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大國日神記第九話:花橘の香

「待ってたよそそぐクン!無事帰って来れたようだね!」
 森を抜けると上から高く甘い声が降ってきた。漱は目の前に立っている神に微笑みかけると
「喋喋喃喃様、こちらを」
と言って二つ小さな箱を差し出した。喋喋喃喃はそれを受け取れば無垢な笑顔を見せる。

「ありがとう漱クン!僕の為にあまり重くなくて神威の多い物を選んでくれたんだね!気の利く子だ!これこそボクの求めていた品だよ!」
「は、はい。喜んで貰えて良かったです。ところで…」
「ああ!契約の事だね?うん!漱クンの予想通り、ボクとの契約はここでお終い。でも、いつだって頼って良いからネ!また会えるのを楽しみにしてるよ!」
 
 そう笑いながら手を振ると、喋喋喃喃は漱の目の前でふんわりと消えた。漱はもう少ししっかりお別れの挨拶をするつもりだったので申し訳なさそうな顔をしたが、すぐに気を取り直し函梅宮の方へ歩き始めた。

 ここから一番近くの駅まで少し離れているが歩くしかない。人の少ない土地だ。もう電車は通ってはいないだろうが、函梅宮の使者との待ち合わせ地点としては最も適しているだろう。

 陽は既に見えぬが、山裾の空はまだ赤みがかっている。暑い日が続いていたので首を撫でる風の冷たさが心地良い。いつの間にか夢見心地であの神の事を思い浮かべていた。

 全てが綺麗な思い出という訳ではない。寧ろ苦しい事の方が多かった様に思う。そうであっても何故か漱の頭に流れる文の記憶は、ただ純粋に綺麗だと思え、当時覚えた吐き気や胃痛など何も感じない穏やかさそのものであった。

 六六魚(ろくろくぎょ)の鱗が返した陽、あのひとの肩に揺らいだ暖光(だんこう)が、消えかかる空の赤に重なって追想に身を委ねる。

……………………………………………………………………………

「そそぐクン、君は…本当によくやってくれたよ。偉いね、だから……

…また縁(えにし)を繋いであげる。ボクはカミサマ、だからね❤️」

 おかしい、いくら歩いても駅に着かない。以前何度か体験した事のある感覚だ。喋喋喃喃にはじめて出会った時、紅絲神社の地下を歩いた時、同じ感覚に襲われた。これももしかして…

しゃりん

しゃりん、しゃりん、しゃりん…

 鈴の音が一つ二つと鳴り出して、段々とその音が大きくなってくる。直感で分かった、これは“結界”だ。

……………………………………………………

「雪様、何か掛かりました」
「ええ、………ただ、おかしい…。とりあえず隊の者に様子を見るように伝えておいてくれ」
「わかりました。なら俺が行ってきます」
「待って、私も行こう。少し変わった風なんだ…とりあえず近くに転移して、話はそれからだ」

 軽い身のこなしで結界に反応があった付近に降り立つ。降り立った森の中は静まり返っていた。

「今掛かった者は神ではないだろう。だが私も知る神威を異常に多く有している…神を喰いその力を継承できるのは神だけのはずであるし、その神威を持つ神は自らの神依児を強化する様な神威では無いはずなんだ…」
「つまり、何者であるか分からない。そういう事ですね」
 
 雪はそれに“うん“とだけ答え、その気を感じる方に歩みを進めていった。対象は焦ってがむしゃらに走っているのだろう。神威で位置を確認しながら少しずつ歩みを早めていく。

「あれ!?消えた…どうして!?」
 今まで感じ取れていた気配がぷっつりと途絶え、焦って辺りを見回すと自分の神依児の姿も見えない。

「蘇勒!!!聞こえるか!?…私はここにいるぞ!」
 返事はない。様々な考えが脳を瞬時に巡り駆け抜けていく。今、何が起こっていて己がどんな状況に立たされているのか全く検討も付かない恐怖から刀を構えたが、この場には何もいないだろう。

