大國日神記第十一話: 幽天殯宮挽歌(ゆうてんあらきのみやばんか)
神依児に選ばれるのは誰なのかという話題がどの神社でも絶えず騒がれていた。俺の神社もその話題で持ちきりで、よく親戚には「若いのに、可哀想に…」とまだ選ばれてもいないのに泣かれた。
知る事が好きだ。俺は周囲から優秀な子になって欲しいだとか願われる前に自ずから知識を欲した。
この國の文化と歴史はとても面白い。雲蒸は博打の神の神社なので博打人間が多く、書はあまり無かったから、昔は稗田や函梅宮に赴いてその膨大な書の一部を読ませて貰っていた。
一般的には有識者とされるであろう肩書きを持つ俺が博打の神に仕えているなんて、とよく驚かれるが、俺はここがよく似合っていると思う。
博打は非合理の象徴の様に扱われる。科学技術が進歩して行く現代の価値観では”神“も非合理の象徴とされがちで、尚且つ学問というのはそういった一般的に非合理とされる物を否定し進んでいく物だと思われている。
確かに、人間が開発を進めて行く事や、人間が科学で世の現象を証明し操ろうと思うと神は旧勢力として邪魔となるだろう。しかし、合理と非合理の境目はどうやって定めるのだろうか、…人間にとって『利』か『害』かだろうか、だが、多層的な万象がただの二分に出来るだろうか。いや出来ない。
人間には、清濁が相混ざり紡がれた時間が堆積し、生まれた現在を己が都合で二分する事が出来なければ、好奇心という無闇奔放で不安定非合理の権化の様な存在の一部が人間の利を生み出してきた事実を否定する事も出来ない。
俺は人も叡智も神も肯定する。人間の進歩の果てが、合理追求の果てが、神の排除であるのならば、それに異を唱えなければならない。
………………………………………
「大耀!敵だ!凄い量の神威が此処に向かっている…戦いは俺がやる!お前は逃げろ!」
「分かりました丹羽様…敵の目星は付きますか!」
丹羽は見るからに焦っていた。頬に汗が伝う。
「…覇頭ノ大詔だ」
語尾が震える。だが、双つの剣を持つ手に一つのブレもない。
「…覇頭ノ大詔、戦の化身か。…奴は概念の神です。何か物体として彼を表す物はない。戦という概念そのものです。故に奴の体は神降ろしをしたとしても肉体らしい肉体ではなく、再生可能の莫大なエネルギー体でしょう。…丹羽様!奴に外傷を作り、そこから忌繰りの毒を流し込み殺しましょう!そうすれば瞬間蘇生を防げるはずです」
そう告げて、神社の者数人と共に大耀は神社から離れた。彼は非常に足が遅いが、神社に残るよりは離れる方が安全だろう。
数刻待たずして雲蒸の扉が紙の様に破れ去る。その破片が丹羽の頬を掠めた。
「俺を殺しに来たか」
「戦神は我一柱で十分だ。潰す。丹羽造」
覇頭の振るう大剣を足場にし跳躍、そのまま双剣で肩を抉り取り背後を取った。そのまま脇腹の肉も抉り取る。
…馴染んできた。勇虜次との戦闘を通し、忌繰りの力の制御が以前よりも格段に上手くなっている。
覇頭は蹌踉(よろ)めきもしない。血が沸騰して傷口を塞いでいく。
「む、これが大耀の言った再生能力か…」
大剣が宙を割く。太い柱をも破壊し、雲蒸の天井が次々と落ちて行く。神威の強さ、力の強さ共に覇頭のが圧倒的優勢であるが、速さと技の正確さは丹羽の方が上である。瓦礫舞う中を疾風(はやて)の様に駈け、一撃また一撃と覇頭の体に切り傷を加えた。
再生能力は凄まじいが、完全に以前加えた傷が治ってる訳ではないらしい。内側の神威が漏れ出さぬ様に表面を覆っているだけで、表面より奥に入った傷はまだ残っている。傷を加えれば加えるほどそれは連鎖し体が柘榴(ざくろ)の様に弾けていく。
「ちょこまかと、鼠風情が!」
丹羽の額に大剣で一閃朱が引かれ、顔を仰反(のけぞ)る。
「ウ“ッ!!」
そのまま腹を思い切り蹴られ、丹羽の体がぶっ飛んだ。参道に転がり、吐いた血が乾いた地面に吸い込まれた。
此処は手水舎(ちょうずや)くらいしかない空間だ。入り組んだ場所で撹乱しながら戦う丹羽には都合が悪い。追撃が来る前に体を起こし、剣を構える。焦る、あの覇頭と開けた場所でやりあって勝てる気がしなかった。
