Caligula

御手を拝借(主琵琶)

2018/03/18 15:20
主琵琶

琵琶坂宅のマンションのリビングは、間仕切りがなく、広々としたリビングダイニングキッチンだ。だから俺はテレビの前のソファに座った状態で、キッチンに立って夕食の後片づけをする永至先輩の背中を眺めることができる。白いシャツの下に隠された肌、浮き出た肩甲骨の上から俺が刻んだ歯形がまだくっきりと残っているなんてことを、清潔感にまみれた後ろ姿からいったい誰が想像できようか。

学園トップの優等生が俺のリクエストに応じて淡々とハンバーグを作って、食後、俺の皿にきれいに残されていたつけあわせの人参グラッセを文句も言わずに自分の口に放り込み、そして皿の汚れを流している。ひとつひとつ思い返すと、なんだか非常に笑えてきた。先輩がこんな風にシャツの袖を捲って洗い物なんてしている様子を、いったいどれだけの生徒が目にしたことがあるのだろうかと考える。しかしそれは、誰も知らない彼を知ることで独占欲が満たされているなどという健全な感情ではなかった。最初から完成しているパズルのピースを爪で引っ掻いて、ひとつひとつ台紙から剥がしていくような、どうしようもなく下衆で陰湿でくだらなくて低俗で後ろめたくて、でも、とても気持ちのいいことだ。
「…………」
もう一度、ちらりと先輩の背中を見遣る。蛇口から流れる水の音が止まる気配は、まだない。なんとなく手持ち無沙汰になった俺は、制服のポケットをごそごそと探って、指先に触れたものを引っ張り出した。紙の箱の中から一本、煙草を抜き出し唇に咥える。一緒に携帯灰皿があることを確かめてから、取り出したライターで、先端に火を―――

「部長。言ってなかったかも知れないけど、我が家は全面禁煙だよ」

―――着けようとした瞬間にかけられた不機嫌そうな声に、思わずびくり、と肩が跳ねる。がちゃがちゃと洗い物を続けていたはずの永至先輩は、こちらを振り返ることすらしないで俺に告げた。口からぽろりと、火をつけ損ねた煙草が落ちる。
なんだこの人、背中に目でもついてんのか。俺がそう思って眉を顰めた瞬間、今度は「そろそろ食後に一服したがるんじゃないかと思って」と言われた。なんだこの人、テレパシーだかなんだか、そういうやつでも持ってんのか。なんだこの人、なんだこの人。俺が先輩の前で煙草を吸おうとすること自体、これが初めてのはずなのに。
ソファにぽつんと落ちていた煙草をとりあえず拾い上げ、そろそろと箱に戻して、俺は尋ねる。
「ベランダは?」
「駄目だ」
いっそ気持ちがいいくらいの即答だった。そもそも彼は、優等生と付き合うには素行の悪い俺を家に上げていること自体を周囲に知られたくないようだ。外から目につきやすいベランダでの喫煙なんかは、もっての外だと言っている。答えとしては想定の範囲内ではあるが、それでもそのあまりにきっぱりとした物言いには無性に腹が立って、つい反抗してみたくなってしまうのが俺のサガというものだ。
「ケチ」
「文句を言うなら帰れ。僕の家では僕がルールだ、そこは曲げない」
すると、先ほどよりも、もっと険を含んだ声が返ってくる。俺は唇を尖らせた。
「そんな意地悪なこと言わないで。ねえハンバーグ美味しかったよ先輩、好きだよ」
「またそうやって、取って付けたようなことを言うんじゃない。人参は残したくせに」
「ねえ、口が寂しいんだよう」
少しやり過ぎか、と思うくらいの甘えた声を出してみる。やがて、はあ、とわざとらしい大きなため息が聞こえた。軽く予備洗いを済ませた食器類を、先輩はやや乱暴な手つきで食洗機に放り込んでいく。

