君を幸せにすること

 
3.



「おはよう杉原さん……お願いがあるんすよ」
「あ? なんだよ急に気持ち悪いな、おはよう」

次の日、登校した杉原が席についた途端、妙に改まった様子の宮田がくるりとこちらを振り向いた。リュックを下ろして机のフックにかけながら、宮田が手に持っている何かの冊子をのぞき込む。彼の自宅学習の頻度をなんとなく察することができる、新品同様の数学の問題集だった。
宮田は、顔の前で勢いよく両手を合わせて、

「数学の小テスト、20点はカタいとこにヤマ張ってほしい」
「ハードル低すぎないか?」

まったく、神妙な面持ちで何を言うのだろうと思ったら。宮田の手からとりあえずテキストを受け取って、パラパラと捲ってみる。そういえば二限の数学は小テストだったことを、杉原はすっかり失念していた。何せ、昨日は色々あったので。色々。

「なんで英語はいい加減なくせに数学は勉強するんだ?」

昨日の英単語テスト、彼の屍のような背中を思い出しながら問いかけると、彼は「だって梨花ちゃん先生かわいいだろ」と胸を張ってみせた。動機は極めて不純だが、まあ一応テスト勉強に励もうとする気持ちがあるのはいいこと、なのだろうか。
ちなみに彼の言う梨花ちゃん先生とは、今年から赴任してきた若い数学教諭の女性のことである。確かに目がぱっちりしていて、顔立ちはわりと整っていると杉原は思う。嘘のような美形(男だが)と長年付き合っているせいで自分の美的感覚が世間一般の平均とかけ離れてしまっていないか、杉原は密かに心配しているのだが、宮田以外の男子生徒からも彼女をかわいいと評する声はちらほら聞くので、まだ大丈夫だ。多分これで基準が「東雲と比べてかわいくない」とか「東雲と似てるからかわいい」になり始めたらアウトなのだと思う。

「とは言っても、数学は日頃の理解の積み重ねだからな……。英語とかの暗記科目と違って、短時間で詰め込んで手っ取り早く点を取るのって意外と難しいんだ」
「そこをなんとか。つーか梨花ちゃん先生はおいといても成績がやばいの、普通に」
「だろうな、知ってるよ、うん」

神妙に頷いて、杉原はペンケースから出した半透明のふせんをぺたぺたとテキストに貼り付けていく。所詮は理解度確認の小テスト、基礎問題が6、応用が3、少しレベルの高い発展問題が1くらいの割合での設問だろう。よくも悪くも真面目なのだ、あの教師は。特に基本的な例題の多いページに色分けした付箋を貼り、同じ色の蛍光マーカーで、使用する公式に線を引く。それから「無理そうだったら飛ばしていいからな」と念を押して、基礎を固めて余裕ができれば手が出せそうな応用問題にも2、3ほどチェックを入れておいた。ものの数分で、テスト対策テキストのできあがりだ。
「20点の保証はしないが、まあ気休め程度にはなるだろ」
淡白な言葉とともに手元に返されたテキストを、宮田は「ありがとうありがとう」とまさに拝み倒す勢いで受け取る。パラパラとページを捲る合間に「付箋とマーカーが入ってると、それだけで頭良くなった気がするよな!」なんていう言葉が聞こえてきた気がするが、やっぱこいつバカだな。

「……たいしたことはしてないよ」
「ううん、俺にとっては大助かりだし。杉原、話してみるとけっこういい奴」
「お前さあ……」

―――全部知っても、それでも俺のこと、いい奴だって言えるのか? 杉原は思うが、

「伊織、おはよ」
「……、よう」
「これ返すね。ありがとう」

それは、言葉として口から出ることはなかった。背の高い人影が、いつの間にか杉原の机のすぐ脇まで来ていたからだ。穏やかな笑みを口の端に湛えた男子生徒―――東雲は、手に提げていた紙袋を杉原に渡す。
「……どういたしまして」
中身は、昨日杉原が貸し出して、ろくでもない使い方をされたジャージだ。杉原家のものではない、しかし二番目くらいに嗅ぎ慣れている東雲家の洗剤のにおいがふんわりと漂い、杉原を朝からげんなりとした気分にさせる。いくらしっかり洗ったと言えど、身につけたまま自分を慰めた服を、よくもこう堂々と、公衆の面前で本人に手渡すような真似ができるなと思う。しかしどうしようもない淫蕩を器用に覆い隠した東雲は今日もどこまでも清潔で、ひどく無邪気だ。というよりなんだか今日はいつもより表情も明るくて、

