Caligula

ケモノ(主+ソーン)

2018/04/02 22:09
主+ソーン

まったく、今日相談に乗ってやった子ときたら。この世界に来て美しい容姿を手に入れた彼女が俺に打ち明けた「周りの弱みを握ってクラスのトップに君臨したい」という望みを、知り合いの情報通の生徒を通じて叶えてやれば、今度は「権力のある男と付き合いたい」と来た。俺は内心呆れつつも、明日の放課後、お眼鏡に適う男子生徒を紹介してあげる、と彼女と約束を取りつけてきた。

「よ、っと」

とん、と靴の音を響かせて、コンクリートの段に飛び乗った。眼下に広がる風景を眺めて、俺は小さく息をつく。宮比市の外、この世界は何処までも広がっているように見えるが、あれはただ「そういう風景」として投映されているだけだ。広がっている(ように見える)山も、海も、隣の街だって、メビウスの住民たちに違和感を植え付けないための小細工で、実際は駅の辺りですべてが途切れてしまっているのだから切ない話だ。いったいどれくらいの負の感情を集めれば、駅の向こうの拡張工事を始められるのだろうか。
ひとつ階段を登ると、今までと違う景色が見える。もっともっと遠くのものを見たくなって、どんどん階段を登っていく。結局のところ、何かが満たされたところで、息つく間もなく次から次へと湧いてしまうのだ、欲望というものは。毎日浴びせられる甘やかしで肥えてしまった贅沢な舌が、より上等な肉を求めるように。

「どこもかしこも飢えたケモノだらけだよ、この世界は。楽園ってよりは動物園? ねえソーンちゃん。でっかい檻だ、メビウスは」

すると彼女は、服や髪など落ち着いたモノトーンの中で一際目立つ赤い瞳で俺を見遣って、
「そういうふうに出来ている世界よ、ここは。……あと、あまりそこには立たないでもらえる」
「なんで」
「気に入らないの」
「……はいはーい」
じろり、と、ちょっと睨まれてしまった。俺が慌てて屋上の淵から降りると、ランドマークタワー最上階、雑然とした屋上には一際強い風がごうっと吹きつける。飛ばされそうになった帽子を、慌てて押さえた。
「ま、確かに、そういう世界にするのが俺たちの仕事だもんね」
そもそも、メビウスの住人達の欲望と熱狂を後押ししているのは、我々楽士たちなのだ。当然理解しているよ、とアピールを込めて呟きながら彼女に視線を送ったが、今度はいっそ清々しいほどの無視だ。なかなか会話のキャッチボールがままならないなあと思う。一応ボールそのものはキャッチしてもらえるけど、捕ったそばからそのへんの草むらにころころ捨てられてしまう感じ。ちょっとさみしい。

「ソーンちゃんはさ」

俯いていたソーンは、風に煽られる長い前髪を押さえながら顔を上げた。
「ケモノとケダモノの違いって知ってる?」
「……あまり深く考えたことはないわね」
こつこつと靴底を鳴らしながら、俺と入れ替わるようにソーンは屋上の縁にやって来た。まだ風が強いので俺が手を差し出すと、彼女は存外に素直に白い手袋に包まれた手を取った。「透明人間の手を借りるなんて、なんだか気味が悪い」失礼な。見てくれが透明なだけで、一応ちゃんとした実体はあるのだ、実体は。
ほんの数歩のエスコートの先、彼女は一段高いコンクリートにすとんと腰を下ろした。もう用済みとばかりに、俺にひらりと手を振ってみせる。
「でも、ケダモノのほうがより野蛮な感じ」
「そうそう」
風に煽られたマフラーを巻き直しながら、俺は頷く。

「ケモノっていうのは、本能の赴くままに生きる様を指している。それに対してケダモノは、人情や品性をまったく欠いた人間を罵る言葉だね。まあ要するに人でなしってこと」
「……今さら自己紹介は結構よ」
「酷いこと言うなあ。俺にも理性や人の心くらいある」
「どうかしら……」彼女はわざとらしくそのほっそりとした首を傾げてみせて、「人でなしなんかじゃない、ね。楽士に肩入れしながら、帰宅部に平気な顔で愛想を振り撒けるような人間が?」
「それは君、公平な視点でメビウスを眺めるためだよ。別に帰宅部のみんなを騙して嘘を吐くのが楽しくてやってるわけじゃない」
「どうだか。口だけならなんとでも言える」
胸元のリボンをいじりながら、ソーンは薄らと微笑んだ。そして、黒いタイツに包まれた脚をゆっくりと組む。

「でも、たとえあなたがケモノだろうとケダモノだろうと、別に構わないのよ。どうでもいいとさえ言える。私たちの邪魔さえしなければ、それで」

ああ、意地悪したくなっちゃうなあと、心の中でため息をつく。俺に余計なちょっかいを出される度、自分だって心の中に飼っているケダモノ以上のバケモノを、表に出してしまわないように必死で押さえ込んで、「ソーン」であろうとしているのだ。まったく、いじらしくて可愛くてどうしようもなくなってしまう。
「ソーンちゃんの言う『私たち』ってさ、『自分とμのふたり』って意味で合ってる?」
「他に何があるの?」
「いやあ、これって勘なんだけどさ」
あえて「ソーン」ではなく「自分」などと曖昧な言葉をちらつかせてみれば、予想通りに食いついてくる。怪訝な面持ちでこちらを見つめる彼女に、俺は仮面の下で笑ってみせた。

「もうひとりくらい、いるんじゃないかと思ってねえ」

ケモノは鼻が利くんだよ。しゃがみ込んで彼女を見上げてみると、もうひとりの何かが、赤い瞳の奥で牙を剥く気配がした。

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