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7. 雨
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(もう起きてるといいけどなぁ)
オビは城の廊下を歩きながら、薬の袋を見下ろした。
(昨日、帰って来たの遅かったんだっけか)
もしもまだ寝ているとしたら、起こすのは忍びない。
ミシャの部屋の前まで来ると、オビは軽く扉をノックした。
"コンコン"
「ミシャー、起きてるか~?」
すると…
「…だれ……か、たす……て……っ」
くぐもった小さな声が聞こえた。
オビは目を見開き、扉を開ける。
「ミシャ!? どうした!」
部屋に飛び込むも、正面のベッドにミシャはいない。
部屋をぐるりと見渡すと、扉のすぐ横で、置物の下敷きになっているミシャを見つけた。
「…ぅ……ぐ……たす、け……っ」
「ミシャ!」
オビはすぐさま、置物を起こした。
"ギギギギッ、ゴトン…"
木を丸ごと一本削って作られたものなのか、かなり重い。
ミシャが抜け出せなかったのも納得だ。
「っ、ケホッケホッ……ひっく…」
ミシャは嗚咽を漏らしながら、ゆっくり身を起こした。
どうやら泣いているらしい。
「大丈夫かっ?」
オビはミシャの傍にしゃがみ、どこか怪我でもしていないかと、一通り見渡す。
ミシャは、雨音の合間に微かに聞こえた声から、来てくれたのが誰かを判断し、涙を浮かび上がらせた。
「ひっく…………オビ…っ」
「ん? どうした? どこか痛"バフッ"
ミシャは、オビに飛びついた。
「…ミシャ?」
「ふっ、うああああああん!」
「!」
オビの肩に額を押しつけたミシャは、火がついたように泣き出した。
「ど、どうしたんだよ…」
オビは戸惑い気味に、ミシャの背中に手を乗せる。
…そのまま、ミシャが落ち着くまでしばらく待っていた。
「……ひっく……ぐすっ…」
数分泣くと、ミシャは落ち着いた。
オビはミシャの頭をポンポンと撫で、雨音に負けないよう、耳元で訊く。
「何があったんだ?」
「…っ……ひぐっ……起きたら……目っ、見えにゃ、て…」
「うん」
「薬…っ、飲もうと、したらっ……水、こぼれてっ……飲めにゃっ、て…」
「まさかっ、今も見えてないのか!?」
オビはミシャの両肩を掴んでそっと離し、顔を覗いた。
…確かに、目の焦点が合っていない。
ミシャは嗚咽を止められないまま、呟く。
「ひっく……雨、降ってるからっ……耳も鼻もっ、利かにゃーしっ……ぐすっ……にゃんも、わかんにゃ、てっ」
「…そういうことだったのか」
見えなくて。
聞こえなくて。
匂いも分からなくて。
手探りで部屋を出ようとして、誤って置物にぶつかり、下敷きになったのだろう。
オビはミシャを腕の中へ戻した。
頭をポンポンと撫で、背中をさすってやる。
「…怖かったな」
「……っ」
収まりかけていた涙が、再び溢れ出す。
ミシャは何度も、コクコクと頷いた。
「…こわ、かった…っ」
「…終わったからな。…もう、大丈夫だ」
「…ん……っ……ぐすっ」
それから、オビはミシャをベッドに座らせ、目の前にしゃがんだ。
痛めたらしい左手首を、そっと持ち上げる。
「あー、腫れてきてるな。…痛いか?」
「…少し」
「薬室長から薬預かってるから。とりあえず目の薬飲んで、薬室に行こう。手首、治療してもわないと」
「……」
「そんじゃ、ちょっと水汲んで"グイッ"
コップを手に、部屋の外へ歩き出そうとしたオビだったが、服の裾が引っ張られ、前には進めなかった。
「…えーと、ミシャさん? これじゃ水汲みに行けないんだけど…」
「……」
ミシャは俯いたまま、何も言わない。
「すぐ戻ってくるから。な?」
「……」
「…まいったねぇ」
オビは再びミシャの前にしゃがんだ。
何度か頭を撫でながら、言う。
「10秒でいいからさ。数えて待っててよ」
「…ほんとに、10秒?」
「あぁ。絶対」
「……わかった」
「よし」
オビはポンポンとミシャの頭を叩くと、スっと離れた。
…途端、ミシャには、オビの位置が分からなくなる。
(……1……2……3…)
ミシャは10秒を数え始めた。
(……8……9…)
「お待たせ」
10を数え切る前に、頭に手が乗った。
「10秒、間に合ったでしょ?」
ミシャは、見えていない目で、オビの声がする辺りを見上げる。
オビはミシャの右手を持ち上げ、コップを持たせた。
「落とすなよ?」
「…ん」
「上向いて、口開けて?」
「…ひとりで、飲める」
「左手痛いでしょ?」
「……」
「ほら、上向いて」
「……」
ミシャは渋々、上を向いた。
オビはミシャの顎に指を掛け、小さく開いた口に、薬を落とす。
サラサラと、慣れた味がミシャの舌の上を流れた。
ミシャはそれを、水で流し込む。
「…ん」
こくんと喉が鳴り、小さなため息が漏れた。
オビはミシャの手から、コップを回収する。
「よし、これで一安心だn "グイッ…"
体に、窮屈な感覚が奔った。
何事かと見下ろせば、ミシャの手が、再び服の裾を掴んでいる。
「……えーと、ミシャさん?」
「……」
ミシャは黙って俯いている。
オビは、困ったような笑みを浮かべて、コップをサイドテーブルに置いた。
(ラクスド砦のときも、こんなだったねぇ)
「そんな必死で掴まなくても、どこにも行かないから」
そう言って、ミシャを抱き上げる。
「!」
ミシャは、突然浮き上がった感覚に身を強張らせた。
オビは、ミシャが座っていたところに腰を下ろし、ミシャを横向きで膝に座らせる。
「ほら、これで俺、どこにも行けないよ?」
「……」
ミシャはオビの声がする方を見上げた。
…包むように肩を抱く、大きな手。
相変わらず、目も、耳も、鼻も利かない。
まるで、何もない暗闇を浮遊しているような感覚だ。
けれど、オビに触れているところだけは、世界と繋がり、かろうじて地に足がついている気がした。
「……オビ…」
無意識に呟いて、ミシャは、オビの肩に頭を預ける。
「はいはい? お嬢様」
オビは軽口でそう答え、ミシャの頭を撫で始めた。
何度も、繰り返し。
優しく撫でられるごとに、ミシャの
…そうして1分もすれば。
「ん、あり?」
ミシャは眠りに落ちていた。
「いやいや、ちょっと無防備すぎやしませんかねぇ…」
見下ろしてみれば、ミシャの寝顔はあどけない。
だが、どこか疲弊しているようにも見える。
「……」
オビは、ミシャの寝顔をじっと見つめた。
生まれつきの病で、日に日に低下していく視力。
その視力を補うために進化した他の五感は、こんな雨の日には、寧ろミシャを傷つけてしまう。
どこまでも救いようのない現実。
「……」
オビは、ミシャの肩を、ぎゅっと強く抱きしめた。