大國日神記第七話:玉鬘の錦
冷たく荒れ狂うこの海の名は波綾と言う。寒風が吹き荒び、激しい音を立てながら崖に波を打ち付ける様には『波綾』という様な繊細な美しさも暖かさも感じる事は出来ないが、この大國日にその不釣り合いぶりを指摘する人間はいなかった。何故なら、この海は美しい女神の海なのだから。
早朝の険しい海辺に妙齢の女性が一人立っている。
何処までも深い深い藍の瞳に、冷たい白の波が甚だしく映る。彼女の足元には缶やプラスチックゴミが散乱し、波に揺れてカタカタと音を立てていた。
「あ!あ…さ、探しましたよ海幸様ーーー!!」
振り返ると私の愚民がキャイキャイと叫んでいた。私の愚民にしてはよくこの時間に起きれたものだ。それにしてもなんていう間抜け面なのだろうかガタガタと震えている様もあまりに貧相だ。
「…………」
「海幸様!そこら辺は岩だらけで危ないですよ!」
「愚民なんぞに心配される必要はない」
海幸はそう言うとツカツカと早い足取りで神社の方へ向かっていった。
…………………………………………………
「いってきまーす。今日はおっちゃんのとこで魚買うんで良いんだよな〜?」
一里が玄関から彼の母親に問いかけると、母親よりも先に海幸がさっと一里の前に駆け寄ってくる。
「何?商店街へ買い物に行く?私も連れていけ」
高圧的な口調だが、どこか期待に満ち溢れた声だ。一里は恐怖で縮み上がる。
「え!ど、どうしてですかただの買い出しですよ!?」
そんな一里に対して、海幸は有無を言わさないという態度で“商店街に新しくすいーつ店が出来たから連れていけ”と言い放ち、着替えを取りに部屋に戻ってしまった。
………………………………………………
…やばいやばいやばい、オレ、殺される!
慣れた海辺の商店街への買い出しも、今は生きるか死ぬかの行為だ。隣にはとてもすいーつを食べに行くだけとは思えないほどキリリとした衣装を着た海幸がいる。顔が見れない、彼女は怒っているのだろうか…不安だ。
「お!坊主、こんな綺麗なお姉ちゃん連れてどうしたんだ!!!お前ももう十六?十七か?だもんな〜!?……いや〜…あんなに小さかったのになぁ…子供ってのはなぁ、気付くと大人になってるもんだなぁ………」
「な、何言ってんの!?し、失礼だぞおっちゃん!やめろよな!この方…や!この人は親戚だから!」
「ははは、失敬失敬!で、今日は何買いに来たんだ?」
「鯵を三匹ときびなご…」
魚屋の親父はビニールに鯵ときびなごを入れ始め“お姉ちゃん綺麗だからおまけするよ!”なんて笑う。一里はそれを聞き、あまりの不敬ぶりに冷や汗を大量にかいたが、案外海幸は怒ってないようでそのまま受け取っていた。
「あ、おっちゃん。氷いっぱいめに入れてよね。オレ、これから新しく出来たスイーツ店に行くから」
…………………………………………
「………………………」
こんなそわそわしている海幸ははじめて見た。威厳を保とうとしてるのだろうが、それが返ってわくわくを隠し切れていない事を強く感じさせる。一里は彼女の機嫌が良さそうで安心すると同時に、なんだか見てはいけないものを見ているような軽い罪悪感に苛まれていた。
「お待たせ致しましたご注文の『レモンのレアチーズケーキ』です」
ことん、と軽い音を立ててレアチーズケーキが2人の前に置かれる。一里はスイーツが決して嫌いな訳ではないが、それよりも海幸の事が気になって食べるよりも彼女の方を見てしまった。
明らかに目が輝いている。口元が綻んでてなんだか……あまり怖くない、かもしれない。なんて思ってしまった。
この戦いや神々にビビってるのはオレだけじゃないだろ、だってすげー力を持った神々が突然現れて殺し合い!なんておかしい。それでオレが死ぬかもしれないっていうのもあるしね。絶対に死にたくないしこのままじゃ留年しちゃう!!一年半後受験なのに!!!!!
神が怖いんだから海幸様も勿論怖かった。でも、なんだかずっと違和感も感じてた。食べられないか心配だったけど、海幸様はオレを食べたりなんかしないようだった。それに、どっからどう見ても鋭い目つきだけど、不思議とその目自体に怖さは感じなかったからだ。
その違和感がこの綻んだ海幸様の顔を見てスッと無くなった。ただの憶測だけど、この神様はオレが思ってた以上に怖くない神様はなんだ…って気がした。
「食べないのか?」
「あ、は、はい!!すみません海幸様!」
もたついた仕草でレアチーズケーキを口に運ぶ。レモンの匂いがスッと鼻から抜け、不思議と懐かしい感じがして落ち着いた。嬉しそうにケーキを頬張る海幸をチラチラと見ながらケーキを食べていると、戦いの中とはいっても心が安らぐ気持ちがした。
…そういえば、前に戦いに行って銃で撃たれそうになって気絶した時、海幸様がオレを担いで帰ってきてくれたんだっけ。
…………………………………………………
外に出ると水平線の方が赤くなっていた。雲が厚みを持って流れていく様は夏が来た事を思わせる。海幸はぽやっと空を眺めている一里を置いていくようにさっさと海の方へ歩きはじめた。
「あの、ケーキはどうでしたか?」
「悪くない、人間は嫌いだがすいーつは好きだ。すいーつを作れるから生かしてやってるも同然だ」
後ろから焦って追いつき、海幸の顔を見上げる。逆光になってよく見えなかったが、その端正な唇が緩く弧を描いている様に見えた。
賑やかな商店街の音を、こだまする船の汽笛が掻き消し一里の脳みそに溶けていく。石で出来たガタガタの坂を登ったり下ったりしなければ神社にはたどりつけない。少し汗ばんだ顔に海の風が当たって心地いい。どんどん近付いてくる海の美しい綾模様がゆらりゆらりと揺れていた。
………………………………………………
「おかえり、今日もお仕事ありがとうね」
明の指に小さな式神が下りてくる。今日の会議は明の家で冷たい飲み物を飲みながら行われているようだ。いつもの面子が顔を突き合わせ、語るは複数人で食べるはずのロールケーキをそのまま一柱で食べていた。
「錦繍雅、剛毅悼の方で早速動きがあったようね」
