Caligula
creepy(主+鍵)後編
2018/03/30 14:49他∞
→前編
念のために9時からシーパラ入口の看板の陰に潜んでいたのだが、部長が現れたのは約束の9時半ぴったりだったのでなんだか損をした気分になってしまった。相も変わらず、宮比市の天気は今日も晴れ。さんさんと降り注ぐ陽射しに目を細めながら、鍵介はゲートのあたりに視線を送る。駅前とシーパラ前をつなぐ直通バスからラフなパーカー姿で降りてきた部長は、ゲート付近に立っていた小柄な女性に向かって手を振り、親しげに声をかけている。ただでさえあたりがカップルたちでごった返している土曜の朝、既にげんなりした気持ちで看板の陰から顔を覗かせた鍵介は、しかしあることに気がついて大きく目を見開いた。
「…………誰だ、あれ?」
てっきり、部長の待ち合わせの相手はあの赤毛の先輩だと思い込んでいたのだが。部長が駆け寄ったのは鍵介よりも小柄で、黒髪を肩の辺りで短く切りそろえた女性だった。偶然出会った知り合い(と言っても、彼の“知り合い”なんて何百人単位でいるのだろうけど)と話しているだけかと思いきや、そのまま二人してチケットの窓口へと向かって行くのだから、もはやショートヘアの彼女が部長の待ち合わせの、そして部室での電話の相手であったことは間違いない。俺が出すよ、そんなの悪いよ、多分そんな会話をしながら、部長が財布を開いている。
「……」
もう、ここまで来てしまったのだ。鍵介は、部長たちの後を追うことに決めた。
***
「よいしょ、っと……うわっ」
水槽の中のカニを見ていた背の高い男の脇をすり抜けた途端、すぐ先にいた別の人影とぶつかってしまった。「す、すみませ、」言いかけて、その人物がモヤモヤとしたノイズを纏ったNPCだということに気がつく。男なのか女なのかもよくわからないそれが軽めの会釈をしてからどこかに歩いて行ってしまうのを、鍵介はずれた眼鏡をかけ直しながら見ていた。
「ったく、混んでるなあ、もう……」
そう独り言ちた鍵介の声を気に留める者など、誰もいない。入口の混雑具合である程度の予想はできていたものの、やはり休日のシーパラの水族館内は呆れてしまうほどの人でごった返していた。照明を控えめに落とされた薄暗い空間では後ろ姿を人の群れの中で見失ってしまうリスクはあるが、ガラガラの館内で物陰に身を隠しながら部長たちの後をこそこそ追うことになるよりはマシだ。この時ばかりは、自分が鼓太郞や永至のような、人混みから頭ひとつ抜けてしまう180センチオーバーの長身の持ち主でなくてよかった、などと鍵介はしみじみ思う。
やがて、開けた通路に出る。左右だけでなく鍵介の頭上でも、色とりどりの魚が広々とした水槽の中で身を躍らせていた。しかし、思わず目を奪われてしまいそうな海底トンネルを模した展示にもろくに目をくれずに、部長たちは歩き続けていた。たまにひと言ふた言と会話は交わしているようだが、淡々と目的地に向かって足を動かす様子はどう見ても、休日のカップルのデートなどとは到底呼べるものではない。彼らからつかず離れずの距離を保ち、鍵介は人混みの中を進む。すっかり慣れた道なのか、部長は入口で渡された案内のパンフレットをたったの一度も開くことをせず、丸めてリュックのサイドポケットに突っ込んでしまっていた。
トンネルを抜けてたどり着いたのは、淡水魚エリアと銘打たれた大きなフロアだった。身を隠せるような展示物の少ない開けた場所なので、鍵介は通路の出口あたりで立ち止まり、(カップルに睨まれた、すごくつらい)部長たちの様子を窺った。二人はやはり迷いなく、いくつかある階段のうちひとつに向かい、地下の展示フロアへ降りていったようだ。
「クラゲ……」
二人が降りていった階段のすぐそばの案内プレートには、「クラゲの世界」と書かれている。空調が効きすぎているのだろうか、流れてくる空気のひんやりとした冷たさが徐々に強まってくる気がする階段を、鍵介は一歩ずつ降りていく。
