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大國日神記第六話:葵、貴方と出逢う日

 蔵から取り出してきた着物や防具を仕立て直して作られた装束を付けてみる。
 今までか弱い女、どころか都合の良い物としてしか扱われてこなかった自分には、この感覚が初めてで胸の奥から鈍い動悸がした。戦わなければならぬ事は知っていた。が、いざ目前にソレが迫っているのかと思うと胸の奥がシンと底冷える心持ちになる。握った棍棒はズシリと重い。私はこれを持って戦えるのだろうか。人を、殺せるのだろうか。

「こちら準備できました…。お待たさせてしまい、申し訳ないです」
「いや大丈夫だぞ!まだ俺たちにも支度が残ってる。そこで休んでおいてくれ!」

 勇虜次はいつもの晴れやかな笑顔でそう返した。その後ろには螭春華からやってきた二人が座ってお茶を飲んでいるのが見える。決して彼らが信頼できない訳ではないが、なんだか落ち着かない気持ちだ。

……………………………………

「勇虜次、私は君に…志のさんを戦場に連れて行くという決断を急かしてしまったのではないかと思っているんだ…」

雪が突然ポツリと呟く。勇虜次は疲弊した顔色が相手にバレてしまったのかと思い、咄嗟に笑顔を作れば
「ああ、でも遅かれ早かれ戦いに出なければならない事は変わらない。志のは俺が守れば良いだけの話だぜ!それに、志のに同い年くらいの友達が出来そうで良かった!」
と力強く頷いた。

「そうか…友達…」

 いつかは殺し合わねばならぬというのに“友達”か…と思ったものの、それは勇虜次も分かっていることだろうから“ああ、うちの子をよろしく頼む”とだけ言っておいた。

 勇虜次の志のへの恋情が雪には薄らと分かっている。彼は心の底から彼女…伊佐美 志のを守り抜きたいと考えているのだろう。もし私が彼らの終焉を持ってきた者だとしたらそれは、もう二度と償えぬ罪だな。それでも、最早他者に気を遣って等いられない。“綺麗に生きよう”等と思ってもいけないのだ。

…………………………………

「勇虜様、そんな所におられたのですね」

 志のはふわりと微笑む、勇虜次は“おう!”と応えて振り返った。勇虜次の足元では勇虜次の持ってきた餌を食べている子犬が尻尾を振っている。

 彼が此処に降りて来た時。彼は志のの父親を力強くぶん殴った。志のを心身共に拘束し、学校にも通わせずにコキ使って、暴力を働き女性としての尊厳さえも奪ったのは紛れもない彼女の父親である。
 誰も手を差し伸べなかった志のに救いの手を差し伸べた勇虜次神は正しくヒーローであった。そして、彼女自身も勇虜次のその純粋なる善性に感謝している。

 それでも、志のはそもそも“暴力”自体を恐れていた。幾ら父親が憎いと雖(いえど)も、体格の良い男が他者を殴り飛ばす様は荒々しく、志のに思い出したくも無い記憶を嫌でも思い起こさせる。彼女は父親に殴られ、殴られ、殴られ、犯され、とするうち、いつの間にか男性という存在そのものが暴力、つまり自分を拒み、生き辛くする物に結びついてしまっていた。

 志のは、彼の曇りのない笑顔を見ても心の底で冷たい恐怖が湧いてきてしまう自分が嫌いだった。こんなにも優しい彼を少しでも怖いと思ってしまう自分を醜いと感じたからだ。

 そこまで昔ではないはずなのに遠く昔の事のような気がするが、二人は子犬を拾いそれを共に育てる事となった。その大きな手で子犬を抱き笑う彼を見て、志の恐怖心は少しずつ溶けていく。彼への恐怖心が失われてから真っ先に現われた感情は憧れだった。彼が自分に向かって笑いかけるあの暖かい声。掃除や料理をしていても、その声を思い出すとそわそわしてしまっていつの間にか彼の事で心がいっぱいいっぱいになってしまうのだ。志のはそういった感情を今まで味わった事なんてなかったし自分とは無縁だと思っていたが、この感情の名前を知っている。

