🎻・🎼『とある御夫人の想い出話』

 手を繋いで、ドキドキしたのを覚えてる。
 練習を見てもらうようになって何週間か経った頃。
 その帰り道で、あれが起こった。
 家まで送ってくれる彼の気遣いは嬉しいけど練習の後、途中まで一緒に帰ってたけど、それと訳が違うと言うか、そういう意識がなかったというか。
 いざ、一緒に帰るって意識すると、なにを喋っていいのかわからないっていうか。
「『あ────っ。この緊張をどうにかしてっっ!』って思った時、おかあさん、お腹が盛大に鳴っちゃったの。お腹の方が、この緊張に耐えられなかったみたい……。ああ、死ぬほどハジかいた。今、思い出しても恥ずかしいわ」
 よほど笑いのツボに入るのか、香穂子は背凭れに身体を深く預けて大笑い。
「お詫びに肉まんおごるけど、買い食い初めてだったらしくて。おとうさんのコンビニ肉まんデビュー~!」
 笑いのあとに、柔らかい微笑みになり。
「──本当、嬉しかったんだよね。『送る』って言うおとうさんのその気持ちが……。でも、翌日の練習の厳しさに、前言撤回しそうになったけど……」
 これが中華まん思い出し笑いの、恥ずかしいが甘い思い出のわけだ。
 ふいに窓に目をやると、午後から降ると言っていた天気予報通り外は雨が降っていた。
 夫は息子を連れお出かけ中。出る前、夫に傘を一本持たせているので、濡れる心配はない。
 雨を見て、また思い出し笑い。
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