「……少し、待っていて」

首だけを動かしてようやくこちらを向いた彼の切れ長の瞳からは、相変わらず何も読み取ることができない。

















「あ……やだー、先輩ったら積極的なんだから」
「馬鹿」

しばらくしてこちらにやって来た先輩は、ソファの座面に片膝、背もたれに片手をついて俺に覆い被さり、服の上から身体をごそごそとまさぐり始めた。目的はすぐに分かったので、きゃっ、なんて女の子のような高い声を出して茶化してみたものの、自分よりずいぶん背の高い男に上から覆い被さるような体勢を取られるのはちょっと怖い。それに、いつもは俺の背中に爪を立てるか震えながらシーツを握りしめているかどちらかをしている手に好き勝手されるのは、なんだか変な気分だ。声が揺れてしまわないか、少しだけ不安な気持ちになる。

「あった……とりあえず、これは没収しておく」
「えー」

俺の僅かな動揺に気がつかないでいてくれたのか、それとも見透かした上で今は敢えて無視をして、後々の交渉のカードにするつもりでいるのかはわからないけど、後者であるなら先輩も相当性格が悪い。ともかく、制服のポケットというポケットに遠慮無く手を突っ込まれ(尻も触られた……)、しまい込んでいた煙草の箱とライターを奪われてしまった。俺は一応抗議の声を上げてみたものの、向こうの方が体格が良いので、本気を出されたら取り返すことは難しいのはよく分かっている。もともとキッチンにいた先輩から咎められた時点で気持ちは半分くらい萎えてしまっていたので、今日のところは煙草はきっぱり諦めることにした。指輪だらけの手に渡った四角い箱とライターは、今度は先輩のポケットの中に消えていく。
そこにしまってうっかり出し忘れたまま次の日学校で見つかりでもして、そのご自慢の品行方正完璧超人ブランドにでっかい傷をつけてしまえばいいのにな。心の中で、べえ、と舌を出した。そんなくだらないヘマをやらかすような人物でないことは、重々承知しているが。持ち物検査、もといボディチェックを済ませて満足したらしい先輩は、俺との間にきっちり人ひとり分という警戒心丸出しの距離を空けてソファに腰かけ、ゆったりと脚を組んだ。
帰る頃には返してもらえるのかな、と思ったが、まあ手元に戻ってこなかったところで煙草なんてまた買えばいいのだ。ハッピーになれるお人形とかいう可愛いものからとんでもなく強力な接着剤、マニアックなエロ本、はたまた怪しげな壺まで。ここはそれなりの手順を踏めば大概のものは手に入ってしまう、楽園とは名ばかりの欲望まみれのカオスな世界である。煙草なんかよりもっとイケなくて危ないものだって、きっとその気になれば手に入れることは出来るのだろう。だから、例えばそれを、先輩が少し席を外した隙に飲みかけのコーヒーの中へパラパラと混ぜてやることだって可能なのだ。……やらないけどね。

「どうせまた買えばいいや、とでも思ってるんだろう。君みたいなろくでもない生徒から、入学式に〝吉志舞高校生としての自覚を持って~〟なんてご高説を賜った新入生諸君が哀れだよ。泣けてくる」
「あのさぁ、ほんとさっきからなんなのそれ。気持ちわる」
「顔に出てるんだよ、自覚がないのか」
「さっきは顔見てなかったのに」
「訂正だ。空気でわかる」
「空気……」

空気、空気ね。ますますわからない。「ふうん」とだけ呟いて、首を傾げる。そのままぐらりと身体を傾かせて、先輩の腕に、とす、と頭を預けた。服越しの体温に、少しほっとする。上目遣いで先輩の顔を見ると、ばっちり視線が絡まった。
「……撫でて」
「どこを?」
「頭以外のとこも撫でてくれるならおまかせコースでお願い」
「首から下は料金が発生するよ」
「え、やだぁ、それなりにお金積めばなんでもシてくれるって?」
「いくらなんでも相手は選ぶさ。僕は自分を安売りしない主義なのでね」
……あれ、それって、俺は遠回しに許されてるの。尋ねる間もなく、先輩の手は存外に素直に俺の頭を撫で始めた。ゆるゆると髪を梳くように指を動かしたり、時々耳の縁を擽るように爪の先でなぞったり。くすぐったいけど、心地良い。俺が目を細めると、先輩は耳にそっと唇を寄せてきた。

