Caligula
こわいおばけが出ませんように
2018/09/14 09:51主琵琶∞
今さら未成年だからどうこうと些細な抵抗を示し、差し出されたグラスを拒む気力すら僕には残されていなかった。だって僕は、人をひとり殺したのだ。それに、まるで何かの試験に合格した者を招き入れるように、ようやく僕を家に上げてくれた琵琶坂先輩の機嫌を損ねてしまうのは何より怖かった。グラスに口をつけて琥珀色の水をほんの少しだけ啜ると、喉に焼けるような熱の塊が走る感覚を覚えて(液体のはずなのに、変だなあ)僕は思わず咳き込んでしまった。
「いやしかし、ラッキーだったな。死体が消えてしまうのなら、殺したあとのことを考えなくて済む。この掃き溜めの世界の唯一の利点と言っても過言ではないね。完全犯罪というやつだよ」
「……」
「そのことをビルから落ちてまで僕らに教えてくれた××××には、感謝しなければ。現実に帰ったら、時間を作って墓参りにでも行くかい?」
驚くほどに無機質な響きを伴って、いなくなってしまった少年の名前が先輩の口から滑り出た。涙が出た。いったいこいつは何を泣いているのだと、理解できないものを見るような目で、彼は僕に一瞥を寄越した。
「支度が出来るまで、座っておいで」
おかわりが欲しかったらそこに、と先輩が指を差した先。キッチンのものとは別にリビングにも置かれた小型の冷蔵庫を開けると、どこから手に入れたのか聞くのが怖いほどの豊富な酒類が詰め込まれていた。酒の良し悪しが分かるわけでもないが、今僕が不味そうに舐めているものも含めてそれなりに高級なんだろうなと、漠然とそう思う。僕は何も取らずに扉を閉め、ふかふかのソファに座る。グラスに注がれた琥珀色の液体はまだ半分以上も残っていて、今にも倒れてしまいそうなほど血の気の引いた僕の情けない顔を水面に映し出している。そのうちなんだか顔がぽかぽかしてきて、いつの間にか涙は止まった。
キッチンでは、鼻歌でも歌い出しそうな、楽しくてたまらないと言ったような手つきで先輩が何かを作っている。夢にまで見た先輩の手料理、しかしきっと数時間後には便器を抱えて全て吐き出してしまうのだろうなと思うと暗澹たる心地になった。なんとなくつけたテレビの中では、μの新曲のMVがどのチャンネルでも延々と映されているばかりだ。駅前の裏路地で男がひとり、刺されて死んだなどというニュースは、どこにも流れてはいなかった。……完全犯罪というやつだ。
「はい、乾杯」
「……」
「元気がないな」
生まれて初めて人を殺したあとに元気が有り余っているほうがおかしいでしょう。先輩は軽くグラスを合わせてからすっかり黙り込む僕をしばらく見つめていたが、やがて大して気にする風もなく自分のグラスに注がれた赤ワインを呷った。それがナイフを突き立てた男の腹からごぼりと溢れた赤黒い血の色を思わせて、またひとつ酸素の薄い地下への階段を降りるように、僕の気分は沈む。
「気にすることはない。あんなのはむしろ社会から消えた方が世のためになるクズさ」
「……あ……」
「さあ、召し上がれ。もしかしてトマトは嫌い?」
「…………すき……」
「それはよかった」
先輩がフォークに刺したトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼが目の前に差し出されたので、僕はゴミ収集車のように義務的に口を開けた。ごめんね先輩、僕はトマトもチーズも好きだけど、味のアクセントにうっすらとかけられたレモンが大嫌いなの。そんなことも言えず、互いの好きな食べ物も嫌いな食べ物も知らないまま、僕らは愛し合う。ぐちゅりと噛み潰されたトマトの柔らかさは、刺し貫いた男の内臓に似ている。いなくなったほうが社会のためになるクズを、涼しい顔をしながらバレバレの嘘まで吐いて内心は死に物狂いで追いかけていたあなたも、同じくらいの、あるいはそれ以上のクズであると、僕は知っていた。
知っていた、けれど。
「ま、ゴミ掃除にでも協力したと思ってくれればいいよ。何にせよ、君が罪に問われることはありえないんだ」
「……ん」
「安心していいよ」
「……うん……」
口の中のものを飲み下して頷くと、先輩はにっこりとひどく魅力的に笑った。現実に帰って「こういう人をナイフで刺して殺してしまった」と警察に駆け込んだところで、僕が放り込まれるのは牢屋ではなく病院に違いない。確かに僕が口にするのと同姓同名の男は現実で死んでいるはずだが、死因は幽体離脱症候群で眠っている間の突然死に過ぎない。頭のおかしい奴としてレッテルを貼られるだけで、僕を裁いてくれる人間などどこにも存在しないのだ。それは幸福なことなのか、それもと何よりも不幸なことなのか、慣れないアルコールに犯された頭で考えることは、ひどく困難だ。
その後、上機嫌で何本かボトルを開けた先輩がソファで寝てしまったのを見計らって、僕は飲み食いしたものをトイレですべて吐いた。ウイスキーもビールもワインもトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼもイカのフリッターも胡椒の効いたカリカリのベーコンも野菜スティックもクリームチーズと生ハムのバゲットサンドも何もかも! 先輩が僕だけのために作ってくれた料理の味をもはや何ひとつ覚えていないのは、悲しくて寂しかった。自分からこびりついた血の臭いがするような気がして、後ろからずっと誰かに見られている気がして、背中にはじっとりと冷たい汗をかいていた。
「何を怖がっているというんだ、君は」
そろりとリビングに戻ると、ソファで眠っていたはずの先輩が、ドアの前に立ち尽くす僕をいまいち焦点の合わない潤んだ瞳で見ていた。あいつが僕を追いかけてきている、怖いのだと僕が漏らすと、彼は死んだ人間にいったい何ができるというのだ、もはや死体も残っていないような死人相手に無駄な感情を割いている場合なのかと僕を罵った。空っぽの胃が痙攣して、まだ何かが迫り上がってくるのを必死で耐えた。
「こっちにおいで」
ソファのすぐ脇の床に座り込んだ僕の頭を抱き寄せて、彼は額にひとつキスをして、そしてそのままうつらうつらと眠ってしまった。
いったいあなたとどこへ行けるんだろう。どこまで行けるのだろう。僕は一晩中、声を殺して泣いた。