「……あ、お前」

目元の泣きぼくろがいやに目立つと思ったら、東雲は肩につくほど伸びていた黒髪を、特に目にかかっていた前髪をさっぱりと短く切っていたことに今さら気づいた。いや、苛立ちのままに切れと命じたのは確かに自分なのだが。
褒めて褒めて、と言わんばかりの表情はこういう意味か。大きくため息をつき、「用が済んだらとっとと帰れ」と、杉原は座ったまま東雲の膝裏を軽く蹴った。彼は「ひどいな」と頬を膨らませてみせる。

「あ、ていうか君、もしかして宮田くん? 何話してたの? こいつ愛想なくてつまんないだろー、ごめんね」
「やめろ……」
しかし帰る気配を見せない東雲は、今度は宮田に向かって話しかけながら手を伸ばし、杉原の頬を無遠慮にむにむにと揉んでみせる。三度払いのけても白い手は戻ってくるので、諦めた杉原はされるがままに無視を決め込み、無愛想な頬を東雲に揉まれながら付箋やら蛍光マーカーをペンケースにしまうことにする。
「杉原に数学の問題見てもらってたんだよ、二限に小テストあるから……」
「ふうん、さっすが伊織先生」
「ていうかなんで俺のこと知ってんの? 話したことあるっけ……?」
東雲ほどではないが人なつっこいはずの宮田も、さすがに少し戸惑ってしまっているようだ。実際話してしまえば気さくなのだが、初対面の奴はだいたいこの美形の圧にビビる。そんな宮田の様子を察した東雲は、にぱっと一際明るく笑ってみせて、

「いや、俺今サッカー部のシゲと席隣なんだけどさあ、宮田くん面白いって話よく聞くんだよね。古典の補習で仲良くなったとかそういうやつ」
「あー、なるほど」
「こないだの自販機の話も聞いた、ふふふ」
「ぶは、マジで? あいつそんなことまで喋ってんのな、まあいいんだけど…………」

果たしてそれは繁田なのか茂田なのか、それとも苗字でなく名前が茂樹だったりするのか、はたまた名前とはまるで関係のない由来のあだ名だったりするのだろうか。まだ見ぬサッカー部のシゲとやらの姿をイメージしながら話を聞き流していると、不意に東雲の指が杉原の頬から離れていった。朝のホームルームの時間を告げるチャイムが鳴っている。

「おっ、と、うん、俺もう行くよ。なんか宮田が急にやる気出して数学の勉強してたぞって、シゲに言っちゃお」
「え、マジかよやめろよ、これで普通に補習だったら恥ずかしいだろ」
「伊織もじゃあね」
「ん……」

教室から出ていく東雲はひらひらと手を振ってみせたが、遮る前髪が短くなったぶん、どことなく熱っぽさを増した気がする視線はずっと杉原を捉えていた。散々つままれて揉まれて違和感の残る頬を押さえながら杉原がジャージを出すと、紙袋の底に「あげる」と書かれた付箋のついたアーモンドのチョコが入っていた。
「宮田、チョコ食うか?」
「あ、もらう。……それにしても東雲すげえな、知り合いどこにでもいるんじゃねえの?」
感心したように呟く宮田に、杉原は頷いて、
「そうだな。直接面識はなくとも、所謂〝友だちの友だち〟をたどっていくと、だいたい三人目くらいであいつに行きつくと専らの噂だ。……ほら、手出せ」
「サンキュ。うん、それわりとマジっぽいわ」
手のひらに箱から直接コロコロと出されたチョコを頬張り、宮田は「それにしても」と続ける。

「聞きそびれたんだけど、あいつなんで急に髪切った?」
「……さあな」
「え、知らねえの?」
「知らん」
「だって杉原なんにも言わないから、事情知ってると思ってたわ。でも髪切るのって土日じゃね? 俺の感覚では」
「……」

事情を知るも何も、今彼の目の前にいる杉原が、すぐに髪を切ってくるように命じた張本人だったりするのだが。確かに、あの放課後の時間から当日中に予約を入れることができるなんて、ずいぶん融通のきく美容院もあるものだ。どうでもいいが。杉原はもう一度「さあな」と呟き、チョコをひとつつまんで口に放り込んだ。



「いい加減鬱陶しかったんじゃないのか、長くて、顔だってよく見えなくてさ」




(おわり)

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