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大國日神記第十一話: 幽天殯宮挽歌(ゆうてんあらきのみやばんか)

「蘇勒、雪様の様子はどうだ」
「はい。特に何か悪い所は無さそうです」
「そうか…、」

 春の終わり、神降ろしから暫く経った。蘇勒は祖父に呼び出されている。

 蘇勒は父と過ごせた時間が短かったし、家族には男が中々いかなったから祖父との繋がりが強かった。仕事の全てが任される様になるのは蘇勒が学業を終えてからであるが、既に元服が済んだくらいの歳になったので今は螭春華のほとんどの仕事は祖父から彼に譲られている。

「貴方から聞いた話では、ここの神は恐ろしい姿だと聞いていたので少し驚きました。あんなに美しい神だったなんて」

 祖父は難しそうな顔をして顎をさすった。そして時々“うーん”と低い唸りを挙げる。

「そうか、美しい。…ああ、確かにそうだな。美しい神だ。死人の様に白い顔をしておる」
「……貴方は何を伝えたくて俺を呼んだのですか。下らない話しないでください」

「すまんすまん、本題に入るか…」

「蘇勒、お前、雪様に何をしたんだ。…神降ろしの前から桜は綺麗に咲いていた。だが、山の鹿や魚が変死しておったのだ。それが神降ろしからめっきり止み、雪様は浮かれた様子でお前に引っ付いてばかりだ…」

「“必ずお護りします”と言いました」

 祖父が溜息を吐きながら頭を抱え、そのまま“そうか、通りで…”と呟く。

「何か、言われなかったのか、…生まれや、神としての存在に関して」

「はい、“自分は高貴な神ではない”とか“自分は他の神に能力で劣る。勝てやしない“と言った節の事を仰られていました…確かに荒々しい戦をする様な方には思えませんでしたが、きっと護ります」

 蘇勒の真っ直ぐな態度を見て祖父は暫く黙り込んでしまった。彼は雪に全く懐疑心を抱いていない様だ。まあ、生まれるずっと前から懇(ねんご)ろに恩顧を掛けられていたので無理もない。

「……蘇勒、あの方は“何”だと思う。お前が毎日よく目にしている物だよ、

…………………………………………………
 
「やはり若いのは凄いね、治りが早いぞ」
 蘇勒はまたいつもの様に朝から剣を振っていたらしい、朝五時から外に出て飯の時間などには一時的に戻ったが、今はもう夕方の四時である。

「はい、でも、やはり鈍ってました…暫く剣を持てなかったので」
「少し見てたが気にする程ではないよ、寧ろ天晴(あっぱ)れだ。そう言えば…大切な話をしていなかった、こっちへおいで」

「…東雲 漱の事だ。蘇勒も彼の事は知っているだろう。お前が東雲 漱と対峙してからすぐ、彼はお前を斬った刀で自分の神も斬ってしまったらしい。お前を斬ったのも彼の意思ではなく、喋喋喃喃の罠に嵌められたが故だ。彼は私に函梅宮の神の心臓を持ってきた。蘇勒の力になりたいのだそうだ。お前がこんなに早く回復したのも彼のおかげだよ、快く受け入れてあげなさい」

「…そうですか、漱さんが…、」

「函梅宮がほぼ壊滅状態なので彼は螭春華で預かっているが、酷く傷心していて時間が経った今でも自傷が収まらぬ様だ。思う所もあるだろうが、あまりキツい事は言わず優しくしてあげて欲しい…東雲 漱はこの儀の被害者なのだから」

……………………………………………………

「覇頭、見た感じ傷は大丈夫そうだが、戦えるか」

 覇頭の傷は既にその外見からは殆ど目立たなくなっていた。まだ表面しか治っていないので肉が盛り上がったりしている場所もあるが、どこからも出血はしていない。

「ああ、雪を殺すだけの事、造作もない。それに、螭春華は人が守っているそうだな、それを喰えば良い」
「そうか、なら行こう」

 漢南が結界に触れた。鈴の音が鳴り響き始める。

………………

「は、覇頭か…いつかはこうなると、思ってはいたが、そんな…」
「結界に入ったのは覇頭ノ大詔ですか、以前対峙した。あの神」

 雪の白い顔がみるみるうちに青くなり、震えている。結界の反応があった近くに行くとも、逃げるとも言わない。ただただその場で震えているだけだ。

「雪様、戦いますか、逃げますか。時間がない、逃げるならすぐ逃げましょう」
「逃げたい…でも、もう無理だ。そこまで迫ってる…逃げられない…」
「お気を確かにしてください。雪様、此処で震えていても殺されるだけです」
 蘇勒が雪の肩を揺らすと、雪は死にそうな表情で顔をあげる。すると神威の風がスルリと舞い、一瞬にして雪は装甲と太刀の付いた装束姿になっていた。

「…人が喰われてる、酷い…血の匂いだ」

 神社の拝殿の方から悲鳴が挙がり、その音が近付いてくる。すぐ、そこに、

「淡雪切、殺しに来たぞ」
 本殿の天井を蹴り落とし、覇頭が目の前に現れる。その全身は赤く染まり、腕に螭春華の人の死骸が垂れていた。口から骨を噛み砕く音が響く、人を喰っているのだ。

