大國日神記第七話:玉鬘の錦
潮の匂いが頭にまで昇ってくる。霹靂を先頭にして季四、幽玄、アリーナと続いて歩いていた。無言でただ波綾を目指している。
霹靂は未だ心の整理がついていなかった。海幸清神を敬愛し、そして畏怖している。彼女は自分なんぞでは決して敵わない。だが、最早歩みは止める事もできない。
この怒り、やるせなさは、幾許(いくだ)の人命を積み重ねた所でどうにかなる話ではないだろう。ただ嫌な予感だけがビシビシと肌を刺し鬱陶しく、落ち着かぬ。
潮の匂いが濃くなるほど頭が白くなっていく、何も考えられなくなっていく。いつの間にか結界の前まで来た。険しい丘の上に今、彼らは立っている。そこからはチラチラと明かりが灯り、都会ではないものの活気付いた波綾の街が見下ろせた。
「霹靂殿、俺が能力を張るので待ってくれ」
「…………………」
「俺とアリーナは後方から援助をする。主にアリーナの銃と俺の能力でだ」
「…………………」
霹靂は何も答えない。幽玄には彼が話を聞いているのかどうか分からなかったが気が合わないという事だけは分かっていたので、何かこれ以上言う事は無く波綾の結界に触れないように能力を展開した。
雅な管弦の音が響き始める。上空を見れば幽玄の出した五人囃子の様な姿をした式神達が円を描きながら演奏をしていた。そして、地面に丸い紋様が次々と浮き出てくる。これが彼の能力だ。
彼の能力は他人及び自分の強化。強化能力は人を“支える”性質を持った神によく表れる。なので淡雪切神も同じく強化能力だが、幽玄の能力は空間にいる味方を全員強化出来るという広範囲のものだ。故に自身とアリーナだけではなく、霹靂と季四もサポートする事が出来る。
…………………………………………
辺りが静かになった。幽玄達と季四がサポートをする為に隠れたからだ。
結界を眺める。綾模様がゆらゆら揺れていて浅い海の海面のような結界だ。この時が非常に長く感じられる。強い潮の匂いに最早嗅覚はなくなっていた。
パァン、破裂する。霹靂の指が結界に触れた途端に結界は海水となり、音を立て崩れ落ちてきた。
「何をしに来た」
霹靂の肩が裂ける。羽織りをひらめかせながら即座に後方へ飛び退いた。目の前に血の付いた槍を構えた海幸がいる。神依児は危険だから少し離れた場所にいるのだろうか姿が無い。
「…………………」
霹靂は何も言わない。海幸はそのまま彼に攻撃を繰り返す、暴れ狂う波と鮮やかな槍術で霹靂の肉体を少しずつ削っていくが彼も上手く往なしていた。
海幸の波を操る能力はとても正確で鋭く、波には魚群のようなものが見える。これは彼女の力ではなく彼女の神依児のものだろう。あまりに膨大過ぎる彼女のエネルギーを一点に集めて彼女の技の威力を高めているのだ。
霹靂が軽く雷を落とせば、途端に暗雲が立ち込め天気は大嵐となった。暗雲は波綾の街を覆い、轟々と蟠を巻き始める。
霹靂が大剣を振り翳して槍を弾く。大剣は細身の槍と比べ、鋭さが圧倒的に欠けていたが、何故か海幸は彼に押されていた。彼女が受け身を取る度に魚群が彼女のクッションとなり動きを更に軽やかにさせている。
霹靂は強化されているとは言えども、その技も動きも何もかも海幸よりも鈍かった。海幸は何を思って戦っているのか。
「海幸!!!!!どうして本気で来ない!!!!!」
轟音を挙げながら雷が落ちる。海幸はそれを避け、霹靂を誘導するように走りながら細かい斬撃を加えていった。海幸の後ろを銃弾や雷を纏った矢が通過し、激しい爆発が起こっている。
「海幸、お前は美しい。この國でどの神よりも美しく強く気高い神だ!!!今でも俺を殺せるにも関わらずどうしてそうしないんだ!!!」
「…………馬鹿な事を仰らないでください」
そう冷たい声が響いた瞬間、霹靂の左目がぱっくりと裂けた。血が吹き出し、視界の大部分が奪われる。刹那、槍を振り上げる海幸の姿が朧げに見えた。
_____________俺は、死ぬのか___?
視界の端に海幸の顔が覗いた。深い悲しみの跡が染み付いた、強く、気高く、美しい顔だ…
瞬間、霹靂は鞭打たれたかの様に目をかっ開き、槍を振り上げる海幸の脇を抜け駆け出した。
…見つけた。街の近くに、いる!