「おうおう、じゃあ内容を教えてくれよ」
「はい、私の式神も完璧とは言えませんので情報はかなり断片的な物となりますが。…
…錦繍雅の方で海幸清神と御舞幽玄之神が対峙して幽玄は軽傷。特に今後の戦いに影響があるとは思えなかったのですが、しばらくして彼が帰って来た時には片腕が黒焦げてかなりの深手を負っていました。幽玄を追跡出来なかったから、この傷が誰から付けられたものかは分からないわ。…
…剛毅悼では主である覇頭ノ大詔と勇虜次神、淡雪切神が組んで戦っていたようです。内容は分かりませんでしたが覇頭とその神依児は軽傷、勇虜次は何故か淡雪切の神依児に腹に穴を開けられてましたが、勇虜次の神依児は軽傷…淡雪切神とその神依児は重症を負いましたが、彼は自分の神依児に何かしらのバフをかけているらしく見た目よりは早く回復するんじゃないかと思われます…」
「なるほど、既に最も危険視すべき神々が動き始めてるのか…それでもって海幸清神が無傷となると下手に動いてかち合わないようにしねぇとな。…で、前の話、覚えてるよね?」
「ああ。覚えているよ。既に打撃を受けているところを叩くという事だよね、それならば僕が一番初めに殺すのは淡雪切かな」
「覇頭はおっかねえから儂も嫌じゃ〜!勇虜も強そうだし適度に弱そうなのが良いな!ああ、でも儂はでこっぱちの死ぬとこ、ちょっと見たいかもしれない」
「でこっぱちって誰だよ、御舞幽玄之神か?」
「御舞幽玄之神もそれなりの打撃は受けているようでしたが、その打撃を与えた神が誰なのか分からないので…私は不用意に近付くべきではないと思います」
「なら、やっぱり螭春華に行くか。あそこは山に囲まれた土地だから攻め入るとなるとキツそうだが、神が寝込んでるとなれば比較的安全に落とせそうだな。勇虜次神と螭春華の神依児の様子を見るに勇義焔と螭春華の契約も切れているだろう」
「そうだね、そもそも彼自体大して力の強い神ではない。ただ…
…彼の能力の最も警戒するべきは強化能力だ。人から神威を得る神は自然という無尽蔵の力から得る神よりも圧倒的に火力で劣る。だけど人から得た柔らかい神威は応用力が高く、そもそも人から得たものだから人に還元しやすい…つまり神依児の能力の大幅強化が可能だ。彼自身が動けなかったとしても、軍隊みたいな真面目人間が揃いに揃った螭春華だ。神依児ですらない神社の人間を何人も殺さなくてはきっとお目当てに辿り着けないだろう」
………………………………………
山に囲まれた螭春華に行くのに最もメジャーな方法は函梅宮から伸びている公共交通機関を利用する事だ。その為、稗田・刻之気一行は不振がられない様に神々に変装をさせ、電車で螭春華の付近まで行った。初夏であるにも関わらず明のサイズの大きな服を着た語るはとても着膨れしていたが、それに関してはとても寒がりな人という事でギリギリ誤魔化せただろう。
目当ての場所に降り立つと、二柱はいつの間にか普段の和装に変わっていた。
「…すごい結界。なんだか今まで見てきたものと系統が違う気がするわ」
「ちょっと待て、少し隠れよう」
語るがピシャリとそう言い放った。刻之気の者達よりも武力に勝る稗田がいつも先を歩いている。前方には螭春華の結界が見え、一行はその風下にいた。
「おかしな気だ、先客がいるのか」
語るのその呟きにより一行は身をゆっくりと屈め、茂みの中に隠れる。
「…!?」
突然遥の下唇がぱっくりと裂ける。声も出せずに傷口を両手で抑えた…気付かれているのか?何も分からない。ただ、流れ出てくる血液が異様に塩辛かった。
……………………………………………………
「雑兵がいるな、」
海幸の手先で小さな波が発生して揺れている。一里は“えっ!?敵!?敵!?”などと焦りながら辺りをキョロキョロと見回していた。
最も前に立っている語るは後ろの皆に“下がれ”という合図を送る。まだ相手に正確な位置はバレていないだろう。遥達はじわりじわりと後退した。
海幸はキッとそちらの方向を睨みつけ、波の中から一条の槍を手に取る。繊細な模様が描かれた、細身の槍だ。
螭春華の結界が近くにあるせいで正確な位置は特定できなかったが“雑兵”の気が後退するのを確認すれば、そのまま螭春華の結界を見上げた。
背の高い夏草を踏みあだし、胸を張って進む。逃げも隠れもしないといった態度である。
…………………………………………
「まずい、アレは海幸だね」
急いで離れた場所に出た一行は荒い息をしながらその場で項垂(うなだ)れていた。遥の傷は既に往疫祓が治してしまったようだ。
「アレが………そうか………」
「うん、本格的にかち合う前に逃げ切れて良かった。彼女の目的は僕達ではなくて螭春華なのだろう。下手に動かなければ安全なはずだ」
「でも語る様、あれほどまでに圧倒的な海幸清神がこのまま螭春華の神を喰ってしまったら…まずくはないですか…?」
明は運動など今までそんなにしてこなかったのだろう、特に息が切れている。
「明、それは大丈夫だ。海幸清神が淡雪切神を喰った所でこれといったメリットはない。神威に関してもそうだし、能力に関してもそうだ。海幸の高火力な神威や能力の正反対を行き…かつ、かなり格下の相手を喰った所で彼女は然程強化されたりしないだろう」
「ならば、彼女はどうしてここを襲うのでしょうか…?倒しやすい所から倒しておくという事、なのかしら…」
「いや、きっとそんな事ではない。…
…僕にはよく分からないが、神にも色々な思想…派閥…そう言った物がある。海幸が先に狙ったのが幽玄だという事は、思想的に自分と対立する勢力を潰そうという魂胆なのだろう。幽玄と淡雪切は人間を愛し守る神だ。反対に、海幸は人間に厳しい態度を取る神だ。きっと彼女は人間を甘やかし過ぎた結果がこの殺し合いなんだと、考えているんじゃないかな」
………………………………………………………………
シャラリシャラリと軽い鈴の音が神社内に響き渡る。結界に神威を持った者が触れた音だ。蘇勒は傍に置いていた刀を握りしめる。目の下には濃い隈が刻まれて、一層目付きが鋭くなってしまっていた。
