Caligula
アイデンティティは病欠です(主鍵)
2018/03/13 14:52主鍵∞
「ひゃあっ! なっ、何してんのYOU!?」
がたんっ、と大きな音をたてて誰の物かも知らない机が引っくり返るのを、僕は廊下からぼんやりと眺めていた。校舎の探索を済ませて今日の部活動を終えた後、ふらりと吸い込まれるように立ち入った教室の扉からいちばん近くにあった机の脚を、部長がめちゃくちゃな力で蹴りつけたのだ。彼の制服の中に潜んでいた「彼女」は、突然の振動と耳を叩くような(バーチャドールの聴覚というものに対して、耳というのは正しい表現なのだろうか?)激しい音に、さぞかし驚いたことだろう。甲高い悲鳴をあげた光の塊のようなものが、部長のポケットから飛び出していくのが見えた。無残にひっくり返った机の中身、教室の床にばらばらと散らばる教科書やノートは死んだ虫が腹を踏まれてアスファルトにだらしなく撒き散らした臓物に似ている。
飾り気のない紙の束の群れの中に、ティーン向け女性ファッション誌のポップな表紙がぽつりと一冊混ざっているのがなんとも空虚だ。この机の主の本当の姿はもしかしたらまだ10にも満たない子どもかもしれないし、しわしわのおばあちゃんかもしれないし、或いは男性であるかもしれない。この世界の間違い探しはいつだって、簡単なようでいて難解だ。
わかりやすい苛立ちを滲ませた部長の靴の底が、床に落ちた雑誌を強く踏み躙る。表紙の中、笑顔でポーズを決めている読者モデルか何と思しき女の子の顔が、ぎゅうと歪んで皺だらけになった。部室前で別れを告げた部員たちもとっくに全員家路につき、すっかり日も暮れた放課後の校舎に残っている生徒はもういないらしい。大きな音に気づき教室に駆け寄ってくるような誰かの足音も聞こえてこなくて、ただ部長が大きく肩で息をする音だけが辺りを満たしていた。僕が本当の高校生だった頃、授業中に突然喘息の発作か何かで倒れたクラスメイトが、こんなふうに苦しそうに息をしていたのを思い出す。
「アリア、こっちにおいで。大丈夫」
「……でも……」
「心配しないで」
名前を呼ぶと、光球は戸惑うように僕と部長の間をふらふら揺れた。薄暗くなりかけた教室の中で漂う彼女はまるで蛍のように見えるだなんて、おおよそ場違いな感慨を抱く。
「大丈夫だから」
これは、決して言葉だけの強がりではない。本当に怖いと思ってなどいなかった。ああいった子どもじみた癇癪は、僕にとって身に覚えがあるものだ。それこそ、胸の辺りが苦しくなってしまうほどには。やがて「うん……」と元気のない返事をしたアリアはふわりと浮かんで、僕の頭の上にすとんと着地した。……あ、そこに乗るんだ?