「漢南!ガキの方は貴様にやる!」

 覇頭が叫べば、漢南が蘇勒の背後からガッと脇の下に腕を差し込み羽交い締めにする。覇頭はそれを見ると死骸を雪の方へ投げ付け、驚き声を挙げた雪の口にそのまま死骸の臓物を押し付けた。

 あまりの恐怖に全身の毛が逆立つかの様に硬直、痙攣し、自分の顔をがっぽりと覆っている覇頭の手のひらにそのまま臓物を吐き出す。血液と自分が吐いた臓物が鼻の中にまで入り、咽せた。

「雪、螭春華の人間は美味いな。深い金の瞳に濃い黒髪、健康で肉付きの良い人間共だ、剛毅悼の痩せた奴らより美味いぞ。貴様も喰うと良い。……昔は、お前も喜んで喰っていただろう?喰え!」

「な!手を離せ!」
 蘇勒は漢南の腹を無理に蹴って抜け出し、剣を構えて覇頭に切り掛かろうとするが、それを漢南が遮る。蘇勒は主人第一、漢南に構っていられぬという様子で何度も漢南を避ける様に剣を振ったが、全て彼女がそれを受け止めた。彼女は手首に鉄の板を仕込み、刃にその板を押し当てて受け流しているのだ。

「武人よ、相手は私だ。主人が気になるのなら、私を斬り伏せてから主人の所へ行くんだな!」
「ならば斬り伏せる!」

 蘇勒の胸を掴み投げ飛ばした。受け身は取れるものの雪から次第に距離が離れていく。漢南の目的が雪と引き剥がす事なのは分かっているのものの、それを防ぐ事が出来ない。彼女を殺さずして一歩でも雪の方へ歩み寄ろうとすると致命傷を喰らうだろう。防戦一方だ。

 覇頭が雪の頭から手を離す。雪は噦(えず)きながら足元に崩れ落ちた。肺の中に入った血を無理に吐き出し、食道半ばまで入った人間の腸を素手で引き摺り出す。

「何故人を喰わぬ、」
「………人をはじめて愛した時…人を喰わぬと誓った。…神になる時、人の血が、…私にとって毒となるよう、術を掛けた」
「弱くなるのにか」
「強さより愛が欲しかった」

「理解出来ぬ!」
 劈(つんざく)様な声が響く。高貴な神が血の穢れを孕むのは害だ。しかし、雪は違う。血の穢れを孕めば孕む程に強い存在となる。そのはずであるのに血を受け付けない。覇頭は今にでも片手で首をへし折ってしまえる様な相手に声を荒げる己が馬鹿馬鹿しかった。

…漢南との出会い。それが無ければこの様な事もせず殺していただろうに。

 人の暖かさや優しさ等という言葉は下らない。人はただの養分でしかない。弱く、取るに足らない、それなのに傲慢。下らぬ生き物。…漢南以外は。

 大いなる強さ、大いなる暖かさ、絶対の安心感。三田 漢南、彼女も短き生の人でありながら、戦神覇頭ノ大詔が今まで感じた事のない様な果てしがない強さを持っていた。当然、漢南以外の人間は塵同然だ。だが、何故人にここまで強く惹かれる。今までの何千年かが灰色に見える程、瞬間に思える程、閃光の様に眩い三田 漢南への感情が謎であった。

 覇頭ノ大詔は、その答えを淡雪切神が持っていると思っていた。非合理な感情と言動、己より弱いはずの者に惹かれる心、滑稽で弱い神。それが答えを持っていると思っていたのだ。

 床に転がっている相手を蹴り飛ばす。軽い体は簡単に弾き飛ばされたが、その細躯に似合わぬ鉄の装甲が床を引っ掻き大きな音を立てた。

 覇頭が考え事をしている内に雪は壁に手を付けてふらふらと立ち上がる。神威の風を起こし、襲いかかってくる覇頭の大剣を軽やかに躱した。しかし、覇頭に打撃を与えられる訳がない。刀を大剣にそっ、と沿わせてその軌道を変えるだけだ。

「死ぬと分かっていて、何故抵抗する!」
 雪自身もその理由は分からない。ただ絶望だ。此処から勝ち筋も希望も…何一つ見つかりやしないのに。」

……………………………………………………

「良いぞ、良い!お前をそこまで突き動かす激情は何だ!お前の正義は何だ!私に教えてくれ!」
 嘗ての戦いとは違う。漢南の頬に、太腿に、血の筋が引かれている。漢南ははじめて己に傷を付けた男に感激している様だ。彼との戦いは漢南の望んだ理想の“戦い”そのものである。

「正義とか何だとか知りません、俺は、相手が如何なる善人であろうと雪様を狙うものならば全て切ります。…正義など、持っていません」
「素晴らしい…良いぞ!人を!神を!殺すと分かっていながらも、お前は進むのだな!?自分の神のために何だってやるのだな!?罪を背負う事も厭わないのだな!?」

 漢南の首を刃が掠めて、その薄皮を割く。漢南はそのまま体を捻り、蘇勒の横腹に思い切り蹴りを入れた。が、彼は吹き飛ばされても受け身を取りすぐに立ち上がる。金の瞳が漢南の瞳をジッと射抜く度、漢南の心拍数は上がり、拳が歓喜で唸りを挙げた。

 容赦なしに蘇勒の腕に拳が打ち込まれていく。人体からするはずのない鈍い破壊音が体の中で響き渡ったが、受け止め切ればすぐに切り込む。互いに血みどろだが、決定打がない。互いに相手に殺されない様にするのが精一杯で、相手を殺しきれない。

