Caligula
あとは灼かれて灰となる
2019/08/21 23:09主琵琶∞
すべてがうつくしく終わるはずだった。
現実を破壊する、終わりの歌を奏で始めたμを見届け、メタバーセスを去る。ライブハウスの最上階、最後の戦いのために誂えられたステージに戻ると、そこに残っていたのは僕を除いてたったのふたりだけだった。勝利の余韻に浸る間もなくひと足先に戻っていったソーンに、「再教育」のため回収されたのか。それとも、彼ら彼女らを目の敵にしていた楽士たちにそれぞれ連れていかれたのか。或いは、それすらも叶わぬまま―――。兎に角、そこにいたのはたったふたりで、片方は帰宅部で、もう片方は楽士だった。全てを奪われた灰色の髪の少女が、全ての元凶たる男を見下ろしていた。男にはもはや抵抗するどころか這いずって逃げる体力すら残されていないことを、痛めつけられた本人の次に、痛めつけた本人である僕はよく知っていた。
袖から僅かに覗くほっそりとした少女の手が、何かを決意したようにきつく握りしめられたのを見た。それまでどこか茫洋とした面持ちで、まるで幽霊のように立ち尽くしていた彼女の全身に血が通った瞬間を見た。
現実で傷付き理想郷に逃げ込み、それでももう一度やり直したいと葛藤していた反逆者(ローグ)たちは全てを忘れ、もう二度と苦しまなくていい。その中でただひとり、取り返しのつかない罪を犯していた男は今ここで、悪意の炎を逃れた少女の手により裁かれる。それは誰にも咎める権利などない、恐らく限りなく正しい幕引きだった。うつくしい終わりのはずだった。なのに。
何故その時身体が動いたのかは、わからない。
「梔子!」
Lucidという名の透明人間―――この姿になってから初めて発した声は、古びたスピーカーから漏れる音のようにひび割れ、奇妙なノイズを伴っていたことを知る。それは人間がボイスチェンジャーを通して発した男とも女ともつかない声に似ていて、(余談だが僕は幼い頃この気味の悪い声を酷く恐れ、ニュース番組で匿名インタビューが始まろうものならすぐさまチャンネルを変えていた)なるほどこんな風に不気味な骸骨の正体を隠してくれるつもりだったのかと、僕は感心するのだった。彼女や他の楽士たちとのやりとりは主に身振り手振りと筆談、μが通訳してくれる言葉で常になんとかなっていたから。
「―――、Lucid?」
いつまでも瞼の裏を離れない火の手から身を守るように防火ジャケットを着込んだ彼女はそうひと言、呆けたようなマスク越しの機械音声を零した。地べたへと無様に転がる男との間に、突如割って入った黒い影が何者であるかを確かめるために、一秒。味方であるはずのそれが何をしているのかを理解するために、更なる一秒。そしてその瞳が激情に駆られて大きく見開かれるのには、そこから半秒の間も要することも無かった。
「あなた。正気? 早く、そこをどきなさい」
そうでなければ、私が先にあなたを殺してしまうから。発声機を兼ねるマスクに隠された物言わぬ口よりも、その瞳が続きを雄弁に物語る。いつの間にか梔子が手にしていた黒い塊が、感情の高まりに呼応するよう、ばちりと弾けるような音を放った。空間を割り裂くように、円形の面上で飽和する寸前の電流が走る。大振りな持ち手の付いたラウンド・シールドじみたスタンガン。本来ならば向けられた害意から身を守る盾として手に取られるはずの武器が、先手を取って明確な加害の意思を示している。
「……」
僕は首を横に振り、そこを動くことはなかった。まだ振るわれてもいない梔子のスタンガンに溜まり続ける光の束は、より眩しさを増していく。μを追ってメタバーセスに向かう直前に僕がまともに動けなくなるほど痛めつけて、やっと彼女がとどめを刺しに来た、琵琶坂永至が無様に転がっている。その良く動くはずの口でただひゅうひゅうと力なく、生きるためだけの呼吸をしている。そして僕はふたりの間に割って入り、彼を庇うように梔子と相対しているのだ。自分は何をしているのだと、まるで他人ごとのように思う。これから先、限度を見失った過剰な幸福を撒き散らしながら少しずつ腐敗し、壊れていくはずのうつくしい世界に、このような汚点を残そうとするなど。いったいだれが望む。
「どきなさい。どいて」
「一応聞くけど、どうするつもり」
「とりあえず泣いて詫びるまで痛めつけるつもり」
「そんなことをしたら先に死んでしまうよ」
「それが何。私の家族はもう死んでるの」
「彼は絶対に謝るなんてことはしない」
「絶対に謝らせる。どんなことをしても」
「それで気が済むのか」
「済むわけない。何だって足りないよ、そんなの」
「君に人殺しになってほしくない」
「なら、だったらもう一度言えばいいじゃない、手が汚れる、自分が代わるって、あなたが」
「弓野」