…だけど、自分の様な穢れた女が彼に見合う訳ない。そんな、諦めの気持ちがどこまでも彼女の体に纏わりついていた。

………………………………………

「なあ、雪。お前は本当にあの案で良いのか?」

「ええ、私は本気だぞ」
 さっぱりとそう返す雪とは正反対に、蘇勒は非常に怪訝そうな顔をしている。まあ、普段から不機嫌そうな顔ではあるが。

「雪様、危ない事はしないでください」
「ふふ、心配してくれてありがとう。でも、私が囮になろうがなるまいが奴は真っ先に私を狙ってくるだろうから、どうせならばそれを利用してやれば良い。勇虜次もついているしな」
「………………確かにそうですが……、どうか、俺に貴方を護らせてください。お願いします。何かあったらすぐに俺を呼んでください」
「ええ、勿論だ。蘇勒も大きな怪我の無いように」
 雪は薄い両手で蘇勒の手を包み、そう微笑んだ。蘇勒の掌に淡い光が入り込む。これも雪の強化能力の一種なのだろう。

「じゃあ、皆準備は出来たか?」
「は、はい…!」

 志のはピシャッと姿勢を正す。手に持った武器が汗で滑って持ち辛い。酷く緊張している様だった。

…………………………

 剛毅悼の道は木々が鬱蒼(うっそう)と茂っており暗く、足場も視界も悪くて此処に辿り着くだけでも困難だ。この山の最も大きな…とは言ってもあまり整備されていない山道を雪は一人で登っている。他の者達は裏側から何時間か早くから登っているのでもっと厳しい道のりだろう。

 それでも、雪にとっては泥濘(ぬかる)みで足が取られるのが大変な苦痛だった。あと少しで着くはずであるが、木々に囲まれた神社を視認するのは容易ではなく、まだグッと遠い場所にあるような気がする。

 風向きが変わり、神社の方から風が此方に降りてくる。その異様な匂いで雪は咄嗟に袖で顔を覆った。
 最近はめっきり見なくなったが、その風に乗せられている空気は“生贄の風習がある場”そのものであり、何千年に渡り積み重ねられてきた人の血肉の匂いがこびり付いている。ただでさえ彼は人を愛し親密に見守り続けてきた神であるので、その匂いには酷い頭痛や吐き気すらも覚えた。

 やはりアイツとは気が合わない。未だ人間を食っているなんて…もしこの神がこれから先の大國日を担っていくとなったら人間は殺し尽くされてしまうのではないか。
 そんな感情と共に冷たい恐怖が臓腑(ぞうふ)の奥から湧いてきた。どんどん匂いがキツくなってくる。

 少し抜けると突然開けた空間が現れ、手前に鳥居と神社が見えた。琴の線の様な何かに触れる。結界だ。臆してない風を装った足取りは軽くも覚束無く進む。

 鳥居を超え、神社の正面に立った。

「覇頭ノ大詔(ハスノオオミコト)よ、この雪が参ったぞ!お前、私の首が欲しいだろう。その黴(かび)臭い社(やしろ)で縮こまっておらず私の前に現れよ!」
 元々柔らかい声音であるので滑稽な挑発にしかならなかっただろうが今回はそれで良い。

 社の扉が破壊される音を聞いた時には既に覇頭の持った無骨な大剣が雪の喉の前に突き当たっていた。

「淡雪切神、死にに来たのか」

 グッと覇頭の腕に力がこもる。雪は後方に飛んで首から大剣を離し、己を追いかけるように二、三度振られた大剣の筋をスラリスラリと避けた。覇頭は浅黒い肌色、開いた胸元から覗く筋骨の逞しさやその威厳ある雰囲気からひしひしと厳つさを感じるが、その貌は切り掘りされた様に端正な青年であり髪は白くて長かった。逞しい体付きではあるが、やはりその無骨で大きな大剣を軽々と振り回す様は非現実的で如何にも神といった風である。