「貴様!!!何処に行く!!!」
空気を切り裂くように海幸の怒声が飛ぶ。走る霹靂の右腕を、波が纏わり付いてそのまま強引に引き千切る。大量の血が溢れ出た。それでも歩みは止めぬ。感じた事のない痛みのはずだが、そんなもの最早感じない。
体勢を崩しながらも片腕で千切れた方を庇う。
そして霹靂は丘を飛び降り、大剣を掲げた。降りた先には…
「は…あ……あわ、………」
怯えた少年…一里の顔が見えた。魚群のような能力は彼のものだろう。霹靂の頬に弱々しくその魚群が当たり、砕け落ちていった。
霹靂の髪が逆立つ…
…上空で激しく電気の流れる音が走り、波綾の街全体に落ちんとする大雷が空を一瞬で白くした。彼方此方で劈くような悲鳴が響いたが、それも全て電流の音に掻き消された。
…………………………………………………………
……………………………………
……………
「海…幸…………ッ!!?」
電流の走る音が止み、暗雲が裂け青空が覗き始めた。手に彼女の血が伝ってくる。海幸はその腹に大剣が貫通し、口から血を溢した。
ぐぐっと身を屈めた海幸の髪が乱れ、耳飾りが落ちた。そのまま顔をあげ、大剣の先にいる霹靂を睨みつける。
「海幸!どうして避けなかった!!!お前が庇わずともこいつは後で殺したのに!!!」
思考が停止して口だけが無意味に動いている。俺は…何を、どうして…この國で最も美しく強く高貴なお前が、たかだか人間如きに…!意味が分からない。血液を失った体に冷たいものが降りてくる。気持ちが悪い。自分よりも高貴な神を貫く感触に吐き気が湧いてくる。
“後”というのは“お前を最高神にした後”だ。お前程、崇高な神は存在し得ぬ。お前こそが、最高神になるべきだった________。
俺は、海幸にここで殺される事を望んでいたのか?一瞬、そんな考えが過ぎった。最早怒りを人に振り撒く事しか出来ぬ空っぽな俺のこの命を、幸せに終わらせてくれるのは、ただ海幸だけだと思っていたからだ。空虚だ。何故だ…海幸。お前は俺を殺す事が出来たはずなのに______。
「………………大切なものが、あるからだ…」
海幸はそれだけをぼそりと呟いた。
「か、海幸様!!!あ…あ“…………」
剣の切っ先が一里の目の前に突き出され、血が頬に落ちてくる。彼は手に旗を持ち、霹靂を殴る為に立ち上がろうとしたが…瞬間、その足元を大波が攫っていった。
「嫌だ!!!海幸様!!!置いて行かないでください!お願いします海幸様ッ!!!オレ、ちゃんと戦いますから____________!!!!!!!!!!!!!」
…………………………………………………………………………………………………………………
…ここは何処だろうか、オレはどうなっちゃったんだろう…。
体が溶けていくような暖かさと満遍なく漂う疲労感。春のうたた寝の様な感覚だ。
____おーい!剣!お前トロいぞ〜〜〜〜〜!!
子供の声?誰だろう。剣って……………………
……………ああ、小学生の頃転校していったオレの親友か…、じゃあこの声は昔のオレ?
音が水の中みたいにぼよんぼよんと跳ねて伝わってくる。上も下も分からない浮遊感、自分の体があるのかさえも最早分からない。
………………………………………………………………
波が押しては寄せる音が鮮明に聞こえる。いつもの海だ。いつもの…汽笛の音がして、かつてのオレが磯を走っている。
記憶が曖昧だ。そう言えば、オレはこの時ここで転けて………
バシャン
あ、そうだ。やっぱり転けて海に落ちたんだ。
脳内でTVの映像の様に、海に落ちた過去の自分の映像が流れる。自分の姿を自分で見るなんて不思議な気持ちだ。忘れていた遠い夏の記憶がだんだん蘇ってきている様な気がする。
無力で小さいオレがいとも簡単に波に飲まれ、深い海に消えていくのが見えた。呼吸をしようと必死にあがき、海面に上がっていた泡もいつしか消えた。
海水がダバダバと肺に入ってきて苦しい。息が出来ない。体も自由に動かずただもがいて、もがいて、もがいて…いつしか疲れて…力尽き…諦めて…………………。
…死ぬのかなって思った。子供だから何も分かんなかったけど、ただもう終わっちゃうんだなぁという実感だけがあった。強烈な恐怖がこの記憶に封をしていたのだろう。潮が入って痛む目で煌めく水面が見えた。子供ながらに綺麗だなぁ…ってはじめて思ったものがその水面だった。きめ細やかに光を照り返す海の波綾。
