Caligula

影踏み(主琵琶)

2018/05/22 12:26
主琵琶
 
悲しいくらいに、否、いっそ笑えるくらいに。そこにはもう、何も残されていなかった。雲の切れ間から顔を覗かせた月明かりが、血痕ひとつないアスファルトを照らしている。

「……」

ここは、ほんの数日前、意識不明の重傷者一名と死者一名を出した凄惨な事故現場。ランドマークタワーの足元は、それはもう不自然なほど綺麗さっぱり、まるで何ごともなかったかのように片づいていた。規制線も取り除かれ、人が通ることもできるようにもなっている。昼のワイドショーで身勝手な飛び降り自殺未遂に巻き込まれた不運な少年として扱われる琵琶坂永至の姿を見る度、俺は腹を抱えて嗤った。涙が出るほど嗤った。本当のところは「すごくいい先輩だったんです、なのに……」なんて安っぽい涙声でインタビューでも受けて、彼を慕う後輩としてその死を不幸という名のエンタメに昇華させたがる連中に加担してやりたかったのだけど。流石に部員たちの目もあり、それは諦めた。俺だって外面は大事にしたいのだ。あいつと同じで。あいつほどではないが。

病院に運ばれた彼の死体は、消えたと聞いた。たとえ現実の彼が呼吸を止めるまでの僅かな時間でも、冷たくなった身体をオモチャのように犯してやることも、自分の身に降りかかった事態を何一つ理解できないままこと切れた優等生、その間抜けな死に顔を拝んでゲラゲラ嗤ってやることすらできなかったのは心残りだった。だからせめて、あの小憎たらしくて美しい貌を貫き引き裂いたらしいガラス片のひとつくらいは、手土産に拾っていってやってもいいと思ったのに。何もない地面をしばらくぼんやりと見つめて、俺はふふっと笑った。



「ふ、ふふ、ざまあ見ろ、ざまあ見やがれ、ふふ、あはは」



「なあ、おい、何してんだよ、おい、何なんだよこんな、呆気なく、ふふ、ふふ、あっはははは! ははっ!! はははははははは!! あんた、ふふ、あんた結構、面白いとこあるよなぁ! 別にさあ、俺を笑わせるためにそんなにカラダ張らなくてもいいんだよォ、先輩!」



「ああそうだ! てめえが、てめえが悪りいんだからな、俺に嘘ついて、俺に嘘ついて俺に嘘ついて! 俺に嘘ついて!! 嘘ついて嘘ついて嘘ついて!!! 楽しかったか? なあほら、ざまあ見やがれ、お前が悪りいんだぞふざけんなよ、許さねえからな許さねえからな許さねえからな、俺は、俺は」




















「……俺は、楽しかった、けどさ…………」




返信どころか既読マークすらつかなくなった、彼とのWIRE画面を開く。最後に遺されているのは、俺が冗談めかして聞いた「幽霊って信じる?」から始まるやりとりだった。

「何が『人は死んだら無になる』だよ、バカじゃねーの、あんた」

だったら、あんたの無機質な熱も腹の底を見透かすような眼差しも過剰なラッピングを施された言葉も何ひとつ思い出せなくなった今でも、俺の中にただ唯一残ったこの鈍痛はいったい何なのだ。何だというのだ。頭のよさだけは間違いなかった彼の言うことなのだから、この痛みだってやがて消え去り、俺の中には本当に何も残らないのだろうか。雲の切れ間から顔を覗かせた月が、どうしようもない愚か者の死を悼む、もう一人の愚か者の背中を照らしていた。悲しいくらいに、そこには、何も、残されていなかった、はずだった。

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