***
その先で見たことを、鍵介は途切れ途切れにしか記憶していない。上の混雑具合と比べるとやけに人が少ないフロアだったのは、きっとひどく寒かったからだと思う。幻想的なライトアップが施された水槽で、クラゲが漂っていた。部長とショートヘアの彼女が曲がった角の先にあるものをパンフレットで確認すると、そこは行き止まりだった。クラゲが漂っていた。曲がり角の先から声が聞こえた。片方はひどく淡々としている、まるでこのフロアの空気のような声、もう片方は僅かな怒気を孕んだ声、女の人の声が、ふたつ。何を言っているかはよく聞き取れなかったが、片方の声は次第に口論をするような激しいものに変わっていった。震えながら「忘れたくない」と乞う声は、やがて「嫌!」と、一際大きな、悲鳴じみた声になった。クラゲが漂っていた。ただならぬ気配を感じた鍵介が慌てて曲がり角の先に飛び込むと、そこはやはり行き止まりで、部長と黒髪の彼女と、もう一人、制服姿の見知らぬ少女がいた。クラゲが漂っていた。三人とも、まるでそこでは何も起こっていなかったかのような何食わぬ表情で、突然の闖入者である鍵介のことを見つめていた。クラゲが漂っていた。クラゲが漂っていた。クラゲが漂っていた。
クラゲが漂っていた。
どうやって家まで帰ったかは、よく覚えていない。ただ、鍵介の個人WIRE宛てに部長から「話があるんだけど、月曜の朝、部室に来られる?」とメッセージが入っていたことが、恐らくあれは夢ではなかったと鍵介に知らしめる。こんなにも月曜日が憂鬱なのは学生時代以来―――いや、今も学生か。日曜日は丸一日、ベッドの中で眠って過ごした。それでもやってくる宮比市の朝、降り注ぐ陽射しは誰にだって平等で、少し吐き気がした。
***
「ねえ、鍵介は、人間の本質って何だと思う?」
さほど広くもない部室の中をぐるぐると歩き回りながら、部長は問う。月曜の午前7時半、部室に呼び出した後輩への朝の挨拶にしては、些か哲学的に過ぎる問いかけだと鍵介は思う。やがて、彼の口調が普段とは少し違うものだということに、鍵介のぼんやりと働かない頭は少し遅れて気がつき、そして面食らった。
「えーと、人間……」
「そう、それだよ、まさにそれ」
「?」
軽く頭を押さえた鍵介の言葉を遮るように、部長は言う。ぱちぱちと瞬きをする鍵介の顔を、長い前髪から覗く鋭い瞳がじっと見つめている。
「考えることだよね。人間は自分の頭で考えることで何かを好きになるけど、逆に憎むことだってするし、ひどく怖れたりもする。更にそれが争いを生んだり……さて」
前置きはここまでとでも言いたげに、部長は歩き回る足を止めてどかりとソファに腰を下ろした 鍵介も、彼に促されるままパイプ椅子に座る。
「君が何を聞きたいかはだいたい分かってるよ。クラゲのエリアにいたもう一人の女の子は誰なのか、とか、そもそも俺たちが水族館に何をしに行ったのか、とか」
まずはひとつめ。部長は長くて白い指を、ぴんと一本立てて見せる。
「簡単に言うと、彼らは人間の自我を乗っ取る精神集合体なんだよ」
「……は?」
鍵介の口から飛び出した間抜けな声は、しんと静まりかえった早朝の部室に思っていたよりもよく響いた。こほん、とひとつ咳払いをする。せいしんしゅうごうたい。突然彼の口から飛び出したSFチックな単語は、もはや脳が理解を拒んでいるのでとりあえず放っておくことにした。しかし、記憶が曖昧なところこそあるが、部長たち以外であそこに立っていたのは一人の制服姿の女子生徒だったはずだ。部長がそれを「彼ら」と表現してみせたことに、鍵介は眉を顰める。
「僕にはひとりに見えたんですけど、他にもいるってことですか」
「ある意味ひとりだけど、ある意味ひとりではないんだ。便宜上ああいう姿を取っているだけ」
「意味がわかりません」
「ふふ」
くすくすと笑われた。なんだか嫌な気分。
「乗っ取り……幽体離脱、みたいな?」
「うーん、それも違う。乗っ取られた側は抜け殻みたいになってしまうわけではない」
