Caligula

まばゆい朝日にハロー(主鍵)

2018/04/12 23:12
主鍵

間に合わなかったのだ、と、そろそろ認めなければならないかもしれない。僕は手に持ったペンをくるりと回し、窓の外を見遣った。入学式からいつまでも散らないどころか、時を経て尚ますます豪奢に咲き誇る桜と、その幹に留まる蝉。教室を見渡すと、半袖姿の男子もいれば薄手のカーディガンを羽織る女子もいる。僕はなんの暑さも肌寒さも感じないので、いつも通りループタイを締めたシャツにブレザーを合わせている。いったい今は何月なのだとポケットから取り出したスマホの画面に表示された日付は、文字化けを起こしていた。壊れているのは世界であり、そして僕らだ。

間に合わなかったのだ、と、そろそろ認めなければならないかもしれない。先日、駅前のステージで行われた、異様な熱気を孕んだ過去最大級のライブを最後に、μの消息はぱったりと途絶えた。その後、各地でデジヘッドたちがかつてないほど活発化し、街はこれまで以上に楽士たちの曲で溢れかえっている。そして、僕たち帰宅部が部室で落ち合うことも難しくなり始めた頃、突然アリアが消えた。
心の調律を担う彼女が不在のままカタルシスエフェクトを発動するには、危険が伴う。故に、帰宅部は実質的な活動停止に追い込まれた。現在の活動方針は「情報収集をしつつアリアの行方を追う」ということになっているが、皆薄々と、崩壊の足音に気づいているのだ。全てが手遅れだったことを悟り始めているのだ。今日も着信音を鳴らさない、アリアがいなくなった日から更新されていないグループWIREが、全てを物語っている。恐らく最後まで抗うであろう部員もいれば、すっかり姿を見せなくなってしまった者もいる。急速に狂い始め、崩れ始めた世界に怯え、家に閉じこもっているのかもしれない。もしかしたら、楽士たちに捕まったのかもしれない。迫る終末の恐怖に耐えかね、自らデジヘッドになることを望んだ者もいるかもしれない。未だこうして淡々と学校に通い続けているのは、恐らく僕と、

「こら、聞いてるのか、松田」
「……あ、はい……」

ただ開かれているだけで、まっさらなままの僕のノートに目をつけたのか、NPCの教師が教卓からこちらにやって来る。その姿はもはや人の形すら保てておらず、黒い靄のようだった。どうやら、数学の応用問題を解いてみることを促されているようだったけど、ぼんやりとあたりを眺めていた僕には、テキストのどのページの何番の問いが黒板に書き写されているのかもわからない。「すみません」と曖昧に笑ってみせれば、黒い靄はため息をついて僕の後ろの席の女子生徒を指名した。
真っ白い半袖ブラウスにリボンをつけた彼女がチョークを黒板に走らせる音を聞きながら、もう一度窓の外を眺める。満開の桜の花の隙間から、吉志舞高校の体育館が見える。僕が、この夢のような世界から、強引に引きずり下ろされた場所。その屋根に一瞬、大きなノイズが走り、やがて砂時計の砂がさらさらと落ちるように、少しずつ崩れ始めるのが見えた。教室の誰も、窓の外の異常には気がつかない。気がつけない。NPCの教師からまた、よそ見を嗜めるように名前を呼ばれた気がするが、そんなことはもうどうでもよかった。「具合が悪いので早退します」と、どこまで届いているのかもわからないひとりごとのように呟き、ぺしゃんこの鞄を持って廊下に出る。僕を追いかけてくる者は誰もいなかった。



***



授業中なのだから当然だが、昇降口には人気がなく静まりかえっている。一年生の靴箱の影に、鍵介がいた。

「やあ、どうしたの」
「……」

僕の問いかけに、無言で渡り廊下の先、体育館の方向を指さしてみせる彼は、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。じわりと潤んで溶けてしまいそうな灰色の瞳が僕だけを映す様が、なんだかひどくせつない。
そうか、君も、見たのか。とうとう、僕たちの最後の場所だった学校にまで、綻びが広がり始めた瞬間を。

「……帰ろう」

僕の声に、鍵介は俯きかけていた顔を上げる。

「もう、明日から学校には来なくていいよ。僕もやめる。ね、鍵介。それでいいよね?」

僕は、すっかり冷え切って震えていた鍵介の手を取った。青ざめた唇にキスをした。すると、彼はようやく口を開いた。

「あ、あんまり、外で、こういう……」
「そんなのどうでもいいじゃないか」
「あ、う……」

と、鍵介はそこで少し言い淀んで、やがて何かを諦めるようにゆるゆると首を振った。

「……なんでもないです。もう、気にする必要、ありませんしね……行きましょう、先輩」

僕の手をぎゅっと握り返してきた鍵介の手は、ほんの少しだけあたたかさを取り戻している。僕たちはいつもより近く、肩を寄り添わせながら歩いた。なんとなく立ち寄った行きつけのカフェで、味のしない黒い水のようなコーヒーを飲んでいる途中、とうとう泣き出してしまった鍵介をなんとか宥めてから店を出ると、すっかり日が暮れてあたりは暗くなり始めていた。