あの時と違って、それは言えない。何も無いふたつの洞で、憎しみが溢れ出す寸前の瞳と向き合った。自分はどこまでも不誠実な人間だと思った。
「弓野。頼む。この男を、僕にくれないか」
掠れた声で絞り出した言葉は懇願などではなく惨めな告解だ。苦し紛れの懺悔だ。
それを聞いた梔子は、ただ一瞬の迷いも無く、絶叫とともに両手でスタンガンを振り上げた。
「お前ぇえええええッ!!!!」
しかし、それが振り下ろされることは無かった。ぱっと開いたふたつの白い手袋の上に、瞬きのうちにふたつの黒い銃が現れる。くるりと回しながら右手の銃把で梔子の腕を打ち据え、狙いがぐらりと揺らいだ隙に左の銃のトリガーを五度引いた。スタンガンの表面、交差する電流の四つの起点を潰し、最後の至近距離からの射撃でスタンガンそのものを弾き飛ばす。放物線を描いて飛んだそれが少し離れた地面に落ちる前に、僕は彼女の喉元に右の銃を突きつけていた。
「……」
ごくり、と彼女の喉が鳴る。この身体の良いところは視線で狙いが悟られないところだが、たとえ視線の向かう先を追えていたとしても、今の梔子の感情に身を任せた出鱈目な攻撃では然したる差など現れまい。それほどまでに、力の差は歴然としていた。一瞬の攻防の果てにガラクタと化したスタンガンが背後でガシャンと大袈裟な音を立てても、梔子は微動だにしない。ただ喉に当てられた無機質な敵意の温度を肌で感じながら、どうしてこんなことをするのかわからないと、僕に訴えている。
「君がそうして先輩を殺すって言うなら、君を今、少しだけ動けなくして、僕はμを殺してくるよ」
「!」
「頼む。君から家族を二度も奪いたくない」
何も産まない復讐を取って何も無い現実に送り返されるか、このまま何もしなければ続く、まがい物の家族とのぬるま湯じみた暮らしを取るかを選べと言った。すると先ほどまで梔子が全身に漲らせていた気力が、へなへなと、花が枯れるように萎れていくのを銃越しに感じた。ぺたりと地面に崩れ落ちた彼女にもはや意味も無いと知りつつ形だけで銃を向けながら膝を折り、空いたほうの手で背後の男の肩に手を回した。「立てる?」と伺えば、誰のせいでこうなっているのかとか、そんなことの前に、彼は「余計なことをしやがって」を掠れた声で悪態を吐いた。自分の力だけでは立ち上がれもしないくせに、ひとりでこの場を切り抜けるつもりだったのか。呆れながら、肩を貸した彼を連れて一歩ずつ、引き摺るようにゆっくりと、下に下りる長い階段へ向かった。有る程度離れたところで銃を下ろしたが、梔子はそれに気づくこともなく、武器を拾いに走ることも無く、ただ何かを見失った子どものように地面にしゃがみ込んでいた。
「……おとうさん。おかあさん。おねえちゃん」
僕らに向けてではなく、ただ虚空へと投げかけられた声は、しかし誰にも届くことは無い。
「さっきのは、……とてもじゃない、が、スマートな交渉、とは、言えない、な……ふふ、ッ」
階段を一段下る度に傷付いた全身を苛む振動をごまかすように、琵琶坂永至は笑った。できる限り慎重に歩みを進めていたつもりだが、骨の二本や三本持って行かれてしまっているのだからもはやどうしようもない。まどろっこしいのでいっそ所謂姫抱きにでもしてひと息に駆け下りてやろうかと思ったが、後が怖いのでやめておくことにした。
「いや。真っ当な取引だよ」
「ハナから、相手の出すであろう答えが決まっている、のなら、それは、脅し、だ」
「……」
「でも、まあ、悪く、なかった。どういうつもりかは、今は聞かないでおいて、やる、よ」
素直に息をするのもつらいと言えばいいのに。それっきり彼は黙り込んだ。上るときは永遠に続いているかのように思えた階段は、あっけなく終わった。
何故その時身体が動いたのか、わからないふりをしたかった。彼は確かに人として許されないことをした男だった。犯罪者であることを隠して被っていた「頼りになるオトナ」の皮はとうに剥がれ、何かあれば苛立ちを隠しもせず、辛辣な暴言を吐き、女子どもであろうと邪魔をする相手には容赦なく暴力を振るった。しかし同時に、自分の振る舞いを正しいと信じて疑わないその強さに憧れた。デジヘッドを狩れ、メビウスを壊せ、これは報復だと彼が吐き出す毒のような正論に、酷く惹かれた。このぐずぐずの脳みその中で堂々めぐりを繰り返す甘やかで脆弱な思考を放棄して、敵に最大効率で死を与えろと謳う男の冷たい正論に導いてほしいとすら思った。価値観の齟齬により周りが徐々に彼との距離を置き始める中、僕がただひとり鮮烈な炎に吸い寄せられたのは必然だ。
あの時弓野の前に立ちはだかった僕は、彼女の全てを奪った男を守った僕は、その炎に迷いなく飛び込み、喜んでその身を焼かれる蛾であった。ただ「まあ悪くなかった」のひと言で、世界はこんなにも華やぐのだと知った。僕は恋をしていた。