 覇頭がキッと後ろ振り向く、すると勇虜次が今にも棍棒を振り落とさんとしていた。彼は雪よりも早く裏の道から山を登ってきていたのだ。そのまま、勇虜次の棍棒は覇頭の脇腹を抉り、鈍い音を出し覇頭の体をグラつかせる。

 その一瞬、覇頭が睨んだのは勇虜次ではなく雪であった。ただでさえ折り合い悪く、自分よりも非力な存在である奴が正面から戦いを挑んで来ないのは当たり前の事だ。それでも、気に食わない…ただ、戦いを挑んでくるよりも気に食わない。どちらにしろ叩き潰すと言う事実は変わらないが。

 雪は音もなく刀を抜き、覇頭の身体中にある靭帯を深く切り裂いた。傷口から血が吹き出すのが遅れて見える程にその刃は非常に薄く、雪の技はあまりにも柔らかく静かだった。体の腱切られて頭から地面に倒れこんだ覇頭は後ろで奴が首を撥ねようと刀を振り上げるのが分かった。今までに体験した事の無い、烈火の如き怒りを感じる。

 この我を!覇王であるこの我を、格下が地面に押し付けるなど!なんという不敬なのか!

「…アッ…ツ゛………ッッ!?」
 雪は小さな悲鳴を上げ、焦り、身を退く。細腕にかかった覇頭の血が沸騰して白い着物の袖を溶かし、そのまま肉をジリジリと焼いていく。勇虜次もその熱気に驚き、目を見開いて動けなかった。

 覇頭の傷口から噴き出た血も次第に沸騰し、その厳しい身に赤い紋様を刻んでいく。異常なまでの高温を発しながら筋肉や骨が膨張し、全員の腱が完全に切断され動けないはずなのにも関わらず、そのまま立ち上がった。

…………………………………

 山に登るなど何年ぶりだろうか。志のは既に息があがっていた。そんな志のを一切気にもせずに蘇勒はどんどんと山を登っていくので、志のは焦って彼を追いかけている。

 頂上にある神社から少し下った所に開けた空間があった。そこに立っていたのは覇頭の神依児であろう長身の女性だ。山の中では違和感を感じるくらい派手なスーツにサングラスをしている。

「私はこの神社の神依児三田 漢南(サンタ カンナ)だ。隠れるのならばそれでも良い。ただ、そうするならば私の方から行くぞ」

 完全にバレている。怖いけれど当たり前だ。これも『作戦』のうちだから…と思いつつも志のはその漢南と名乗る女性の声に怯えてしまった。彼女が初めて見る“敵”でもあるし、彼女はどこをどう見ても志のよりも強者であったからだ。

 作戦、とは覇頭とその神依児を別々に誘き出すというものだった。雪は自分の神威で結界に触れれば覇頭が真っ先に自分を狙ってくると確信していたので、蘇勒の手を包んだ時に蘇勒の体内に自分の神威を一部移し別の方向から登らせ、結界の中に“自分の存在と自分の神依児の存在を別々に置く”事で漢南を覇頭と離し神依児二人の足止めをする様に仕向けた。
 普通に考えると雪を殺したいなら人間である神依児から殺した方が手っ取り早いはずだ。だが覇頭はそんな事しない、私の首を自分の手で取りたいはずだと雪は思っていたのだろう。彼の予想は当たり、作戦は成功した。だが、この成功はまだ戦いが序盤であり、結界が上手く張られていないという要素があってからこそのものである。そういった計算も含めた作戦ではあるけれど、もう少しでも結界が完成していたら勇虜次や志のの存在もバレてしまっていただろう。

「こちらも準備出来てますから、そんな必要はありません」

 蘇勒は背負っている刀を抜きながら茂みから出、漢南の前に立つ。志のは恐怖に震えながらその背中を見ていた。私はどうすれば良いのだろう…目的は神社に辿り着くことではなくここで足止めをする事だ。だが、この場で今何が起こらんとしているのか全く予想も付かず、動く事が出来ない。