「目を閉じて」
「……ん」

言われるがままに瞼を下ろして、身体を背もたれに預けた。ごそごそと音がして、そしてソファのスプリングがぎっと軋む。

―――それから、唇に、固いものが押し当てられた。……固い、もの? それはほんのりと甘くて良い匂いのする……甘くて、良い匂い? 「え?」戸惑いながらも、その何かの正体を確かめるため、目を開けようと思った瞬間だった。カシャ、とシャッターを切るような音が、顔のすぐ傍で鳴ったのを俺は聞いた。……シャッター音??

「ふ……、」

笑いを堪えられないとでもいうように肩を震わせながら、先輩はいつの間にか手にしていたスマホの画面を見ている。俺がただ呆然とその様子を眺めていると、とうとう彼の口から「はははっ」と意地の悪そうな笑いがこぼれた。

「すごいな、ああ、完全にキス待ちだ。これは期待してる顔だなあ、けっこうかわいいところもあるじゃないか」
「え、ちょっ、何……まさか」
普段より声をワントーン明るく弾ませて「永久保存版だ」などと呟きながら、先輩は素早くスマホを操作している。恐らく、別のフォルダにコピーをしたり、消去できないようにロックを掛けたりしているのだろう。―――俺のキス待ち顔の写真を! 
ようやく状況を把握して、顔がかあっと熱くなるのを感じた。ちなみに、目を閉じている間に口へ押し込まれていたのはマスカット味のキャンディだ。けっこう濃厚で上品な味がして、どこのメーカーのものか気になってしまうけど、しかし今はそれどころじゃない。

「てめ……ふざけんなバカ、消せ! 死ね!」
「なんだよ、かわいい恋人の写真を欲しがったらいけないのか? あと君、口が悪いぞ。お願いするなら敬語を使え」
「なにがかわいいコイビトだよふざっけんな、このっ」
「ふざけてなんかいないよ。そもそも誰もキスするなんて言ってないだろ、僕はただ目を閉じてとお願いしただけだ。君の早とちり」
「おのれ琵琶坂……!」

伸ばした手は、虚しく宙を掻いた。そしてソファからすっと立ち上がった先輩がスマホを持った手を高く掲げると、まあ、俺の身長じゃ余裕で届かないよね。知ってた。白々しいくらい爽やかな笑顔を浮かべてみせる彼の辞書では、恐らく「かわいい恋人の写真」と書いて「ちょうど良いゆすりのネタ」とでも読むに違いないのだ。先輩を誘ってみせたつもりでいたのに、実は途中から(……いや、最初からか。ああ、認めたくない!)向こうの作ってみせた雰囲気にまんまと飲まれて流されていた自分が、恥ずかしくてたまらない。浮かしかけた腰をまたソファにぼすっと沈め、俺は強く歯噛みした。口の中の飴玉に、びしりとヒビが入る。

「遙人……」

柔らかな声で呼ばれて、顔を上げる。「部長」だとか「君」以外で先輩が俺を呼ぶことは珍しい。苗字ではなく名前というのは更にレアだ。というより、初めてのことかもしれなかった。
「少し、真面目な話をするよ」
「……何?」
訝しむ俺の目の前で、先輩はしゃがみ込んだ。それでもスマホは俺からは手の届かない後ろのポケットにきっちりとしまい込んでいるあたり、やはり相当用心深い。

「きっと、今までそうやって面白可笑しく生きてきて、色々な物を手に入れたんだろうね。それは君の持ち前の愛嬌のなせる技だったり、度を超すような横暴でも笑って許してきた、周りの甘さのおかげだったり……様々な要素が運良く絡み合った結果だ。つまり君は間違いなく恵まれているけど、勘違いはよくない。何をしても無条件で許される人間なんてものは、この世のどこにもいないんだ」