……………………………………………………
…いつの間にかオレは浜辺で微睡んでいた。理由は分からないけど、夕方になってたから“こんな時間に帰るとお母さんに怒られる!”って思って急いで帰った。
帰る途中、浜を歩いていると海の彼方から汽笛の音が響いてきた。意味もなくその方を振り向くと、ただただ赤く大きな夕日が真っ直ぐと一里を見つめ返していた。
………
……
…
…目が覚める。オレは海幸様の大波に攫われ、そのまま川に流されて…いつの間にか浜辺で寝転んでいた。
服の袖を見る…あのひとの血が滲みになっていた。苦しくて、苦しくて、涙が止まらなかった。冷えた体に涙は熱すぎて、声にならない声が喉から漏れて、その場に蹲った。
手の中に、何かある。開くとチラチラと光る耳飾りが入っていた。その光があの日見た波の綾に見え、ふ、と無意識に海を振り返った。
見た事のある景色だ。日が沈みかけている。この場所はあの時の…昔、溺れ死にかけた時に流れ着いた浜辺だった。
…………………息が出来ない。
…そうか、あの時も…
…オレが海に落ちて死にかけたあの時も…
………あのひとが……。
………………………………………………………………………………
「アンタの言う“美しい神”が下々の者に心惑わされず、ただ超然とした存在であるならば…私は美しい神なんぞではない」
…私はなんて馬鹿な神なんだ。結局、憎み切る事が出来なかった。結局、愛を捨てる事が出来なかった。
とても馬鹿だ。神として情けない。それなのに、全く嫌な気持ちが湧いてこない。
一里…
一里、
あの子の名前をあまり呼んであげられなかった事だけが、ちょっとした心残りだ。悔しいから、もう声が出ないけど…形だけでも呼んでみる。
…なんだか笑えてきた。私、泣いてるんだ…。何百年振りだろうか、思い出せない。ただ、かつての人に失望して流した涙よりもずっと暖かい。
街がぼやけて見える。私の愛したあの町だ…波綾の街だ…。私が崩れていく、暖かく柔らかく崩れていく。素直な神でなくごめん。今思うと恥ずかしい。汽笛の音だけが頭に響いて、あの子の事を思うと愛おしくて胸が苦しくなった。
ビビリでドジでちょっと馬鹿っぽい、あの子が…あの子だけが、私の手を握り返してくれた。
霹靂は未だ心の整理がついていなかった。海幸清神を敬愛し、そして畏怖している。彼女は自分なんぞでは決して敵わない。だが、最早歩みは止める事もできない。
この怒り、やるせなさは、幾許(いくだ)の人命を積み重ねた所でどうにかなる話ではないだろう。ただ嫌な予感だけがビシビシと肌を刺し鬱陶しく、落ち着かぬ。
潮の匂いが濃くなるほど頭が白くなっていく、何も考えられなくなっていく。いつの間にか結界の前まで来た。険しい丘の上に今、彼らは立っている。そこからはチラチラと明かりが灯り、都会ではないものの活気付いた波綾の街が見下ろせた。
「霹靂殿、俺が能力を張るので待ってくれ」
「…………………」
「俺とアリーナは後方から援助をする。主にアリーナの銃と俺の能力でだ」
「…………………」
霹靂は何も答えない。幽玄には彼が話を聞いているのかどうか分からなかったが気が合わないという事だけは分かっていたので、何かこれ以上言う事は無く波綾の結界に触れないように能力を展開した。
雅な管弦の音が響き始める。上空を見れば幽玄の出した五人囃子の様な姿をした式神達が円を描きながら演奏をしていた。そして、地面に丸い紋様が次々と浮き出てくる。これが彼の能力だ。
彼の能力は他人及び自分の強化。強化能力は人を“支える”性質を持った神によく表れる。なので淡雪切神も同じく強化能力だが、幽玄の能力は空間にいる味方を全員強化出来るという広範囲のものだ。故に自身とアリーナだけではなく、霹靂と季四もサポートする事が出来る。
…………………………………………
辺りが静かになった。幽玄達と季四がサポートをする為に隠れたからだ。
結界を眺める。綾模様がゆらゆら揺れていて浅い海の海面のような結界だ。この時が非常に長く感じられる。強い潮の匂いに最早嗅覚はなくなっていた。
