君を幸せにすること

 
1.


「いつもごめんね、流石に今日はジャージないと寒くてさ」
「……いいよ、気にしなくて。うちのクラス明後日まで体育ないし」
「ありがと、助かるよ。ああ、そうだ、お礼にこんどごはん食べに行こ」
「……考えとく」
「また洗って返すからね」
「ん」

軽く手を振り、教室のドアから出て行く黒髪の後ろ姿を、そろそろ切らせたほうがいいと思いながら杉原伊織は見つめていた。



「なあ、杉原ってさ」
「ん? 何だ」
「なんであいつと仲いいの?」

先週行われた席替えがきっかけで話すようになった前の席の宮田という男子生徒は、くるりと椅子を回し、机を挟んで杉原と向かい合った。2時間目の休み時間終了6分前の教室は、次の時間に予告されている英単語テストに向けて最後の追い込みをかける生徒が6割、こうして席で駄弁ったり寝たりする生徒が4割、といったところ。もっとも杉原の余裕は学年トップクラスの成績の持ち主のもので、宮田のそれは全てを諦めた補習常習犯の開き直りなのだが。
「あいつっていうと東雲か?」
「うん」
そうそう、と宮田は頷く。どうやら、つい先ほどジャージを借りに来た東雲との会話を聞かれていたらしい。
「気になるか」
「なんか不思議だなーって」
「不思議」
「うん、杉原ってああいう感じのキャラとあんまり接点なさそうな感じじゃん」
「ああ……」
高校生になって図書委員なんかをやっているのは、無類の本好きか、はたまたノーと言えずに厄介事を押しつけられてしまう気弱な性格の持ち主か、ともかく、クラス内でも地味な奴だと相場が決まっているのだ。文句なしの美形で交友関係も広い有名人と、味気ない眼鏡をかけたしがない図書委員との親しげなやりとりは、さぞかし不思議なものとして彼の目には映るのだろう。
「それは……」
シャープペンにちまちまと芯を補充しながら、杉原は尋ね返した。
「……俺とあいつ、仲良く見えたか?」
すると宮田は、少し考え込むように視線を泳がせ、
「まあ、それなりに?」杉原の目を見て、そう言った。「なんか東雲、俺の思ってた感じと違ったわ。もっとクール? っていうか、おとなしい系かと思ってたら、意外と明るい。元気な感じだな」
「……そうか」
返ってきた答えに、ついため息を吐いてしまう。ただ物の貸し借りをしているだけだというのに、妙にうきうきと弾んだ東雲の声音を聞いていれば、確かに宮田がそう感じても仕方がないのだろうと杉原は思う。
あいつが調子に乗って「ありがとう、愛してる」だのなんだのと余分なことを(本人は至って大真面目なのだが)口走らなくてよかった―――いや、逆にそんなことを言っているのを聞かれてしまえば、冗談では済まないような、ただならぬ熱っぽい雰囲気を察した宮田にそっとしておいてもらえたのではないか? いや、それは―――いや、それは。そんなことを考え込んでいると、手からシャープペンの芯をぽろりと取り落としてしまった。
「おっと」
机にぺたりと落ちたそれを、昨日短く切りそろえてしまったばかりの爪の先でかりかりと引っ掻きながら(上手くつまめない、)杉原は先ほどの宮田の問いに答えた。

「別に、ただの幼なじみってだけだよ」

ぐるぐると回る思考の果てにたどり着くのは、結局いつもと同じ、自分たちの関係性を表す最もシンプルで、当たり障りのない「幼なじみ」というタグだった。ただしとびっきりどうしようもない、もう後戻りもできそうにない腐れ縁の、とは、流石に付け加えられないが。「小3の頃あいつがこっちに越してきてから、なんだかんだ今まで付き合ってるんだ」杉原がそう補足すると、宮田は「ふぅん」と相槌を打ちながら、指折り数えて、
「え、じゃあもう10年近い?」
「そうだな」
「ってことは人生の半分くらいいっしょにいるじゃん」
「う、」
何気ない言葉に、思わず声を詰まらせてしまう。その時、ちょうど休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、宮田は「やべー」などと口走りながら再び椅子を回し、前に向き直った。本気でやべーと思っているのなら、杉原と無駄話をしている間にテキストでも見ておけばよかったのに、と思わないでもないが。あれはもはや口癖みたいなものなのだから、放っておけばいいのか。

「……人生の、半分、ね」

きっと、「それくらいいっしょにいられる友人がいるなんてうらやましい」とでも言いたかったのだろうが。杉原はシャープペンをかちかちとノックし、ペン先から芯が出ることを確かめる。しばらく経つと、英語の教師が教室にやってきて、挨拶の後、小テストのプリントを配り始めた。
制限時間15分のうち5分ほどで回答欄を埋め、まったくペンを動かす気配のないどころか、もはや微動だにすることのない宮田の白いシャツの背中を、じっと見つめる。今回も、期末後の補習メンバー発表の掲示物にこいつの名前が並ぶことになるのだろうか。

あの男が、「洗って返すよ」と言って借りて家に持って帰る杉原のジャージでいったい何をしているかなんて、宮田は知らない。知る必要もないし、知られたくもないけれど。頬杖をつきながら視線を窓の外に移す。「杉原」という名札のついたジャージを着た東雲がいるはずの3年1組は、グラウンドでサッカーを始めていた。