…冷静にならなくては。きっと、この現象はおかしな気を持った人間のせいではない。何か他の者による介入ではないだろうか。

…………………………………………………………………

「ワ!?!?あ………ぁ………!?」
 突然自分の耳の横を小刀が掠め、目の前の木に突き刺さった。驚き身を逸らせば、月明かりでその細い刀身に“螭”の文字が映る。漱の全身に冷たい雷(いかづち)が走った。

 結界に触れたのだから他の勢力に追いかけられるのは想定済みだ。だが、よりにもよってここは螭春華なのか…。

「あ、あの………そ、蘇勒くん、ですか…?」
「……………」
 確実に後ろにいる。だが、振り向けやしない。

「す、すみません…おれ、なんか気付いたらここに飛ばされてて…あ、あはは…あ、怪しいですよね、すみませんで、でも!攻撃とかそんな事しに来たんじゃないんです!!」
「雪様を何処にやったのか、知ってますよね」

 やっぱりだ。ハキハキと言葉を区切りながら喋る少年の声、どう聞いても蘇勒くんのものだ。

「え!?えっと…誰ですかその………」
「貴方が侵入してから雪様の気配が消えました。貴方がやったのでないのならば、貴方と組んでいる神がいるはずです。大人しく吐けば、そのまま函梅宮まで帰します」

「ほ…本当に知らないんです…知らないんですよ!おれだってどうしてこうなってるのか…わ、わからないんです信じてください!!!」
 あまりの理不尽に声を荒げる。自分の声が静かな森の中に響いたかと思えば、後ろで鞘から刀を抜く音が聞こえ恐怖に固まってしまった。

「信じろというのなら、その怪しい武器を置いてください」
「は、はい……」
 刀を置こうとした瞬間、腕に入った紋様が痛む。そのまま紋様は、漱の手が開かないように無理矢理腕全体を押さえつけ始めた。

「イ“ッ……あ、あの!!!こ、これは…そ、そんなつもりじゃなくて、痛!!!は、離してくださいよ…う”」
 自分の手を押さえ付ける力に抗おうとするが敵わず、おかしな挙動をしてしまう。後ろで刀を構えられているのだ。死ぬのかもしれないと焦れば焦るほど調子は狂った。

 相手の様子が張り詰めてくるのを背中からヒシヒシと感じる。流石に突然切りつけたりはしない事に多少救われた気持ちになったが、それでも手を開く事は出来ない。

「そ、蘇勒くん!すみません、本当にわざとじゃな………!?!?」
 気付けば両手で刀を持ち、相手に斬り掛かっていた。自分でも何処から湧いているのか分からない力で、勝手に腕が動いたのだ。

 蘇勒は漱の刀を受け、睨む。瞳の濃い金に月明かりが返り、焦りと困惑に満ちた漱の瞳を射抜いた。膨大な呪いの力を雪から与えられた神威で抑えたのだろう。蘇勒の体の内側から神威の風が舞い上がっている。

「……………………このような物に、手を染めるべきではないです」
「でも、…お、おれなんかが戦って勝てる訳ないんですよ!!今更努力したって…殺されるだけです!!」

 漱が刀を振るう度、漱の腕は内側から破壊され痛々しい叫び声があがる。蘇勒はその無理な攻撃を正面から受け切る事は出来ないので、上手く左右に去(い)なし、一歩ずつ後退しようとする漱に向かって行った。

「………焦る事はないと言ったはずです。貴方は真面目だ、このような物を持つ必要はないです」
「…そ、そんな事言えるのは、蘇勒くんが強くて優秀な人だからですよ!!!おれみたいな誰にも期待されず…何も特別な努力もせず…才能もなく、ただ流される弱者はこういう物に頼るしかないんです!!!!」

 漱の腕の骨が捻り潰れる音と共に、黒刀は蘇勒の右肩から胸、そして脇腹から腹の肉を抉り飛ばす。途端、漱の腕はダラリと垂れ、その全身に生暖かい血液が大量に降りかかってきた。