「良い答えだ。お前は目を見張るものがある。さあ、かかってこい」
「名乗り遅れました。俺は螭春華の一尺八寸 蘇勒です」
「お前はここで打ち砕くが、その目に免じて覚えておこう」

 何をしようと言うんだこの人達は。時代劇でしか見た事のない様な名乗り合いなんかして…志のには全く付いていける気がしない上に、動けば返って蘇勒の邪魔になるような気がする。

 漢南は特にこれといった武器も持っていなかったが、決して能力でも気迫でも劣る事なく…それどころかかなり優勢に戦いを進めていた。蘇勒は刀も持ち、腕は全く申し分無く、雪から全面的なバフも得ているのに何故か漢南に決定的なダメージを与える事ができない。彼とて漢南の攻撃を上手く往なしているものの、どうしてか勝てる様は浮かばなかった。

「漢南さん、貴女やはり相当な手練れの様ですね」
「ああ、お前もこの歳でよくここまで来れたな。だが、私には敵わない!」

 漢南の長い足から放たれた蹴りを蘇勒は右腕で受け止める。ミシミシと骨の軋む音がしたが、気にせずそのまま漢南に斬りかかる。それでも刀は漢南の顎を掠めただけだった。

 志のはその様をまじまじと眺めている。味方が戦っているというのに、何故自分はあの女性に惹かれる気持ちが湧いているのだろうか…。

 そういえば、志のは彼女の姿を一度…とても昔に見た事があった気がする。志のは女であるしただの使用人に過ぎなかったので、穢れとして神社同士の集まりには基本的に出席出来なかった。しかし、志のはたまたま行ったその集まりで漢南の姿を見た事がある。
 志のには彼女が自分と同じように家に虐げられた女性であると分かった。何故なら、彼女の神社の地域は男尊女卑等の古臭い風習が未だ強く根付いている場であったからだ。

 漢南はその頃から自分には無いような強かさを持ち、美しかった…様な気がする。志のは容姿を少し見ただけの女性に何故こんな気持ちが湧くのか分からなかった、これは、一種の憧れなのかもしれない。

 漢南は笑っている。戦いに喜びを見出すなんて女の癖に野蛮だと世間から批判されるであろうがその姿は何にも代え難く美しかった。彼女の笑みは殺戮や暴力に対する笑みでは無い“長年の努力が報われた”事に対する笑みだ。

……………………………………………………………

 ただ、ただずっとずっと強くなろうと走り続けた。女に生まれた以上、誰もその事に関して褒める者などいなかったが私は私の為に強くあり続けた。

 神に選ばれるのは男の中から誰なのだろうかという話で持ち切りになっていた最中、神は漢南の元に降りてきた。その時、神は性別等で人間を選ぶ様な俗物ではなく真なる強さを見極める者だと確信した。

「お前が覇頭か、良い面構えをしているな。私を選ぶとはなんて見る目のある奴なんだ。気に入ったぞ」

 神依児に選ばれてから漢南は神社の中での待遇がグッと良くなった。男たちは気に食わない風だったが漢南はそれに対し何の復讐もする事はなくただ今までの様に鍛錬を重ねた。
 漢南は既に男どころか凡庸な人間共とは比べ物にならぬ程に強くなっていた。圧倒的強者である漢南は、弱者に賜う技など持ってはいない。それ程までに彼女から放たれる技の数々は洗練され、最早一種の神性すらをも帯びていた。

 漢南は覇頭と出会い、更にめざましく強くなっていく。その強さは希望と言うものだろうか。漢南は覇頭と出会う前から身体精神共に強かったが、この世間に対して少々の諦めもあった。己の強さを認め、絶対の信頼を置いてくれるその神の存在は漢南の目に光を宿らせ、彼女にこの神と共に戦える喜びを!昂ぶる様な生の喜びを!存分に謳歌させたのだ。

「覇王である我に相応しい者は老若男女に関わらず身も心も強い者。正しく漢南の事だ」
「ああ、私と共に戦うに相応しい者は強く気高い者だ。覇頭、お前は綺麗だ。お前は私が今まで見てきた中で一番強く美しいよ。私と共に戦ってくれるな?」

