日記
終わりを受け入れること
2018/04/13 09:05文章とか絵の話
まばゆい朝日にハロー(主鍵)という話を書きました。間に合わなかった話。
別に終末思想の持ち主でもなければ破滅願望者でもないのですけど、世界なりなんなり大きな何かの終わりを描く作品が昔から好きです。迫る終末に最後まで抗おうとする人間の姿には心を打たれます。でもそれは彼らに仲間を集める人望だとか、世界が終わる謎を解き明かす頭脳だとか、隕石を破壊するミサイルを作る技術だとか、とにかく力があるからです。強い者だという前提があるからです。そしてその真逆、なんの力もない一般人が全てを受け入れ、世界が終わると告げるニュースを聞き流しながら食事の用意をして、ふだんどおりの生活を淡々と消費する様子も、私は同じように美しいと思います。日常を手放さないという、ある意味弱い者なりの強さです。
なので、この話でも部長と鍵介には、帰宅部の活動がほとんど停止状態に逆戻りして、世界の終わりが見え始めてからも、ある程度は学校に通い続けてもらいました。
たとえハリボテの上の仮初めの日々だろうと、違和感に口を噤み、目を瞑って享受していれば、ただひたすらおだやかに過ぎていく毎日を守りたかったのでしょう。他が崩れ去っても、もしかしたら学校だけはずっと無事かも、なんて淡い期待を抱いていたかもしれません。鍵介は、かつて抱いた「大人になりたくない」という願いの象徴である学校という場所に意地でもかじりついて、メビウスに誘われた時の自分の思いを正当化して、これでよかったのだと自分に言い聞かせようとしていたのかもしれない。部長もそれに気づいて、毎日鍵介といっしょに学校に通い続けたのかもしれません。結局、当たり前のように崩れていく体育館を見て、彼らの中の何かはぷつりと切れてしまったのですけど。
この部長と鍵介は、現実に戻ってふたりでなんとか精いっぱいやってる、という正史がちゃんと存在しているので、この話はメビウス崩壊ifエンドということになります。もはや私自身なんでこんなにつらくて痛くて苦しい話を書きたいのかよくわからないまま半泣きで書き殴った(完全にやべえ奴)話なのですが、もしかしたらこういう終わりの可能性もあったのかも、と考えながら、サイトにある他の文章なんかも読んでもらえたらいいな、と思います。現実世界の部長と鍵介がなんとなく過ごしている平凡な日常は、実は奇蹟のような時間で、他の世界のふたりがどれだけ望んでも取り戻せずに消えてしまった明日なのかもしれないので。