 刀を地に立て崩れかける相手の姿がブレて見える。濃い血の匂いに意識が飛びそうになった。

「…………………………………あ…あ、あ…あはは…………ど、どうし……て」
 自分の荒い呼吸の音が脳内に響きわたる。この気持ちは何だ。おれは勝てたんだぞあの子に、喜ぶべきじゃないか?もう、劣等感なんて味わう必要無くなるんじゃないか、これは自分がこの戦いの中で戦っていける証明になるのではないか…でも、このまま終わってしまったら、それこそ一生勝てなかった苦しさが永遠に付き纏ってくる様な気がする。

「…………………ッ!?」
 見えなかった。気付くと首元に刀を当てがわれている。何故…ここまで傷を負っても、戦おうと言うのか。

 冷たい刃が首に触れ、そのまま漱の柔い皮を音無く裂いた。金の瞳が幾重(いくえ)にも重なり揺れて見える。死ぬ、このままだと殺される。呪いの力を持ってしても尚、おれは勝てない。…勝てないんだ。

 不器用に後退りをし、そのまま相手に背を見せ走り出す。腕の痛みが今になって奥底から湧いてきて涙が溢れた。何度も木の根に躓く。それでも、あの金の瞳から逃れたくてただただ体裁も気にせず走った。

…………………………………………………

 断絶された線が突然繋がったかの様に、私はまた螭春華の地に立っていた。今まで転移されていた場所は何処だったのか見当もつかないが、そんな事はどうでも良いという風に自分の神依児の姿を探す。

 私の神威が大量に消費されている事と、この場に漂う強い血の匂いに不穏な気を感じながら走った。すると、少し抜けた所に私の神依児が倒れているのを見つけた。大量の血が目に映る。衝撃で何も言葉を発する事が出来ず、冷や汗がドッと溢れてきた。

 すぐに駆け寄り、呼吸があるのを確認した。そして彼の服のポケットから簡素な携帯電話を取り出し、神社に連絡して傷を見た。傷はかなり深く、まだ血が止まっていない。無闇に神威で体の再生能力を活性化させると、血行が良くなり返って出血が止まらなくなるだろう。

 皮下の血を吸い出す為、傷口に唇を付ける。血液の匂いが脳みそまで蒸せ上がってきて苦しく、噦(えず)きながら血液を地面に吐き出した。懐刀(ふところがたな)を取り出し、白い着物の裾を切り取って、止血用に強く彼の体に縛り付ける。

 最早神社の迎えを待つしかないが、ただ彼が苦しくないように、そして血が流れ出さないようにそっと神威を注ぐ。

「……雪様、御無事で良かった」
「喋っては駄目。ごめん…何の力にもなれなくて」
 蘇勒はその言葉を否定するように首を軽く横に振って、そのまま目を閉じた。雪は一瞬死んでしまったのかと思って焦ったが、そんな事は無くただ楽にしただけだった様で安心し、溜息を吐(つ)く。

 彼の手の上にそっと手を重ねてみた。…暖かい。暖か過ぎて胸が苦しい。

…何故この子は私の為に命を懸けて戦えるのだろうか、私には理解出来ない。

 蘇勒、お前が“護る”という“私”はどんな私だ…どの私を守ると言ってくれているのだ。…私は、きっともう神ではいられない。分かっているのにいつもお前の目を見たらそんな事言えなくなってしまう。

 私は誰に触れる事も、言葉を交わす事も出来ないのを承知で神となった。ただ愛する人々を支えられればそれで良いと思いながら、どの様な理不尽にも耐えた。怒鳴られても殴られても、誰も庇ってくれはしない。それでも良かったのだ…それで人が救われるのならば。

 幾ら神が以前程必要で無くなったとは言え、私は愛し合っていると思っていたんだ。だから、今まで共に歩んできた人々が私に死を齎すだなんてそんな事、考えてもなかった。

 私のせいで人間がここまでの非礼を働くようになったのだと言う神もいる。それに何も言い返す事は出来ない。私もそうだと思う節があるからだ。

…私は、もしこの戦いが終わり命有った所で、また以前の様な淡雪切神になれるだろうか…多分、いや…絶対に無理だ。多くの人を愛し、触れられなくても裏切られても尽くすだなんてそんな事、もう出来やしない。

