Caligula

鳴かない春を身籠もる(主琵琶)

2018/05/27 17:43
主琵琶
 
「永至先輩は、なんで俺のこと名前で呼んでくれないの。部長君だとか君だとか、そんなのばっかり」
「なんでって、ただの犬なんかに情が移ってしまったら困るだろう。……ところで君、そういえば何という名前だったかな」
「灰音だよ。イリヤ、ハイネ」
「ああなるほど、そうだった。いやすまないね、思い出したとも」

別にすまないなんて思ってもいないでしょう。ソファの上から大した感慨も無さそうに伸ばされた永至先輩の手は、床に座る俺のすっかり伸びた髪を無遠慮に掻き回し、今の今まで名前すら忘れていた犬に対する興味のなさを如実に物語る。神経質そうな細長い指の纏う体温ではなく、時折髪の隙間から額に当たる指輪の冷たさと虚しさばかりが皮膚に残る味気ない触れ合いだった。移ってしまうような情など、もともと持ち合わせてはいないくせにと俺は小さく息をつく。しかし青いスカーフを緩めて長い脚を投げ出し寛ぐ男の目には、本当に飼い主がペットに向ける慈しみのような何かが貼り付けられているのだから、その完璧に近い模倣は悪趣味で気味が悪くて、少しだけ心地よい。ただの化け物が人間ごっこをしていようと、ただの人間が化け物ごっこをしていようと、それはもうどちらでも構わないし同じことだ。ただその薄い唇から毒のような正論に混じって溢れ出す、人を傷つけるだけの劇薬じみた鮮烈な悪意を俺の耳に注ぎ込んで、全てを奪って食い荒らして手中に収めて導いて欲しかった。それだけだ。
「遊んで欲しいと言われても、ここには別に面白いものなんて無いんだがね」
彼が自宅にしているマンションとは別に借りているこの部屋は、やや手狭なワンルームだ。シックで落ち着いた調度品が揃えられた本宅に対し、ここにある家具にもとりあえず高級感という共通点こそあれど、デザインや色合いはあちこちから衝動的に買い足したかのようにまるでちぐはぐである。照明の類はどこにもなく、窓もカーテンも閉め切った空間はセーフハウスと言うよりは独房じみたブラックボックスのようで、しかしきっとこちらが先輩の中身なのだと俺は思っていた。初めて部屋に足を踏み入れた時、本宅とは全く違った室内の様子に戸惑う俺に「壊してもすぐ入れ替えられるようにね」と彼は冗談めかして笑ってみせたが、その瞳の底は冷え切っていたのを今でもよく覚えている。確かにあれから、この部屋の中央のガラステーブルが二度入れ替わった。クローゼットの扉には大きなへこみがひとつ付き、これ以上目立つ傷が増えることがあれば、きっとモノへの執着が薄い彼になんの躊躇いもなくあっさり捨てられてしまう。そして俺の背中には、青い痣が残った。俺もこの部屋のモノと同じように、壊れたらさっさと入れ替えられてしまうのだろうか。
しばらくして、頭を撫でていた気まぐれな手がするりと去って行ってしまったのがさみしくなって、今度はソファから怠惰に投げ出された先輩の脚に擦り寄った。いったいどうしてこう、この男からはこんなにもいい匂いがするのだろう。食虫植物なんかが甘い匂いを出すのと同じ理屈なのだろうかと思ったが、妙な喩えで機嫌を損ねられてしまっても困るので黙っていた。太腿にくったりと頭を預けて、俺は静かに目を閉じた。そっと伸ばした指で、靴下に包まれた足の甲をなぞった。咎められることはなかった。
それなりの大きさがあるはずのソファは、しかし必ず先輩がひとりで陣取ってしまうので、俺はだいたいいつも床に座り彼に見下ろされることになる。俺は彼の犬であり、この部屋に足を踏み入れた瞬間から更にオモチャへと成り下がるので特に不満はないけれど。そういうことになっているから。

「先輩がいてくれれば、どこだって楽しいよ」
「はは、君は案外可愛いらしいことを言うね……気持ち悪いな」
「よく言われる……」
「度し難いね、全く度し難い。一途だなんて聞こえの良い言葉で片づけるには無理がある」
「好きだから」
「聞こえなかったかい? 気持ち悪いんだよ」

カチッ、と小さな固い音が聞こえたので、太腿から顔を上げて先輩のほうに視線を向ける。彼はいつの間にか、形のいい唇に咥えた煙草にライターで火を着けていた。濁った白い煙が揺れる。
「優等生がいけないことしてる……」
「ん?」
俺が呟くと同時に、すっと細められた先輩の瞳と視線が絡まる。ソファの上で身体を起こした先輩の脚がゆっくりと持ち上がり、黒い靴下に包まれた足の先が俺の顔を持ち上げるように、喉から顎にかけてをつうっとなぞった。ふかふかのソファが小さく軋みを上げた。薄い布越しでも確かに感じられる足の爪が皮膚の上を滑っていく感触に、つい口の端からため息が漏れる。気まぐれと戯れで子どものように頭を撫でられることなんかより、こっちのほうがよっぽど、あなたと近い。

