大國日神記第三話:桜花の縁
大國日神記第三話:桜花の縁(オウカノエニシ)
「ただいま帰りました、文神様…」
「おお!待っておったぞ漱、剣の鍛錬…だったな?こんな遅くまで立派だな」
“立派だ”喜ぶべきであろうその言葉が冷んやりと心臓を掴む。このひとはずっとおれの帰りを待ってくれてたんだ…。おれは自分に負け、あの胡散臭い神の手を取ってしまったというのに…。
「あ……あの…、文神様…!」
「ん、どうした?」
言わなくちゃ、蘇勒くんに負けちゃった事…喋喋喃喃様と契約を結んでしまった事…。
「…いや、な……な、なんでもありません…も、申し訳ございません」
“そうか…”と言って、文はぽへっとした表情で漱を見つめ返す。そして微かに笑み、落ち着いた声で
「…………漱、おぬしが焦る気持ちも分かる。…だが、そんなに思い詰めるな、我がおぬしを守ってやる。それに、おぬしはよく出来た神依児よ、他の神の前に出すのも恥ずかしくない」
と、漱に言い聞かせた。
「ふ…文神様…。恐れ入ります…」
「ハハハ!嫌な事でもあったのか?さ、これでも飲め!」
目の前に溢れんばかりの酒が出される。恐る恐るそれを受け取って飲んでみた。
…あまり味がしない。不安が腹の中に満ちてくる。おれはこのひとを守れるだろうか……………。守れなくても守らなきゃ…でも…そんな事…出来るのかな。おれ…………。
言えなかった。言わなきゃいけない事も“貴方を守る”とも言えない。言えたとしても形だけだろう。きっと、ここで形だけの言葉を発してしまえば、それが過去となりおれを苦しめるはずだ…。怖い…貴方に失望される事が、貴方を守れない事が。
おれは多分、貴方を酷く慕っている。貴方との出会いは確実におれの人生を壊した。それでも、おれなんか力不足過ぎる程に優しくて、綺麗で、賢い貴方を想ってしまう。おれなんかが貴方を守れるだろうか…きっと無理だ。…なんだかそんな気がする。
…いつも本番で失敗ばかりしてしまう。頑張ってテスト前に覚えた単語もいざテストとなると忘れて、頑張って練習してきてもいざ試合となるとすぐ負けちゃうんだ…。
……貴方を護る…。
………………………おれよりも…もっと優秀な人なら、そう言えるかもしれないのに…。
………………………………………………………
神喰いの儀は未曾有(みぞう)の大変革である。故に平城洛だけに止まらずこの國は大いなる混乱に包まれた。その上、このような儀を決定付けた人間の愚かさに怒りを覚えた神々による天変地異の災害や疫病の再流行等が頻繁に繰り広げられ、人々にとっても神にとっても落ち着ける時など無かった。
唯一、螭春華(アマハルバナ)を除いては。
螭春華は山に囲まれた街を、その山の中腹に位置する大層大きな神社が見下ろしている土地である。国一番の桜の名所として知られ、この混乱の時でも純白の花弁を螭春華の街に届けていた。
不自然なほど平穏で、不自然なほど美しい。生まれて以来ずっと、神と共にこの螭春華神社に住まう一尺八寸 蘇勒(カマツカ ソロク)でも見た事の無いようなその咲き誇りぶりには驚きを隠し得なかった。
何故、この期に及んで神は花を咲かすのか…神の思考など分かる訳もない。それでも、ただ漠然ともどかしい気持ちが湧いてくる。
人は神を切り捨てた。人々を愛し、今も人々の為にと花を咲かすこの神も…貴方は怒っているのだろうか、悲しんでいるのだろうか。桜は何も答えない。ただ花弁が蘇勒を見下ろし揺れるだけであった。
戦いの始まりは桜の散る頃。花はいつか必ず訪れるその時も、留まることなく流れ行く時も、全て全てが遠い国の話のように思わせてくれる。
……………………………………………