怪我を負ったが、あの日から一睡もしていない。俺が側から離れたから駄目だったんだ、そういった気持ちから雪様が起きて戦えるようになるまで少しも離れたり眠ったりしようという気が湧いてこなかった。
幸い、雪の能力のおかげで蘇勒の怪我は治ってきている。元から傷が治るのは早い方だったが、それでも人間基準で見ると異常な速度だ。雪曰く、自然治癒力を強化しているだけでちゃんとした治療では無いとの事だったがそれでも十分な様だ。
雪は軽く目を閉じて眠っている。日に何度か起きて軽く会話をしてくれるものの、こうやってただ眠っているだけだとその無機質さが人間とは違う存在である事をひしひしと感じられて不安だった。
勇虜次が神威を大量に分けた事によって傷は異常なほど早く治っている。人間だったら失血死していたであろう怪我にも関わらず、もう起きて話をする事ができるようだ。
割れた磁器も壊れた人体も完全には戻らない。例え修理しても細やかな割れ目や縫合跡がどうしても出来てしまう。それなのに彼の肌は一切傷の存在を感じさせないように、肌の白に傷が飲み込まれるように治っていった。
「蘇勒、お姉ちゃん達が心配か?」
「いえ、それは大丈夫です。それよりも雪様、ここから逃げますか…?」
「いや、大丈夫だよ。今の私には血の匂いが付いてるから、逃げ出した先で他の神に見つかっては危険だ。…それに、彼女もここまでは来れないだろう」
「雪様、それは本当ですか?危ない賭けはしないでください。貴方がここの人を大切に思ってるのは分かります。ですが螭春華の人々は貴方の為に死ぬのなんて本望ですから、自身のお体の事を一番に考えてください」
「大丈夫。ここの人は死にはしないよ…彼女は、…
…優しい神様だから」
……………………………………………………………………………
「海幸様!何かおかしな物に触りましたよ!これって大丈夫なんですか!?」
「……………」
海幸は一里の質問には答えず、一里の顔目掛けて飛んできた矢を槍で叩き落とした。一里は悲鳴を挙げてまた錦繍雅の時みたいに失神しそうになったが、海幸がそれを叩き起こす。
「人が可愛いのじゃないのか、何故人を戦場に立たす」
海幸は歯軋りをしながら口の中でそう呟くと深く茂った木々を一気に薙ぎ払う。すると若い女性の掛け声と共にあらゆる方向から矢が放たれた。が、それも簡単に彼女の波に攫われた。
「出てこい、愚民共が!」
深い森の中からゾロゾロと武装をした人々が出てくる。老人も若者も男も女もいるが、そのほぼ全てが濃い金色の目に黒い髪をしていた。
「私は螭春華の一尺八寸 詩桜!この隊の長です!ここから先に進むと言うのなら、私達を殺してから行きなさい!」
集団を仕切っていると思われる若い女性がそう言い放つ。海幸は人間なんぞに賜う言葉などないと言う風に指を操(く)り、波で彼女の頬の表面を切り裂いた。
彼女は怯む事なく懐から短刀を取り出して構える。海幸にはその意味が分からない、ただ怒りだけが湧いてきた。目の前のか弱い人間に対してでは無い、彼女らを戦場に立たせている神にだ。
女は走って海幸に向い短刀を振り上げる。海幸はいとも簡単に彼女の攻撃を避け、彼女のうなじを槍の柄で打った。彼女が倒れると共にまた一斉に矢が放たれる。それもまた全て波で攫われて、海幸の足元で海水と共に矢が揺れていた。
「愚民などと戯れている暇はない」
キッとそう言い放ち、海幸が歩みを進めようと片足を上げる。すると気絶していたと思われた女がその足をグッと両手で握りしめた。
「ここから先に進むと言うのなら、私達を殺してから行きなさい」
鼻血塗れの顔で海幸を見上げる。強い意志を宿した金の瞳が鮮烈に光った。
スッと頭が白くなる感覚がした。瞬間的に溢れ出した怒りを彼女…たかが人間一人にぶつける。彼女の体は容易く吹き飛び、近くの大木に背中をぶつけて口から血を吹き出した。一里はその画に衝撃に海幸の顔を見上げる。
彼女は空っぽで乾燥した顔をしていた。ただ深海の様に暗く虚な眼差しで、血を吐き咽せる弱い者を眺めている。
「下らん、興が冷めた」
踵を返す。心底やる気を失った顔で足早にその場を離れていく。
………………………………………………………
一里が焦って色々と呟いているのが頭に響いている。独り言なのか質問なのかその内容は分からない。
ただ、私の頭の中で非常に不愉快な熱いものがぐるぐると渦巻いているのだけが分かる。
私、苦しんでいるのか。悲しんでいるのか。怒っているのか…。
ただ許せない。この期に及んで人っ子一人殺める事が出来なかった私が、人間を愛していると言いながら、神依児ですらない人間が命を投げ出して自分を守らんとする事を是とするあの神が。
人の命なんか短い。私達にとってみればその短い時間をわざわざ苦しみながら生きる意味など感じられないくらいだ。そんな、ただでさえ無いも同然の命をどうして簡単に捨てられるのか。理解出来ないどころか歪に思う。儚い人間を騙し、その神を尊敬する心や、信心深い心、そして愛情を醜く踏み躙(にじ)っているようだ。
この神喰いが発表された時、私は涙の一滴も出やしなかった。それでも、自分が既に諦めていると思っていた事柄を、未だ心中で諦め切る事が出来ていなかったと気付いて情けなかった。しかし、それ以上に諦めているとしながらも存在した淡い期待を裏切られ、心苦しかったのだ。
憎しみと悲しみが、津波のように心を黒々と飲み込んでいく様だ。
荒涼とした空気の中で一柱だけ女々しく袖を濡らしている神がいた。それがあの神だ、淡雪切神だ。私は最高神として情けないと思うより、“羨ましい”と思った。
今まで人に懐疑心を覚える事は無かったのだろうか?いくら愛しているとは言え、人は大罪を犯して犯して犯してきたものだ。彼は無邪気に、無知に、盲目的に、人を信じてきたのだろう。なんてお気楽で…羨ましい。そしてかつての私の様に愚かだ。
何を今更、人間がこうなったのは今この瞬間ではない。彼らは何十年何百年とかけ神々への敬意を忘れ、自身らを全能だと思い込み、自然やこの世の摂理を捻じ曲げてきた!