「犬は目撃者には含まれないだろう?」

言い聞かせるというには甘い、脅迫じみた声音とともに、ふう、と紫煙を吹きかけられた。けほけほと咳き込む俺を見て、先輩はけらけらと笑っている。まったく、まったく、成績学年トップで人当たりの良い好青年とは思えない、あんまりな言動だ。でも、世界が自分の思い通りになると信じている純粋な瞳と見つめ合う間だけ、先輩のことを可愛いと思う。意地悪く吊り上がった口の端を、美しいと思う。これは病だ。
「うん、……」
肯定の意を込め、歓喜に震える唇を爪先に軽く触れさせるだけのキスを贈った。靴下の先を前歯で軽く噛んでみせると、先輩は少し考えるような仕草を見せたあとに「いいよ」と再び目を細めてみせた。どうやら少し機嫌がいいらしい先輩が細い指に挟まれた煙草を再び口元に運び、何が旨いんだか俺にはさっぱり分からないような苦い煙を喫んでいる間、彼の靴下を口でゆっくりと引っぱった。思いの外すんなりと脱げた黒い靴下を取り払い露わになったまっさらな素足を舐めるように眺めた。しばらくして、なめらかな足の甲に今度は直接指を這わせ、ゆっくりと唇を当てる。「君、やっぱり芸がないな」呆れたようにその口は言うものの、うっすらと浮いた骨を舌先でなぞるようにキスを繰り返す度にぴくりぴくりと脚が震えているのは、少しだけ滑稽だ。
「ちゃんと仕込んでくれない飼い主のせいかもよ」
「……君なあ」
「キスしたい。口に」
「駄目だ」
だって、ちょっとタールだかニコチンだかが含まれてるってだけで、それだけで俺がまだ一度も許されていない唇に触れられるなんて、ずるいじゃないか。先輩の唇に挟まれながらじわりじわりと寿命を削る煙草を睨めつける。
「先輩、灰落ちるよ」
「ないんだ。灰皿が」
「……ふぅん」
壊したのか壊れたのかは、聞かない。すっかり灰に変わって今にも折れそうな煙草の先端と先輩の顔を交互に見遣って、ああなるほどね、と納得した俺はループタイをほどき、制服の下に着込んでいるシャツの襟を緩めた。彼の言わんとすることは、遠回りに見せ掛けて実は案外わかりやすい。すると先輩は「よくできました」とでも言いたげに微笑んでみせ、煙草を持った手を伸ばした。

全ての時間が、ほんの一瞬止まった気がした。






「あ……っ」

露わになった俺の鎖骨の下あたりにゆっくりと押し当てられた煙草の先端で、まず柔らかな灰がぽろぽろとほどけ、一拍遅れて広がる熱がやがて刺すような痛みを連れてくる。じゅっ、と音がするほど強く煙草をこすりつけられた火傷の痕は、ひりひりと陰鬱な温度を孕む。あのお気楽な女神さまの言う「楽園」にも、確かに痛みはあるのだ。喉の奥からどろりと溢れ出す後ろ暗い興奮を押し止めて、与えられる甘やかな淫蕩と苦痛をなんとか飲み下して、作り笑いへと変えてみせた。先輩は眉を顰めた。硬く閉じていた蕾が、ゆっくりと花弁を綻ばせるような快楽だった。
「ふ、ふふ」
「まったく、理解に苦しむ」
「そんなこと言っても、俺はあんたのだ」
「何度も同じことを繰り返すようで申し訳ないが、やっぱり気持ちが悪いな」
「……はあ…………ねえ、首のそれ取っていい? 1回は1回だから」
「……仕方ないね」
やれやれと首を振り、どこか投げやりに再びソファへ横たわった先輩の上に覆い被さるように乗り上げて、その首元を守る青いスカーフに手をかけた。彼の指先には、まだ火の着いた煙草がしっかりと挟まれたままだ。俺の身体のどこか、適当な場所に狙いを定めるように、ふらふらとさまよっている。今彼を見下ろしているのはこちらのはずなのに、しかしその爬虫類じみた瞳に確かに見下されている。ぞくり、と背筋を甘い疼きが走った。
「次は?」
「ベストのボタンを外す……」
「どこまで保つかなぁ」
不意に伸ばされた指輪の目立つ手にシャツをぐいと肌蹴させられ、剥き出しになった二の腕の上に煙草の先を軽く当てられた。つつ、と地図をなぞるような動きにごくりと息を飲んだ直後、肩にじわりと焼けるような痛みが宿り、俺は思わず声を引き攣らせる。
「っ、い……ったぁ……」
「……ふむ」
まあ、悪くないかもね。そう独り言ちた先輩の目はまたあの作り物の慈しみの皮を被っていて、震える手で真っ白なシャツのボタンを外す俺に舐めるような視線を贈る。俺はだんだんと、この暗くてちぐはぐで何かがおかしい部屋に飲み込まれてその一部になっていく代わりに、あなたの中身を少しずつ覗かせてもらっている。

「俺は先輩のものになりたいんだ」

いつかその唇と甘ったるいキスを交わす瞬間を夢見たい。次は頬に当てられたひりつく熱を受け入れながら、俺は静かに目を閉じるのだ。

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