Caligula

108回目の(主琵琶)

2018/08/02 17:24
主琵琶
 
どうやら彼の体幹だか反射神経はなかなか良い物のようだと僕は感心していた。背後から不意に与えられた衝撃に対してほんの一、二歩たたらを踏んだところで腕が伸び、指輪だらけの手がすぐそばの手すりをぎゅっと掴む。よく磨かれた傷ひとつ無い彼の靴は浮遊感に誘われるまま段差を踏み外してしまうことなく、階段の踊り場をだん、と力強く踏みしめた。しんと静まりかえった空気から、温度が逃げていく気がした。

「……なんのつもりだ?」

ふっ、と小さく息をついてから振り向いた男の目に宿っていたのは剥き出しの敵意だ。いや、回答次第では殺す、とでも言いたげな気迫すら感じられるので、それはもはや殺意に近いのだろう。初めからまばらだった放課後の階段の人通りは、関わり合いになりたくないと言わんばかりにその場から散っていて、いつまでたってもNPCの教師が生徒同士の小競り合いを諫めに来る気配すら無い。やはりこんな世界にいるなんて、基本的に自分のことしか考えていないような連中ばかりだ。

「答えろ」

地を這うような声に呼ばれて視線を戻すと、色白の肌に今ひとつ似合わない汗を一筋垂らした男がこちらを見ていた。
品の良い砂糖で塗りたくってみせたような甘ったるい声は僕の奥には響かないと常々思っていた。だからたった今彼が吐き出した8割の憤りと2割の疑問を混ぜ合わせたような声が鼓膜を揺らす瞬間は思考を溶かす快楽だ。こうでなくてはいけない。僕はごくりと唾を飲み下して、そして笑ってみせた。するとふたりの間の感情の量が反比例していくように、彼の瞳がすう、と細まって、前髪の隙間からのぞく形の良いガラス玉は限りなく無機質な色に近づく。僕はそれをきれいだと思った。

「一度あなたに触ってみたかった。意外とあたたかくて、そして柔らかかった」
「そうか、僕が階段を降りようとしたタイミングで、すぐ後ろから、背中を両手で触ってみたかったと? 変わった趣味をしているな」
「すまない、嘘だ。一度でいいからあなたを殺してみたかった」
「……」

彼の中で、得体の知れない後輩の行動への怒りのほかに、そんな得体の知れない後輩をほんの数歩後ろで歩かせていた自分の間抜けさへの怒りは湧いているのだろうか。手すりを握りしめたままの彼の手に更なる力が込もり、金属同士が擦れ合う嫌な音がぎりりと鳴った。指輪と手すりと、どちらに傷がついてしまうのだろうか。

「ごめん、それも嘘だ。僕はあなたに人の気持ちを分かってもらいたかった。例えばそう、階段から突き落とされたあなたのお父さんの気持ちとか、あとは」
「黙れ」

窓から射し込んだ陽が、僕たちを舐めるように照らしていた。階段の下まで長く伸びた僕の影が、刃物じみた殺意を滲ませる男の顔に暗い陰を落としていた。「お前は、何を知っている」賢いあなたなら分かってくれるだろうと、僕は答えの代わりにポケットに忍ばせていたオイルライターを取り出す。寒々しい踊り場に、品のない舌打ちの音が殊更大きく響いた。あなたは、僕の愛を受け入れてくれるだろうか。

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