話の意図すら掴めぬまま、それでも今まさに自分たちが当事者となっている病の名を挙げて問うと、部長はまたもやゆるく笑んで首を振った。その笑顔は的外れな回答や無理解を嘲笑うものではなく、ただひたすらにおだやかだったことが、かえって気味の悪さを助長した。
「そこが彼らの素晴らしいところであって……なんて説明したらいいんだろう……ああ、鍵介はゲームをやる?」
「はあ、まあ一応」
スマホのゲームくらいなら。軽く頷いて見せると、部長はゆっくりと脚を組む。年季の入った革張りのソファが、きしりと音を立てた。
「彼らはキャッシュされた記憶を読み込むことで、完全にその人格を模倣して行動することができるらしい。話の内容も、動作の癖も、食べ物の好き嫌いも。つまり、ゲームのセーブデータをまるまる引き継いじゃうってことだね。自我のことを、プレイヤーと言い換えるとしよう。セーブデータもコピーして、プレイスタイルもそっくりそのまま真似できるんだけど、プレイヤーだけがこっそり入れ替わってる感じと思ってくれればいい。それが彼らの行う、自我の乗っ取り」
と、少しの間を置いて、
「わかった? 」
「人間、じゃないんですか?」
鍵介の問いに、部長は頷く。
「うん。催眠術とかマインドコントロールなんかの特殊技能を持つ人間だ、とかいう話じゃなくて、彼らはそういう生き物なんだ。……それで」
二本目の指が立った。嫌な予感がする。鍵介は汗をかいた掌をぎゅっと握りしめた。
「何をしていたかというと、まあお察しの通りだけど、俺はあの子をあそこに連れて行って、彼女の自我を彼らに乗っ取らせた」
「な」
鍵介は思わず、椅子から立ち上がった。まるで「散歩をした」だの「読書をしていた」だのと、休みの間の退屈な出来事を報告しているかのような、ひどく淡々とした口ぶり。靴裏が脚に当たり、古いパイプ椅子が悲鳴のような軋みを上げる。
「なんですか、それ」
「なんですかって、そんなの簡単な話だ」鍵介の言葉を復唱し、ふふっと笑って、「楽になってもらうため」
部長はそう、けろりとした表情で言ってのけた。
「頭に響く変な声、あれは “選ばれた” 証らしいんだよね。誰かの意識が流れ込んでくる。自他の境界がなくなる感じがする。それはひとつになりたいと願う声なんだって。水の音が聞こえるのも、あそこに呼ばれてるから。それがなんなのか分からず苦しんでると打ち明けられたら、助けてあげたいと思うのは当然。俺は人助けが大好きだから。調べて、調べて、ようやく彼らにたどり着いた」
クラゲの漂う空間で聞いた悲鳴を思い出す。ショートヘアの彼女の意識は、もしかして鍵介が叫び声を聞いたあの時に、奪われてしまっていたということだろうか。背中にじわりと汗が浮く。
「本物の、あの人は」
「もういないよ。どこにもね」
「……死んじゃったってことですか」
「死んだと言えば死んだし、死んでないと言えば死んでない。うん、鍵介は難しいことを聞くね」
部長はおもむろに立ち上がると、部室の真ん中に並べられた机へと向かった。そこには、部員みんなでつまむためのお菓子やジュースが雑然と並べられている。その中の大きな袋に手を突っ込んで、
「取り込まれたみんなの見た目は、当然なにも変わらないし……」
彼は、個包装のクッキーをふたつ、手に持って見せた。同じ大きさ、同じ色をしたパッケージに同じ商品名、裏返すとそこには同じ成分表示。きっと、同じ味がするのだろう。そんなことは食べ比べてみるまでもなくわかる。
「友だちと以前と同じような内容の会話をして、同じようなことで笑ってみせることもできる。だから誰にも気づかれない。つまり、本人の自我というものが残されているかいないかは然したる問題ではないんだ。だって、周囲から見ればその連続性は何ひとつ失われていないわけだからね。彼女の意識だけは謎の声から解放されて、残された身体はこれまで通りお友達と楽しくやれるんだ。いいじゃないか」