「勿論だ。漢南、貴様とならば何処へでも行ける」

…………………………………………………

 蘇勒だって完璧に近い武芸の人であるはずだが何故漢南に敵わないのだろうか。経験と言ってしまえば簡単な事だが、それはそんな生半可な物ではない。蘇勒もそれを確(しか)と感じとっていた。

 彼の生まれ育った螭春華では嗣子こそ男である場合が多いが、女性が軽視される事などは無く、寧ろ女性が強いくらいの大らかな土地だ。その様に穏やかな場所であったのはそもそもの立地の良さも要因であるが、何より雪のおかげであった。
 雪は剣術精妙な努力の神という事で武神の肩書きも持つが、戦いを専門とする訳ではなく、『人が自分の進みたい道への努力が出来るように、努力の結果が出るように』と施してくれる神である。

 努力が身を結ぶなんて当たり前に思えるかもしれないが、それは当たり前ではなく『当たり前であって欲しい』と思う人間の普遍的な願いだ。そして、漢南はその願いが叶えられなかった人間だ。蘇勒は自分から願わずとも神に愛され、その努力を認められて評価されている人間だ。幼き時に父を失って家と神を守る為にただ剣を振り続けてきた彼の人生は確かに過酷であったが、彼の隣には常に暖かい家族も見守ってくれる神もいた。無意識下であっても恵まれた環境に自分は甘えていたのだ、と思う。

「ウ“………ぐ…」

 蘇勒は頭を木に打ち付けられ漢南の足元で蹲(うずくま)る。決して刀から手を離さず戦う意思は失っていないが、暫し動く事は出来ないだろう。

「そこの女、お前はどうするんだ」
 漢南が志のの方を向く、志のはビクリとして手に持った棍棒を握りしめた。戦っても…殺される。逃げても…殺される。

「う、う…うわああああああああああ!!!」
 自分にとっては精一杯だが、他から見れば滑稽に見えるであろう叫びを挙げながら漢南に向かって殴りかかる。
 漢南はその場から一歩も動く事無く、志のの振った棍棒を受け止め、そのまま志のをいとも簡単に地面に打ち付けた。痛い、肺を打ち、声すら出せずに志のは地面に転がった。

 漢南が志のの首をグッと掴んで持ち上げる。男である事と年上である事でしか優位性を示す事が出来なかった志のの父とは比べ物にならないくらい漢南は強かった。

 両手で首を締め上げられる、死ぬ…そう思った。恐怖から涙がボロボロと溢れ、ただあのひとの顔だけが浮かび、もう一緒に居られないのかなと悲しく思った。体が確実に死へと向かっているにも関わらず、何故かあまり息苦しくない。それは単純に、殺す者に痛みを加える事が非合理だからだろう。漢南の躊躇いない純粋な殺意が志のの脳みそを満たした。

「ゆ、…………勇様……!!!!ア”……い“ぃ…勇様、助け…て………助けてっ!!!!!」

……………………………………………………………………

「志の!!!!!志のの声だ……俺を呼んでる」

 勇虜次が振り返ると覇頭の大剣が彼の腹に当たり、吹き飛ばした。

「勇虜次!志のさんがどうしたんだ!」
 二柱で戦っても覇頭には劣勢でありその様は苦しそうであったが、雪はギリギリで致命傷を避けている様で全身の傷はそこまで重くもなかった。

「志のが、呼んでる!きっと危ない状況なんだ!」
「ならば行け!志のさんが死ねば、お前も死ぬ」
「でも、雪!お前は」
「すぐにそちらに向かう、この作戦は失敗だ!お前は志のさんを連れて逃げろ!」

 勇虜次は雪を気にして戸惑っていたがすぐに志のの声の方へと向かって走っていく。覇頭はそれを追いかけようとしたが雪が瞬時に張った神威の壁により行く手を阻まれ、直ぐに雪の方を振り返った。