 生き生きとした漢南に対し、蘇勒の顔には目に見えて焦りが出てきている。剣の手を抜く事はないが、それでも主人の事が心配でしょうがない。早く目の前の彼女を殺さねば!殺さねばならぬのに何故死なない。何度か、普通ならば動けなくなる程深く刃が入ったはずだ。それなのに彼女が倒れる事はなく、寧ろその拳の鋭さは増している。打撃ではなく、最早刺突だ。彼女の拳は肉を抉り飛ばすのではなく、肉を真っ直ぐ刺し破壊する。

「また主人の身を案じているな!剣が鈍っているぞ!」
 鳩尾(みぞおち)に漢南の拳がめり込んだ。呼吸すら出来ず、脳みそが痺れる程の痛みが全身に鈍く走り、そのまま回し蹴りで頭を打たれて地面に転がる。すぐ立て直そうとするが、上からグッと抑え付けられて首に手がかけられた。

………………………………………………………

 白刃で覇頭の顔の横の髪と胸から上の衣装がサッと裂ける。雪は驚き声を漏らした。覇頭の肩から心臓にかけて異様に肉が盛り上がり、ケロイドの様に禍々しい形相になっている。と、その間に腹を蹴られ、後方へ吹き飛ばされた。

「弱いのに、すぐ心が動く。そういう所があるから殺されるのだ」

 背中が壁にぶつかり、そのままズルズルと崩れ落ちる。長い髪が壁に一部擦り付いたまま、血か臓物か判別付かぬ物をどぼどぼと胸に溢した。腹の装甲がパッキリと割れている。その薄い腹の中身は全てぐちゃぐちゃになっているだろう。

 覇頭がゆっくりと近づいてくる。剣を持った左手を思い切り踏み潰されたが、もう悲鳴を挙げるほどの体力も残っていない様で、肩を震わすだけだった。

 雪の顔を手で覆い、そのまま持ち上げる。足が宙に揺れ、腕も垂れたままだ。徐々に覇頭の腕に力が入っていく。ぱきぱきと軽く、骨が軋んでいく音がした。そのまま頭を潰すつもりなのだろう。

 徐(おもむろ)にサッと雪の右腕が持ち上がった。その腕には細やかな装飾の入った懐刀が握られている。覇頭の肩から胸にかけてのケロイドの表面をサっと撫でただけであったが、そこに一閃の赤い筋が入る。そしてその筋から無数の亀裂が入り、覇頭の体が弾け飛んだ…様に見えた。

 弾け飛んだ覇頭の体の中から物凄い勢いで瘴気の渦が舞い上がり、それが天高くまで伸びる。周囲に瘴気の暴風を巻き起こしながら、その瘴気は濃くなった部分から実体化していった。灼熱を放ちながら黒々とした肉が産まれていく。

 地獄の底から響く様な低い唸りを挙げ、その怪は顕れた。三十尺程の巨体に牛の頭骨の様な顔を持ち、戦場の血肉と死臭を匂いを纏った戦の化身。正に覇頭ノ大詔の真の姿である。

 雪は動く事が出来ぬまま、その覇頭の姿を見上げていた。強い熱気に喉が焼かれ、あ、あ…と虚(うつろ)に恐怖の声が溢れる。

 覇頭の体から出る瘴気で螭春華の桜木が次々と炭の様に黒くなり、そのまま風化した。覇頭が呻く度に熱気を帯びた瘴気が渦巻き、街を焼いていく。何処からともなく悲鳴が上がる様はさながら天災であった。特に螭春華は周囲を山に囲まれた土地、山に遮られ熱がこもり、人々は逃げる事も出来ず焼き殺されていく。

 手に握られている懐刀に目をやった。もう、こうしなければ…いや、した所で状況は変わらない。私には何も出来ない。でも、このままにしていては螭春華の人々が全て死ぬ所では済まないだろう。生きとし生けるもの全て、この黒泥に呑み込まれてしまう。

 刃を己の胸の中心に当てがった。恐ろしさから唇をキュッと結んで目を瞑る。

 そのまま胸にゆっくりと刃を差し込んでいく、白い着物に赤が染み出した。呼吸が上手く出来ずに啜り泣く、痛い、痛い、痛い…意識が飛んでしまいそうだ。

……………………………………………………………

 祖父の妙に張り詰めた空気を蘇勒は感じ取った。それも意に解さぬ様に春風が両者の間を吹き抜ける。

「蘇勒、あの方は“何”だと思う。お前が毎日目にしている物だよ、…

…アマハルバナのアマは…“螭(あま)“は何だと思う。“蛟(みずち)”じゃよ、蘇勒。あの方は蛇だ。龍に成り切れぬ蛇だ…。
 神だとは言われておるが、どちらかと言えば妖の様な存在だ。…人の命が短いのは“心がある”からだ。心が多くの苦しみを生み出すが故に人は恒久の時を生きられぬ。心の傷は体の傷より遥かに癒えにくく、持ち主をじわじわと殺すので、心を持つ生き物は命が短い人間以外全て消えた。あの淡雪切神以外は全て!
 あの方は人を本気で愛した。執着して、傷付かぬ様に思考を止めて…心の動きを制御して生きながらえた。…雪様は戦う前に死ぬ物だと思っていた。執着による思考停止で生き長らえていた存在が、その執着の対象に裏切られ自暴自棄になっているのだ。既に魚や鹿が死んだ…次は人を殺して過去の二千年余りの時に、その心に殺される物だと思っていたが…
…あの方の執着がお前に向いたから生きているのか。蘇勒、蛇に好かれてはもう離れられぬぞ。実際、あの蛇はどんな酷い目に遭っても二千年以上…自分が殺されるとなるまで人間に尽くし執着し続けた。獣でありながら八百万の神の上に立ち、人に都合の良すぎる存在で、美しい皮を被っている…そんな神だ、他の神にどう言われたのか想像に難くないだろうに」