愛する事は目を瞑る事だ。馬鹿になる事だ狂う事だ。私にはそんな事出来ない。愛そうと思っても憎もうと思っても出来ない。
…彼ら人を愛し続ける事の出来る神を盲目で羨ましいと思うからこそ許せない。何千年もの恩義を忘れ、私達に牙を剥いた人など許す事なんか出来ない。まして愛するなんて馬鹿馬鹿しい。そう思うのに私は、か弱い人間の一人すら殺める事も出来ぬのか、…
……………………………………………………………………………
陽光が差し込まぬ為、常に地面がぬかるんでいて仄かに黴の臭いが鼻腔をくすぐってくる。忌繰り神社は大國日の中でも特に深い森の中に位置していた。
天之御園彦(アマノミクニヒコ)と七々扇 慶祷(ナナオウギ ケイト)はその社の奥でただジ…っと身を寄せ合っていた。何も喋る事もない、一緒にいる理由はただ落ち着くから、そんな関係だ。彼らはこの社に近付かんとする者の気配を察知している、が、動かない。
七々扇 慶祷が切った天之御園彦の髪が地に落ち、炎もあげずにチリチリと燃えている。結界も他の神社とは一線を画していた。“呪い”というのに何故か返って禍々しさは感じない。シンと静かで冷たい鍾乳洞の様な空気を纏っている。
森の前に立った丹羽と大耀は少々臆したものの二人で顔を見合わせ、一歩ずつ森の中へと歩みを進めた。
…………………………………………………………………
「見て、よりひとクン!そろそろ始めるよ〜呪いと禁厭のお祭りが!」
そうやって笑う喋喋喃喃の横には長い髪をした男性が立っている。彼は注連野 依人(シメノ ヨリヒト)と言うようだ。喋喋喃喃の話に反応せず、ただ喋喋喃喃の持っている鏡に映った丹羽造と鬼怒川 大耀の姿を眺めている。
「も〜よりひとクンったら!照れないでもっとこっち来てよ❤️ボクたち、カレカノ、でしょ?❤️」
喋喋喃喃がそう言って笑う、いつもよりずっと甘ったるい声だ。
「も〜、ボクが他の男のとこに行ってたから怒ってるの?可愛いネ、よりひとクン。でも安心してよ、ボクはあんなしょんべん臭いガキよりもよりひとクンのが好きだよ!❤️それに〜…
…あの子の事は利用してるだけだから❤️ボクとよりひとクンだけの世界の礎になってもらうんだ」
…………………………………………………………………………
頭が動かない。俺は何がしたいんだ。
怒りに駆られ、ただ人を殺し尽くしても何も得る事が出来なかった。何も感じられない。
未だ現実味が湧いてこない、彼女の姿が頭に浮かぶ。俺のこの心はなんだ何も分からない、死の実感が湧いてきたのか?なんなのか…
「霹靂様!ボクは弓矢の練習をしてきます!いよいよですからね!」
ハッとする。季四が何と言っていたら分からんがとりあえずうん、と答えておいた。
季四は目を輝かせ“それでは行ってきます!”と元気よく叫び、外に駆け出していった。
………………………………………………………………………………………………
人は秋頃はらはら降りてくる無数の葉の様なものだ。あまりにも無数にあり過ぎてその一つ一つに感情を覚えたり認識したりはしない。ただ、時々“綺麗だな”と思う一枚が降りてくるだけのものだ。
人を幾ら殺そうとも心は痛まない。ただ破壊される肉体を眺めるだけだ。人は幾ら殺そうともわらわらと増えてくる、そして愚行を繰り返す。増えては繰り返し、また増え繰り返す。だからそんな物の一つ一つに感情を覚えたり認識したりはしない。
…ただ、時々“悪くはない”と思う一人がいるだけ…それが俺の神依児となっただけだ。
…………………………………………………………………………………………………
暗雲が雷丘を中心に蟠(とぐろ)巻きて空を埋め尽くす。針の様な冷たく尖った雨が降る中で祝詞の言葉が途切れ途切れに人の耳に届いていた。手が悴(かじか)み赤くなった人間達が泥だらけで祈っている、神に赦しを乞うている。
次第にその蟠は大きく、厚く、暗々しくなり、軽く空気の破裂するような音が空から放たれ始める。そして音が加速する、増える、近づいて来る。
__________カッ、と一閃。一瞬のうちに視界は白く飛んで気付けば目の前の大木が真っ二つに裂け、豪雨の中で炎を挙げ始めていた。遅れて轟音と激痛が身体中に響き、誰しもが地に伏した。体が飲み込まれていく、ただただ強い存在によって破壊されていく。
暗闇の中に一人男が立っていた。六尺を超える長身に刃の様に冷たく研ぎ澄まされた怒気と美しさを湛えた金の瞳を持っている。視線が交わって、季四の体内が狂おしい程の感激の波に満たされる。
これが彼(か)の神…この國の怒りを表す暴れ神、霹靂であった。
今まで平穏で幸せな生活を送ってきた季四にとってこれ程までの興奮はなかった。彼は長子でもなく、それほど勉学や運動などに期待されている訳でもなく、何が特別苦手な事がある訳でもなく、普通に友達もおり、モテはしないものの心に負担を負った事などなかった。
命を賭ける戦いに出たいと言い出したのも本当は十二幻神を一目見てみたかったからだ。そして、今会えた。神が自分の名前を呼んでくれる度に体が震える。とても…嬉しい。感激だ。
神は寡黙な神だった。不必要な会話は失礼かと多少は思ったものの、話せば素っ気なく返答してくれる。
彼に触れたりする訳でも、毎日笑いあったりする訳でもない。そうであっても、運命とかそういうのではないけれど…ボクの神様は何があってもこの方なのだという感覚がしっかりとある。戦いに赴く彼の方の背中には何か重々しいものを感じたけれど、霹靂様の事だ。なんとかなる、と思った。
早朝の険しい海辺に妙齢の女性が一人立っている。
何処までも深い深い藍の瞳に、冷たい白の波が甚だしく映る。彼女の足元には缶やプラスチックゴミが散乱し、波に揺れてカタカタと音を立てていた。
「あ!あ…さ、探しましたよ海幸様ーーー!!」
振り返ると私の愚民がキャイキャイと叫んでいた。私の愚民にしてはよくこの時間に起きれたものだ。それにしてもなんていう間抜け面なのだろうかガタガタと震えている様もあまりに貧相だ。
「…………」
「海幸様!そこら辺は岩だらけで危ないですよ!」
「愚民なんぞに心配される必要はない」
海幸はそう言うとツカツカと早い足取りで神社の方へ向かっていった。
…………………………………………………
「いってきまーす。今日はおっちゃんのとこで魚買うんで良いんだよな〜?」
一里が玄関から彼の母親に問いかけると、母親よりも先に海幸がさっと一里の前に駆け寄ってくる。
「何?商店街へ買い物に行く?私も連れていけ」
高圧的な口調だが、どこか期待に満ち溢れた声だ。一里は恐怖で縮み上がる。
「え!ど、どうしてですかただの買い出しですよ!?」
そんな一里に対して、海幸は有無を言わさないという態度で“商店街に新しくすいーつ店が出来たから連れていけ”と言い放ち、着替えを取りに部屋に戻ってしまった。
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…やばいやばいやばい、オレ、殺される!