諭すように投げかけられる言葉の数々を、俺はただ聞いていた。言っていることの半分も理解できていなかったかもしれない。俺のぽかんとした様子に気づいたらしい先輩は一度言葉を切り、少しだけ悲しそうにため息をついて、そしてこう続けた。


「君は、手に入れたものではなく、失ってきたものに目を向けたことはあるのか? これは助言なんて甘いものではなくて、そうだな、警告だと思ってくれていい。―――もし今後も、自分はこのままでいいと、本気で思っているのなら。そのうち何処かで、君は思ってもいなかった相手から、それこそめちゃくちゃな竹篦返しを食らうぞ」


ああ、それとも、もう痛い目に遭ったからメビウスなんかにいるのか、と。先輩の目は言外にそう語っていた。
口の中の飴を、俺は今度こそ噛み砕く。これまでに感じたことのない、それこそ先ほどの隠し撮りに対して湧いた以上の羞恥心が、暴風のように一気に押し寄せてくる感覚。わなわなと震える唇の端に、今さらになってまるでおまけのように落とされた永至先輩の淡白なキスが、俺の感情をこれでもかと逆撫でして、最後の引き金を引いた。


ばし、と、乾いた音が鳴った。












「ん……」
「あ、あんた、何がしたいの」
「ああ、痛い痛い。これで満足か? あと何か、言うことは」
「っ……」
先輩は、振り上げられた掌を避けもしなかったどころか、俺から視線を逸らすことさえしなかった。……わざと、ぶたせた。血の昇った頭でもそれくらいは理解できる。頬を押さえてみせる先輩の脇を素通りし、俺は玄関に向かった。「お風呂入れるけど、いいの」奥歯をきつくきつく噛みしめたままの口では、入ってくわけねえだろ、と言葉を返すこともできない。一刻でも早くここから逃げ出したくて、靴に強引に足を突っ込む。
「帰るのなら、返すよ」
俺を追いかけてきた先輩に、後ろから、さっき取り上げられた煙草とライターを差し出された。なんの感慨もなさそうな目で俺を見つめる先輩の白い頬は、じわりと赤くなり始めている。後輩に頬を張られた色男は、果たして明日、どんな顔で学校に来るんだろう。

「いらない!」

差し出されたものを受け取らずにそれだけ言い捨てて、ばんっ、と勢いよくドアを閉めた。背後から、たくさんの笑い声が俺を追いかけてくる気がする。それは親やきょうだいたちといった家族のものだったり、友達のものだったり、今まで利用してきた人たちのものだったり、虫けらのように見下していいように嘲っていた相手のものだったりした。飛び込むようにして、エレベーターに乗る。中の鏡に映った自分の顔は驚くほど青ざめていて、思わず乾いた笑いが漏れた。
彼らが浮かべていた笑顔は、いったいどこまでが本物だったのだろうか。「仕方ないなあ」と俺を許してくれたはずのみんなは、実は全員後ろ手に握りしめたナイフを隠し持っていて。俺にそれを突き立ててやるチャンスを、にこにこした笑顔の裏で虎視眈々と狙っていたのだろうか。そんなの、考えたこともなかった。だって、みんな俺のことを好きで、俺は特別で、
―――本当に?


「……………………」

エントランスホールを飛び出すと、外はすっかり真っ暗だった。吐き気を堪えて呼吸を整えながらマンションを見上げると、覚えのある階のベランダで、細い煙が上がって揺れていた。紫煙を燻らせながら特徴的なツーブロックの髪を夜風に揺らしてこちらを見下ろす男の瞳は、信じられないほど無感情で冷たい光を帯びていたので、俺は思わずその場を逃げ出した。零れ落ちてきそうなほどの星を抱いたメビウスの美しい夜空も、やさしく諭すような言葉が俺の纏っていた根拠のない自信を引き剥がしていく痛みも、彼はあの瞳で全てを見透かした上で、これまで子どものお遊びに付き合う感覚で俺の隣にいたのだという事実も。俺を取り巻いていた全てはあまりに恐ろしかった。恐ろしかったのだ。

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