Caligula

エイプリルフールのフール(主琵琶)

2018/04/01 09:57
主琵琶

「別れよう」

我ながら、どうにも捻りのなくてつまらない嘘だという自覚はあった。

「やっぱり俺たち、ちょっと行き詰まってるとこ、あると思うんだ。だから別れようよ、先輩」

イベントごとにはどうしても乗っかっておきたい気質なのだが、「駆け引きは得意」などと豪語し、実際それなりに口も上手く頭の回転だって早い琵琶坂永至という男を最後まで騙しきる嘘を考えることなんて、俺にはできなかった。ならばいっそ、変に手が込んでいなくて、「何を言ってるんだか」と鼻で笑ってもらえるようなかわいいジョークひとつで済ませたほうがいい。しかし、四月一日の午前八時、朝食を済ませてリビングのソファで寛いでいた俺たちの間に流れた空気は、想像とは少し違っていた。
「……えっと……」
「……」
隣に座る先輩は、すっかり黙り込んでいる。テレビの画面の中、NPCのキャスターが淡々とニュースを読み上げる声が垂れ流される以外には、物音のひとつもしない。しん、と冷たい沈黙が部屋を満たす。
流石にくだらなすぎて何も言えないのか、となんだか恥ずかしくなってきた頃、急に、ごとり、と硬い音が足元から響いたものだから、俺は思わずびくりと身体を硬直させた。そちらに目をやると、俺と先輩の足の間に、白いかたまりが落ちているのが見える。
「先輩?」
それは、永至先輩がソファに座りながら飲んでいたコーヒーのマグカップだった。すでに中身は残っていない。軽くて丈夫な素材で出来たカップは、落ちた衝撃で砕けてコーヒーや白い破片をぶちまけることこそしなかったものの、僅かに視界に入った先輩の手が震えていたことに、俺は思わず「え」と声を上げてしまう。

「僕の……」

ようやく聞こえた彼の声は、今にも消えてしまいそうなほどに細く、そしてかすかに震えていた。

「僕の、何がいけなかったのかな……」

いつも自信たっぷりの彼の口からは聞いたこともないような、弱々しい言葉だ。もはや、別人のものかと疑ってしまうほどに。やがて、肩にゆっくりとしなだれかかってきた永至先輩の手が、縋りつくように俺の服をぎゅっと掴んでみせたものだから、俺は瞠目してしまう。え、ちょっと、なんだこれ。ふわふわの茶髪がゆるりと頬を擽ったが、品の良いシャンプーの香りの心地よさにうっとりしている場合ではない。
「あの先輩、今日、エイプリルフール……」
わかっててやってるんだよね? という確認の意味を込めて、俺はリビングにの壁にかけてあるカレンダーを指さした。四月一日の日付に、ご丁寧に赤で印字された「エイプリルフール」。一年のうち今日だけは、嘘を吐いても許される日。しかし先輩はそちらには目もくれずに、まるでわがままを言うこどものように首を振って、
「そんなの知っているよ。だけど、それが何だって言うんだ」
「え……?」
服を握る力が、ぐっと強まった。 

「君はそうやって平気で嘘を吐いたけど、その嘘から生まれた僕の感情は紛れもない本物だ。今、別れようと言われて、僕は確かに悲しいと感じたよ」

それは俺を責めるでもなく、呪うでもなく、ただ刺すような悲しみだけを訴える掠れた声だった。俺の肩に体重を預けたままの先輩の顔色をうかがうことはまだできなかったが、やがて彼の言葉に湿った涙の色が混ざり始めたのを感じて、俺の背中を冷たい汗が伝う。え、これは、もしかしてやばいやつか。

「今日が四月一日だなんて、そんなの最初から分かっていたよ。でも、いくら嘘が許される日だからって、君は僕の気持ちも考えずよりにもよってそんな嘘を吐くのかと、より悲しく感じたんだ。君はそれに責任を取れるのか? 取れないだろうね、軽々しくそんな嘘を吐くのだから。なら僕は、せめて君の吐いた嘘を本当にしてあげようと思う。……ここでお別れだ」

そう言い残して、先輩は俺からぱっと離れ、ソファから立ち上がった。いつの間にかニュースの時間は終わってしまったようで、テレビには視聴者が投稿したという桜の名所の写真が延々と映し出されている。
床に転がったマグカップを拾おうともせず、いや、もはやその存在すら忘れてしまったのだろうか。どこかふらふらとおぼつかない足取りで、先輩はリビングのドアに向かっていく。本当に、出会ってから今までに一度たりとも目にしたこともないような弱りきった後ろ姿に、冷静な判断力をゴリゴリと削られていく感覚。気づくと俺は、何を言えばいいかも分からぬまま彼を追うようにソファから腰を浮かして、背中に向かって手を伸ばしていた。

「あ、あのっ」
「……」
「……」
「……」
「……まっ……」

待って、と俺が声を上げようとした瞬間だ。悲しみの色どころか、おおよそ感情というものを1㎜も感じさせない能面じみた無表情が、突然こちらをくるりと振り向いたので、俺は思わず面食らってしまった。ひっ、と、喉の奥から、引き攣った声のような音のような何かが漏れるのを聞いて、先輩の唇だけがゆるやかな三日月の形に歪む。



「……という嘘を吐いてみたんだが、どうだった、感想は」



「……」
「……」
「……」
「感想は」
「あの、あの、これ、即興?」
「ああ」
「……えっと、すみません、ガチすぎてちょっと引きました……」
「それは結構。俳優でも目指そうかな」
「が、がんばってください」
「冗談だ」

思わず敬語になってしまう。たっぷりの沈黙の後に促された俺が述べた素直な感想に満足したのか、先輩はさっきまでの儚さが信じられないほどしっかりとした足取りでソファまで戻ってきた。俺は詰めていた息をゆっくりと吐き出して、へろへろとソファに腰を下ろす。一拍置いて、掌にはこれまた冷たい嫌な汗がどっと滲む。そんな俺の頭を掌でよしよしとひと撫でしてから、先輩は屈んで床のマグカップを拾い上げた。こうやって、俺を滅茶苦茶に打ちのめしてから少しの間だけはやさしいのだ、この人は。ただ機嫌が良いだけとも言うが。
「なんかもう、うわー騙されたーとかじゃなくてもう、あの、ごめん、引いた……」
「どうも。しかし演技はともかく、嘘の質だけでいうなら君のほうが一枚上手だったな。正直、笑いを堪えるので精一杯だった」
「……?」
まさか、声が震えていたのはそのせいか? ぐったりとソファの背もたれに体重を預けながら怪訝な視線を送る俺に、先輩はいつもの完璧な笑みを作ってみせた。
「わからない? 『別れよう』なんて、そもそも付き合ってる相手にしか言えない言葉じゃないか」

それはそれはおだやかな、いっそ人当たりの良すぎる顔で、彼はふふっと上品に笑って、




「僕らがコイビトの設定だなんて、笑えるジョークにもほどがあるよね」


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