 生き残ったとしても私は卑しき身故、祟り神にすら成れぬ怨讐として、今までの思いも努力も全て捨て狂い消えてしまうだろう。

 ただあの子を想う心だけが私を繋ぎ止めてくれている。私の二千年余りの愚行が、決して無駄では無かったと思わせてくれている。でも、そうすればそうする程に私は“神”で無くなってしまう。神としてで無くては私は決してこの世に留まり続けられない。それなのに…

…あの子が“護る“という“私”が神としての淡雪切神であるのならば、私は己(おの)が心の慰みの為にあの子を騙し続けている事になるだろう。

 神は決して一人に執心したりはしない。淡雪切神は万人の為に存在する神なのだ。そうあるように生まれた神だから…それは苦しい事でも悲しい事でも無く当たり前の事だ。嘗て私自身が選んだ、私の在り方なのだ。

 時々、あの子が私にくれる言葉が、暖かさが、私という存在そのものにくれた物だと勘違いしてしまいそうになり、苦しい。私がこの社の神であるから、あの子がこの社を継ぐ男児であるから、あの子はここまでしてくれるのだ。決して思い上がってはいけない。ちゃんと分かってる。

 あの子が生まれたこの社の神が他の神であったなら、あの子はその神を“護る”だろう。その神の手を取り、その神の為に刃を握るはずだ。

…それを悲しいと思ってはいけない。寂しいと思ってはいけない。生まれと偶然により背負わされた重すぎるその責務を、ただ全うせんとする姿勢だけで十分以上なのだ。

 何人かの足音がこちらへ向かってくる。螭春華からの迎えが来たようだ。

「…ありがとう、すぐに神社の方へ」
「了解致しました」

 装束を来た男達が蘇勒を抱えて森の中へと消えていく。雪も置いて行かれぬようにその後に続いた。

…私は、どうすれば良いのだろう。

…あの子を騙しながら自分を慰め続けるのか、それともいっそ人を食い殺しどこまでも……。

……………………………………………………………………………………

 腕から迸(ほとばし)る血が止まらない。血痕を残しつつただただ走り続ける。何度か気を失いかけるが、その度にあの“空間を歪められる感覚”を味わい、吐き気がした。

 まただ。また、いつの間にか函梅宮の前に立っていた。螭春華は一番近い神社とは言っても標高が高く、気付かず迷い込んでしまう様な場所ではない。明らかに何かしらの力によって連れて来られたのだ。

 住居を兼ねた社務所の扉が開いている。普段から鍵は掛かっていないが、それでもこんな夜中に無防備に開いているのは珍しい。漱は腕の負傷により扉を手で開けれそうになかったので、それを幸運に思いながら中に入った。

「…た、ただいま帰りました…!あ、あの…良ければ医者を呼んでくれませんか」
 息も絶え絶えそう言うが、廊下はガラリとして何の返事も無い。

 嫌な予感がし、焦る思いで廊下を進み始めた。漱の足音のみ響き、他に何の音もしない。

「ヒッ……」
 広間に出ると函梅宮で働いている女性が隅で震えていた。漱の顔を見上げる目には恐怖が宿り、言葉も発せられぬ様である。

 漱の息が段々あがってくる。振り向きたくない。振り向けば、きっと苦しさが待っているから。見たくないものが見えてしまうから。

「こ………これ………は」
 折り重なった数々の函梅宮の人々の体。死んでいるのかも生きているのかも分からない。ただ血が大量に流れ、部屋の彼方此方が無理矢理破壊されていた。

 あまりに大きすぎる衝撃に耐えきれなくなった脳が、全てを拒否しようとしている。漱は空(から)になり、ほぼ無意識の状態で歩みを進めた。足袋の裏にネチネチと乾きかけの血がこびりつき、その度に嘔吐してしまいそうな程全身が冷たく縮み上がる。