神降ろしの儀は間もなく始まる。全国に多くの分祀を持つ螭春華神社の信者は多く、神降ろしの際にも最も多くの数が集まった。
一尺八寸の姓を背負い、この神社を受け継ぐ男は二千年以上に渡りこの神の御加護を一身に受けてきた。若くして亡くなった父の代わりに剣を持つ一尺八寸 蘇勒も当然その一人であり、その腕は紛れもなく螭春華の神の恩顧(おんこ)の表れである。
儀式はただ厳かに進む。淡く霞んだ春の空気の中で花弁が降り、笛の音が水っぽい空気に飽和し響く。蘇勒はこの神社の嗣子(しし)としてここで最も有名な枝垂れ桜に向かい、ただじっと神の訪れを待っていた。
ふわりと柔らかい風が彼を包む。甘い花弁の嵐に視界が遮られ周りの人も一切見えない。枝垂れ桜だけが彼を見つめ返した。
瞬き、眼前に先程までは感じなかった質量が降りてくるのを感じる。綺麗な着物が風に舞い落ちてくる様に、花弁が嫋やかに降りる様にゆったりとした動きでだ。
美しい神であった。六尺はあろうかという艶やかな黒髪を揺蕩わせ、白木蓮の花弁の様にチラリチラリと細かく光を照り返す純白の衣を纏っている。一切角ばったところの無いなだらかな輪郭に、紅い化粧を施した雪の様に白い顔が見えた。
薄い胸や肩には後から貼り付けたような厳(いかめ)しい装甲があり、刀には細い手を軽く添えてある。
婉麗(えんれい)な立ち姿をしたその神の名は『淡雪切神(アワユキギリノカミ)』と言う。蘇勒は己の神が予想以上に威圧感の無い雰囲気で、人間によく似た姿だったのに驚き、ただ神の姿をまじまじと眺めていた。
反面、神は小首を傾げたり、きょろきょろと辺りを見回したり、己の髪を撫でてみたりと落ち着かないと言う風な挙動をしていた。ふと神が蘇勒の方を向き、視線が合う。すると、神は“あ……”と息のような小さい悲鳴をあげて驚いた顔をした為、蘇勒までも不安に襲われた。
「あの……大丈夫、ですか?」
神は動かない。ただ驚いた顔をして
「私が…見えてる?そんな、…私の知らない間に……………今から現界します…って言ってよ…」
と、焦りながら独り言をぼしょぼしょと連ねる。
「い…言えば良かったですね、すみません」
蘇勒がそう言葉を返すと、神はまたビクリとして”えっ…!?“と悲鳴を漏らした。そしてやっと神は己の失態に気付いた様で恥ずかしそうに笑いながら、跪く蘇勒の方に手を差し伸ばした。
蘇勒は尊い立場である神から差し伸べられた手に驚き、神の顔を見上げる。神は柔らかく目を伏せてただ笑んでいた。
「淡雪切神様…」
「“雪様”で良いぞ、年の離れた兄のように思っていてくれ。だって、これから私達ずっと一緒に暮らすのだからね」
「はい。雪様……よろしくお願いします」
雪の手を取り、立ち上がる。周りの花びらが飽和し、二人の姿が周りの人間達の前に現れた。それを見た人達は息を呑み、一瞬静かな時が流れる。そして忽(たちま)ち歓声が上がり、そのまま神降ろしの儀は呑んで騒いでの宴となった。
…………………………………………………………………
「……蘇勒」
「どうされました?」
長かった宴は終わり、遠くから片付けの音が聞こえる。風呂上がりの頬と素足を春の夜の空気に晒し、二人は寝巻きで縁側に座っていた。
「その………お前に触ってみても…」
「あ、はい」
慣れない手つきでそそ…っと頰に触れられる。何故、雪がこのような行為をするのか理解出来ない。緊張でカチンと固まってしまった。
雪は無表情を装おうとしていた様で、頰に触れると一瞬わざと顔を顰(しか)めたが、すぐににこにこと笑い出した。
「…すまない、突然こんな事されたら怖いよね…。その、……人に触れてみる事が私のちょっとした願いというか……夢、だったから…触れてみたくて…」