パァン、破裂する。霹靂の指が結界に触れた途端に結界は海水となり、音を立て崩れ落ちてきた。
「何をしに来た」
霹靂の肩が裂ける。羽織りをひらめかせながら即座に後方へ飛び退いた。目の前に血の付いた槍を構えた海幸がいる。神依児は危険だから少し離れた場所にいるのだろうか姿が無い。
「…………………」
霹靂は何も言わない。海幸はそのまま彼に攻撃を繰り返す、暴れ狂う波と鮮やかな槍術で霹靂の肉体を少しずつ削っていくが彼も上手く往なしていた。
海幸の波を操る能力はとても正確で鋭く、波には魚群のようなものが見える。これは彼女の力ではなく彼女の神依児のものだろう。あまりに膨大過ぎる彼女のエネルギーを一点に集めて彼女の技の威力を高めているのだ。
霹靂が軽く雷を落とせば、途端に暗雲が立ち込め天気は大嵐となった。暗雲は波綾の街を覆い、轟々と蟠を巻き始める。
霹靂が大剣を振り翳して槍を弾く。大剣は細身の槍と比べ、鋭さが圧倒的に欠けていたが、何故か海幸は彼に押されていた。彼女が受け身を取る度に魚群が彼女のクッションとなり動きを更に軽やかにさせている。
霹靂は強化されているとは言えども、その技も動きも何もかも海幸よりも鈍かった。海幸は何を思って戦っているのか。
「海幸!!!!!どうして本気で来ない!!!!!」
轟音を挙げながら雷が落ちる。海幸はそれを避け、霹靂を誘導するように走りながら細かい斬撃を加えていった。海幸の後ろを銃弾や雷を纏った矢が通過し、激しい爆発が起こっている。
「海幸、お前は美しい。この國でどの神よりも美しく強く気高い神だ!!!今でも俺を殺せるにも関わらずどうしてそうしないんだ!!!」
「…………馬鹿な事を仰らないでください」
そう冷たい声が響いた瞬間、霹靂の左目がぱっくりと裂けた。血が吹き出し、視界の大部分が奪われる。刹那、槍を振り上げる海幸の姿が朧げに見えた。
_____________俺は、死ぬのか___?
視界の端に海幸の顔が覗いた。深い悲しみの跡が染み付いた、強く、気高く、美しい顔だ…
瞬間、霹靂は鞭打たれたかの様に目をかっ開き、槍を振り上げる海幸の脇を抜け駆け出した。
…見つけた。街の近くに、いる!
「貴様!!!何処に行く!!!」
空気を切り裂くように海幸の怒声が飛ぶ。走る霹靂の右腕を、波が纏わり付いてそのまま強引に引き千切る。大量の血が溢れ出た。それでも歩みは止めぬ。感じた事のない痛みのはずだが、そんなもの最早感じない。
体勢を崩しながらも片腕で千切れた方を庇う。
そして霹靂は丘を飛び降り、大剣を掲げた。降りた先には…
「は…あ……あわ、………」
怯えた少年…一里の顔が見えた。魚群のような能力は彼のものだろう。霹靂の頬に弱々しくその魚群が当たり、砕け落ちていった。
霹靂の髪が逆立つ…
…上空で激しく電気の流れる音が走り、波綾の街全体に落ちんとする大雷が空を一瞬で白くした。彼方此方で劈くような悲鳴が響いたが、それも全て電流の音に掻き消された。
…………………………………………………………
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「海…幸…………ッ!!?」
電流の走る音が止み、暗雲が裂け青空が覗き始めた。手に彼女の血が伝ってくる。海幸はその腹に大剣が貫通し、口から血を溢した。
ぐぐっと身を屈めた海幸の髪が乱れ、耳飾りが落ちた。そのまま顔をあげ、大剣の先にいる霹靂を睨みつける。
「海幸!どうして避けなかった!!!お前が庇わずともこいつは後で殺したのに!!!」
思考が停止して口だけが無意味に動いている。俺は…何を、どうして…この國で最も美しく強く高貴なお前が、たかだか人間如きに…!意味が分からない。血液を失った体に冷たいものが降りてくる。気持ちが悪い。自分よりも高貴な神を貫く感触に吐き気が湧いてくる。
“後”というのは“お前を最高神にした後”だ。お前程、崇高な神は存在し得ぬ。お前こそが、最高神になるべきだった________。
俺は、海幸にここで殺される事を望んでいたのか?一瞬、そんな考えが過ぎった。最早怒りを人に振り撒く事しか出来ぬ空っぽな俺のこの命を、幸せに終わらせてくれるのは、ただ海幸だけだと思っていたからだ。空虚だ。何故だ…海幸。お前は俺を殺す事が出来たはずなのに______。