慣れた海辺の商店街への買い出しも、今は生きるか死ぬかの行為だ。隣にはとてもすいーつを食べに行くだけとは思えないほどキリリとした衣装を着た海幸がいる。顔が見れない、彼女は怒っているのだろうか…不安だ。
「お!坊主、こんな綺麗なお姉ちゃん連れてどうしたんだ!!!お前ももう十六?十七か?だもんな〜!?……いや〜…あんなに小さかったのになぁ…子供ってのはなぁ、気付くと大人になってるもんだなぁ………」
「な、何言ってんの!?し、失礼だぞおっちゃん!やめろよな!この方…や!この人は親戚だから!」
「ははは、失敬失敬!で、今日は何買いに来たんだ?」
「鯵を三匹ときびなご…」
魚屋の親父はビニールに鯵ときびなごを入れ始め“お姉ちゃん綺麗だからおまけするよ!”なんて笑う。一里はそれを聞き、あまりの不敬ぶりに冷や汗を大量にかいたが、案外海幸は怒ってないようでそのまま受け取っていた。
「あ、おっちゃん。氷いっぱいめに入れてよね。オレ、これから新しく出来たスイーツ店に行くから」
…………………………………………
「………………………」
こんなそわそわしている海幸ははじめて見た。威厳を保とうとしてるのだろうが、それが返ってわくわくを隠し切れていない事を強く感じさせる。一里は彼女の機嫌が良さそうで安心すると同時に、なんだか見てはいけないものを見ているような軽い罪悪感に苛まれていた。
「お待たせ致しましたご注文の『レモンのレアチーズケーキ』です」
ことん、と軽い音を立ててレアチーズケーキが2人の前に置かれる。一里はスイーツが決して嫌いな訳ではないが、それよりも海幸の事が気になって食べるよりも彼女の方を見てしまった。
明らかに目が輝いている。口元が綻んでてなんだか……あまり怖くない、かもしれない。なんて思ってしまった。
この戦いや神々にビビってるのはオレだけじゃないだろ、だってすげー力を持った神々が突然現れて殺し合い!なんておかしい。それでオレが死ぬかもしれないっていうのもあるしね。絶対に死にたくないしこのままじゃ留年しちゃう!!一年半後受験なのに!!!!!
神が怖いんだから海幸様も勿論怖かった。でも、なんだかずっと違和感も感じてた。食べられないか心配だったけど、海幸様はオレを食べたりなんかしないようだった。それに、どっからどう見ても鋭い目つきだけど、不思議とその目自体に怖さは感じなかったからだ。
その違和感がこの綻んだ海幸様の顔を見てスッと無くなった。ただの憶測だけど、この神様はオレが思ってた以上に怖くない神様はなんだ…って気がした。
「食べないのか?」
「あ、は、はい!!すみません海幸様!」
もたついた仕草でレアチーズケーキを口に運ぶ。レモンの匂いがスッと鼻から抜け、不思議と懐かしい感じがして落ち着いた。嬉しそうにケーキを頬張る海幸をチラチラと見ながらケーキを食べていると、戦いの中とはいっても心が安らぐ気持ちがした。
…そういえば、前に戦いに行って銃で撃たれそうになって気絶した時、海幸様がオレを担いで帰ってきてくれたんだっけ。
…………………………………………………
外に出ると水平線の方が赤くなっていた。雲が厚みを持って流れていく様は夏が来た事を思わせる。海幸はぽやっと空を眺めている一里を置いていくようにさっさと海の方へ歩きはじめた。
「あの、ケーキはどうでしたか?」
「悪くない、人間は嫌いだがすいーつは好きだ。すいーつを作れるから生かしてやってるも同然だ」
後ろから焦って追いつき、海幸の顔を見上げる。逆光になってよく見えなかったが、その端正な唇が緩く弧を描いている様に見えた。
賑やかな商店街の音を、こだまする船の汽笛が掻き消し一里の脳みそに溶けていく。石で出来たガタガタの坂を登ったり下ったりしなければ神社にはたどりつけない。少し汗ばんだ顔に海の風が当たって心地いい。どんどん近付いてくる海の美しい綾模様がゆらりゆらりと揺れていた。
………………………………………………
「おかえり、今日もお仕事ありがとうね」
明の指に小さな式神が下りてくる。今日の会議は明の家で冷たい飲み物を飲みながら行われているようだ。いつもの面子が顔を突き合わせ、語るは複数人で食べるはずのロールケーキをそのまま一柱で食べていた。
「錦繍雅、剛毅悼の方で早速動きがあったようね」
「おうおう、じゃあ内容を教えてくれよ」
「はい、私の式神も完璧とは言えませんので情報はかなり断片的な物となりますが。…
…錦繍雅の方で海幸清神と御舞幽玄之神が対峙して幽玄は軽傷。特に今後の戦いに影響があるとは思えなかったのですが、しばらくして彼が帰って来た時には片腕が黒焦げてかなりの深手を負っていました。幽玄を追跡出来なかったから、この傷が誰から付けられたものかは分からないわ。…
…剛毅悼では主である覇頭ノ大詔と勇虜次神、淡雪切神が組んで戦っていたようです。内容は分かりませんでしたが覇頭とその神依児は軽傷、勇虜次は何故か淡雪切の神依児に腹に穴を開けられてましたが、勇虜次の神依児は軽傷…淡雪切神とその神依児は重症を負いましたが、彼は自分の神依児に何かしらのバフをかけているらしく見た目よりは早く回復するんじゃないかと思われます…」
「なるほど、既に最も危険視すべき神々が動き始めてるのか…それでもって海幸清神が無傷となると下手に動いてかち合わないようにしねぇとな。…で、前の話、覚えてるよね?」
「ああ。覚えているよ。既に打撃を受けているところを叩くという事だよね、それならば僕が一番初めに殺すのは淡雪切かな」
「覇頭はおっかねえから儂も嫌じゃ〜!勇虜も強そうだし適度に弱そうなのが良いな!ああ、でも儂はでこっぱちの死ぬとこ、ちょっと見たいかもしれない」