「怖くなんかないですよ、貴方がずっと俺達を守ってくださっていると祖父から聞きましたし」
「私、よく幽霊みたいだって言われるが…それでも怖くないか?」
「ええ、幽霊はそんな風に笑いませんから」
蘇勒は雪の期待以上に嬉しい回答をした様で、雪は満足そうに蘇勒の頬から手を離す。
蘇勒に怖がられないようにと必要以上に重ねられた雪の言葉からは、神と人とのただただ長い時間のすれ違いがあった。
神は元来神秘のベールを被っている。何千年に渡り現世を見ていても干渉することは基本的に叶わない。一方的に現世をただ見、守るだけである。
分からなかっただけでこのひとは何時も俺達を見ていたんだ、と蘇勒は直感で理解した。ずっとずっと遠くの昔、俺の生まれる前からこの人は俺の近くにいたのか、なんだか懐かしい…この美しき螭春華の桜や川そのものがこのひとだったのだろう。
雪の横顔を見る。考え事をしている様な顔で枝垂れ桜を見ていた。彼が降りてきたあの木だ。
「あの木がお好きなのですか」
「ええ、私がここに来た時から変わってないからな…」
彼は眠たそうにゆっくりと瞬きをして
「なあ、蘇勒…お前は父さんに凄く似てるな」
と囁くように言った。
どきりとする。父は幼き日に亡くしてしまってからあまり記憶に残っていない。覚えているのは俺の頭を撫でてくれた大きな手のひらだけだ。それでも“似てる”と言われるのはなんだかとても嬉しい。
「そうなんですか…?」
「ええ、凄く似ているよ。父さんの父さんにも…そのまた上の父さんにもお前はよく似ている」
すると雪は柔らかく笑って蘇勒の頭を撫でた。心臓が高鳴る。この感じ…どこかで……………。
「ふふ…お前の父さんはこうやってお前を撫でてたよ…。どうかな、似てるかな…?」
「…はい!多分…似てます」
雪の手は父さんとは全然違う。刀を振るってもタコも出来ず、筋も出ないような手だ。それなのにこんな事が出来るのは、やはり父さんをずっと見ていたからなのだろうか。
「………もう寝ようか、話してたら眠くなってきちゃったな」
「はい、…久々に誰かと話して楽しかったです」
…………………………………………………………
「お帰り蘇勒、また朝から鍛錬か…?」
次の朝から既にいつもの生活とは変わっていた。起きても帰ってもあのひとがいる。不思議な感覚だが、悪い気はしない。むしろ家族が増えた様で嬉しい。
「ええ、戦いに備えて置かなくてはと思いまして」
「ふふふ…お前、戦いがなくても鍛錬してるじゃないか」
「た…確かにそうですね…。……戦いが無くてもこの神社と貴方は、俺が護っていかねばならないと思ってるので」
「あ…あなた?私の事か?」
「はい、俺の神は貴方ですから」
雪は喜んでいるのかクスクスと顔を隠して笑えば、”嬉しいよ“とだけ言う。そして“そ、そうだ、桜でも見に行こう!まだ早い時間だ、人もいないだろう”なんて言いながらそそくさと用意をしに他の部屋へと行ってしまった。
蘇勒は大真面目に言ったつもりだったので、何故雪に笑われたのか分からずにポカンとしてしまった。でも、花見に誘ってくれたという事は相手の気分を害してはいないのだろう、少し安心した。
…………………………………………………
少し高い所まで来た。春霞で桜の白がぼんやりと飽和し、ふらりふらりと薄紅色が降ってくる。もう春だというのに此処にはまだ、少しの雪が残っていた。
「…蘇勒、少し話しても良いかな」
水分を含んだ肌寒い空気が漂っている。貴方の柔らかい声が優しくその空気に溶けて聞こえた。
「はい、大丈夫です」
雪はその返答に作った様な笑顔を返して見せれば、ゆったりとした足取りで蘇勒に近寄る。揺れながら舞う黒髪と薄紅色の桜が似合い過ぎて少し怖かった。