「淡雪切神、我には貴様が理解出来ぬ」
「ええ、同感だ」

…………………………

 蘇勒が目を覚ました時、志のは漢南に首を締め上げられたままであった。彼が咄嗟に刀で漢南に向かおうとした時、雷(いかづち)の様な速さでこちらに向かってきた勇虜次がそのまま漢南に向かって棍棒を振り上げる。

 漢南は志のから手を離し、危機一髪の所で避けた。志のは地面に叩き落とされて咳き込み、それを勇虜次がすっと掬い上げた。

「貴方、何故ここに…雪様はどこに置いてきたのですか!?」
 悲鳴の様な声を挙げたのは蘇勒だった。唇を戦慄(わなな)かせ、その大きな瞳で勇虜次の顔を見上げる

「蘇勒、この作戦は失敗だ!雪はすぐにここに降りてくる。今すぐ逃げるぞ!」
 信じられない。彼が大事な人の危機で焦っているのは分かる。それでも雪様を一人置いてくるなんてどういう神経をしているんだ。やっぱり、雪様に着いて行けば良かった。

「もう良いです。勝手にしてください」
「え…?お、おい!蘇勒何処に行くんだ!そっちは……………」

「茶番はお終いか、ならばいかせてもらうぞ」
 蘇勒が山を登っていくのを見送れば、漢南はスッと腕を構えた。勇虜次は志のを抱いたままその瞳を見つめ返す。今の状況がどうなっているのか…何も考えられない。ただ、自分は志のを守りたい。守りたいから、逃げる。

 漢南に背を見せ、荒れた山道を転がるようにして駆け下りていく。木の枝々で血が飛び散った。腕の中の志のが暖かい事だけが心の救いだったが、それすらも消えてしまうかもしれない恐怖がただただ彼の足を急がせた。

…………………

 体が熱い。心臓がはち切れそうで、後悔だらけだ。俺があの方を護ると誓ったのに…、ただ無事で居て欲しい。まだ自分が授かった神威が途切れていないという事は死んではいないのだろう。それでも…!

 神社に着いてあの人の姿を探す。雪は覇頭の足元に情けなく転がっていた。
 長い髪が地面に広がり、胴の防具が割れ、腹から足にかけて着物を真っ赤に染めている。覇頭はそんな雪を見上げたまま、今にその首を撥ねんと大剣を宙に掲げようとしていた。

「雪様ッ!!!!!」

 無意識のうちに覇頭の頭に刀の鞘を投げつけて、雪の元に向かいその細い肩を揺さぶった。その度に口から血が溢れたが、朧に瞼を開く。

「…………人間…如きが………!」

 鞘を投げつけられるなど本来覇頭にとって何ともない事であったが、鞘は丁度覇頭の片目を抉り、かなり深い傷を作った様だ。片目から大量の蒸気が立ち上がっている。

「雪様!逃げましょう!お願いですから起きてください!」
 半ば強引に雪を立たせ、覚束ない足取りの相手の腕を引っ張って無理に歩かせた。

「逃すか!貴様の命はここで終わらせる!」
 覇頭が飛びかかろうとした時、蘇勒はそのまま着いてくる雪を引き寄せ、背後の急斜面に飛び降りた。

…………………

 何処まで落ちてきたのだろうか、体の至る部分の肉が抉れ血が吹き出していたが、そんな事などどうでも良いと言う風に蘇勒は自分の胸の上で倒れている雪の顔を見た。
 まだ意識がはっきりとしてないが、浅く息をしている。蘇勒は安心しきって深く溜息をついた。

 たまたま大きな岩などに頭をぶつける事もなく、昨日の雨で泥濘んでいたおかげで酷い怪我ではあるが、死にはしなかった。ただ、雪を庇うように飛び降りたので制服の背中の部分は厚い生地にも関わらずズタズタになっている。

 結界もとうに超え、きっともう敵は追ってこないだろうが、此処からどうやって帰ろうか。
 雪の傷を見る。腹から大量の血が吹き出しているのを自分の引き千切れかけた上着をそのまま固く結びつけて抑え、刀を口に咥えて彼を背負った。