「でこっぱちって誰だよ、御舞幽玄之神か?」
「御舞幽玄之神もそれなりの打撃は受けているようでしたが、その打撃を与えた神が誰なのか分からないので…私は不用意に近付くべきではないと思います」
「なら、やっぱり螭春華に行くか。あそこは山に囲まれた土地だから攻め入るとなるとキツそうだが、神が寝込んでるとなれば比較的安全に落とせそうだな。勇虜次神と螭春華の神依児の様子を見るに勇義焔と螭春華の契約も切れているだろう」
「そうだね、そもそも彼自体大して力の強い神ではない。ただ…
…彼の能力の最も警戒するべきは強化能力だ。人から神威を得る神は自然という無尽蔵の力から得る神よりも圧倒的に火力で劣る。だけど人から得た柔らかい神威は応用力が高く、そもそも人から得たものだから人に還元しやすい…つまり神依児の能力の大幅強化が可能だ。彼自身が動けなかったとしても、軍隊みたいな真面目人間が揃いに揃った螭春華だ。神依児ですらない神社の人間を何人も殺さなくてはきっとお目当てに辿り着けないだろう」
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山に囲まれた螭春華に行くのに最もメジャーな方法は函梅宮から伸びている公共交通機関を利用する事だ。その為、稗田・刻之気一行は不振がられない様に神々に変装をさせ、電車で螭春華の付近まで行った。初夏であるにも関わらず明のサイズの大きな服を着た語るはとても着膨れしていたが、それに関してはとても寒がりな人という事でギリギリ誤魔化せただろう。
目当ての場所に降り立つと、二柱はいつの間にか普段の和装に変わっていた。
「…すごい結界。なんだか今まで見てきたものと系統が違う気がするわ」
「ちょっと待て、少し隠れよう」
語るがピシャリとそう言い放った。刻之気の者達よりも武力に勝る稗田がいつも先を歩いている。前方には螭春華の結界が見え、一行はその風下にいた。
「おかしな気だ、先客がいるのか」
語るのその呟きにより一行は身をゆっくりと屈め、茂みの中に隠れる。
「…!?」
突然遥の下唇がぱっくりと裂ける。声も出せずに傷口を両手で抑えた…気付かれているのか?何も分からない。ただ、流れ出てくる血液が異様に塩辛かった。
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「雑兵がいるな、」
海幸の手先で小さな波が発生して揺れている。一里は“えっ!?敵!?敵!?”などと焦りながら辺りをキョロキョロと見回していた。
最も前に立っている語るは後ろの皆に“下がれ”という合図を送る。まだ相手に正確な位置はバレていないだろう。遥達はじわりじわりと後退した。
海幸はキッとそちらの方向を睨みつけ、波の中から一条の槍を手に取る。繊細な模様が描かれた、細身の槍だ。
螭春華の結界が近くにあるせいで正確な位置は特定できなかったが“雑兵”の気が後退するのを確認すれば、そのまま螭春華の結界を見上げた。
背の高い夏草を踏みあだし、胸を張って進む。逃げも隠れもしないといった態度である。
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「まずい、アレは海幸だね」
急いで離れた場所に出た一行は荒い息をしながらその場で項垂(うなだ)れていた。遥の傷は既に往疫祓が治してしまったようだ。
「アレが………そうか………」
「うん、本格的にかち合う前に逃げ切れて良かった。彼女の目的は僕達ではなくて螭春華なのだろう。下手に動かなければ安全なはずだ」
「でも語る様、あれほどまでに圧倒的な海幸清神がこのまま螭春華の神を喰ってしまったら…まずくはないですか…?」
明は運動など今までそんなにしてこなかったのだろう、特に息が切れている。
「明、それは大丈夫だ。海幸清神が淡雪切神を喰った所でこれといったメリットはない。神威に関してもそうだし、能力に関してもそうだ。海幸の高火力な神威や能力の正反対を行き…かつ、かなり格下の相手を喰った所で彼女は然程強化されたりしないだろう」
「ならば、彼女はどうしてここを襲うのでしょうか…?倒しやすい所から倒しておくという事、なのかしら…」
「いや、きっとそんな事ではない。…
…僕にはよく分からないが、神にも色々な思想…派閥…そう言った物がある。海幸が先に狙ったのが幽玄だという事は、思想的に自分と対立する勢力を潰そうという魂胆なのだろう。幽玄と淡雪切は人間を愛し守る神だ。反対に、海幸は人間に厳しい態度を取る神だ。きっと彼女は人間を甘やかし過ぎた結果がこの殺し合いなんだと、考えているんじゃないかな」
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シャラリシャラリと軽い鈴の音が神社内に響き渡る。結界に神威を持った者が触れた音だ。蘇勒は傍に置いていた刀を握りしめる。目の下には濃い隈が刻まれて、一層目付きが鋭くなってしまっていた。
怪我を負ったが、あの日から一睡もしていない。俺が側から離れたから駄目だったんだ、そういった気持ちから雪様が起きて戦えるようになるまで少しも離れたり眠ったりしようという気が湧いてこなかった。
幸い、雪の能力のおかげで蘇勒の怪我は治ってきている。元から傷が治るのは早い方だったが、それでも人間基準で見ると異常な速度だ。雪曰く、自然治癒力を強化しているだけでちゃんとした治療では無いとの事だったがそれでも十分な様だ。