「…神喰いの儀の事、お前もわかっているな」
「はい」
「……まずは…私の力不足でまだ幼いお前を戦場に立たせてしまう事、申し訳なく思っている。お前は、私の事をこの大國日の最高神の一柱だと聞いているだろう…でも、私はそんなに高貴な生まれではない。私がどんなに取り繕ったとしても埋めきれない力の差がある…単純に考えれば勝てないと言う事だ」
「………………………」
「…負け戦だと分かっているにも関わらず、お前に命を賭して戦えなんて言えない…。でも、私だって死ぬのが怖い。きっと、お前にかなりの無理もさせるだろう…。だから、桜が散るその日までに…その、…覚悟を決めて欲しい。何を見ても、何が起こっても、剣を持つ覚悟をだ」
「俺は何があっても雪様、貴方を護りぬくと誓っています。貴方の生まれがどうであれ、この戦いがどうであれ、貴方は俺にとって唯一のお方です。ただ…貴方の盾となり、剣となり、最期まで戦います」
真っ直ぐな瞳。ただ夢物語に憧れただけの少年が口だけで言う言葉ではない。それを本気でやろうと思っている。本気で戦おうという意思があった。
私は多くの人間に慕われながらも、その実もどかしい孤独と共に生きてきた。それは愛した人々を守る為に私自身で選んだ事であったが、それでも誰か…いや、“誰か”では駄目なんだ…。お前に、私が愛した螭春華の子に寄り添って欲しかった。
非道い神だ。酷だと分かっている。私の心だけでこの子に茨の道を歩ませることになる。この子の十五年ぽっちの中に、私は…私の二千年の意味と救済を求めてる…そんなの……“汚い”。私は、きっとこの子の言葉を否定しなくてはいけないはずだ。
“お前はお前の好きなように生きなさい、家の為…神の為…と己の自由や命を投げ出さなくても良い。もっと我儘に生きて良いんだよ”と言うべきなのだ。そんな上部だけの言葉で、彼のこの瞳を変えることなど最早出来る訳ないが…。
「……ああ、…その………すごく嬉しいよ。……私はお前の事“まだ子供だ”って思ってた。だが、お前は私が思うよりも大人で立派な人なのだな」
笑う。作った笑みではない。“嬉しい”それは心からの言葉であった。嬉しい…嬉しい…嬉しい…愛した人にやっと触れられた、愛した人に大切に思われている、愛した人がやっと私に寄り添ってくれる……でも、………………
…残酷だ。
「蘇勒、お前に私の力の一部を与えよう。私はこれからお前を子供だと思って接したりしない。背中を預けられる対等な存在として……お前を見、共に戦い、そして共に生きる」
雪がそっと手を伸ばし蘇勒の左の耳飾りに触れる。淡い風が頰を撫た。蘇勒は落ち着いて目を閉じる。呼吸が深くなり、体の奥底から風の様に力が湧き上がってくる感覚に包まれる。
暫くして雪はそっと手を離した。蘇勒が目を開く。今まで沢山の鍛錬を積んできたが、それでもこんな感覚ははじめてだ。体は軽く感じるが、前よりもグッと強い力が入る。
「雪様、これは…?」
「どうだ!すごいだろう!これが私の能力だ!……まあ、他の神々と比べたら少ないし弱いが…人間達が私に持たせてくれた力だからな、人間であるお前にもこうやって分けられる」
誇らしそうにそう言えば、くるりと体の向きを変えて“もうそろそろ帰ろうか”と呟く。山を下っていけば螭春華神社の屋根が少しずつ見えてきて、桜の密度も少しずつ薄くなっていく、幻想世界から現実世界に引き戻されるようだ。
「来年もここで一緒に桜を見よう、な、蘇勒。次は戦など無い世界で…」
永遠に思えた美しい桜も少しずつ少しずつ解れて消えてゆく、薄紅色が若い緑色に変わる。
桜が散る頃に戦いは始まる。すぐそこに迫ったその時を舞う花弁が絶えず知らせていた。