 また、流れている。脳内にあのひとの微笑みが、揺らいで揺らいで揺らいで、また笑んだ。

…………………………………………………………………………

……………………………………

……………

「兄………さん…?」

 兄さんが倒れている。血を流しつつ、虚な瞳でおれの顔を見た。おれを祟っているかの様に。

 倒れた兄さんのすぐ横で文神様が泣いていた。痛いくらいに美しく、白い月の様な肌に涙の筋が垂れていた。

 文神様の腕は無理な方向に折れ、血が溢れ出している。

 そして、その全身に紅い紅い系が何重にも巻き付けられ揺れていた。

…しまった。そう思った。

 おれのせいだおれのせいだおれのせいだおれのせいだ全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部おれのせいだおれのせいだおれのせいだ…

「漱、逃げろ」
 
 縋るような瞳で見つめられる。動けなかった。あまりの絶望に何も考えられない。ただただ、綺麗で最低な悪夢が広がっているのだと思った。

「……逃げ、て…!!!」

 叫び声と共に糸が文の肉体を締め上げ、無理にその腕が漱に向かって振り上げられる。

「……あ……あぁ……」
 漱がそれを避けると、文の細い腕が壁に打ち当てられる。悲痛な声と共に、腕が骨ごと砕ける音が響いた。

 漱は力無くゆっくりと崩れ落ちた。文の血がたらりたらりと漱の服に垂れ、涙が顔に落ちてきた。

「お願いだ。逃げて…逃げてくれ………漱!!!」

 文の腕がまた掲げられる。か弱い肉体を突き破り、骨が見えていた。

「お願い…漱…漱…、!!」

……………………………………………………………………

…負けた。

……おれは、負けたんだ。

 黒刀から血が伝ってくる。蘇勒を斬った時の様にそれはまた暴れ、文の腹を貫通した。瞬間、文を縛っていた紅い系は切れ、その体は腹に刀が刺さったままで漱に覆い被さった。

 ボロボロになった薄い手で、優しく肩を抱きしめられる。意味が分からなかった。おれのせいで…、おれのせいであなたは罪を背負い、消えてしまうのだ。それなのに、どうして。

「………我が……おぬしを選んだ事で………おぬしを困らせてしまったな」
「いいえ…そんな事は……………………文神様…」
 止まる事なく涙が溢れ出してきた。梅の香が広がり、陽光の様な暖かさが胸に落ちて飽和した。どうしようも出来ず、ただ必死に自分の体を抱きしめるひとの、痩せた身体を抱きしめ返した。