***














期末テストが近くなると図書室で勉強をする生徒は増えるのだが、しかし今回は少し事情が違う。実は先週から空調設備の調子が悪く、校舎一階昇降口すぐそばの図書室の空気は、屋外と大して変わらないほどに冷え込んでしまっているのだ。当然そんな場所でテスト勉強が捗るはずもなく、街の図書館やらカフェやらに人は流れていき、放課後の図書室は閑散としていた。
ドアに貼られた「今は暖房が入らない、業者に点検を頼むのは期末テスト終了後」という旨のお知らせを見てUターンをする者もいれば、それを読まずに足を踏み入れ、おそらく想像していたものと違うひんやりした空気に首を傾げる者もいる。そんな生徒にいちいち声をかけて「今暖房が……」などと説明をしてやるほど杉原は親切な男ではないので、ただ図書室から出て行く後ろ姿を見送るのみだ。図書委員の日誌に日付と担当者名を書き込んだ後、カウンター内のPCを立ち上げた。チラリと視線を巡らすと、今図書室にいる生徒は、せいぜい片手で足りるほどの人数だ。図書委員である自分と、この男を計算に入れても。

「かわいそ。今あったかくないよーって説明しててあげればいいのに」
「うるさいな……」

隣から聞こえた脳天気な声に、杉原はチッと舌打ちをする。

「ドアに貼ってあるだろ。読まない方が悪い」
「うん、まあそうなんだけどさ……」
何故か杉原の当番の日を把握して図書室にやって来る東雲をカウンター内から追い出すのは、もうとっくの昔に諦めた。たぶん、来館者の三割くらいにはこいつも図書委員だと思われているのではないかと思う。知らない生徒からたまに本の場所を聞かれていたりするし、だいたい分からないから「伊織~」なんてヘラヘラしながら杉原を呼びに来る。まあ、たまに力仕事や簡単な雑用なんかを任せたりもできるので、悪いことばかりではないが。
「そうなんだけどさあ、伊織……」
「なんだよ」
パスワードを打ち込み、本の貸し出し延滞状況を確認するための画面を開く。空調だけでなく、このひと世代前のPCにもそろそろガタがきているようで、いつも以上にのろのろと「読み込み中」のバーが動いている。小さくため息をついた杉原がもう一度「なんだよ」と続きを促すと、東雲はじっと杉原の目を見て呟いた。

「誰もがみんな君みたいに、いつだって周りを注意深く見ていられるわけじゃないんだ。うっかり見落としちゃうことだってあるでしょ」
「だから、なんで出来ない方にそこまで合わせる必要が……、いや」

反論しかけた途中で、なんでもない、と杉原は慌てて口を噤む。自分の中のある程度の基準に満たない者は、さくりと見限って切り捨てるのもやむなし。そんな思考を、付き合いの長い東雲の前で、ついぽろりと口にしてしまうことが多々ある。もちろん攻撃的な言葉を直接吐いたりすることは滅多になくとも、それが日常の会話や仕草の端に滲むことが、どこか冷たくて取っつきにくいと陰口を叩かれる所以だという自覚はある。杉原はゆるく首を振り、カウンター内の引き出しを指さした。

「……東雲、督促のカードあと何枚ある?」
「ん? ちょっと待って」

この話はここで終わり、という意味を込めて指示を出すと、東雲は特に気にする様子も見せず、そして勝手知ったるなんとやらとでも言うように、引き出しをごそごそ漁り始めた。中から、A4のコピー用紙を四つに切った小さな紙の束を取り出す。杉原は杉原で、ようやく開いた管理画面に検索条件を打ち込み、本来2週間である本の返却期限を大きく過ぎている生徒をピックアップする。
「10枚ちょっとしかないね……」
「足りないな。コピー頼んでいいか」
表示されているのは22件。生徒個人宛に本の返却を求めるカードを書き、クラスまで持っていくのも仕事のひとつだ。なんで延滞者のためにこちらが時間を割かなければならないのだと愚痴のひとつでも漏らしたくなってしまうが、過去には事故で入院中だとかインフルエンザで欠席中だとか、やむを得ない事情の生徒が数少ないながらもいたことはあった。全員を「期限を守れない奴」とひとくくりに線引きしてしまうわけにもいかないのだ。
「原本は……」
「知ってるよ。一番下の引き出しの、青いクリアファイルだろ……あった」
「……おう」
「ついでに印刷室で裁断までしてきちゃうから。100枚くらいまとめて作っちゃえば楽だよね」
「そうだな」
もうお前図書委員になっちまえよ、とでも言いたげな杉原の視線に微笑みを浮かべながら、東雲は延滞督促カードの原本が入ったクリアファイルを持ってカウンターから出て行く。そして、テーブルに誰かが置き忘れたシャープペンを入口近くの落とし物箱に放り込んでから、別校舎にある印刷室に向かって歩いていった。

「……」

杉原のことをすっかり信用しているのか、はたまた勝手に漁られても構わないと思っているのかは知らないが、こうしてスマホやら財布やらの貴重品が入っているであろう鞄を何の躊躇いもなく置いていってしまうのは、果たしてどうなのだろう。そんなことを思いながら杉原はボールペンを手に取り、とりあえず手元にある督促カードに、延滞者の名前を書き込んでいく。この中に自分の貸したジャージがしまい込まれているのだと思うと、なんだか妙な気持ちになって、二枚ほど名前を書き間違えてしまった。





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