「どうしたんですか、先輩」
「現実に帰っても、僕のこと待ってる人なんていないよ……」
「怖くなっちゃったんですか?」
「……悪いかよ」
「いいえ」
僕もまた教室に足を踏み入れながら尋ねると、部長は渋々といったように答えた。彼の瞳にじわりと涙が浮かんでいることには気がつかない振りをしながら、倒れた机を元に戻した。それからしゃがみ込んで、床にぶちまけられた机の中身を手に取る。数学のノート、参考書、プリントが挟まったクリアファイル、分厚い問題集、
「そもそも、僕がこうしてメビウスで一年も生きてられることが不思議なんだ。本当は、僕もう死んでるんじゃないか? 倒れてるの見つけて、それから病院なんかの手続きをしてくれた人なんて、本当にいるんだろうか」
「死んでる人なんて、メビウスにはいないよ。周りが気づいて助けてくれたに決まってるじゃん。気づかないだけで、YOUを大事に思ってくれる人は必ずいるんだよ」
「信じられないな……」
アリアの言葉に、しかし部長は否定の意味を込めて首を振る。そんなんじゃだめなんだよ、真面目で素敵なバーチャドールさん。まっすぐでやさしい正論だけで救われるような人間は、そもそもメビウスなんかには来ないんだ。現国の教科書、ノート、ノート、折りたたまれた小テストの用紙、拾い集めた物を重ねて、床でとんとん、と整えた。ぐちゃぐちゃになってしまった雑誌は、まあ、ごめんなさいということで。教科書やら何やらのちょうど真ん中あたりに挟みこんで、机の中にしまう。これで、とりあえずは元通りだ。もし気にくわないようだったら、μにもらったお小遣いで新しいのを買ってくれと思った。
「雇ってたバイトが無断欠勤の上に不審死してましたとか、自分の住んでるアパートで変死体が見つかりましたとか、そんなの誰だって嫌だろ。純粋な善意じゃないよ。僕に身寄りがないことなんて、少し調べればすぐわかることだ。迷惑だとか、面倒ごと起こしやがってとか、絶対思われてる。そうに決まってる」
ぼんやりと立ち尽くしている部長の瞳は、ただ「さみしい」という、純粋で、それゆえに深く深く根を張ってしまう感情に満ちていた。そんなことはないですよと、そんな無責任な言葉を使って無理矢理引き抜こうとしたら、きっと地中に張り巡らされた根っこが周りの土まで巻き込んでいくように、彼の心はズタズタになっていくのだろう。
さて、すっかり困ってしまったのだろうか、アリアは「あう……」と口ごもったのを最後に黙り込んでいる。やがて助けを求めるようにつむじのあたりの髪をつん、と引っぱられた。ちょっと痛い。待ってて今言うから。
「……確かに、そうかもしれないので、現実に帰ったら僕が先輩の居場所になりますよ。まあ僕は僕で立て直さなきゃならない自分の生活ってやつがあるので、迎えにいくまで時間はかかっちゃうかも知れないですけど」
部長のことを見上げながら、そう告げた。誰かの助けになりたいと心から願った時、言葉というのは小川の水がさらさらと流れるように、案外自然に溢れてくるものだ。部長は戸惑うように視線を泳がせ、やがてぽつりとひとりごとのように言葉を零した。
「…………証拠、見せてよ」
「証拠? 証拠ですか、うーん……困ったな、今日のところはこれで許してもらえませんか」
僕は踵をぐっと持ち上げて、背伸びをして部長の唇に自分のそれを押しつけた。唇を軽く触れあわせるだけの、まるで子どもの戯れのような。頭に小さな歌う妖精を乗せたままするキスはなんだか間抜けなファンシーさがあって、でもまだまだ大人になりきれない僕たちにはちょうどいい気がする。頭の上のアリアがはっと息を呑む気配がして、僕は思わず笑ってしまう。女性陣の恋愛トークや初恋の話なんかには興味津々で、そもそもドールPたちの作ったラブソングだって、きっとそれなりに歌ってきたはずなのに。マセているのかと思えば案外そうでもない、所謂耳年増な従姉妹の女の子のようで面白い。上を向いた僕の頭から転がり落ちないように髪を一房握りしめているのが、地味にめちゃくちゃ痛いんだけども。
少し経って唇を離すと、部長は赤らんだ顔で僕のことを見ていた。
「……あのさ、鍵介ってそういう子だったの?」
「や、そういうつもりはなかったはずなんですけど……気づいたらキスしてまして。先輩ならいいかなーって」
「なんか期待してたのなら申し訳ないけど、僕現実に帰っても女の子じゃないよ」
「安心してください、僕だって男の子です」
「…………はあ」
「……どーしよ、ねえねえこれってアタシ空気読んでどっか行ったほうがいいの?」
「いや、いい。もう帰るだけだし……ごめんね、急にぐずぐずして。鍵介も机直してくれてありがとう。行こ」
ん、と差し出された部長の手を握ると、ぎゅっと握り返されたので、まあそういうことなんだろうなと思いながら手を引かれて廊下を歩いた。ふと横を見ると、いつのまにか僕の頭から降りていたアリアが「やるじゃーん」みたいな顔をしながらふわりと飛んで、部長のポケットの中に消えていくところだった。