「ただいま帰りました、文神様…」
「おお!待っておったぞ漱、剣の鍛錬…だったな?こんな遅くまで立派だな」
“立派だ”喜ぶべきであろうその言葉が冷んやりと心臓を掴む。このひとはずっとおれの帰りを待ってくれてたんだ…。おれは自分に負け、あの胡散臭い神の手を取ってしまったというのに…。
「あ……あの…、文神様…!」
「ん、どうした?」
言わなくちゃ、蘇勒くんに負けちゃった事…喋喋喃喃様と契約を結んでしまった事…。
「…いや、な……な、なんでもありません…も、申し訳ございません」
“そうか…”と言って、文はぽへっとした表情で漱を見つめ返す。そして微かに笑み、落ち着いた声で
「…………漱、おぬしが焦る気持ちも分かる。…だが、そんなに思い詰めるな、我がおぬしを守ってやる。それに、おぬしはよく出来た神依児よ、他の神の前に出すのも恥ずかしくない」
と、漱に言い聞かせた。
「ふ…文神様…。恐れ入ります…」
「ハハハ!嫌な事でもあったのか?さ、これでも飲め!」
目の前に溢れんばかりの酒が出される。恐る恐るそれを受け取って飲んでみた。
…あまり味がしない。不安が腹の中に満ちてくる。おれはこのひとを守れるだろうか……………。守れなくても守らなきゃ…でも…そんな事…出来るのかな。おれ…………。
言えなかった。言わなきゃいけない事も“貴方を守る”とも言えない。言えたとしても形だけだろう。きっと、ここで形だけの言葉を発してしまえば、それが過去となりおれを苦しめるはずだ…。怖い…貴方に失望される事が、貴方を守れない事が。
おれは多分、貴方を酷く慕っている。貴方との出会いは確実におれの人生を壊した。それでも、おれなんか力不足過ぎる程に優しくて、綺麗で、賢い貴方を想ってしまう。おれなんかが貴方を守れるだろうか…きっと無理だ。…なんだかそんな気がする。
…いつも本番で失敗ばかりしてしまう。頑張ってテスト前に覚えた単語もいざテストとなると忘れて、頑張って練習してきてもいざ試合となるとすぐ負けちゃうんだ…。
……貴方を護る…。
………………………おれよりも…もっと優秀な人なら、そう言えるかもしれないのに…。
………………………………………………………
神喰いの儀は未曾有(みぞう)の大変革である。故に平城洛だけに止まらずこの國は大いなる混乱に包まれた。その上、このような儀を決定付けた人間の愚かさに怒りを覚えた神々による天変地異の災害や疫病の再流行等が頻繁に繰り広げられ、人々にとっても神にとっても落ち着ける時など無かった。
唯一、螭春華(アマハルバナ)を除いては。
螭春華は山に囲まれた街を、その山の中腹に位置する大層大きな神社が見下ろしている土地である。国一番の桜の名所として知られ、この混乱の時でも純白の花弁を螭春華の街に届けていた。
不自然なほど平穏で、不自然なほど美しい。生まれて以来ずっと、神と共にこの螭春華神社に住まう一尺八寸 蘇勒(カマツカ ソロク)でも見た事の無いようなその咲き誇りぶりには驚きを隠し得なかった。
何故、この期に及んで神は花を咲かすのか…神の思考など分かる訳もない。それでも、ただ漠然ともどかしい気持ちが湧いてくる。
人は神を切り捨てた。人々を愛し、今も人々の為にと花を咲かすこの神も…貴方は怒っているのだろうか、悲しんでいるのだろうか。桜は何も答えない。ただ花弁が蘇勒を見下ろし揺れるだけであった。
戦いの始まりは桜の散る頃。花はいつか必ず訪れるその時も、留まることなく流れ行く時も、全て全てが遠い国の話のように思わせてくれる。
……………………………………………
神降ろしの儀は間もなく始まる。全国に多くの分祀を持つ螭春華神社の信者は多く、神降ろしの際にも最も多くの数が集まった。
