Caligula

あなたのいない月の下

2019/01/13 14:07
主琵琶

「先輩、月が綺麗だね」
「そうだね」
「違うでしょ、何度言えばわかるのさ」

見た目に反してぞっとするくらいに軽い身体は、俺がその肩をひと押ししただけでベランダの手すりを軽く乗り越え、そのまま視界から消えていった。どちゃ、と挽肉を捏ねるような音が聞こえるのと、ほんの数秒前までここにいた何かが手にしていたグラスがコンクリートの床にぶつかり割れるのはほぼ同時だったように思う。あれのために俺があちこち探し歩いて贈った、なんだったっけ、なんとか、ともかく嫌味なほど長ったらしい名前のアルコールが持ち主と意味を失いガラス片まみれのベランダの床をひたひたと濡らしていた。本物のあの人が死んだ場所も今はすっかり片づけられてしまっていたので、直後の現場はこんな感じだったのかなあと手の届かぬあの日に思いを馳せながら、今日も昨日も、そしてきっと明日も変わらず美しいのであろう楽園の月を見上げた。前はどこかの親切な誰かの通報ですぐこのマンションに駆けつけていた救急車やパトカーがぱったりと現れなくなって、どれくらいの月日が過ぎただろう。静かな夜を裂くようなサイレンの音も、真っ赤な光も、車から慌ただしく降りてくる救急隊員を模したポリゴンの塊も、全ては過去の思い出に成り下がろうとしている。

翌日、死体も血痕も何もないマンションの前を通って学校に向かい、授業を受けて真っ直ぐ家に帰ってくると、何食わぬ顔で(と言っても、俺にはよく顔は見えないんだけど)先輩がリビングのソファで寛いでいたので、俺は辟易した。
「どうしたの、学校」
「いや、はは、少し寝過ごしてしまってね」
嘘つけ、昨日お前死んだんだぞ。そんなことを言ったところでこの紛い物には通じないので、俺は制服の上着と通学鞄を放り出して、彼の隣に座った。半分の絶望ともう半分の期待を込めて太腿をすりすりと撫でれば、「何かな?」とわざとらしい声。よく出来ている。
「あとで宿題ちゃんとやるから、先にしたい」
「まるで子どもだな」
奥まで入れられる時より抜かれる時のほうが感じてるところだとか、限界が近くなると目元を隠そうとするところだとか(そんなことをしなくても俺には顔がほとんど見えてないんだから別にいいのに)、次第に積極的になって腰を浮かそうとしてくるところだとか。本当によくできているのに、なぜ俺が繰り返す質問に正しい答えをひとつ返すことくらいできないのか。甚だ疑問だ。

「先輩、もう夜になっちゃったよ」
「……ん、ぅ……そう、か」
ソファにくたりと横たわるそれに声をかけると、小さく呻いて身を捩る。動いた拍子にその白い脚の間からもっと白いものがとろりと糸を引いて、ぐちゃぐちゃのソファを更に汚した。
「気持ちよかった?」
「…………」
恥ずかしがっているのだろうか、しかし、ややあって彼はこくりと頷いた。
「先輩、初めてなのに上手だったね。練習したの?」
「……? 初めて……? いや、君とはもう、何度も」
「あなたはそうかもしれないけど、俺はそうでもないんだよね」
肩に残った歯形に舌を這わせると、おれの言葉に何か納得いかないような表情を見せていた彼はそれでも感じ入ったような声を上げた。また、俺が彼を愛してあげた証が、脚の間からぽたぽたとこぼれ落ちる。すっかり日が落ちて薄暗くなった部屋の中で、真っ白な肢体は悪い夢のように周りから浮いて見える。
「ねえ先輩、窓の外見て、月が綺麗だよ」

結論から述べると、やはりこの『先輩』も、月の美しい今日の夜を越えることはできなかった。俺は辟易した。





***








答えは、簡単なところにあった。

「死んでもいい、なんて言うわけないよ。だって、メビウスからは無くしちゃったもん。痛いとか苦しいとか、『死ぬ』とか、そういうの、全部全部、みんなの中から消しちゃった。よくないことだから」

駅前広場で久しぶりに出会ったμは、僕の質問に対して悪びれることなくそう宣ってみせた。くすくすと細い肩を揺らして笑う度、汚れを知らない白い髪が、スカートが、ふわふわと靡く。
「そうなると、警察も病院も消防署もいらないの。だからぜーんぶなくしちゃった」
「ちがう……」
「あっ、浮いた分のリソースはもちろんみんなのために使うから、安心してね! ここをもっともーっと楽しい場所にするから!」
「あれがなきゃ、先輩は先輩じゃない」
「……ねえLucid、わたし、知ってるよ」
ふと、白い手袋に包まれた手が、言葉を遮るように俺の頬に触れた。人の幸せを願い、眩しい笑顔を振りまき続けるアイドルのものとは思えない、温度を感じない触れ合い。
「わたし知ってる。わたしが君のために用意してあげた永至って人のNPCに、いっぱいいっぱいひどいことして、これまで何度も何度も何度も何度も壊してるでしょ? 知ってるよ。見てたから。でもそれが君の幸せなら、って、わたし、今まではそう思ってたけど……ほんとは違うよね?」

そんなに、この世界が嫌?

彼女の可憐な唇がその言葉を紡ぐ寸前、少し離れたステージのほうで大きな歓声が上がった。見ると、吉志舞高校の生徒ひと学年分くらいの人だかり。ちょうど今からライブが始まる時間なのだと、μが教えてくれた。
「もう行かなきゃ……よかったら聞いてってね、わたし、がんばって歌うから」
ステージに向かって飛び立つ寸前、俺を見詰めるμの瞳が、初恋の少女の姿を借りたまま死んでいった男のものとそっくりだった。熱気に、否、異様な熱狂に満ちたライブステージの周りに、いつか一緒に戦った仲間たちの背中を見かけた。ここに、俺の居場所はなかった。そのまま宮比市のあちこちを歩き回った俺の足は、自然とランドマークタワーに向かっていた。パイプやら鉄材が転がされたまま、放り出された工事エリアを抜け、まだ動いていたエレベーターのボタンを押して、上へ、上へ。月の綺麗な夜だった。

「もう、死んでもいいや」

重力に任せて、落ちる。


落ちる。






























「やあ部長くん、お目覚めかい」
俺の部屋に入ってきた先輩は、切れ長の目を細めてにこりと笑った。窓の外は真っ暗だった。聞けば、俺は昨日の夜にベッドに入ってからほぼ丸一日、眠り続けていたらしい。しかし特段寝苦しかったわけでも、身体がだるいわけでもない。不思議だ。
「珍しいね。疲れが溜まっていたのかと思ったが」
「疲れてるのは先輩でしょ、昨日だってあんなに泣いて悦がっちゃってさぁ、かわいかったなあ」
「それだけ減らず口が叩けるなら大丈夫だな、それと生憎だが僕は君と違って鍛えているのさ」
ぺしん、と頭をはたかれた。なんとも小器用なことに、ちょうど指輪が俺の頭に当たるよう掌の角度を調節しているようで、当たった瞬間ゴリ、と嫌な音がした。けっこう痛い。
「そうだ、身体が大丈夫そうならあとでベランダに来てみるといい」
「? 何かあるの?」
「ああ」
先輩の綺麗な唇が三日月のように吊り上がる様子から、俺は目を離せないでいた。部屋に入ってきた時よりもずっとずっとやさしい色を湛えた瞳がゆるりと細まって、俺の顔を映す。

「今晩は、月が綺麗だからね」


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