 雪の体が驚く程に冷たいのはいつもの事であるにも関わらず、今は背中から生物らしい暖かさが伝わってこない事に恐怖を感じる。力を入れる度に全身の傷口から血が溢れ、普通ならば意識を保つ事もままならないであろう。しかし、早くここを下りなくては…下りれば小さなバス停の近くに公衆電話があったはずだ。螭春華に連絡さえ付けば迎えがくる。少なくともそこまでは、意識を保たなければ。

……………………

 私は死んでしまったのだろうか、なんだか案外呆気ないな…神喰いと聞いた時はあんなに泣いてしまったけれど、それ程でも無かったかもしれない。恥ずかしい事をしたな…とどうでもいい事が頭の中を駆け巡っている内に軽く瞼を開ける事が出来た。

 体の感覚がない。私は多分、足をずるずると引きずっている筈だがよく分からない。
 私を背負ってくれているのはあの子だろうか…私を護ると言ってくれたあの子だ、きっと…。

 彼は相当苦しいのだろう荒い息の音が聞こえてくる。私は疲れて思考がおかしくなっているのか、今なら死んでも良いかなという気が若干湧いてきた。血を失って更に冷たくなってしまった私の体に彼の体温が伝わってくるのが春のうたた寝のように心地良い。でもここまで頑張ったのに私が死んじゃったら蘇勒が可哀想だから死なないでおこうか。

「…私を…、助けてくれたんだね………」

 蘇勒は私の声に驚くが、刀を咥えていたために話す事が出来なかった。でもその様子から“お体に障るので喋らないでください”という事を言いたかったのだろう。

「ん、ふふふ…ごめんね、…ありがとう…。……………蘇勒、…ちょっと…息整えようか。一度、立ち止まって、私に…合わせて…」

蘇勒は言われた通り律儀に立ち止まり、刀を咥えたままではあるが呼吸を整えた。雪はそのまま蘇勒の体に回してあった手で彼をゆっくり抱きしめる。

…いつのまにか息がしやすくなった。傷が治った訳ではないが出血はある程度収まり、足どころか体全体が少し楽になったようだ。雪がきっと何かしらの加護を施してくれたのだろう、礼を言おうとしたが雪はまた眠っていたし口を開けられなかったのでそのまま歩みを進めた。

…………

 勇虜次は志のを腕に抱いたまま山を下り、表にある勇義焔へと帰る道に戻ろうとしていた。

 志のは一度は殺されかけたものの怪我自体は大した事なくもう意識をしっかり取り戻していたが、志のが殺されるかもしれないという不安感に苛まれたままの勇虜次は、志のを自分の腕から離さない。

 下っていると、ここに来た時のバス停とその近くのベンチに螭春華の二人を見つけ、勇虜次は罪悪感からハッと喉から息を漏らした。

 血みどろ姿の蘇勒はベンチで雪を寝かせたまま、自分はその下で刀を持ったまま座り込んで眠っているようだ。

「志の、もう自分で立てるか…?」
「は、はい、大丈夫です」

 勇虜次はゆっくりと志のを地面に下ろし、眠る二人の方を見る。普段あまり見ることのない静かな勇虜次の表情(かお)に、志のは立ち尽くす事しか出来なかった。

 勇虜次は一歩一歩彼らの元に近付いて行く。何故なのかは分からない。

「これ以上近寄れば、切ります」
 眠っているように見えたが、蘇勒がそんな無防備に主人を晒す訳がない。勇虜次は首元に刀を突き付けられる。しかし、彼は何も言わず、そのまま一歩を踏み出した。蘇勒も何も言わないまま勇虜次の腹に刀を突き刺し、そのまま息を荒げ、深くまで押し込んでいく。食いしばった歯の間から血を垂らしても尚、その力を緩めない。

「ゆ、勇様!!!え!?…あ………ああ…そ、そんな…」

志のは目の前の惨劇に甲高い悲鳴を漏らした。何故?さっきまで仲間だったのに、どうして勇様を傷付けるの!分からない。私から勇様を奪わないで…!!悲痛な思いは言葉にならず、上ずった。