一尺八寸の姓を背負い、この神社を受け継ぐ男は二千年以上に渡りこの神の御加護を一身に受けてきた。若くして亡くなった父の代わりに剣を持つ一尺八寸 蘇勒も当然その一人であり、その腕は紛れもなく螭春華の神の恩顧(おんこ)の表れである。
儀式はただ厳かに進む。淡く霞んだ春の空気の中で花弁が降り、笛の音が水っぽい空気に飽和し響く。蘇勒はこの神社の嗣子(しし)としてここで最も有名な枝垂れ桜に向かい、ただじっと神の訪れを待っていた。
ふわりと柔らかい風が彼を包む。甘い花弁の嵐に視界が遮られ周りの人も一切見えない。枝垂れ桜だけが彼を見つめ返した。
瞬き、眼前に先程までは感じなかった質量が降りてくるのを感じる。綺麗な着物が風に舞い落ちてくる様に、花弁が嫋やかに降りる様にゆったりとした動きでだ。
美しい神であった。六尺はあろうかという艶やかな黒髪を揺蕩わせ、白木蓮の花弁の様にチラリチラリと細かく光を照り返す純白の衣を纏っている。一切角ばったところの無いなだらかな輪郭に、紅い化粧を施した雪の様に白い顔が見えた。
薄い胸や肩には後から貼り付けたような厳(いかめ)しい装甲があり、刀には細い手を軽く添えてある。
婉麗(えんれい)な立ち姿をしたその神の名は『淡雪切神(アワユキギリノカミ)』と言う。蘇勒は己の神が予想以上に威圧感の無い雰囲気で、人間によく似た姿だったのに驚き、ただ神の姿をまじまじと眺めていた。
反面、神は小首を傾げたり、きょろきょろと辺りを見回したり、己の髪を撫でてみたりと落ち着かないと言う風な挙動をしていた。ふと神が蘇勒の方を向き、視線が合う。すると、神は“あ……”と息のような小さい悲鳴をあげて驚いた顔をした為、蘇勒までも不安に襲われた。
「あの……大丈夫、ですか?」
神は動かない。ただ驚いた顔をして
「私が…見えてる?そんな、…私の知らない間に……………今から現界します…って言ってよ…」
と、焦りながら独り言をぼしょぼしょと連ねる。
「い…言えば良かったですね、すみません」
蘇勒がそう言葉を返すと、神はまたビクリとして”えっ…!?“と悲鳴を漏らした。そしてやっと神は己の失態に気付いた様で恥ずかしそうに笑いながら、跪く蘇勒の方に手を差し伸ばした。
蘇勒は尊い立場である神から差し伸べられた手に驚き、神の顔を見上げる。神は柔らかく目を伏せてただ笑んでいた。
「淡雪切神様…」
「“雪様”で良いぞ、年の離れた兄のように思っていてくれ。だって、これから私達ずっと一緒に暮らすのだからね」
「はい。雪様……よろしくお願いします」
雪の手を取り、立ち上がる。周りの花びらが飽和し、二人の姿が周りの人間達の前に現れた。それを見た人達は息を呑み、一瞬静かな時が流れる。そして忽(たちま)ち歓声が上がり、そのまま神降ろしの儀は呑んで騒いでの宴となった。
…………………………………………………………………
「……蘇勒」
「どうされました?」
長かった宴は終わり、遠くから片付けの音が聞こえる。風呂上がりの頬と素足を春の夜の空気に晒し、二人は寝巻きで縁側に座っていた。
「その………お前に触ってみても…」
「あ、はい」
慣れない手つきでそそ…っと頰に触れられる。何故、雪がこのような行為をするのか理解出来ない。緊張でカチンと固まってしまった。
雪は無表情を装おうとしていた様で、頰に触れると一瞬わざと顔を顰(しか)めたが、すぐににこにこと笑い出した。
「…すまない、突然こんな事されたら怖いよね…。その、……人に触れてみる事が私のちょっとした願いというか……夢、だったから…触れてみたくて…」
「怖くなんかないですよ、貴方がずっと俺達を守ってくださっていると祖父から聞きましたし」