________どうしておれを選んだのですか_________?

「…ふふ、どうしてだろうなぁ。これもまた…霊異な縁(えにし)というものよ……………」

 段々と相手の体が軽くなってくる。文の体が淡い光となり消えていくのが見えた。

「嫌だ、行かないでください文神様!おれは…おれは…!どうすれば…………いいんですか……、」

「漱、償えぬ罪はない。己を許し、己の為に生きろ」
 
……………………………………………………………………………………………

……………………………………………………………

………………………

 走る。涙と怪我で最早どうしようもならない体で走った。一歩進む度、体が脆く崩れてしまいそうで恐ろしかった。

 漱はその胸に、神の残した臓器を抱えていた。最早行く当てもない。ただ、己が全ての破滅を招いてしまった事がぐるりぐるりと脳内を巡り、もう何も考えられなかった。

 夜は深く、何も見えぬ。人も居らず、世界に自分一人だけが取り残されてしまったかの様だ。

……………………………………………………

…………………………………

……………

しゃりん、

しゃりん、しゃりん、しゃりん、

 鈴の音が響く、前よりも穏やかに。

 深い夜が明けようとしていた。漱を歓迎する様に目の前に一本の道が伸びている。直感でそこを登っていった。いつ殺されるか分からなくとも、最早こうする他無いのだ。

…………………………………………………………………………
 
 赤く荘厳な鳥居の前に来た。これ以上進む事が出来ず、膝を突き崩れ、嗚咽を漏らし泣く。

 おれは何がしたいんだろう。こんな所まで来てしまって、やはりあの子にまだ思い入れがあるのか、あの子なら何か変えてくれると思っているのか。

「よくここまで来た。早く入りなさい、ここには医者もいるよ」

 柔らかい声が上から降りてきて、おれの肩を撫でてくれた。そのひとの足元に季節外れな桜の花弁が舞い落ちている。そうか、これが蘇勒くんの神様なのか。

「こ、これを…貰ってください…おれ、………何も出来なくて、おれのせいで文神様が消えてしまって、もう。どうしようもないんです。だから貴方に文神様の力を継承してもらって、蘇勒くんに…勝って欲しいんです」
 嗚咽混じりの声で目の前のひとにそう訴え、胸に抱えていたソレを差し出した。

 雪の瞳が衝撃と哀惜に揺れ、そっとソレを受け取る。消えてしまった旧知の神の生を、目の前の優しげな人の想像絶する苦悩を思い、言葉も発せずただ泣きたい気になった。

 漱はもう責務を果たしたと言わんばかりに立ち上がる。ソレを抱えて屈み込んでしまった雪に一礼をして踵を返した。

「行くな、行っては駄目だ」
「………」

 その言葉に応じず、風船の様に頼りなく漱はそのまま進んでいく。雪は焦って立ち上がり、彼の肩を引き戻した。

「お前、帰る場所はあるのか。このままここを出て、お前はどこに行くのか、死ぬなどと言うのか」
「…………はい、仕方ないですよ、全ておれのせい、なんですから」

「行くな、きっとそれは文殿の御心に反する」
「お願いです、離してください。…もう良いんですよ、おれは生きていちゃ駄目なんです、おれが全部壊してしまったんですから」

 暫し、沈黙が流れる。お互いに何も言い出せず固まってしまった。

「皆の者、この者を螭春華の医師へ参らせよ」

 雪がそう言えば社の方から何人かの人が出てくる。漱は少し暴れたが、絶望と疲労からすぐに螭春華神社の中へ連れられていった。

……………………………………………

 目が覚めると知らない天井があった。木で出来た大層な建物の中らしく、月明かりが床に映っている。今は夜なのか。

 痛い、鋭い傷みが腕に走った。見れば包帯でぐるぐる巻きにされている。そうか、おれは負け…そしてここに。

 おれが涙を流すと同時に、隣に座っていた女性が部屋を出ていった。

 暫く一人で残されるが、また扉が開いた。

 開けたのは蘇勒くんの神様だった。神妙な面持ちで“失礼する”だなんて言って入ってくれば、おれの横に座った。

「お前の名は東雲 漱と言うようだな。合っているか?」
「は、はい…」
 布団で寝ているままでは無礼だと思い急いで身を起こした。蘇勒くんの神様は別に良いぞと言うが、おれの方が申し訳ないのだ。

「文殿がお隠れになった事、心から残念に思うよ。函梅宮の方へ行ってみたがまだまだ混乱状態の様だ。今行くのはお前にとって辛いだろう。螭春華の方で資金援助をしてなるべくすぐ落ち着かせるから、お前も落ち着いたら帰るが良い」
 
 その状況を聞くと、取り返しのつかない現実がありありと胸に迫ってきた。強く、死にたいと思う。

「お前の持っていたのは国殿の武器だな?あれは人間が使うべき物ではないよ、飲み込まれてしまうからね、あれは螭春華の方で封印しておいた。もうお前もアレに用はないだろう」

「あ…ありがとう……ございます…………」
 声が上手く出なかった、気の毒そうな相手の視線が痛くて切実に止めてくれと思う。

「あの………おれは……蘇勒くんの力に、なれそう…ですか…もう、それしか望みが無いんです。おれ、が全てを壊してしまって、…もうあの子の思いの少し足しになる事しか…おれは…」