雪は軽く目を閉じて眠っている。日に何度か起きて軽く会話をしてくれるものの、こうやってただ眠っているだけだとその無機質さが人間とは違う存在である事をひしひしと感じられて不安だった。
勇虜次が神威を大量に分けた事によって傷は異常なほど早く治っている。人間だったら失血死していたであろう怪我にも関わらず、もう起きて話をする事ができるようだ。
割れた磁器も壊れた人体も完全には戻らない。例え修理しても細やかな割れ目や縫合跡がどうしても出来てしまう。それなのに彼の肌は一切傷の存在を感じさせないように、肌の白に傷が飲み込まれるように治っていった。
「蘇勒、お姉ちゃん達が心配か?」
「いえ、それは大丈夫です。それよりも雪様、ここから逃げますか…?」
「いや、大丈夫だよ。今の私には血の匂いが付いてるから、逃げ出した先で他の神に見つかっては危険だ。…それに、彼女もここまでは来れないだろう」
「雪様、それは本当ですか?危ない賭けはしないでください。貴方がここの人を大切に思ってるのは分かります。ですが螭春華の人々は貴方の為に死ぬのなんて本望ですから、自身のお体の事を一番に考えてください」
「大丈夫。ここの人は死にはしないよ…彼女は、…
…優しい神様だから」
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「海幸様!何かおかしな物に触りましたよ!これって大丈夫なんですか!?」
「……………」
海幸は一里の質問には答えず、一里の顔目掛けて飛んできた矢を槍で叩き落とした。一里は悲鳴を挙げてまた錦繍雅の時みたいに失神しそうになったが、海幸がそれを叩き起こす。
「人が可愛いのじゃないのか、何故人を戦場に立たす」
海幸は歯軋りをしながら口の中でそう呟くと深く茂った木々を一気に薙ぎ払う。すると若い女性の掛け声と共にあらゆる方向から矢が放たれた。が、それも簡単に彼女の波に攫われた。
「出てこい、愚民共が!」
深い森の中からゾロゾロと武装をした人々が出てくる。老人も若者も男も女もいるが、そのほぼ全てが濃い金色の目に黒い髪をしていた。
「私は螭春華の一尺八寸 詩桜!この隊の長です!ここから先に進むと言うのなら、私達を殺してから行きなさい!」
集団を仕切っていると思われる若い女性がそう言い放つ。海幸は人間なんぞに賜う言葉などないと言う風に指を操(く)り、波で彼女の頬の表面を切り裂いた。
彼女は怯む事なく懐から短刀を取り出して構える。海幸にはその意味が分からない、ただ怒りだけが湧いてきた。目の前のか弱い人間に対してでは無い、彼女らを戦場に立たせている神にだ。
女は走って海幸に向い短刀を振り上げる。海幸はいとも簡単に彼女の攻撃を避け、彼女のうなじを槍の柄で打った。彼女が倒れると共にまた一斉に矢が放たれる。それもまた全て波で攫われて、海幸の足元で海水と共に矢が揺れていた。
「愚民などと戯れている暇はない」
キッとそう言い放ち、海幸が歩みを進めようと片足を上げる。すると気絶していたと思われた女がその足をグッと両手で握りしめた。
「ここから先に進むと言うのなら、私達を殺してから行きなさい」
鼻血塗れの顔で海幸を見上げる。強い意志を宿した金の瞳が鮮烈に光った。
スッと頭が白くなる感覚がした。瞬間的に溢れ出した怒りを彼女…たかが人間一人にぶつける。彼女の体は容易く吹き飛び、近くの大木に背中をぶつけて口から血を吹き出した。一里はその画に衝撃に海幸の顔を見上げる。
彼女は空っぽで乾燥した顔をしていた。ただ深海の様に暗く虚な眼差しで、血を吐き咽せる弱い者を眺めている。
「下らん、興が冷めた」
踵を返す。心底やる気を失った顔で足早にその場を離れていく。
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一里が焦って色々と呟いているのが頭に響いている。独り言なのか質問なのかその内容は分からない。
ただ、私の頭の中で非常に不愉快な熱いものがぐるぐると渦巻いているのだけが分かる。
私、苦しんでいるのか。悲しんでいるのか。怒っているのか…。
ただ許せない。この期に及んで人っ子一人殺める事が出来なかった私が、人間を愛していると言いながら、神依児ですらない人間が命を投げ出して自分を守らんとする事を是とするあの神が。
人の命なんか短い。私達にとってみればその短い時間をわざわざ苦しみながら生きる意味など感じられないくらいだ。そんな、ただでさえ無いも同然の命をどうして簡単に捨てられるのか。理解出来ないどころか歪に思う。儚い人間を騙し、その神を尊敬する心や、信心深い心、そして愛情を醜く踏み躙(にじ)っているようだ。
この神喰いが発表された時、私は涙の一滴も出やしなかった。それでも、自分が既に諦めていると思っていた事柄を、未だ心中で諦め切る事が出来ていなかったと気付いて情けなかった。しかし、それ以上に諦めているとしながらも存在した淡い期待を裏切られ、心苦しかったのだ。
憎しみと悲しみが、津波のように心を黒々と飲み込んでいく様だ。
荒涼とした空気の中で一柱だけ女々しく袖を濡らしている神がいた。それがあの神だ、淡雪切神だ。私は最高神として情けないと思うより、“羨ましい”と思った。
今まで人に懐疑心を覚える事は無かったのだろうか?いくら愛しているとは言え、人は大罪を犯して犯して犯してきたものだ。彼は無邪気に、無知に、盲目的に、人を信じてきたのだろう。なんてお気楽で…羨ましい。そしてかつての私の様に愚かだ。
何を今更、人間がこうなったのは今この瞬間ではない。彼らは何十年何百年とかけ神々への敬意を忘れ、自身らを全能だと思い込み、自然やこの世の摂理を捻じ曲げてきた!
