ふっくら、やわらか
「廉、唇…ちょっとカサついてない?」
あ? ──想定外の質問に、間抜けな声が出た。
怒っていると捉えられても仕方ないような反応にも動じずニコニコと笑っているのは南條、北原の恋人でもある男だ。部屋に遊びに来ていた南條は、北原の唇を見つめながらそう言った。キスをしたいのかと思っていたのに、違ったらしい。
唇、復唱しながら自分の唇を指でなぞってみる。最近肌寒くなってきた、ということは乾燥の季節の訪れだ。確かに少し、潤いが足りていないような感じもする。
「あー…言われてみりゃそんな気もするな」
「れ〜ん〜、仮にも芸能人だろ? 俺的には、見てくれに気を使うべきって思うけど」
「ぐっ……もちろんちゃんと気ぃ使ってるに決まってんだろーが。ただ、ちょっと準備が間に合わなかったっつーか」
「そのへんは冬だけでなく通年気を使うべきじゃない? てことは、リップクリーム持ってないんだ?」
やるからには完璧に、ルックスが良いことを自負している以上最低限の気は使うべきである。だから乾燥が気になり始めたらケアをするようにはしてきた。この程度では、気にしていなかっただけで。
しかし南條の言うことももっともだ、気になってからでは遅いこともある。仕方ない、早速買いに行くかと唇を撫でながら予定を決めた。
「んじゃ、買いに──」
「俺が塗ってやろうか」
「ハ?」
ニコ、南條が笑みを深めた。美しい弧を描いたその唇はふっくらとしていて、乾燥とは縁がなさそうに見える。
やっぱりこいつもケアとかすんのか、北原は唸った。触れるといつでも心地よい唇であることはよく知っている。ついついそこに吸いつきたくなるような、そんな唇だ。そう、ルージュやなんかの宣伝文句みたいな。
と、そんなようなことをぼんやり考えていると、南條がポケットから何やら容器を取り出した。話の流れで言えばリップクリームのはずだが、北原の知っている形状ではない。南條が手にしているのはいわゆる普通のクリームが入っているような、ころっとした小さな円筒形の容器であった。
「なんだそれ?」
「リップバームだよ。スティックタイプよりちょっと柔らかくてさ、俺的にはこっちの方が好きなんだよね」
「へえ。どうやって塗るんだ?」
「実演してやるよ。こうやって指で塗るんだけど…廉、ちょっと顔上げて?」
「お? こうか?」
指示通り、南條の手元を見つめていた顔を上げる。するとリップバームを乗せた中指が近づいてきて、ぴとりと下唇に触れた。普通に指で塗んのか、それもそうかと勝手に納得しながら、左右に塗り広げていく様子を視線だけで観察する。
薄っすら開いた唇に、リップバームが丁寧に塗り込まれていく。少し甘い香りがする、嫌いな匂いではない。南條の指が北原の唇にそれを馴染ませる。くるくる、とんとん、優しすぎるくらいの力で。
それからすっと離れていった指が、再び良い香りを連れてやってくる。今度は上唇、これまた丁寧に保湿されていく。この指を咥えて舐めたことはあるが、こんな風に触れられるのは初めてだ。特にそうした意図もなくただ唇に触れるだけなのは珍しい。
南條の指の動きに合わせて揺れていた瞳を止めて、顔の方へと動かした。視線が合うかと思ったのに、意外にも南條は北原の唇を見つめていて、それは叶わなかった。だから北原も南條の唇を見つめることにした。唇は相変わらず弧を描いていて、一つ違うのは、北原の間抜け面がうつったかのように薄っすらと開いていたことくらい。
「……はい終わり。うん、いい感じだよ、しっとり潤って……フッ…、つやつや、ははっ」
「なに笑ってんだ」
「いやあ、化粧でもしたみたいになってるからちょっと可笑しくて。あはは、塗りすぎちゃったかな」
「テメーが塗ったんだろーが。笑いすぎだ、有罪」
うるうる、つやつや。おそらくそんな感じなんだろう。唇に触れてみると少しべっとりとしたクリームが指についた。鏡はないからわからないが、いかにも塗りましたという風な仕上がりに違いない。
じとり、なおも笑う南條を見遣る。口元を覆った指の隙間から覗く唇はカサついていないが、何かを塗ったような形跡もなかった。潤っていながらベタついていない、柔らかそうな唇というものは。
「……聖。テメーも塗ったのか?」
「ん? まだだけど」
「俺が塗ってやる」
「ええ? 真似っこ? まあいいけど。ありがと──」
う、の形になった時。ぐいっと引き寄せてそこに唇を重ねた。余分な潤いを移すように合わせて、擦り込む。驚きで見開かれたのは一瞬、その目はすぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。
くちゅり、入り込もうとしてきた舌を押し返す。これはキスではないからだ。ただ単に、ケアをしてやっているだけ。さっきまで触れるだけの焦らしプレイの仕返しでもある。もっとも、さっきの方こそただのケアなのだが。
唇と唇をぴったりと合わせる。湿っているからかいつもよりも吸いついて、一ミリの隙間もない。クリームを舐めてしまうということを気にしなければ、これそのものは悪くないと思った。密着した唇を食む、しっかりと塗り込んでやる。
たっぷり、たっぷり。時々唇を舐めて、それ以上は入り込まずにまた唇だけを合わせる。手のひらを頬に添え、もう片方の手でうなじを撫でると南條が焦れったそうに見つめてきた。これだけ? と問うている。