…………………………………………
大耀と雲蒸の者数人は神社近くの森を行っていた。丹羽が示した覇頭ノ大詔の入ってきた方と真逆の森である。
足場が悪く、ただでさえ運動が苦手な大耀にとっては非常に厳しい道のりだ。神社の方からは何か崩れる様な轟音が響き続けている。
平城洛は夏は雨が多く、冬は乾燥している。土は乾き切り、紅葉はもうその土の中に吸い込まれた。もうじきに冬だろうか。
暫く走り、暗い森の終わりが見えてきた。
「皆、もう森を抜けます。近くに公民館があるのでとりあえずそこで待機しましょうか」
振り返った。誰もいない。神社の者達は何処へ行ったのか、スッと頭の中身が溢れていく様な気がした。
後ろから首を締め上げられる。締めているのは自分より背が低い…女性か。
筋肉の盛り上がった、鋼鉄の様に硬い腕で首を絞められている。その骨格自体は自分よりも細く女性の物であるはずなのに抵抗出来ぬほどに強い。
「お前たちが雲蒸の裏から出て行くのが見えたのでな、追ってみるとやはり神依児か」
やはり女性の声である。物凄い力をかけているはずなのに全く声に震えがない。振り向けず、相手の顔を伺う事は出来なかった。そのまま締め上げられて行く。
視界の端に何か映った。…雲蒸の者が倒れている。男たちがこの女性一人に声も挙げぬまま次々と締め殺されていったのか、それ程の技術、彼女はどうやって…。殺されかけているにも関わらず興味が湧いてしまう。
口から最後の空気が抜けた。頭がふわふわと白くなって行く。これが死か、以前から気になっていた物だ。胸の奥から何事にも代え難い興奮が沸々と湧き上がってきて、少し口許が緩んだ。
俺が神依児に選ばれた時、特に悲しくも苦しくも思わなかった理由は一つ信仰心もあるが、それ以上に死に対する好奇心であった。己の身を以って、鮮烈なる死を感じてみたい。誰にでもいずれは来るものではあるが、衰えた頭ではなく、肉体の絶頂期に死を全身で感じてみたかった。
体の痙攣が止まらない。今まで自分であったこの体が、全く別の物質になった様に自分の意思に抗う。その壮絶なる力。堪らない。強い苦しみが返って安堵を運んでくる。体が泥となり溶けて行く様な、心地いい終焉だ。
大耀の体ががっくりと落ちる。漢南は彼の首から腕を引き、その体を地面に寝かした。
途端、全身に針が刺さったかの様な痛みが漢南を襲う。体が動かない。臓腑が何かに締め付けられている。
漢南の足元から炭で描かれた様な紋様が湧き上がり、彼女の肌に模様を刻み始めた。その紋様は、正しく忌繰りの物である。
…………………………………………
覇頭との撃ち合いにはキリがない。何の障壁もない場所での丹羽は圧倒的に不利であり、その体には無数の傷が刻まれていた。覇頭の傷口は既に全て表面が塞がれ、血が止まっている。
丹羽は焦っていた。結界から大耀が今、交戦状態なのが分かる。森の方に駆けようとしても覇頭に全て遮られるのでそちらには行けないし、奴はどんなに打とうとも怯まないので隙がない。
双剣が重く感じられてきた。だが、行かねば。
「悪いが!通らせて貰うぞ覇頭よ!!」
丹羽が双剣を掲げる。覇頭が大剣を振る。丹羽の左手の双剣の刃の鋒(きっさき)と丹羽の右腕が宙に舞い、落ちる。
剣を握ったままの腕が自分の後方に転がる音がして、結界からの反応が途絶えた。
…負けた。俺と共に駆けてきた神依児は今、正に命終えた所か。最期に顔くらい見たかった。
太陽の様に明るい彼の顔を一瞬絶望が翳(かげ)らせた。覇頭が大剣をまた振ろうとしている映像が音もなくゆっくりと見えて、その俊敏な足はもう石の様に動かなかった。
急に覇頭の動きが止まる。そして、彼の体に忌繰りの紋様が一瞬にして張り付き、彼の体をその力で焼き始める。覇頭の呻き声でハッと目を覚まし、左手が微かに動いた。
そうか…俺たちが手に入れた呪いの品の本当の力は、単なる強化ではなく、持ち主の命を奪った相手を縛りつける事だったのか。
…大耀が腕に紋様を刻まれたまま、その品を持ってきた時の事を思い出していた。嗚呼、やはりうぬは最高の神依児だぞ!