「私、よく幽霊みたいだって言われるが…それでも怖くないか?」
「ええ、幽霊はそんな風に笑いませんから」
蘇勒は雪の期待以上に嬉しい回答をした様で、雪は満足そうに蘇勒の頬から手を離す。
蘇勒に怖がられないようにと必要以上に重ねられた雪の言葉からは、神と人とのただただ長い時間のすれ違いがあった。
神は元来神秘のベールを被っている。何千年に渡り現世を見ていても干渉することは基本的に叶わない。一方的に現世をただ見、守るだけである。
分からなかっただけでこのひとは何時も俺達を見ていたんだ、と蘇勒は直感で理解した。ずっとずっと遠くの昔、俺の生まれる前からこの人は俺の近くにいたのか、なんだか懐かしい…この美しき螭春華の桜や川そのものがこのひとだったのだろう。
雪の横顔を見る。考え事をしている様な顔で枝垂れ桜を見ていた。彼が降りてきたあの木だ。
「あの木がお好きなのですか」
「ええ、私がここに来た時から変わってないからな…」
彼は眠たそうにゆっくりと瞬きをして
「なあ、蘇勒…お前は父さんに凄く似てるな」
と囁くように言った。
どきりとする。父は幼き日に亡くしてしまってからあまり記憶に残っていない。覚えているのは俺の頭を撫でてくれた大きな手のひらだけだ。それでも“似てる”と言われるのはなんだかとても嬉しい。
「そうなんですか…?」
「ええ、凄く似ているよ。父さんの父さんにも…そのまた上の父さんにもお前はよく似ている」
すると雪は柔らかく笑って蘇勒の頭を撫でた。心臓が高鳴る。この感じ…どこかで……………。
「ふふ…お前の父さんはこうやってお前を撫でてたよ…。どうかな、似てるかな…?」
「…はい!多分…似てます」
雪の手は父さんとは全然違う。刀を振るってもタコも出来ず、筋も出ないような手だ。それなのにこんな事が出来るのは、やはり父さんをずっと見ていたからなのだろうか。
「………もう寝ようか、話してたら眠くなってきちゃったな」
「はい、…久々に誰かと話して楽しかったです」
…………………………………………………………
「お帰り蘇勒、また朝から鍛錬か…?」
次の朝から既にいつもの生活とは変わっていた。起きても帰ってもあのひとがいる。不思議な感覚だが、悪い気はしない。むしろ家族が増えた様で嬉しい。
「ええ、戦いに備えて置かなくてはと思いまして」
「ふふふ…お前、戦いがなくても鍛錬してるじゃないか」
「た…確かにそうですね…。……戦いが無くてもこの神社と貴方は、俺が護っていかねばならないと思ってるので」
「あ…あなた?私の事か?」
「はい、俺の神は貴方ですから」
雪は喜んでいるのかクスクスと顔を隠して笑えば、”嬉しいよ“とだけ言う。そして“そ、そうだ、桜でも見に行こう!まだ早い時間だ、人もいないだろう”なんて言いながらそそくさと用意をしに他の部屋へと行ってしまった。
蘇勒は大真面目に言ったつもりだったので、何故雪に笑われたのか分からずにポカンとしてしまった。でも、花見に誘ってくれたという事は相手の気分を害してはいないのだろう、少し安心した。
…………………………………………………
少し高い所まで来た。春霞で桜の白がぼんやりと飽和し、ふらりふらりと薄紅色が降ってくる。もう春だというのに此処にはまだ、少しの雪が残っていた。
「…蘇勒、少し話しても良いかな」
水分を含んだ肌寒い空気が漂っている。貴方の柔らかい声が優しくその空気に溶けて聞こえた。
「はい、大丈夫です」
雪はその返答に作った様な笑顔を返して見せれば、ゆったりとした足取りで蘇勒に近寄る。揺れながら舞う黒髪と薄紅色の桜が似合い過ぎて少し怖かった。
「…神喰いの儀の事、お前もわかっているな」
「はい」
