石の方だ。

「んっ…、たっぷり舐めさせてくれんだろ、虎石」

 塗って、キスしてまた塗って。甘ったるい匂いと甘い唇、リップクリームのことを忘れてそれを貪るのは、もう少し後の話。
1/1ページ
    スキ