Caligula
バカみたいって笑ってくれよ(主笙)
2018/03/25 18:49主笙現実
金曜の午後九時、「ついさっきようやく家に帰ってきた」とスマホから垂れ流される声は不機嫌だ。週の真ん中、水曜日に納期の連絡ミスが発覚し、今の今まで連日の残業に追われていたらしい。
「ねーほんと意味わかんないっしょ? まあ来週の作業でなんとか間に合いそうなところまでは終わらせてきたけどさ? そんなんギリギリで言われて、俺らがどれだけ苦労したかっつー話だわ……っすよ、ですよ」
「だからそれ、敬語。あんまり気にすんなって言ってんだろ」
「んー? うーん……でもいくら笙悟が許してくれても、そういうわけには……」
少し間を置き、「いかないんだよなあ……」と言いかけて、電話口でもわかる慌てた様子で「いかないんですよ」と訂正した彼は今年の四月から会社勤めの社会人で、十歳近く年上である笙悟に対しても敬語を使おうとするようになった―――と言っても、ところどころ混ざるタメ口の割合が増え始め、途中で諦めてしまうことがほとんどだが。どこまで保つか試すのも、笙悟の密かな楽しみだったりする。
「間違えちゃうと困るんで、ほんとに」
曰く、「先輩とか上司相手にも笙悟と話すノリでうっかりタメ口利いちゃうとヤバいから」らしい。なんとも単純で、しかし切実な問題だ。高校生の姿でメビウスにいた頃はろくに考えてもいなかった歳の差を、彼は今さらじわりじわりと意識し始めたようだ。それが社会人として正しいことくらいはわかるが、自分にとって歓迎できることか、と聞かれたら、おそらく笙悟は言葉を詰まらせてしまうのだろう。
有り体に言ってしまえば、この感情は。
「別にいいじゃねえか、誰も聞いてねえ電話でくらい好きにしちまえば」
「だーかーらー、そういう油断がダメなんだっ……ですっ、てば……」
「ふふ、カタコトだな」
「笑うなよ……あーもうやめよ、ふつうに話すわ。いつもこうだなー、ダメだ」
「まあ俺にとっちゃ、こっちのほうが自然でいいけどな」
月に一、二度、近況報告、という名目の軽口と愚痴の電話をかけてくるかつての帰宅部部長の声は、あの頃と変わらないのに。なんだか遠い存在になってしまった気がする。笙悟はスマホの画面をタップして、特に意味もないと分かっていながら通話の音量レベルをひとつ上げてみた。彼との距離感は、何も変わらなかった。
「今さらなんだけどさ」
「何だ」
「笙悟はやさしいね」
「? ……どういうことだ?」
「普通にタメ口とか、俺が友だちみたいなノリで接してもぜんぜん怒らなかった。もし今、会社の先輩にオーッスなんて言いながら肩バンッて叩いたりしたらどうなるか、考えただけでぞっとする……」
「……それは……」
それは、ただ偶然先に生まれて、怠惰に歳を取ってしまっただけの空っぽのオトナを、お前が敬う必要なんて何処にもなかったからだ。……なんて、ひどく卑屈に聞こえてしまうこと(ただ歳を食ってる、というのは紛れもなく事実なのだけど)を言ったら、きっと電話の向こうの彼を困らせてしまう。しばらく考えてから、「俺は心が広いからな」と笑って誤魔化せば、電話口から「はは」と明るい声。
「仮にも部長だったからな、お前が来るまでは」
「ああ、確かに」
「ま、気をつけることは気をつけて、気ィ抜ける時は存分に抜いとけ。やっと休みだろ、明日」
「うん。ありがと、元気出た。やっぱり何でも話せる人がいるっていいね。笙悟も、なんかあったら言うんだよ」
「ん? そうだな、お前に余裕がありそうな時には、相談に乗ってもらうかな。……まあなんだ、とりあえず早めにメシ食って寝ろよ」
「うーい。またねー」
どこか気の抜けた声を最後に、通話が途切れる。スマホのディスプレイに表示されている彼の電話番号を、未だに「部長」として登録したままなのを知ったら、あいつはどんな顔をするだろう。笙悟はため息をついて、窓の外、雲の厚くなり始めた空を眺める。理想郷ではないこの世界では、今日の深夜から明日の朝方にかけて、激しい雨が降るらしい。
「……なんでも言えよ、か」
有り体に言ってしまえば、この感情は。なんかちょっとだけ、寂しい気がするな、なんて。慣れない敬語を使い始めたお前に、まるで冗談のように零すことすらできない俺を、どうかバカみたいって笑ってくれよ。