 それを聞き、勇虜次は志のの方を見て頬笑んだ。大丈夫だ、とでも言いたいようだ。

 勇虜次は大量の血を流しているが、蘇勒はそんなのも御構い無しに懐から短刀を持ち出して勇虜次の鳩尾にまた深々と突き刺した。勇虜次はその短刀をいとも容易く引き抜き、自分の手首を引き裂いた。そのまま雪に手を伸ばす。

「触れたら、殺します…!」
 蘇勒は喉奥から血を吐く様な声を挙げ勇虜次の腕を掴み、睨みあげた。

「…雪を殺そうなんて思ってないぜ。俺は、雪に悪い事をした。だから…俺の神威を雪に分ける。」

「…………………」

 蘇勒は一歩退いたが、それでも何か少しでも違う事をしたら殺してやると言わんばかりの鬼気迫った表情である。勇虜次はそんなもの一切気にせずに雪の口の中に自分の血液を注ぎながら“俺の神威があればこいつの傷も早く治るだろう。今回は俺の責任だ。悪かった”などとうわ言のように呟いた。そして、暫く経つと自分の切った方とは別の手首に巻かれた包帯を切った方に巻きつけて、志のの方へ戻っていった。

…………………

「勇様……!血が…」
「こんぐらい大丈夫だ!死ぬほどの事じゃないぜ!」
「でも…勇様…これを」

志のは自分が戦闘では役立たずなのだと思い、前々から用意していた止血用の大きな布を取り出し、軽く彼の止血をした。

「ありがとう!志の、助かるぜ」
勇虜次が明るく笑う。志のは気まずさから上手く返す事が出来なかった。

 それ以降、二人は無言で歩いた。志のは勇虜次にかける言葉が見つからず、勇虜次も志のにかける言葉が見つからないようであった。

…勇様はきっと“自分が悪い”と思ってる。私を助けたせいで…彼は自責の念に襲われている。優しい勇様にそんな感情を抱かせてしまった自分が憎い。

 沈みかける日と、赤くなった空が血のようで気持ちが悪かった。瞼を閉じても、その赤が私を責めているようだ。

…私のせいだ。私が弱かったから何もかも駄目だったんだ。…蘇勒くん、漢南さん…私以外の神依児。彼らは彼ら自身の神から絶対の信頼を得ていた。彼らの神は躊躇うことなく彼らに背中も命も預ける事が出来るだろう。でも、私は…私は弱いから、そんな信頼なんか得られない。

 愛されてもお荷物じゃ、勇様の隣になんか居られない。自分がただ愛玩されているだけとは思わないし、勇様なら「志のは優しくて!可愛くて!頑張り屋で!俺に必要な女性だ!」と迷わず言ってくれるだろう。

 彼は彼自身の意思で私を愛してくれている。それは分かっている…けど…思えば、私は戦いに出る前から心配されていた。私がいるから…という遠慮の念が皆の陣を崩してしまったんだ。

 心配して欲しくない訳では無い。勇様の名を呼んだのは他の誰でもない私だ。今回は蘇勒くんがいたからあの瞬間に私が死ぬ事は無かったとは思う。ただ、彼はきっと雪様に言われるまでは死んでも戦い続けるだろうが、彼の守るべきは私ではないからその過程で私が死んでいても何ら不思議ではない。私が死んでいようがいまいが、彼にとっては雪様が無事ならばそれで良いのだろう。

 だから、勇様が私のところに駆けつけて来てくれたから私は今、ここにいると思ってしまう。彼に抱き上げられた時、私は何の申し訳なさも感じずに“嬉しい”と思った。…今思うと、なんて愚かしいんだろう。

 私は女だからと虐げられてきたにも関わらず強かな漢南さんを見て共感し、憧れた。私は“女だから”という抑圧を拒んだ。

 それなのに…女だから、弱いから、一方的に守られる立場である事に何の疑いも感じず。守られる事を望んだ。…女だからじゃない。私が弱いから駄目なんだ。
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