「………………大切なものが、あるからだ…」
海幸はそれだけをぼそりと呟いた。
「か、海幸様!!!あ…あ“…………」
剣の切っ先が一里の目の前に突き出され、血が頬に落ちてくる。彼は手に旗を持ち、霹靂を殴る為に立ち上がろうとしたが…瞬間、その足元を大波が攫っていった。
「嫌だ!!!海幸様!!!置いて行かないでください!お願いします海幸様ッ!!!オレ、ちゃんと戦いますから____________!!!!!!!!!!!!!」
…………………………………………………………………………………………………………………
…ここは何処だろうか、オレはどうなっちゃったんだろう…。
体が溶けていくような暖かさと満遍なく漂う疲労感。春のうたた寝の様な感覚だ。
____おーい!剣!お前トロいぞ〜〜〜〜〜!!
子供の声?誰だろう。剣って……………………
……………ああ、小学生の頃転校していったオレの親友か…、じゃあこの声は昔のオレ?
音が水の中みたいにぼよんぼよんと跳ねて伝わってくる。上も下も分からない浮遊感、自分の体があるのかさえも最早分からない。
………………………………………………………………
波が押しては寄せる音が鮮明に聞こえる。いつもの海だ。いつもの…汽笛の音がして、かつてのオレが磯を走っている。
記憶が曖昧だ。そう言えば、オレはこの時ここで転けて………
バシャン
あ、そうだ。やっぱり転けて海に落ちたんだ。
脳内でTVの映像の様に、海に落ちた過去の自分の映像が流れる。自分の姿を自分で見るなんて不思議な気持ちだ。忘れていた遠い夏の記憶がだんだん蘇ってきている様な気がする。
無力で小さいオレがいとも簡単に波に飲まれ、深い海に消えていくのが見えた。呼吸をしようと必死にあがき、海面に上がっていた泡もいつしか消えた。
海水がダバダバと肺に入ってきて苦しい。息が出来ない。体も自由に動かずただもがいて、もがいて、もがいて…いつしか疲れて…力尽き…諦めて…………………。
…死ぬのかなって思った。子供だから何も分かんなかったけど、ただもう終わっちゃうんだなぁという実感だけがあった。強烈な恐怖がこの記憶に封をしていたのだろう。潮が入って痛む目で煌めく水面が見えた。子供ながらに綺麗だなぁ…ってはじめて思ったものがその水面だった。きめ細やかに光を照り返す海の波綾。
……………………………………………………
…いつの間にかオレは浜辺で微睡んでいた。理由は分からないけど、夕方になってたから“こんな時間に帰るとお母さんに怒られる!”って思って急いで帰った。
帰る途中、浜を歩いていると海の彼方から汽笛の音が響いてきた。意味もなくその方を振り向くと、ただただ赤く大きな夕日が真っ直ぐと一里を見つめ返していた。
………
……
…
…目が覚める。オレは海幸様の大波に攫われ、そのまま川に流されて…いつの間にか浜辺で寝転んでいた。
服の袖を見る…あのひとの血が滲みになっていた。苦しくて、苦しくて、涙が止まらなかった。冷えた体に涙は熱すぎて、声にならない声が喉から漏れて、その場に蹲った。
手の中に、何かある。開くとチラチラと光る耳飾りが入っていた。その光があの日見た波の綾に見え、ふ、と無意識に海を振り返った。
見た事のある景色だ。日が沈みかけている。この場所はあの時の…昔、溺れ死にかけた時に流れ着いた浜辺だった。
…………………息が出来ない。
…そうか、あの時も…
…オレが海に落ちて死にかけたあの時も…
………あのひとが……。
………………………………………………………………………………
「アンタの言う“美しい神”が下々の者に心惑わされず、ただ超然とした存在であるならば…私は美しい神なんぞではない」
…私はなんて馬鹿な神なんだ。結局、憎み切る事が出来なかった。結局、愛を捨てる事が出来なかった。
とても馬鹿だ。神として情けない。それなのに、全く嫌な気持ちが湧いてこない。
一里…
一里、
あの子の名前をあまり呼んであげられなかった事だけが、ちょっとした心残りだ。悔しいから、もう声が出ないけど…形だけでも呼んでみる。
…なんだか笑えてきた。私、泣いてるんだ…。何百年振りだろうか、思い出せない。ただ、かつての人に失望して流した涙よりもずっと暖かい。
街がぼやけて見える。私の愛したあの町だ…波綾の街だ…。私が崩れていく、暖かく柔らかく崩れていく。素直な神でなくごめん。今思うと恥ずかしい。汽笛の音だけが頭に響いて、あの子の事を思うと愛おしくて胸が苦しくなった。
ビビリでドジでちょっと馬鹿っぽい、あの子が…あの子だけが、私の手を握り返してくれた。
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