「そうですか、だから昔、夜中に口笛を吹いてはいけないと言われたのですね」

「何故そんなに冷静なんだ!苦しくはないのか、自分の身に起こっている事の重大さが分かっていないのか!……俺は、辛いぞ、…お前は、息子が残した唯一の嗣子というのに…蛇に憑かれようとは」

「結局、俺がやらなくてはいけない事はあの方をお護りする事でしょう。それに、俺たちをずっと見守ってくれていたのがあの方だという事実は、何があっても揺らぐ事ではありません」

「………そんなのだから憑かれるのだ!後悔しても知らぬぞ」

………………………………………………………………

 漢南が蘇勒からパッと手を離す。その目は物凄い轟音を挙げながら瘴気渦巻く神社の方へ向けられていた。

「は、…覇頭…!」

 驚いてる様子の彼女の事など気にもせず相手の顔を思い切り柄で殴りつけ、蘇勒は神社の方へ駆け出す。何が起こっているのか分からない、あの瘴気は覇頭ノ大詔なのか。

 漢南もその後に続き神社の方へ向かおうとするが、彼らがそこに辿り着く前に瘴気が固まって肉となり、牛の頭骨を持った巨大な異形が街を燃やし始めた。

 蘇勒は息を呑んだ。此処からは螭春華の街が一望出来る。生まれ育った街が焼け爛れ、悲鳴と呻き声が充満し地獄の形相を見せる。そして今まで大切にしてきた桜木も次々と灰となり崩れていった。

 だが、呑気に街を見てはいられない。雪の元へ行かねば、…

 キン、と銀の光の筋が天に走った。白鱗の蛇…いや龍か、どちらでも構わない。蘇勒にはそれが祖父の言っていた蛟…螭春華の“螭”なのだと、分かった。

 甲高い鳴き声が響く。なんて美しい。春の使者である龍蛇、金の瞳に繊細な白い鱗、棚引く霞の様な膜を靡かせる姿は正しくこの美しい螭春華そのものだ。

「蘇勒、あの蛇がお前の神か」
「はい、そしてあの怪物は貴女の神ですよね」

「ああ、そうだな」

 漢南の声には強い悲壮が漂っていた。蘇勒にその所以は分からない。

 いくら元の姿になろうとも、雪に覇頭を止めるのは到底無理である。ただ、この地はその名の通り雪の土地だ。怪にその身を喰らわれつつも、螭春華の至る所に巡る川の水を強引に氾濫させ、こもっていた炎が少しずつ落ち着き始めた。その上瘴気が渦巻き黒くなった空の一部を裂き、冷たい雨が降る。珍しい、冬の雨だ。

 前に進もうとする蘇勒の前に漢南がサッと手を出し遮る。
「止めるな、雪様が殺されてしまう」
「私とてお前の思いを遮りたくはない!だが、私の役目はコレなのだ!三田家…いや、三田 漢南の役目は…
…あれが暴れ出さぬ様に制御し、万が一暴れ出したら被害を最小限に抑えるため、あれを…覇頭を殺す事。つまり私は覇頭ノ大詔の鎖なのだ。どうしても人と交れぬ、あの神を殺すのが…私だ。蘇勒、お前の気持ちは分かるが私の為どうかここで死ぬな」

 ポケットから鉄の板を取り出した。それが三田 漢南の武器、三田家の神器である。…神器というにはあまりに質素、だがその数千年に渡り蓄積された圧は測り切れぬ。覇頭ノ大詔は如何様にしようと人と交れぬもので、幾ら千早振る神であろうといづれの日にか人に滅ぼされるのが運命であった。

 数奇な縁。今、覇頭ノ大詔は初めて心を通わせた人に殺される。初めて共に過ごしても良いと思った者に殺される。

 漢南の手に赤い糸が巻き付き、神器が強い光を放ち始める。三田家の二千年あまりをただこの神器だけに費やした。この神を殺す為だけの神器。他でもない漢南の手によって展開された。

 その光が辺りを包む、暴風が渦巻き、辺りの木々が弾け飛んだ。

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 牛の頭骨に亀裂が入り、そこから肉となった瘴気が泥の様に液状化して溢れ出る。頭骨が音を立てて地に落ち、頭骨と共に瘴気もただの泥に戻った。それを見ると蛟龍も血の筋を引きながら落ちていった。

 漢南はその頭骨が落ちた方へ向かう。先には青年の姿で木にもたれかかっている覇頭の姿があった。

「すまない。覇頭…お前を裏切った」
 漢南が覇頭の手を握る。彼の左胸や腹の一部は抉り飛ばされていた。辺りに心臓は落ちていないので、神器が破壊した肉体の一部…心臓は蛟龍に吸収されたのか。

