Caligula

夜明けを探す手(主←鍵)

2018/04/30 11:45
主鍵

ランドマークタワーイベント後
片思い主←鍵



























「置いていかないでくれよ」

そう言われて振り向くと、鍵介の数歩後ろで立ち尽くす部長の瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。緊張状態から徐々に解放されつつある身体は、心優しい女神にねじ切られそうになった手足の痛みを今になってようやく訴え始めたらしい。彼の足取りは次第に重くなっており、淡々と歩みを進めていた自分との距離がだいぶ開いてしまっていたことに鍵介はようやく気づき、その場に立ち止まる。それと同時に、常に一歩前を行く導き手のような存在だったはずの部長が、鍵介の後ろから縋るような幼い懇願を口にしたことにショックを受けた。冷淡な表情の殻を破るようにようやく露出した彼の弱さに、そして、彼にも弱さがあるという事実からまだ目を背けたがっている自分に、鍵介はショックを受けた。

「少し、休みましょうか」
「……うん」
「飲み物買ってきますよ。何がいいですか」
「…………水……」

鍵介の提案に力なく頷いた部長が、道路脇のガードレールにもたれかかる。微かにあがった軋みが、夜の色をした無の中に溶けていく。ランドマークタワーからの帰り道、月に見守られる宮比市の街はひどく静かだ。死んでしまった「彼」に誰もが黙祷を捧げようとしているのだと、鍵介は思った。思うことにした。




「あの、先輩」
そばにあった自販機で買い物を済ませて戻ると、部長は道路の端にうずくまっていた。
「あっ……、あの、えっと……吐きそうなら、言ってくれれば、よかったのに。トイレ探すほうが早かったでしょ」
「ごめん」
「や、別に謝らなくてもいいんですけど……はい、どうぞ。大丈夫ですか」
「うん、ありがとう。ごめんね」

500ミリリットルのミネラルウォーターは、彼の喉の渇きを潤すためには使われなかった。部長が鍵介の戻りを待つ間にアスファルトへ吐き散らかしてしまっていたものを側溝に流して軽く口を濯ぐと、ボトルは空っぽになってしまった。色の白いをとっくに通り越しもはや青ざめてしまった部長の顔を、涙で潤んだ目を、鍵介はどうにも直視することができない。
激しく咳き込んだあと、部長はゆらりと立ち上がりもう一度ガードレールに腰掛けたので、鍵介も真似をして隣に座る。ぎしり、ふたり分の体重がかかった白いガードレールは先ほどよりも大きな悲鳴を上げて軋んだ。

「……君は、大丈夫か?」
「そんなわけないでしょう。もう頭ん中ぐちゃぐちゃですよ」

ささくれ立った神経へ、無遠慮な指先が触れるような問いかけだ。思わず語気を強めた鍵介に、部長は乾いた笑いを漏らした。

「はは、そう……うん、そうだよな。ごめん、当たり前だ」
「……」
「みんな死にたくない。……当たり前だ」

やがて、ぐす、としゃくり上げるような声が聞こえた。部長の靴の爪先にぽたぽたと水滴が落ち始めたのを、鍵介は隣でぼんやりと見つめていた。そっと顔を上げ、彼はいったいどんな表情で泣くのかを覗う勇気など、鍵介の胸の内には欠片も存在していなかった。
ほんの半刻ほど前、ランドマークタワーの屋上で、帰宅部はこれまで半ば無意識に目を逸らしていた「死」というものを直視することになった。呆然としながら、あるいは呻きながら、またあるいは今まで見せたことのないような険しい面持ちを見せながらその場に立ち尽くしていた。道中の戦闘で負った傷以外に精神的な疲労も抱えて、今日の部活動は終わりを告げた。分かれ道でひとりまたひとりと家路につき、最後に残って歩いているのは部長と鍵介のふたりだけになっていた。

「きついですよ、みんな。あんなことになって」

アニメキャラの姿を借りた楽士の、尊大で大仰な口調を思い出す。シャドウナイフが、最期の瞬間まで完全なシャドウナイフとして在ってくれたならば、その死もいくらか現実離れしたものとして目に映ったのだろうと鍵介は思う。復讐鬼、戦いの果てに散る―――シャドウナイフの最期を、まるで液晶画面の中の出来事であるかのように見せる都合のよいフィルターは、黒いブーツに包まれた足が虚空を踏む寸前、一気に破れて鍵介たちに現実感という刃を突き立てた。半狂乱になってよろめいたダークヒーローの口から滑り出たのは、常の芝居かがったそれではなく、その身に纏った虚構を剥ぎ取られ姿を現した彼自身の弱々しい言葉だった。帰宅部が目にしたものは、架空のキャラクターの消滅ではなく、紛れもなくひとりの傷ついた少年の死だったのだ。

「なあ、君はもともと楽士だっただろう。実は知ってたりするんじゃないのか、メビウスからの抜け道みたいなやつをさ」
「……いえ……」

部長からの縋るような問いかけに、鍵介は下を向いたまま首を振ることで答えた。そんなゲームのバグや裏技みたいな方法を、知っていたならどんなに楽か。これがゲームだったなら、どんなに楽か。ぎちり、ときつく握りしめた掌からは血の気が引いて、指先が真っ白になっていた。

「……ああそうか、自分以外にはあと誰かひとりしか連れていけないとか、そういうルールでもあるんだろ? だからみんなに言い出せなくて、ずっと黙ってた? なあ、そうだって言ってよ」
「違いますよ。僕は知らない」

もう一度、首を振ってみせる。例えそんな制約があったとしても、僕は迷わずあなたの手を取ると今ここで言えたなら、どんなに楽か。

「だったら選んでよ、俺を。俺を選んでくれ、なんだってする」
「だから知らないんです」
「……こんなところから連れ出してくれ」
「先輩、僕たちはもう、やれることをやるしかないんですよ。帰宅部として」

鍵介に向かって助けを求めるように伸ばされた部長の腕を掴む。神経質な白を湛えた指先は何かを探すように宙を掻き、やがて何も掴めないことを悟ると力を失ったように動かなくなった。ようやくまともに顔を向き合わせたこの時、部長の涙はもう止まっていた。

「……おかしなことを言って悪かった。ぜんぶ忘れてくれ。……帰ろう。次の部活には、もちろんちゃんと出る。部長として、約束する」






***








部長と別れたあと、NPCの家族が待つ家に帰り、自分の部屋に鍵をかけると鍵介は静かに泣いた。「俺を選んで」なんていう夢にまで見た言葉が、あんなにも痛くて苦しみを伴った声に乗せられていたことが耐えられなかった。頭の中でリフレインする少年の悲鳴と部長の懇願がぐちゃぐちゃに混ざり合う。ふと気がつくと、鍵介はあの日以来触ることもなくなった、しかし捨てることもできなかったDTMの機材を、デスクの上から叩き落としていた。


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