Caligula
蜜の味(主鍵)
2018/03/01 13:38主鍵現実
「頭の中が空っぽで、手が動かないこと、こんなに怖いんですね」
僕がシャワーを浴びて出てくる前と、ほぼ変わらないポーズだ。リビングのテーブルに頬杖を突いて、鍵介は座っていた。彼の前に広げられたルーズリーフにはまだなにも書き込まれてはおらず、お気に入りのボールペンは無造作に投げ出されている。どうやら曲作りにだいぶ息詰まっているようで、眼鏡越しの視線からも疲れや焦りのようなものが見て取れた。
「おかしいですね。こんなの、ただ前と同じになっただけ、なんですけど」
はあ、と自嘲気味なため息をつく。前というのは、メビウスに来る前、という意味なのだろうと僕は察する。そういえば、あちらにいた頃の彼は「現実では一曲だって作れはしなかった」とヒステリックに喚き散らしていたこともあった。
カギPとしての力は紛い物に過ぎなかったけれど、それでも自分の気持ちを自由自在に曲の中へ閉じ込めることができる快感を、メビウスで一度味わってしまったのだ。メロディが浮かばない、歌詞が思いつかない、彼が今感じている焦れったさやもどかしさは、きっと現実で悩んでいた頃の何倍にも増しているのだろう。初めからできないことと、もともとできていたはずのことができなくなってしまうのとでは、苦しみの種類が違う。
「やっぱり、間違ってたんだな。僕をぶっ叩いて、目を覚まさせて、ここに連れ戻してくれた先輩は、正しい」
「別に正義の味方を気取って君の前に立ちはだかったわけじゃないよ、僕は。ただ、必死だった。それで、君は君で必死だった。それだけのことだ」
「……」
「それに、お互い様だよ。僕が今こうしていられるのも、元はと言えば、君が入学式で僕のことおどかしてくれたおかげだから」
僕はぽんぽんと鍵介の背中を叩く。うーん、と小さく唸った鍵介はしばらくじっと腕組みをしたあと、テーブルの上の白紙のルーズリーフたちをまとめ始めた。「とりあえずお風呂入って、気分切り替えてから、続きやります」放っておいたボールペンを一旦ペンケースにしまう鍵介の、顔のつくりそのものはメビウスにいた頃と大して変わっていないけど、その表情は心なしかしゃきっとして見える。僕の気のせいかもしれないけど。
周りが足を引っぱるせいで、とか、見る目がないから、環境が整えばそのうち、なんて言葉でこまかさず、先延ばしにせず、「出来ない自分」から逃げずに向き合えるようになったこと自体が、大きな一歩だ。「がんばってね」と声をかけると、鍵介はにっこり笑った。それから自分の部屋で着替えを用意して、バスルームに向かう。さて、それじゃあ僕は頑張る鍵介がちょっとずつつまめるように、りんごでも剥いておこうかな。