 覇頭の表情は何処か涼しげであった。厳しい表情が少し和らぎ、凛と美しいその容貌が浮き彫りになる。日々、その圧から感ずる事は出来ぬが、こう見るとなんて秀麗な神だろう。この涼しげな美丈夫がこの美しい街一つを潰しかけたとは到底思えない。

「三田家が何たるかなど、とうの昔から知っておったわ」
「それでもお前は、私の強さを評価したのか…嗚呼、お前と過ごした日々だけが美しい。お前と共に生きたかった」

 三田 漢南及び三田家は此れを以って『覇頭ノ大詔の鎖』としての役目を終えた。自分たちが滅びるのを恐れた三田家から見れば、犠牲になったのは螭春華の人間だけなので結果はまあまだ良い物だろう。

 しかし、三田家の呪縛は解けない。そもそも彼らがあれ程までに閉鎖的で旧時代的な事をしていたのかと言えば、覇頭ノ大詔という災害を抑え、その生贄の存在を世に知られぬよう隠す為に個人の自由を奪う必要があったからである。最早そんな必要は無くなり、彼らは強い束縛から逃れても良いはずなのだ。しかし、解けない。漢南は自由にならない。

 人はそれが非合理的であっても、その目的が達成されても、自分にとって都合の良い環境は手放したくないし、自ら手放す事はほぼほぼ出来ないのだ。三田家はあまりに長くこの体制を続けすぎた。男にとってだけ都合の良い環境を続け過ぎた。最早そんな事する必要が無くても、三田家の男が今の特権を手放そうとするとは思えない。

「ああ、そうだ。漢南、貴様は我が初めて見る程に強く美しい。我には…何故そんな貴様が下らぬ人間に縛られ生きるのか、理解できぬ」

「…そうか、そうだな…」

 漢南の手に泥が落ちた。覇頭の肉体が崩れたのだ。覇頭の肩を掴み、ガッと抱きしめる。そのまま覇頭ノ大詔の体は泥となり、地面へ溶けていった。

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 軽い水音が響く。最早空となった神器は、螭春華の川に流れていった。

 神器との訣別は、三田家との訣別である。

 覇頭の鎖として生まれ、その宿運を背負った三田 漢南の呪縛を砕いたのは他でもない覇頭ノ大詔であった。

 先程まで吹いていた強い風が止み、雨が雪となった。三田 漢南の顔は髪が乱れ、見えない。彼女は歩き始めた。剛毅悼の方ではない、何処でもない所へ歩き始めた。

 酷く寂しそうな背だった。しかし、荒涼とした中にどこか清々しさがある。彼女は全てを失った代わりに自由を得たのだろう。

…………………………………………………………………………

 龍蛇は川の浅瀬で倒れていた。体のあちこちが抉られて、その血が無数の筋となり川に流れている。

「…もう帰りましょう」
 蘇勒が龍蛇の顔の撫でると、その体が絹糸の様に解けて、雪の姿が現れた。長襦袢(ながじゅばん)姿で淡く目を閉じ、眠っている様だ。絹糸の様な物を掻き分けて、その身体を龍蛇の中から全て出した。

「雪様、俺の力不足で…申し訳ございません」
 雪の両脚は覇頭に喰われた様で膝から上は殆ど失くなっている。しかし、その切り口から出血はない。傷口が熱気で焼かれているのだ。

 蘇勒が雪を川から引き上げると、雪の口から血と混ざった泥が吐き出された。覇頭を喰ったのだろう。その肉が泥となっている。

 神社の者が幾ら生き残っているのか分からない。助けを呼ぼうにも呼べぬので、雪を無理矢理抱えて、神社まで歩いた。剛毅悼で戦った時はこのひとの脚を引き摺りながら引っ張っていった物だが、今は脚が無くなってとても軽く思える。懺悔が胸を吹き荒ぶ様な気だ。

 今年初めての降雪。異様に底冷えし、川に浸かって濡れた体の先は霜焼けの様になって血が滲んでいる。

「…私は、恐ろしくなかったか…」
「はい、恐ろしくなかったです」

「人を喰っていたのに…」
「貴方が過去に何をしていても、貴方が何者であっても、人を支え続け俺を見守ってくださったこの二千年間が無くなる訳ではありません」

「…私の貌は、かつて喰った女の貌なのに」
「それでも、貴方は美しい」

 愛する事は傷付く事だった。それなのに、私は他者を愛さずにはいられなかった。

 はじめ私は人という存在そのものを愛した。寂しくても幸せだった。他の神に何を言われようとも、何をされようとも、人の為ならば苦しくなかった。私は“私”という個ではなく、“人を支える”概念のような物であった。

 しかし、人に裏切られて私は酷く傷付いた。私という概念そのものが崩れ落ちてしまった気がして、死のうと思ったがそんな勇気もなく、はじめて私は“私”を個として鑑みた。

 人に裏切られた私は一尺八寸 蘇勒を愛した。まだ年齢的に子供である彼を守ってあげなくてはいけない、精神的に支えてあげなくてはいけない…父兄の様な存在で無くてはいけないと理性では分かっていた。それなのに、私は彼が私の存在をそのまま肯定してくれると、私が“人を支える概念”じゃなくて個としての“淡雪切神”で良いとしてくれる存在であると、気づいた時、彼が私を必ず護ると誓ってくれた時、彼の頬に触れた時、彼を抱きしめた時、彼と共に寝た時、彼の唇を奪った時、私は…想像を絶する己の弱さと汚さを知り、傷付いた。今まで“私”を見てくれる者がいなかったから、私は私の醜きを知らなかった。愛が産んだ痛みを、愛で埋めようとして、また傷付く私はなんと愚かなのか。