 雪はゆっくりと息を吐く、深刻に考え込んでいる様で怖かった。

「漱、蘇勒の願いは“この私を護る事”だ。私の力はお前のおかげで強化される。だからお前はちゃんと、…力になれているよ」
 
 漱の泣き声に胸が痛む。私が力を得た所で、他の多くの神には敵わない。生き残るだなんてほぼ不可能だ。また人を騙してしまった。罪悪感が胸に広がっていく。

「…淡雪切神様……、きっと生き残ってください。おれ、蘇勒くんが…おれと違って強くて、きっと何かを変えられるあの人が…大切な物を守れたら、それで…もう良いんです。あの人の大切な物はあなたなんですね、それなら…きっと、勝ってください…」

「お前は、自分が何も変えられなかったと、思っているのか」

 心臓が変に縮み上がり、汗が出てきた。
「いえ、変えました。函梅宮の皆を殺し、兄を殺し、文神様も殺しました。だからおれは死ぬべきなんです」

…また、憐れまれている。

 またドッと苦しみの渦が湧き上がってきた。涙が止まらないまま、また脳みその中であのひとの微笑みが揺らいでいる。

 もう全て話してしまおう。きっと蘇勒くんの神様は怒りやしないだろう。

「淡雪切神様………おれの話…………聞いてくれませんか」
「ええ、構わないよ」

 息を吸い込む、自分の涙声がすごく情けなく聞こえて辛かった。

「おれは…駄目な奴でした。おれには、おれよりも優秀で強い兄がいました。だからおれは兄が神依児となると思っていたんです。でも文神様はおれを選びました。おれは焦ってここの剣道場に来て鍛えようと思ったけど蘇勒くんに負けて、焦るなと言われました。そしてそのすぐ後に喋喋喃喃と会いました。

…おれはなんとなく分かっていました。蘇勒くんが神依児に選ばれる事も、おれが頑張っても勝てない事も、だから喋喋喃喃と契約を交わしたんです。

…文神様を信頼してない訳ではありません。ただ勝てないと思ったのです。おれが負ければ、おれの居場所はいよいよ無くなってしまう物だと思いました。どんな手を使ってでも文神様を守らなくてはいけないという気持ちもありました。でもなんだかんだでおれは自分可愛さがあったのです。

…喋喋喃喃は他の神社の神依児の情報と忌繰りに眠る武器についておれに教えてくれ、出て行ってしまった兄との縁をまた繋いでくれました。

…代わりにおれは忌繰りに忍び込み、自分と喋喋喃喃の武器を取ってきたんです。そしてそれで蘇勒くんを傷付け、文神様の体を貫きました。文神様はおれのせいで喋喋喃喃に操られ、望まずして多くの人を殺し、おれの兄も殺した…それでも、おれを思いやって死んでいきました。

…おれは己の愚かさを呪いました。蘇勒くんに嫉妬して蘇勒くんよりも自分が頑張らなくても良い理由を、劣っていても良い理由をこじ付けて、満足して、彼の言葉を聞かずに呪いで身を滅ぼしました。

…おれは文神様を守れなかったどころか自分の手で殺してしまった。その上あのひとの親切に気付かず、どうして兄ではなく自分を選んだのか等と一種の恨みも覚えました。でも、本当に…おれはあのひとを愛していたんです。これは嘘じゃないんです…。いっそ恨み切れた方が良かったと、ずっと、ずっと…思っているんです。

…文神様はきっとおれの心に気付いていた。おれを困らせてしまったと、言ってたんです。でも…あのひとは、おれが今までに見た事なく暖かくて綺麗だったんです。それなのにいつもおれに微笑みかけてくださりました。

…いつも何か余計な事を考えてしまうおれも、あのひとの曇りない笑顔を見ると少し…心が軽くなったんです」

「笑顔…?文殿がか」

 雪の不思議そうな顔に違和感を覚える。どうしてこんな顔するんだろう、文神様はいつも笑っているじゃないか。

「はい、あの方はいつも笑っておられました。すごく楽しそうに…暖かく笑っておられました」

「漱、お前は気付いてない。自分が…立派な事をした事に」

…?意味が分からない。彼は何を言いたいのだろう。

「分からないという顔をしているね、あの文殿の事だ…お前には伝えなかったのだろう。ここ何百年か前、函梅宮の御神体の一部が盗まれた事があったろう。あの時に文殿はその衝撃で記憶を失われた。