彼は左右の手でつまんだクッキーをぷらぷらと揺らしていたが、やがて、飽きたように元の袋へと戻してしまった。鍵介は眉を顰める。
「問題じゃない、って……どうでもよくないですよ、そんな。人ひとりの、心ですよ、心がなくなってるんですよ」
「話、聞いてた? 空いた器には、それと全く同じ人格のコピーが収まって、これまでと変わらない生活を送ってるんだよ」
「ちがう、ちがいます、それは、周りから見れば何も変わらないのかもしれないけど、最初の、オリジナルの彼女はもういなくなってしまったんでしょう。だから、」
「それが何?」
ばっさりと刃物を振り下ろされるような口調。首を振る鍵介に、部長はようやく嫌悪に近い表情を浮かべた。まるで簡単な計算を解くことすら出来ない落ちこぼれの生徒に向けるような、侮蔑の視線が鍵介に突き立てられる。
「じゃあ例えば、仮に鍵介が一昨日、既に意識を取られてしまっていたとしよう。しかし彼らによって完全に模倣された鍵介の人格が、前と同じように生意気なことを言ったり、癇癪を起こして喚いたり、あとはなんだ、あんな風にポエムだって読んでくれたりもするのかな? だとすれば俺は、彼らが演じる『それ』を鍵介だと認識し続けるよ。だって、何も変わらないんだもの。……ああ、君が君であることを決めるのって、実は君自身ではないんだよね。そんなもんだよ」
もちろん、これはただの例え話で、君は「取られてない」よ、と部長は続けた。そんなのは当たり前だと鍵介は思った。自分は自分の意志でここにいる。その証明のように、鍵介は無意識のうちに、ぎゅっ、と脚に力を入れていた。
「彼らが与えてくれるのは、誰も悲しませることはない、いいや、死んだことすら誰にも気がつかせない、謂わば最高の安楽死だ。肉体と周囲とのつながりを保ったまま、その意識だけが死ぬ。精神だけが死ぬ。自我だけが死ぬ。心だけが死ぬ。どこにも痛みを残さない安楽死なんだ。この間の先輩も、土曜のあの子も、現実に絶望して落ちたこのハリボテの楽園から、本物の天国に行くための切符を持っていた! だから俺は、彼女たちがそこに行くための手助けをしてあげただけ」
薄らと紅潮する頬に恍惚を乗せて語る姿に、目眩を感じる。鍵介がふらりと寄り掛かった弾みで机が揺れて、さきほどのクッキーが、袋からばらばらと床にこぼれ落ちた。
「……この前の、先輩も……」
「同じだよ。あの日昇降口で鍵介と別れたあと、すぐあそこに連れていった」
「……」
雑踏の中、不安そうにこちらを振り向いた姿が、鍵介が最後に見た「オリジナル」の彼女になるのか。次の日に教室で目にした彼女の自然な、自然すぎる笑顔を思い出すと、吐き気がした。
「あの人だって、もしかしたら現実に帰ろうと思えたかもしれないのに」
「……かもね。でも彼女は今、苦しんでいて、そして俺は今、救う手段を持っていた。なら、やることはひとつだろう。早ければ早いほうがいいんだ。すぐできるなら、すぐ楽にしてやったほうがいいに決まってるじゃないか」
「あの子も、髪の短いあの子も、先輩のこと、忘れたく、ないって……」
すると部長は、驚いたように目を丸くして、
「何だ、そんなとこから聞いてたのか……そうだね、俺はけっこう好かれていたようだ。流石に心が痛んだけど、まあ……」
制服のポケットから取り出したスマホを、鍵介の前に差し出してみせた。個人WIREの画面には、女性ユーザーと部長の親しげなやりとりが映し出されている。
「別にいいでしょう。きっとその好意だって、対人関係における資料のひとつとして、しっかり引き継いでもらってるんだから。あのあと、帰ったらさっそく連絡がきたよ。『また遊ぼうね』って」
「……あなたは……」
がたがたと脚が震える。思わず床にがくりと膝をついた鍵介を、無感情なふたつの灰の瞳が見下ろしていた。何の変哲もない、宮比市の豊かで満たされた朝、今この瞬間、この世界の何よりも度し難く、誰よりもおぞましい生き物と、鍵介はひとりきりで対峙していたのだ。