 人を支える神である淡雪切神は人に裏切られた時点で死に、私は蘇勒の神になれなくなった。一尺八寸 蘇勒の父兄の様な淡雪切神はそれ以上の接触をした時点で死に、私は蘇勒の父兄になれなくなった。私は、神にも父にも兄にも、まして友人や恋人等にも決してなれぬ、ただ蘇勒の人としての幸せを奪うだけの存在になった。

 蘇勒に「私は醜いか」と問う時、彼がそう答えぬのを知っていて問うている。彼に触れる時、彼の人生を壊していると分かっていながら触れている。泣く時、彼が私を救ってくれると思っているから泣いている。彼の人生を壊す私は醜い、でも蘇勒、雪が為に生き、雪が為に死んでくれ。私が一尺八寸 蘇勒という人の生を占める。それが私の幸福と、私、そのものだ。私全てを受け入れて、この世の螺旋に巻き込まれ、共に溶けて消えていきたい。

……………………………………………………………………………

 まだ全員の死体が見つかっていないらしく螭春華は混乱状態である。幸い、蘇勒の姉や祖父は死んでいない様だった。東雲 漱も山の中腹にいたので無事な様だ。

 雪は俗世から隔離された様に、崩壊しかけた社の奥でずっと眠っていた。最早人間の医者がどうにか出来る事ではないので、その部屋には蘇勒以外立ち寄らない。正確に言えば、彼が他者の侵入や外の騒々しさを快く思わなかったのでその立ち入りを拒んでいるのである。

 未だ悲鳴や泣き声が轟く螭春華の中で、此処だけは異様にシンとしていた。

 雪は時々目を開き、言葉を交わすが、すぐにまた眠ってしまう。痛々しい傷は粘土で埋め合わせるかの如く白磁の様な肌に馴染んでいったが、失った足が戻る事はなく、無機質さと生々しさが入り混じり夢の様だった。

 そういった状態のまま一つ二つと夜が過ぎていく。その間、蘇勒はずっと雪の側で彼を見守っていた。一切生物的な行為をせず、時が止まった様に眠り続ける彼に施したのは化粧くらいだった。その白く美しい貌は、朱を引かねばすぐその輪郭を失ってしまいそうだったからだ。

 晩、月が高くまで登った頃。雪の目が開いた。長い睫毛の影が頬に落ち、金の瞳がちらちらと瞬く。

「蘇勒、どこにいる」
「はい。ずっとここに居ります」

「こっち来て、もう目が見えない」
「…分かりました」

 雪の側に寄る、彼は手を伸ばし蘇勒の肩から腕を撫でるとそのまま自分の方へ引き寄せ、その手を自分の頬へ添わせた。

「蘇勒、私はもうじき死ぬよ」

 真っ赤な唇から淡々と告げられる。白絹を透かした様な頬は赤く、滑らかな曲線を描いていて、到底危篤に思えぬが、その貌は触れれば割れてしまいそうな程に透明であった。

「その様な事を仰らないでください…!今から取ってきます。神の心臓を、…勇義焔ならば近い、今からでも間に合います」
 雪から手を離して立ち上がり、隣に置いていた刀に手をかける。本気で今からにでも行こうとでも言わんばかりだ。

「行くな、行かないで…蘇勒、神を喰っても私は治らない。どうか、ここに居て…私は、神を喰ったから死ぬ、覇頭の力は強すぎて私には受け止めきれない…だから死ぬのだ。ごめん、はじめから私は…勝てる希望の一筋も無かった。お前を裏切った…お前の心も努力も裏切った…でも、側にいて」

 刀を置き、深く息を吐いた。雪に対して裏切られただとか、恨めしいだとかそんな感情は一切湧かない。涙をはらはらと溢す相手の顔をただ眺める事しか出来なかった。

「…お側に、居ります」

 雪の肩を抱き、半身を起こさせる。相手は胸の辺りでずっと泣いていたが、泣くなと言うほうが酷だと思ったので、それを拭う事もせず抱きしめるだけだった。人が泣くと体温が上がるはずだが、雪は冷たいままである。冷たく、軽く、骨張っていない体、宛(さなが)ら蛇だ。

 無力感に打ちひしがれたまま、ずっとそのままでいる。あの時、逃がしていた方が良かったんじゃないか、漢南をすぐ殺せなかったからだ、勇虜次を殺して喰わせておいた方が良かったんじゃないか、様々な思いが湧いて来た。無数の人が死んだ後の暗く冷える社の奥。雪はじき死ぬ、そのはずなのにこの時が永遠に思えて、仕方なかった。

 この國で最も多くの信者を抱えた触れれぬ所にいる美しい神、それがたかだか十五年ぽっちしか生きていない人間の男の子の胸に縋り、肩を震わせ泣いている。痛ましくて見ていられなかった。多くに慕われながらも裏切りの果て、ただ一人に抱かれ死ぬ。惨めだが、雪はそれで良いと思っている。心中満たされていた。

 多くの神々が無念の中で死んだ。そんな中、卑しき際でありながらも愛する一人に触れながら死ねるのは最上級の幸運であると分かっていたからだ。きっと、この十二幻神の中で、人間が神喰いの儀を起こせるような環境を作ってしまったのは雪だ。自身もそれを知っている。他の神を土の上で殺しておきながら、自分は愛する人の腕の中で死ぬ、なんて酷い。