…私と幽玄様と勇虜次で見舞いに行ったよ、すると文殿は“かつての自分であったであろう自分”の笑顔を作っておられた。賢く優しいお方だ、私達を心配させまいと思ったのだろうね、だが私はそのご厚意に反して絶望してしまったんだよ。

…今でも申し訳ないと思っている。私はあの方の顔に張り付いた様な作り物の笑顔が、痛々しくて見ていられなかったのだ。哀れに思えるが、そう思う事を悟られては返って文殿を苦しめるだろうから、私は次第に文殿と距離を置く様になってしまった。すまない…あの方を救おうとせず、逃げ出してしまって…。

…でも、良かったよ、あの方は救われたのだね。漱、お前の見た文殿の笑顔が作り物でないのならば、それはお前のおかげだろう。お前は神を救ったのだよ、誇りに思え。文殿は何か仰られていたか」

「は…はい“償えぬ罪はない。己を許し、己の為に生きろ”と…」

 知らなかった。おれの記憶と全く違う文神様の姿に呆然としてしまう。

「やはりそうじゃないか。ならばその通りに生きろ、自分のしたいと思う事、するべきだと思う事をすれば良いんだ」

「…でも、文神様は消えました!おれが救っただとかそんな事…違うと思います。だってもうここに…文神様はいないじゃないですか!!」

「漱、私たちは誰に殺されると思う、人だ。人に殺されるのだ。また以前の様に私たちが、私たちを殺そうとした人々の為に神としていれると思うのか!同族を殺させられ、また人の為に頑張れると思うのか、それは“救われる”と言うのか…

…漱、最早この戦いは生き残るだとか死ぬだとかそんな話ではないんだよ。如何に幸せに、綺麗に、満足して…この長過ぎた生を終えるのか、それが問題なのだ。お前は文殿の心を取り戻し、彼にとってかけがえのない物となり、生き残った。それは幸せな事だ漱」

「…………なら、おれはどうすれば良いのでしょう…」

「…生きるのだ。己の幸せの為にその命を使うのだ。苦しいだろう…お前は最早、人一人で背負い切れぬ程の罪を背負ってしまった。だが失意の中死ぬ事は許されない。文殿の意思に反するからだ。苦しくても己の為に生きる事、これがお前に残された唯一の贖罪の仕方だ。
 
…具体的な事は今から自分で考えろ。時間はあるのだ。どうすればお前自身が幸せになれるのか、ゆっくりと考えるが良い。この神社を下りてすぐに宿がある。そこに部屋が空いているから函梅宮に帰るまでそこで安静にして、これからどう進むべきなのか、どうすれば文殿の意思に添えるのか、考えるんだ」

…………………………………………………………………………………

 螭春華の道を下っている。おれが道に迷わないように蘇勒くんの神様が付き添ってくれた。

 ずっと文神様の笑顔の記憶が巡っている、本当におれはあのひとを救えたのだろうか、そうだったら…良いな。

「淡雪切神様、本当に迷惑をかけてすみません。それにここまで尽くしてくださって」
「気にするな、大丈夫だよ。私は文殿に負い目がある。このくらいの事、喜んでやらなくては」

 暗い道を段々と下っていく、螭春華は綺麗な川の多い場所で所々ぼんやりと蛍の光が見えた。

「……あの…おれ、もし腕が治ったら…邪魔にしかならないかもしれませんが、蘇勒くんと一緒にここの神社を守っても良いですか」

「戦いは…怖くないのか?」

「怖いです。痛いのは嫌です…でも、おれが今、やりたい…やらなくちゃって思ってる事はそれだから。お願いします。おれもここで戦わせてください」

 おれ、どうしてやっと戦いから逃れられたのにこんな事言ってるんだろう。不思議だ。自分でもよく分からない。でも、ここで引いてしまったら後悔すると思ったんだ。

「勿論だ、良いよ。蘇勒にも伝えておく、きっと喜んでくれるさ」
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