愛する事は目を瞑る事だ。馬鹿になる事だ狂う事だ。私にはそんな事出来ない。愛そうと思っても憎もうと思っても出来ない。
…彼ら人を愛し続ける事の出来る神を盲目で羨ましいと思うからこそ許せない。何千年もの恩義を忘れ、私達に牙を剥いた人など許す事なんか出来ない。まして愛するなんて馬鹿馬鹿しい。そう思うのに私は、か弱い人間の一人すら殺める事も出来ぬのか、…
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陽光が差し込まぬ為、常に地面がぬかるんでいて仄かに黴の臭いが鼻腔をくすぐってくる。忌繰り神社は大國日の中でも特に深い森の中に位置していた。
天之御園彦(アマノミクニヒコ)と七々扇 慶祷(ナナオウギ ケイト)はその社の奥でただジ…っと身を寄せ合っていた。何も喋る事もない、一緒にいる理由はただ落ち着くから、そんな関係だ。彼らはこの社に近付かんとする者の気配を察知している、が、動かない。
七々扇 慶祷が切った天之御園彦の髪が地に落ち、炎もあげずにチリチリと燃えている。結界も他の神社とは一線を画していた。“呪い”というのに何故か返って禍々しさは感じない。シンと静かで冷たい鍾乳洞の様な空気を纏っている。
森の前に立った丹羽と大耀は少々臆したものの二人で顔を見合わせ、一歩ずつ森の中へと歩みを進めた。
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「見て、よりひとクン!そろそろ始めるよ〜呪いと禁厭のお祭りが!」
そうやって笑う喋喋喃喃の横には長い髪をした男性が立っている。彼は注連野 依人(シメノ ヨリヒト)と言うようだ。喋喋喃喃の話に反応せず、ただ喋喋喃喃の持っている鏡に映った丹羽造と鬼怒川 大耀の姿を眺めている。
「も〜よりひとクンったら!照れないでもっとこっち来てよ❤️ボクたち、カレカノ、でしょ?❤️」
喋喋喃喃がそう言って笑う、いつもよりずっと甘ったるい声だ。
「も〜、ボクが他の男のとこに行ってたから怒ってるの?可愛いネ、よりひとクン。でも安心してよ、ボクはあんなしょんべん臭いガキよりもよりひとクンのが好きだよ!❤️それに〜…
…あの子の事は利用してるだけだから❤️ボクとよりひとクンだけの世界の礎になってもらうんだ」
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頭が動かない。俺は何がしたいんだ。
怒りに駆られ、ただ人を殺し尽くしても何も得る事が出来なかった。何も感じられない。
未だ現実味が湧いてこない、彼女の姿が頭に浮かぶ。俺のこの心はなんだ何も分からない、死の実感が湧いてきたのか?なんなのか…
「霹靂様!ボクは弓矢の練習をしてきます!いよいよですからね!」
ハッとする。季四が何と言っていたら分からんがとりあえずうん、と答えておいた。
季四は目を輝かせ“それでは行ってきます!”と元気よく叫び、外に駆け出していった。
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人は秋頃はらはら降りてくる無数の葉の様なものだ。あまりにも無数にあり過ぎてその一つ一つに感情を覚えたり認識したりはしない。ただ、時々“綺麗だな”と思う一枚が降りてくるだけのものだ。
人を幾ら殺そうとも心は痛まない。ただ破壊される肉体を眺めるだけだ。人は幾ら殺そうともわらわらと増えてくる、そして愚行を繰り返す。増えては繰り返し、また増え繰り返す。だからそんな物の一つ一つに感情を覚えたり認識したりはしない。
…ただ、時々“悪くはない”と思う一人がいるだけ…それが俺の神依児となっただけだ。
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暗雲が雷丘を中心に蟠(とぐろ)巻きて空を埋め尽くす。針の様な冷たく尖った雨が降る中で祝詞の言葉が途切れ途切れに人の耳に届いていた。手が悴(かじか)み赤くなった人間達が泥だらけで祈っている、神に赦しを乞うている。
次第にその蟠は大きく、厚く、暗々しくなり、軽く空気の破裂するような音が空から放たれ始める。そして音が加速する、増える、近づいて来る。
__________カッ、と一閃。一瞬のうちに視界は白く飛んで気付けば目の前の大木が真っ二つに裂け、豪雨の中で炎を挙げ始めていた。遅れて轟音と激痛が身体中に響き、誰しもが地に伏した。体が飲み込まれていく、ただただ強い存在によって破壊されていく。
暗闇の中に一人男が立っていた。六尺を超える長身に刃の様に冷たく研ぎ澄まされた怒気と美しさを湛えた金の瞳を持っている。視線が交わって、季四の体内が狂おしい程の感激の波に満たされる。
これが彼(か)の神…この國の怒りを表す暴れ神、霹靂であった。
今まで平穏で幸せな生活を送ってきた季四にとってこれ程までの興奮はなかった。彼は長子でもなく、それほど勉学や運動などに期待されている訳でもなく、何が特別苦手な事がある訳でもなく、普通に友達もおり、モテはしないものの心に負担を負った事などなかった。
命を賭ける戦いに出たいと言い出したのも本当は十二幻神を一目見てみたかったからだ。そして、今会えた。神が自分の名前を呼んでくれる度に体が震える。とても…嬉しい。感激だ。
神は寡黙な神だった。不必要な会話は失礼かと多少は思ったものの、話せば素っ気なく返答してくれる。
彼に触れたりする訳でも、毎日笑いあったりする訳でもない。そうであっても、運命とかそういうのではないけれど…ボクの神様は何があってもこの方なのだという感覚がしっかりとある。戦いに赴く彼の方の背中には何か重々しいものを感じたけれど、霹靂様の事だ。なんとかなる、と思った。
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