「私が死ぬ事で、自分を責めないで。私は、もうお前以外何も要らなくなった。神で居られなくなった…人を喰い殺す運命の先、かつて愛した屍の上、化け物として討たれるはずだった。だけど私は人を…お前を、愛したまま…ここで死ねる。それは私を護ったという事…

…ただ、もっと一緒に居たかった。だから契って、私と契って…この深い縁(えにし)、今生(こんじょう)だけで終わろうか。畜類の私は、人に成れぬやも知れぬ…でも、何千年だってただお前だけを待つよ。だから、どうか…、また、私を迎えに来て」

………………………………………………………………………………

 暗い夜、ただ走っていた。息白く、あのひとの花はまだ蕾すらも無い、雪の中幹が黒く影の様に立っていた。

 熱い瞼が冬風に冷やされていく。

 結界の前に来た。それに触れる。

「…ヒッ………!!!そ、蘇勒くん…そ、それは…」

「勇虜次神、雪様は先程身罷(みまか)られました。これは雪様の意思です…この一尺八寸 蘇勒はじめ螭春華はこれから勇義焔の支援を致します」

 蘇勒は腕や、胸から腹にかけてまで一面血だらけだ。無論、彼自身の血ではない。

 彼は勇虜次の前にまだほの暖かい心臓を突き出した。勇虜次は驚き、蘇勒の顔を見、志のは恐怖で固まっていた。

「あ…あの、淡雪切神様が…み、みまか…られて…それは、何……ですか、蘇勒くん」

 志のは血の匂いを嗅いで蒸せ、そのまま大粒の涙が溢れ出していた。勇虜次が彼女をグイと後ろに引っ張り、“見るな”とだけ言って、それを受け取った。

「雪は、俺に雪を喰えと」
「…はい、人に仇なす神がこの儀を勝ち進めば大國日の人は滅ぶ。この國を託すのは人を愛し、真っ直ぐな善の意思を持つ神で無くてはいけない。幽玄様も最早御隠れになられた。故に勇虜次に託せ…と」

 淡々とした口調。一見、彼が雪の死に何の心も動いていないかの様に見える程に揺らぎない。しかし、勇虜次はそれに対し何も言わなかった。赤く腫れあがった彼の瞼を見れば、彼がどれ程までに酷い顔をしていたのか想像に難くないからだ。

「そうか…、蘇勒、俺は雪を殺しかけた事がある。それでも俺たちに協力してくれるのか」
「………………俺の剣は、何があっても雪様の物です。雪様が貴方を信じた、だから俺は…貴方を信じるしか無い」

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「…また、私を迎えに来て」

 応える前に、胸の当たりを引っ張られる。光を失ったはずの金の瞳が揺れた。白い腕が頬に触れ、そのまま蛇の様に首に巻きついて来る。

 唇が触れた時、体の中で強い神威の風が巻き上がった。暖かい、春の匂いがした。雪は自分が死しても蘇勒を“普通の人”にせず、最期に神威という武器を授けた。雪は、自分がこの子の心のどれ程を占めているのかよく知っている。知っているのに、自分が死んでも…この子の心の大半が喪失されても、この子に剣を持たせる。そしてこの國の命運さえも背負わせた。

 腕がゆっくりと垂れ落ちる。蘇勒が顔を上げた時、雪はもう死んでいた。

 神が死ぬ時、神の体は現世に残らず光の粒になって消える。例外として国と覇頭の様な“血の穢れ”を持った神は泥となり質量が残ったが、それでもその肉体の形は消え去った。しかし、畜類である雪の体はその消え入りそうな容姿と裏腹に、消える事なく蘇勒の腕にまだ残っている。

 神としての運命に死にながら、神として召される事もない。蘇勒は震えた。このひとを裏切り殺した顔の無い無名の人々が許せなかった。剣を護る為ではなく、殺す為に振るいそうになる自分が恨めしかった。

 雪の託した物、それはこの儀で暴れ狂う神を勝たせず、平和な思想を持つ神を勝たせる事だ。つまり大衆にとっての平和と正義である。

 雪を失った蘇勒は今、雪を殺した大衆達の為に剣を握らなくてはいけない。彼は正義などに興味はなく、ただ雪を護る事だけしか考えていない雪だけの剣だった。…突然大海に放り出された様な心地だ。涙が溢れて、雪の頬に落ちる。冬の冷たさに、今まで負ってきた傷が軋んだ。

「きっと、きっと迎えに行きます。雪様、俺も、もう…、貴方しか要りません…」

 雪の顔は眠っている様にしか見えない。毎朝見る、穏やかな寝顔そのものだ。苦しい。彼の死を受け入れたくない。このまま抱いていれば、目を覚ましてくれる様な気がしてならなかった。

 甘い夢を見る自分を殺す様に短刀を取った。雪の着物の襟に手を付ける。その薄く真っ白な胸にそっと刃を沿わせた。切先が震えている。

 つっと血が溢れ出してきた。そのまま深くまで差し込み、抉る。血が溢れ出して止まらない、自分の嗚咽だけが聞こえている。今、正に抉り取っている胸に目をやれず、眠っている様な顔ばかりを見ていた。刀でその肉体を抉る度に、髪が柔らかく揺れている。