これだけ。答えはこうだ。補うように髪を梳く。ふわっとした少しクセのある髪は柔らかく、触り心地が良いから好きだ。ふぅん、と南條は目を細め、北原を真似るように髪を撫ぜてきた。南條の手つきは優しくて気持ち良いから、撫でられるのも好きだ。
「ん、…む……ん…」
「んん…は、…んむ、ぅ…」
どれくらい、そうしていたのか。ちゅう、軽く吸ってようやく離れる。
はあ、と軽く息を漏らす唇はしっとりと湿っていて、艶やかに光を跳ね返していた。濡れているのはリップバームのせいか、それとも。
「どうだ、潤ったか」
ニヤリ。口角を吊り上げて笑う。
南條は指で唇をなぞり、ぺろっと舌を覗かせてから同じようにニヤリと笑った。
「んー…俺的には、まだ足りない…かな」
「潤いが、か?」
「そ、潤いが」
「ハッ、よく言うぜ。キスの方だろーが」
「あは、バレた?」
「バレバレなんだよ、何回も舌突っ込もうとしてきやがって。テメーが先に焦らしてきたのが悪いんだろーが」
「ええ? あれ、焦らしたに入っちゃうんだ。俺的には純粋な優しさからケアしてやってただけなんだけど。廉的にはムラムラしちゃったんだ?」
「テメーの唇が悪い」
「………え?」
南條の、唇。
血色よく、ほんのりピンク色をした唇。その端は大抵ニッコリと上がり気味で、今日もやっぱりそうだった。しかし薄っすら開いた隙間が、いけなかった。ただでさえ触れられるだけという状況に少しモヤッとしていたのに、まるでキスをする直前のような唇をされていたらたまらない。
そもそもの発端も、それを意識させるための誘導としか思えないものだ。何度も何度も口づけてきたが、それが潤ってるだとか荒れてるだとか、そういうことは考えてもみなかった。だからいつでも柔らかく受け入れてくれるその唇がどうなのか、じっくり観察してみた──ら、キスしたくなった。そういうわけだ。
「廉……俺の唇見てたら、キスしたくなっちゃったの?」
「ああ。つーか、ずっと俺の唇見てるからキスしてえのかと思ったらカサついてるだとか、有罪だろーが。回りくどいんだよ」
「ええーだって、ちゃんとケアしてた方がキス気持ちいいし」
「あ? テメー、見てくれがどうのこうのっつってたくせに、キスのためかよ」
「あ……ははは、もちろんルックスにも気を使うべきとは思ってるよ? だけど直接触れ合うものだからさ、触覚って大事だろ? 俺だってケアしてるんだし、廉もケアすべきでしょ」
「ハッ、やっぱ回りくどいな。そう言やいいのに……けど、テメーも俺のためにケアしてんだな。無罪にしてやる」
「んっ」
ぐっと引き寄せて、むちゅっとキスをする。ほんの一瞬触れただけで離れて、北原はニヤッと目を細めた。対する向こうはわずかながら目を見開いた、ということは、少し予想外だったらしい。間抜けにぽかりと開いた唇、それを指で軽くなぞってから南條は微笑んだ。
「これで終わり?」
「キス、したかったらそっちからしろ」
「んじゃあ、遠慮なく」
ニコッと笑みを深めた南條の手のひらが頬を滑り顎をくいっと持ち上げる。遠慮なくという言葉の通り、すぐにキスが降ってきた。触れて、もちろんその先も。待ち焦がれたという風に舌が入ってきたのに合わせてやる。焦らしておきながら、焦れていたのは北原も同じだったから。
くちゅ、ぴちゃ、ぺちゃ、当初の目的も忘れて唇を貪る。ただ重ねて感触を楽しむのももちろん好きだが、こういう気分の時はやはりこっちの方がいい。より深く、求め合って。キスは好きだ、手軽に互いを交換できる。
南條の指が輪郭をなぞる。それを真似るように北原も手を伸ばした。唇だけでなく顔全体もケアしているのだろう、柔らかな肌が指に吸いついてきて心地よい。するり、さらさら、頬を撫でる、撫でられる。
変な焦らしがあったせいか、南條の口の中が妙に熱く気持ちよく感じる。向こうも同じらしい、うっとりしたような目が北原を見つめていた。ちゅう、ちゅく、舌を吸う、吸われる。
好きだ、自然と感情が湧いてくる。それが瞳からぽろり、ぽろりと溢れて伝わる。好きだ、好きだ。瞳から温もりから、全てから、それを伝える、伝えられる。
「んむ…はぁ……ん、ん…ぅ…」
「ふ、ぅ……む、…んっ」
くちゅり、くちゅり。たっぷり堪能してから離れた唇、艶めいているのはおそらくリップバームの効果ではない。
ちゅ、また軽く触れて。
「ん……やっぱ聖の唇は無罪だな」
「そう? ならケアした甲斐あったかな。それじゃあ廉のリップクリーム、買いに行こうか」
「必要ねえ」
「え?」
わざわざ自分の分を買わずとも、いい方法があると教えてくれたのは南條だ。手軽な手段として買ってもいいが、この方法の方が潤う気がする。いろいろと。
ぺろ、唇を舐める。それからニヤッと口角を吊り上げて笑うのは得意技だ。添えたままの手で南條の頬を撫でる。やや首を傾げ、覗き込むようにしてばっちり視線を合わせた。
「また、塗ってくれんだろ? 俺の唇、カサついてほしくねーなら、頼むぜ」
ぱちぱち、南條が目をしばたかせる。ニヤニヤ、北原はそれを眺める。南條なら絶対にやってくれる、そう思っているからこその発言だ。
えー、字面だけは不満あり気な言葉。満更でもなさそうな顔をした南條が、やっぱり満更でもなさそうな声色で言った。
「自分じゃやらない気? ま、いいけどね。いつでも塗ってやるよ」
「ああ、俺も塗ってやる」
今日みたいに、いつでも。
とっくにクリームなんてなくなった唇を親指でなぞり、北原は微笑んだ。
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