Caligula

ゲットー行きのバスに乗る(主+ソーン)

2018/03/15 22:39
主+ソーン

何やら、いつもより賑やかだ。そう思いながら部室に足を踏み入れた途端のことだった。頭の高いところで結わえた髪をウサギの耳のようにぴこぴこと揺らし、ダッシュでこちらにやってきた人影に握り拳を突きつけられ、俺は思わず瞠目した。

「ねえねえ、部長は初恋の相手って誰だった!?」
「……は、はつこい? の、相手?」

と、訳もわからず復唱してしまう。頭ひとつ分低いところから突き出された手は、帰宅部一のゴシップ大好き少女である鳴子のもので、更にそれはインタビュアーがマイクを差し出す様子を真似ている(にしても少し近すぎだろうとは思う、実際マイクがあったらヘッドが顔に当たってる)と気づくのに、数秒間の時間を要した。
部室を見渡してみると、用事があって少し遅れてきた俺以外の部員は、既に全員揃っていた。並べられた机でお菓子をつまみながら談笑していたらしい女性陣から、興味と期待、その他諸々の入り交じる視線が俺に注がれている。……うち一人からは、嫌悪どころか刺すような殺気じみたものを覚えるが。
一方の男性陣はと言えば、興味もなさそうに窓の外や雑誌を眺めていたり、興味もなさそうなのを装いながら話に聞き耳を立てていたり、ソファでぐったりしていたり、立ち尽くす俺を見て苦笑していたりと、反応は様々だ。どうやら、鳴子のインタビュー攻撃の最後の標的が俺らしい。俺がここに到着するまでいったいどんなやりとりが行われていたのか、想像するに難くない。
「初恋……」
ふむ、と顎に手を当てて、少し考えて、
「……したことないな。初恋相手はいない」
「えー、なにそれつまんない!」
「しょうがないだろ、ほんとなんだからさぁ」
机のほうからも落胆の空気がひしひしと伝わってくるけれど、したことないものはしたことないし、相手だっていないのだから仕方ないのだ。空いているほうの片手で、鳴子のエアマイクをぐっと押しのける。鳴子はしばらく唇を尖らせていたものの、「教えない」などではなく「いない」と断言されたことをそれ以上追及する気にはなれなかったのか、また女性陣たちの談笑の輪の中に戻っていった。照れくさそうだったり、興味津々だったり、表情はそれぞれ違うものの、和気藹々と楽しそうだ。と、その中で一人だけ、こちらをまだ見ていた髪の長い女性と目が合う。
「……助けてくれたっていいじゃん。琴乃さんて案外意地悪なお姉さんだ」
「ふふ……、ごめんなさい、ちょっと面白かったから」
琴乃は、机に広げていたお菓子をいくつか持ってこちらにやってきた。掌の上には、個包装のクッキーとチョコレートがふたつずつ。これで許してちょうだい、とでも言いたげだ。俺はその中からチョコレートを手に取り、包装を破いてまとめて口に放り込んだ。小袋のクッキーも一緒にもらって、こちらは鞄に入れておく。小腹が空いた時にでも食べよう。
「女子って好きだよね、恋バナってやつ」
口の中でチョコレートを転がしながら問う。甘い。机を囲んできゃー、だかひゃー、だか歓声を上げている年下(……ということになっている)の女子たちを微笑ましそうに見つめ、琴乃は頷く。
「そうね、女の子が集まれば基本じゃない?」
「なんで?」
「え? なんでって……当たり前のことすぎて、改めてそう聞かれると難しいわね……」
不意打ちじみた質問だったのだろうか、琴乃は珍しく少し焦った様子を見せた。腕を組んで、うーんと考えてから、
「やっぱり、女の子だからじゃない?」
と、日頃はっきりと物を言う彼女らしからぬ、どこか曖昧でふわふわとした、まるで今食べているミルクチョコレートの味に似た答えを俺に返すのだった。







「ねえソーン」
「何かしら」
ルシードとして活動する際の拠点にする部屋に、珍しくソーンが訪れていた。「うまくやっているか様子を見にきた」などと言うが、早い話が単なる監視目的だろう。このもうひとつの姿を受け入れることで、帰宅部にいながら楽士にも肩入れをすることを認められたわけだが、今のところ完全に信用されているわけでもないのだ。ただでさえ個性と我の強い連中をまとめ上げねばならない女だ、イレギュラーな立場の新入りの扱いは、慎重すぎるくらいでちょうどいい。

