Caligula

亡霊奇譚(主+ソーン)※前サイトログ

2018/03/24 09:46
主+ソーン

少年には元来深夜に外を出歩く趣味などなかったのだが、しかしその夜は何より月の美しい夜だった。雲の切れ間、カーテンの隙間、時折覗く銀色の真円がまるで手招きをするように輝いていた。羽織った薄手のパーカーのポケットにスマホと財布を突っ込み、スニーカーを履いてそろりと踏み出した午前2時7分の外はまるですべてが死に絶えたような虚無に満たされ、寒くなどないはずなのにぞくりと鳥肌が立った。街路樹の葉が重なる音、靴底が道路の砂利を引っかける音、自販機で買ったコーラのペットボトルを開ける音、普段なら気にも留めないであろうさまざまな音が残響の尾を引きながら耳にこびりつく。月は雲に隠れてしまったかと思えば不意にその姿を現し、銀色をした眼差しでアスファルトと少年にさっと一瞥をくれたかと思うとすぐにまた消えてしまってを繰り返している。他の演者も観客も、誰ひとりいなくなった舞台の上、今にも切れそうなライトに照らされながら、おっかなびっくり踊っている。そんな心地を少年は覚えた。




どちゃ、だか、それともぐちゃ、といったか。兎も角そんなような鈍い音を少年が聞いたのは自宅からしばらく歩いた先だった。やわらかいものが、激しく叩きつけられる音。そういえば先週、調理実習のハンバーグ作りで挽肉を捏ねた時、こんな音がしたように思う―――立ち止まり、音の正体を探るべく辺りをきょろきょろと見回した少年は、そこで見つけたモノに思わず細い悲鳴を上げ、右手に持っていたペットボトルを取り落とした。

「ひ……っ!」

少年の数メートル先の道路に、この辺りでは見慣れない制服姿の少女が仰向けに倒れていた。よくよく目を凝らさねばその姿は闇の中に溶け、すぐに見失ってしまいそうになる、昏い夜の色を纏った小柄な少女だ。「な、なあ、きみ……」恐る恐る歩み寄り、大丈夫か、と続けようとした声は掠れて消えた。少女を中心に、アスファルトの上を滑るようにして広がった赤黒いものが、少年のスニーカーの爪先をひたりと濡らしたからだ。
「ひ」
彼女の表情は長く伸びた前髪に隠されて覗うことはできなかった。しかし、これまでの人生で人死にの瞬間を目の当たりにしたことなどなかったというにも関わらず、少年は思った。もう駄目かもしれないと。それほどまでに、彼女のぴくりともしない華奢な体躯からは、生気というものがまるで感じられなかったのである。
交通事故ではない。あの何かがぶつかるような音の直後、辺りを走り去った車やバイクなどは見当たらなかったから。では、彼女はどうして―――空を見上げて、そこで少年は微かなため息をついた。そこに聳えていたのは、宮比市でいちばん高い建物だ。いつから工事をしているのか、いつまで工事を続けるのか、誰も知らない建物。ランドマークタワーの雑然とした屋上と、不自然に虚空へと伸びた一本の足場が、絵画じみた静謐さをもって月明かりに照らされていた。彼女はあそこから落ちた、或いは飛び降りたのだと、なぜか少年は自然と悟った。
「と……とにかく、救急車…………っ」
ようやく我に返り、ポケットからスマホを取り出したところで少年は言葉を失った。目の前で、あまりに不可解なことが起きたからだ。


まるでそれは、動画の逆再生だった。少女の体から止めどなく溢れ出し、辺り一面を濡らした赤が、アスファルトにその痕跡を一滴も残すことなく〝少女の体に吸い込まれて〟いる。


「な……?」
少年のスニーカーに付着していた血痕も、砂浜に押し寄せた波が引いていくように呆気なく、少女のもとへ還っていった。やがて小さく身動ぎをし、手櫛で髪を整えた彼女はゆらりとその場に立ち上がったのだから、少年は思わず息をのんでその場にへたり込んだ。吉志舞高校指定のものではないカーディガンや白いラインの目立つボックススカート、胸元のリボン、やはり少年にはまったく見覚えのない制服を彼女は身につけていた。
やがてちらりとこちらに一瞥をくれた少女の制服には、血の汚れどころか塵のひとかけらすらついていない。〝あれ〟はそういう生き物なのだ、と、理屈ではなく本能が言っている。なぜなら銀の月が照らし上げた涼しげな瞳と薄い唇は、彼女がついさっきぶちまけていた命の色よりもさらに深い赤色をしていたからだ。

「う、あ、うわっ……」

彼女の唇がゆるりと持ち上がり弧を描く様を視界に入れる寸前、少年は慌てて立ち上がりその場から逃げ出した。おそらくあれは化け物なのだ、少女の皮を被った化け物なのだ、少女の皮を被ったことで化け物になってしまった何かなのだ!
少年は走った。幸いにも、家に着くまでに少年を追ってきたのは銀の月だけであった。呼吸を整えながらドアノブを捻った時、まだ中身のだいぶ残っていたコーラを置いてきてしまったことにようやく気がついたが、そんなことはもうどうでもよかった。







***











幽霊が出るらしい、という噂が吉志舞高校生を賑わすようになったのは、あれからしばらく経ってからのことだ。SNSでぽつぽつと話題に上がり始めたそれは、今では一部のオカルトマニアや噂好きの生徒たちの間では有名なネタになっている。熱いニュースにはすぐさま飛びつく、と豪語する隣のクラスのゴシップ少女は、目撃情報の特に多いといわれる現場で突撃生放送をする計画を立てているらしい。しかし噂の大半が「人を食う」だの「目が合うと死ぬ」だの、話半分どころか五分の一程度で受け流すのが正解のような馬鹿馬鹿しいものばかりなので、まあ今日も世界は概ね正常に機能していると思った少年は自販機でオレンジジュースを二本買った。あの夜のことを思い出してしまうので、最近コーラは飲まなくなった。

「おはよう」
「あ、おはよう。まだみんな幽霊の話してんの、来週から試験なのに」
「君はああいうの興味ある?」
「はは、いるわけないよな」
「だよねぇ」
「はいこれ、あげる」

教室に戻って席につくと、少年がこの春から付き合い始めた彼女が出迎えてくれたので今日も世界は概ね正常に機能していた。さきほどのオレンジジュースを一本渡すと、彼女はかわいらしい顔で「ありがと」と微笑んだので、やはり今日も世界は概ね正常に機能していた。少年も口元を緩めた。
「あ、これソーンの新曲」
教室のスピーカーから流れ始めた音楽に、少女はうっとりとした表情を浮かべた。バーチャドール楽曲ファンたちに広く知られている、最初期から活躍しているクリエイター。以前からコンスタントに曲を作り続けている安定したコンポーザーだが、最近特に作曲活動が活発だというのはファンである彼女から聞いた話だ。

「終わることのない、メビウスの環」

リップでほのかなピンクに色づいた小さな唇が、ソーンの曲のフレーズを口ずさむ。その瞬間、ざわり、と不快なと音ともに目の前の彼女の顔にノイズが走った。少年は窓の外を見つめる。どこからか、赤い瞳に見られている気がする。
今日も世界は概ね正常に機能している。今日も少年の世界は概ね正常に機能している、はずなのだ。


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