***



「そうだ、駆け落ちしちゃおうか」
「……かけおち」

夕暮れを迎え、人がどっと増え始めた宮比駅前で僕は呟く。すっかり赤くなってしまった鼻を啜りながら、鍵介は覚えたての英単語を練習するような口調で、それを繰り返した。あたりが薄暗い中、眼鏡のレンズ越しでもわかる泣き腫らした目が、ひどく痛々しい。
向こう側には何もないはずなのに、「普通の街の帰宅ラッシュ」を演出するために用意されたNPCの群れの中には、形を保てずに道路の真ん中でぐずぐずと崩れてしまうものもいる。そんなものを、僕たち以外は誰も気にしない。気にすることができない。不安定な黒い人の群れを次々と吐き出す駅そのものも、全体に不気味なノイズを被ってゆらゆらと揺れていた。もしかしたら、この駅だって明日の朝にはなくなっているかもしれない。

「電車は動かないけど、歩いて遠くへ行ってみようよ。もしかしたら、変なところが偶然つながって、誰も知らない場所に出られるかもしれないよ」
「ゲームの裏技、みたいな?」
「そう、それ。僕たちだけの場所」
「……うん、悪くないですね」

そう言って頷く鍵介の表情は、帰宅部に入れてくれと、僕に頭を下げた時のものに似ていた。不安でいっぱいで、苦しそうで、でも僕を信じようとしていた彼の目だ。もしあの時僕が鍵介を冷たく突き放していれば、せめて彼だけは、才能溢れる「カギP」のまま、あたたかい夢を見ながら逝くことができたのかなあ、なんて思ってしまう。僕たちはお互いを夢の世界から引きずり下ろして、現実を突きつけ合って、傷つけ合って、愛し合って、結局、最期に何を残したかったのだろうか。もう、わからない。
僕が歩き出すと、鍵介は少し遅れて後ろからついてきた。遠慮がちに伸ばされた指先が、僕の手をちょんとつまむ。

「何か食べたいものとかある?」
「……急にそう言われると、特に思い浮かばないものですね」
「うん、確かにだいたいの物は学食のメニューにもあって、なんでも食べられたからねぇ」
「でも先輩、結局野菜残してばっかりだったじゃないですか」
「ふふ、だって、なんだかんだ言いながらいつも君が食べてくれるから、つい甘えちゃって」

赤黄色青、青青赤黄色、赤。大通りの信号機が、滅茶苦茶な点滅を繰り返している。危ないな、と道路に目をやると、走っている車は一台もなかった。僕たちは歩いた。

「ゲーセンとか行く?」
「あんまり、そういう気分じゃ」
「そうか……じゃあ、静かなところのほうがいいかな」
「それも、寂しくて嫌ですね」
「そう……」
「……ああ、なんか、わがままばっかりですね」
「そんなことないよ」

繁華街の普段は通らない細い道を入ってみると、なぜかまるで反対方向の通学路に出た。カーブミラーには何も映っていなかった。壊れ始めた世界は、道の繋がりもめちゃくちゃになっているのかもしれない。僕たちは歩いた。

「先輩といっしょなら、何でもいいんです」
「……かわいいこと言うね、でもちょっと困っちゃうな」
「わがままで、ごめんなさい」
「ううん」
「ごめんなさい」
「……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、僕……」
「…………」

僕たちは歩いた。手をつないで泣きながら歩くふたりにあちらこちらから奇異の視線が寄せられるのを感じたけど、そんなものはクソ食らえだ。お前らはいい。何にも知らないまま終われるんだから。この崩れかけた世界が、ヒビの入った空が見えないんだから。
僕たちは歩いた。

歩いた。







***











結局、どこにもたどり着くことはできなかったらしい。僕たちはいつの間にか、駆け落ちのスタート地点である駅前の広場にいて、いつの間にか夜が明けていて、いつの間にか駅舎は半分の大きさにまで削れていた。僕らが見上げているこの瞬間にも、駅の建物は黒い粒子になって、さらさらと崩れている。

「いやだ……」
「鍵介」

崩れ落ちるように寄り掛かってきた鍵介を、抱き留める。朝の通勤通学ラッシュを模したNPCの群れは、改札の前で抱き合う僕たちを邪魔そうに避けて、川のように流れていく。僕の腕の中で、やだ、こんなのはいやだ、と子どものように泣き喚く鍵介のやわらかな髪は、あと何度見られるかも分からない朝日に照らされて、きらきらと光っていて、眩しくて、眩しくて、悔しくて、涙が出た。

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