「アンタの初恋って、相手誰だった?」

俺の質問に、ソーンの整えられた眉がぴくり、と動いた。良く言えば感性豊か、悪く言えば感情の振れ幅がでかすぎる面々が揃う楽士の中では異端の存在であるソーンの、ほんの微細な表情の変化だ。部員たちに隠れ楽士としても活動をするようになってからしばらく経ち、俺はそれをようやく拾うことができるようになっていた。しかし、それが動揺によるものなのか、それとも怒りか、別の何かなのかは、まだ判別することは難しいけれど。ともかくその感情の正体は分からずとも、冷徹な彼女の心を1㎜でも揺さぶることができた。密やかに浮かべた愉悦の笑みを仮面の裏に隠したまま、俺はテーブルに頬杖をつく。
「……それを聞いて何になるの?」
「いや、ただの雑談。我らがボスと、いっちょ親交を深めてみようかなー、なんて思いまして。女の子の基本なんでしょ、恋バナ」
「誰に聞いたの……」と、低いため息。ソーンは俺が淹れた紅茶のカップに口をつける。ほんのり薄く、彼女の赤い口紅の色がそこに移った。
「……あなたは?」
お、意外と乗ってくる。「俺はね……」と、少しだけ勿体ぶってみてから、あらかじめ用意していた答えを、俺はさらさらと口にした。
「幼稚園の年中さんの時の先生」
「……」
「…………」
「………………聞いておいて言うのもなんだけど、特にコメントもないくらいには普通だわ」
「まあねー。ま、初恋なんてそんなもんでしょ」
期待外れ、とでも言いたそうだ。カップを置き、呆れたように髪をいじり始めた彼女の長い前髪の隙間から、普段は隠れている右の瞳がちらりと覗いた。それもまた、彼女の左目や、トレードマークである唇、爪と同じような深い真紅をしている。
「しょうがないじゃん、先生美人だったんだし。でも、確か俺が年長さんに上がる頃には結婚してやめちゃったんだよね」
「そう。儚い恋だったわね」
「うん」
ま、嘘だけど。心の中で舌を出す。初恋なんて、さっき鳴子に答えたようにまだだし、たぶん今後も一生しない。
恐らく、ソーンは俺が嘘をついていることに気づいている。部室で解散してから校舎を出るまでに考えた俺の即興の嘘なんて、質問を重ねて粗を探すことくらいいくらでもできるはずなのに。何も言ってこないのがどうにも食えないし、不気味だ。くるくると髪を指に巻きつける彼女の瞳は俺を見ていないどころか、今ではないいつか、ここではないどこか、今はいない誰かを見ようとしているような、そんな空虚さを湛えていた。
「……で、君は? 教えてよ、誰だったの」
そんな彼女の意識をなんとか“ここ”に引き戻してやろうと、俺は言葉を続ける。ソーンはやがて、ふらりとした視線を再び俺に向けた。
「………………ひとつだけ、言うならば……」
彼女の言葉の端に、ちりちりと燻り続けるような情が僅かに乗った。と、思った時にはもう遅かった。ゆらゆらと揺れていた小さな火が、あたりに撒き散らされた油に触れて、一気に燃え盛るように。先ほどまで淡々と言葉を紡いでいた少女の口から出たとは思えない、研ぎ澄まされた刃のような低く鋭い声が、俺にどすりと突き立てられた。

「私の恋は、終わってなんかいない。誰“だった”かなんていう聞き方、やめてくれるかしら。……そうやって勝手に、過去のものとして、決めつけるな」

ひやり、と背筋を冷たい汗が伝う感覚。透明人間が汗を掻くのかどうかとか、そういう問題ではないのだ。それほどの怖気を覚えた、という話。
「……ワーオ、こわいこわい」
思わず、鳥の嘴を模したマスクを被る怪しげな楽士のような声が出た。重い愛の言葉を捲し立てるように垂れ流す、一部からは「電波」とまで呼ばれるような、町中に溢れている甘ったるいそれとは一線を画すラブソングの作り手だ。この手の問題やトラウマを抱えているであろうことくらいは目に見えているが、やはりここがビンゴであり、同時に地雷か。興奮に震える拳を握りしめて、俺は思わず立ち上がる。椅子ががたんっと音を立てた。
「ソーン、」
「……時間ね。今日はもう帰るわ。もし何か気がかりなことがあれば、すぐに報告しなさい。どんなに些細なことでもかまわない」
俺の呼びかけには応じず、冷めた紅茶を殆ど残して彼女は席を立った。その声はすっかり普段の落ち着いたトーンを取り戻してしまっていたので、俺は思わず口を噤んだ。……深追いは、禁物だ。スカートの裾を軽く整えてからドアに向かったソーンの後ろ姿を、俺はその場から一歩も、指一本すら動かさずに見送る。
「…………わかったよ」
静かにドアが閉まる。部屋の向こうに行ってしまった固い靴音がやがて聞こえなくなると、俺は腹を抱えて笑った。と言っても透明なんだけどね、腹も。抱えてる腕も。自分を焼き尽くす寸前まで迫ってきた炎が、ほんの鼻先を焼いた程度でまるで嘘のように引いていった! 纏わりついて気管を塞ごうとするような死の快感と生の恐怖に酔いながら、俺は笑った。これならそのうち、そのうちいつか、
「はは、は…………ああ、」
それを一口食べた彼女が「帰宅部の部室から持ってきた」と聞いて、どんな顔をするのか見たかったのに。クッキーを、出してあげるのを忘れてしまった。

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