「……まずは…私の力不足でまだ幼いお前を戦場に立たせてしまう事、申し訳なく思っている。お前は、私の事をこの大國日の最高神の一柱だと聞いているだろう…でも、私はそんなに高貴な生まれではない。私がどんなに取り繕ったとしても埋めきれない力の差がある…単純に考えれば勝てないと言う事だ」
「………………………」
「…負け戦だと分かっているにも関わらず、お前に命を賭して戦えなんて言えない…。でも、私だって死ぬのが怖い。きっと、お前にかなりの無理もさせるだろう…。だから、桜が散るその日までに…その、…覚悟を決めて欲しい。何を見ても、何が起こっても、剣を持つ覚悟をだ」
「俺は何があっても雪様、貴方を護りぬくと誓っています。貴方の生まれがどうであれ、この戦いがどうであれ、貴方は俺にとって唯一のお方です。ただ…貴方の盾となり、剣となり、最期まで戦います」
真っ直ぐな瞳。ただ夢物語に憧れただけの少年が口だけで言う言葉ではない。それを本気でやろうと思っている。本気で戦おうという意思があった。
私は多くの人間に慕われながらも、その実もどかしい孤独と共に生きてきた。それは愛した人々を守る為に私自身で選んだ事であったが、それでも誰か…いや、“誰か”では駄目なんだ…。お前に、私が愛した螭春華の子に寄り添って欲しかった。
非道い神だ。酷だと分かっている。私の心だけでこの子に茨の道を歩ませることになる。この子の十五年ぽっちの中に、私は…私の二千年の意味と救済を求めてる…そんなの……“汚い”。私は、きっとこの子の言葉を否定しなくてはいけないはずだ。
“お前はお前の好きなように生きなさい、家の為…神の為…と己の自由や命を投げ出さなくても良い。もっと我儘に生きて良いんだよ”と言うべきなのだ。そんな上部だけの言葉で、彼のこの瞳を変えることなど最早出来る訳ないが…。
「……ああ、…その………すごく嬉しいよ。……私はお前の事“まだ子供だ”って思ってた。だが、お前は私が思うよりも大人で立派な人なのだな」
笑う。作った笑みではない。“嬉しい”それは心からの言葉であった。嬉しい…嬉しい…嬉しい…愛した人にやっと触れられた、愛した人に大切に思われている、愛した人がやっと私に寄り添ってくれる……でも、………………
…残酷だ。
「蘇勒、お前に私の力の一部を与えよう。私はこれからお前を子供だと思って接したりしない。背中を預けられる対等な存在として……お前を見、共に戦い、そして共に生きる」
雪がそっと手を伸ばし蘇勒の左の耳飾りに触れる。淡い風が頰を撫た。蘇勒は落ち着いて目を閉じる。呼吸が深くなり、体の奥底から風の様に力が湧き上がってくる感覚に包まれる。
暫くして雪はそっと手を離した。蘇勒が目を開く。今まで沢山の鍛錬を積んできたが、それでもこんな感覚ははじめてだ。体は軽く感じるが、前よりもグッと強い力が入る。
「雪様、これは…?」
「どうだ!すごいだろう!これが私の能力だ!……まあ、他の神々と比べたら少ないし弱いが…人間達が私に持たせてくれた力だからな、人間であるお前にもこうやって分けられる」
誇らしそうにそう言えば、くるりと体の向きを変えて“もうそろそろ帰ろうか”と呟く。山を下っていけば螭春華神社の屋根が少しずつ見えてきて、桜の密度も少しずつ薄くなっていく、幻想世界から現実世界に引き戻されるようだ。
「来年もここで一緒に桜を見よう、な、蘇勒。次は戦など無い世界で…」
永遠に思えた美しい桜も少しずつ少しずつ解れて消えてゆく、薄紅色が若い緑色に変わる。
桜が散る頃に戦いは始まる。すぐそこに迫ったその時を舞う花弁が絶えず知らせていた。
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