 生暖かい血で全身が浸された。覇頭を喰ったが為に雪の体は内側から侵食されており、赤い血が次第に黒い泥になっていく。内臓が溶け、体はほぼ空洞になっているらしい。細い肋骨をへし折った。案外、軽い音だった。気が狂いそうだ。貴方の為なら何だってやる、例え苦しくても乗り越えられると思っていたのに、

…乗り越えられると思っていたのは、乗り越えた先で貴方が微笑みかけてくれるからか。

 雪の心臓を抉り取る。手が震え、短刀を落とし、そのまま雪の体を抱き寄せようとしたが、それは瞬くうちに弾けただの水となった。そこに残ったのは泥の混ざった血と、雪の心臓だけである。
 
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「勇虜次神様。俺の目の前でそれを喰ってください。今、ここで」

「それは…どういう、志のもいるのにか…」
「関係ありません、それには覇頭ノ大詔も入っている。貴方がもし耐えれず暴れ出したら、人を殺す前に俺が殺さなくてはいけないので」
「覇頭が………」

 顔が一瞬歪んだが、そのまま心臓を一呑みした。途端、彼は倒れる様に地に伏せ、苦しみ踠き始める。志のは悲鳴をあげ、勇虜次に寄り添ったが、蘇勒はその姿を微動だにせず眺めているだけだった。

「勇様!!!…ど、…どうして、蘇勒くんはどうして勇様にこんな酷い事をするんですか!?前も勇様のお腹に穴を空けて…!ゆ、勇様が死んじゃう…!!…そんな、嫌だ…!」
「……………」

 勇虜次は泥の混ざった血を吐く。その度に志のの悲鳴が上がったが、勇虜次は暫くすると静かになり、ぐったりと地に頭を付けてしまった。

「ゆ、勇様!大丈夫ですか!?ああ…い、息がある……よ、良かった…」

「死んでない様ですね。なら、すぐ霹靂でも殺しに行きましょう。風文神、丹羽造、覇頭ノ大詔も喰ったんですから相当強化もされたでしょうし」

「無茶を言わないで蘇勒くん…勇様も疲れておりますし…」
「………志の、心配しなくても大丈夫だぜ……」
「で、でも…勇様…」

「志のさんは神の心配ではなく自分の心配をしてください。雪様の力があれば、非力な貴女にも神威を宿らせる事が出来る。貴女もこれからは戦わねばならないのですよ」
 志のの動転ぶりは大袈裟過ぎると言いたいかの様にそう言い放った。勇虜次は起きて、固まってしまった志のの肩に優しく手を置く。

「霹靂か、奴は強いぞ…蘇勒」
「強くても、害。死んで貰わなくては困る」

 相手の顔を見る事が出来なかった。何て痛々しい。冬風が心臓のささくれを抉る様だ。

「………………蘇勒、お前は…何に怒っているんだ」

「…何、…何にでしょうね。分かれば、切れば良いだけなのですが、生憎それが分かりません。この國の者、全てが、あの方を裏切って…殺した様に思えます」

 凛とした横顔、金の瞳が強い光を放ち闇に浮いている。以前から彼には年齢不相応な落ち着きと鋭さがあったが、今の彼のそれは最早、人間不相応である。

 勇虜次は嘗て雪に投げつけた問いを思い出していた。

“雪…お前は、こんな小さい子を戦わせて…………苦しいと、思わないのか…………”

 雪は語気を震わせながら、苦しくないと答えた。きっと、彼は自分の存在が為、ただの少年に殺しの道を歩ませる事に葛藤していたのだろう。

 しかし、今見れば分かる。目の前の彼…一尺八寸 蘇勒は雪が為に人を辞めさせられてなどいなかった。寧ろ、雪の存在が彼に人らしい物を与えていたのだ。

 彼は元来、人との繋がりを求めない性質(たち)だ。学校に毎日行っていても特別仲の良い友人はおらず、その家柄と固い雰囲気、目覚ましい剣道の成績から、別に嫌われてはいないのだが、皆に一歩離れた距離から接せられていた。

 彼はそれを楽だとも苦だとも思っていない。ただ、単純にどうして友人等が必要なのか全く分かっていなかった。

 彼はそのまま特に誰とも深い繋がりを持たず、平凡に学業を修め、正式に螭春華の神主となり、嗣子を産む為に高貴な家の娘と結婚して、特別苦しい事も楽しい事もないまま、毎年桜だけを少しの楽しみとして螭春華から出ずに生きるはずだった。

 それは別に苦しい人生という訳ではないだろう。下らない人生という訳でもないだろう。それで良い、そのはずであるし、まだ十五なのだから今からでもそんな人生を少しは取り戻せるのじゃないだろうか。だが、取り戻そうとしない。

 この深い縁、今生だけで終わろうか。その言葉の通り、あまりに深い縁が繋がれてしまった。一尺八寸 蘇勒は春霞の様に美しい淡雪切神に出逢い、その清きも醜きも全て受け入れた。互いが互いの世界になった。雪が消えても、雪がいないはずの人生には戻れない。取り戻そうとも出来ない。求るものが、全て、あのひとだからだ。

 あまりに長過ぎる夜が明けようとしている。“また、来ます”とだけ言って、蘇勒は死人の様な足取りで道を戻っていく。勇義焔の二人は声をかける事すら出来ず、ただその背を眺めていた。
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