Caligula

愛だなんてそんな(主人公とソーン)

2018/03/11 14:24
主+ソーン

「己が善性にひと握りの間違いが混ざっているかもしれないと疑うことすら知らない、ただ本当に、雪のようにまっさらな善でいることができたなら。そうすれば、きっと息をすることが苦しいはずがないんだ」
「……それは善と呼べるのかしら」
「実際、周りから見て善であるかどうかなんてわりとどうでもいいんだ。自分自身を疑わないことが、いちばん大事」
「あなた、意外と面白いことを言うわ」

面白い。と、言うわりにその怜悧な表情はぴくりとも動かないのだから、なんだかつい気の抜けた笑いを漏らしてしまう。だが彼女はそういうものだ。その長い前髪に隠れた相貌が歪むのは、ただひとりの男に対して突き刺すような剥き出しの敵意を向ける時くらいのもの。彼女が「獲物」と称する男の名を口にする時の低く苦々しい声音は、まさしく捕食者を名乗る者のそれである。小柄で物静かな印象の少女の瞳の赤は煮え滾る血の色だと否が応でも認識させられる瞬間を、俺はそれほど嫌いではない。甘い砂糖をまぶして見た目を整えただけ、現実から地続きになっているもうひとつの地獄の住人なんてものは、やはりケダモノで、それを裏で束ねるリーダーはバケモノじみていなければ駄目だ。俺はソーンという名の少女の横顔をじっと眺めていた。

「おっ、と……」

不意に強い風に煽られ、一歩よろめく。制服のブレザーの裾が、ばたばたとはためいた。剥き出しの首周りを通り抜ける空気を少し肌寒く感じて、俺はいつもルーズに緩めてあるシャツのボタンをひとつ閉めた。常におだやかな気候を保つメビウスと言えども、地上数十階のビルに吹きつける風は強いのだ。夕暮れ時に差し掛かった屋上は薄昏く、うっかりすると落ちてしまいそうである。

「でも、残念。それはここではμだけが持つ特権なの。あなたはそうはなれないし、そんなことを考える必要もなければ、大した意味すらないわ」

投げかけられた言葉は、彼女の表情以上に冷たい。しかしその冷たさこそが、楽士としての彼女の正しさを何よりもはっきりと証明していた。俺たちは、欲望のままに生きることを許され、欲望を駆り立てるための音を生み出すことを命ぜられた存在だ。自らの行いに善だの悪だのとくだらない線引きをして言葉遊びをする暇があるのなら、それをひとつでも多くの音に歌詞として乗せろという話だ。

「まあ確かに、そりゃそうだな。わかってる。……わかってるよ……」

それぞれの持つ事情は重たいものの、基本的には緊張感が張り詰めすぎない程度にゆるい空気を保つ帰宅部と比べると、我らが楽士のリーダー様は思った以上に手厳しい。ふ、と小さくため息をつけば、こつこつと靴底を鳴らして歩き出すソーンの姿が見えた。

「…………おい、あんまり隅のほうには行くな。風が強いから、落ちるぞ」
「ええ」

淡々とした返事に反して、黒いタイツに包まれたほっそりとした脚は歩みを止めない。風にはためくスカートを押さえながら、歩く。進む。強い風が吹き、長い黒髪がふわりと巻き上げられると立ち止まる。そしてまた、歩く。それは夢遊病を患う少女にも、無邪気な自殺志願者にも見える。願いの叶う空想の楽園に於いても、リアルとフィクションの境界なんてものは案外曖昧なのだ。
やがて、ソーンは屋上の淵へ静かに腰かけた。まるでそこは誰にも犯せぬ聖域であるような気がして、俺は近寄ることもできず、ただ夕焼けを背に絵画じみた静謐と狂気を纏う少女のことを見ていた。

「でも、そうね。善だとか悪だとか、正しいとか間違ってるとか……そんな概念なんて、どこか遠くへ、見えなくなるほど遠くへ追いやってくれるものは、確かにある」
「なんだそれ。危ないクスリとかそういう話?」
「……やっぱりあなた、意外とつまらないことを言うわ。そう思うのならそう思っていればいい」

きっと、あなたには一生手に入らないものでしょうから。そう言ってソーンは、タワーの真下を眺めていた。すっかり日が暮れて、俺が「帰るか」と声をかけるまで、彼女はタワーの真下を、ずっとずっと眺めていた。

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