雄叫びを挙げ、欠けた双剣を覇頭の肩に落とし、そのまま押し込んだ。切る用途では使えない鈍(なまくら)を無理矢理な力で相手の体にねじ込み、ギリギリと裂いていく。沸騰した血が丹羽の全身に降り掛かり焼いて行くがそんな物、最早障壁ではなく覇頭の肩が裂け、骨を叩き割り、そのまま胸までも裂ける。
強い呪いの気が覇頭の体の中に送られ、血液に乗り全身に回った。そして呪いが尽きると同時に丹羽の腕は力を失い、垂れ、その体は覇頭にもたれかかる前にふわりと光の粒となり、消えた。
………………………………………………
「覇頭!覇頭、大丈夫か」
事を終え、雲蒸神社の方へ戻った漢南が見たのは参道で倒れている覇頭だった。戦闘時の鬼神の様な姿は解除され、浅黒い肌の美丈夫が全身から血を出し気を失っている。
右肩を敷き、うつ伏せになったその体を仰向けにした。するとグラリと彼の右肩が取れそうになる。肩から胸にかけてパックリと裂けていた。人間ならば即死しているはずの怪我であるが、不幸中の幸いで心臓に至る直前でその傷は止まっていた。…覇頭のこの厚い体を素手で叩き割るなんて、物凄い馬鹿力だ。
「あの、珍妙な技のせいか…」
漢南は覇頭が既に血を沸騰させて治癒を進めているのを見れば、治癒を助ける為の応急手当をして、その側に座り込んだ。彼が起きるのを待っているのだろう。
「覇頭、少し手こずっているな、」
漢南は自らの腕に齧り付き、そのまま肉を少々引き裂いた。溢れ出た血を覇頭の口に垂らす。治癒に使う為の血を増やしてやっているのだ。
「…む、漢南…か」
「ああ、大変だった様だな。このまま剛毅悼まで帰れるか?」
覇頭はゆっくり起き上がるが、一瞬グラつく。傷の表面が塞がれていても体内に呪いが堆積されてしまっているのだろう。
「覇頭、大丈夫か。とりあえず丹羽造の心臓を喰え、」
「う“ぅ”、おかしな気が体を巡っておる。…が、明日にはまた出る」
漢南が蹌踉(よろ)めく覇頭を支える。彼女は覇頭がやりたい様にやれば良いと感じている様で、彼の発言に頷き、そのまま片手に持った心臓を彼の前に差し出した。覇頭はそれをガッと掴んで噛みちぎる。
「ま、今日はまともに動けそうじゃないから遠慮なく私に持たれていろ…明日は螭春華か、一尺八寸 蘇勒に会うのが楽しみだ」
「…我が殺さねばならんのは淡雪切神だけだ、神依児は漢南の好きにすれば良い」
知る事が好きだ。俺は周囲から優秀な子になって欲しいだとか願われる前に自ずから知識を欲した。
この國の文化と歴史はとても面白い。雲蒸は博打の神の神社なので博打人間が多く、書はあまり無かったから、昔は稗田や函梅宮に赴いてその膨大な書の一部を読ませて貰っていた。
一般的には有識者とされるであろう肩書きを持つ俺が博打の神に仕えているなんて、とよく驚かれるが、俺はここがよく似合っていると思う。
博打は非合理の象徴の様に扱われる。科学技術が進歩して行く現代の価値観では”神“も非合理の象徴とされがちで、尚且つ学問というのはそういった一般的に非合理とされる物を否定し進んでいく物だと思われている。
確かに、人間が開発を進めて行く事や、人間が科学で世の現象を証明し操ろうと思うと神は旧勢力として邪魔となるだろう。しかし、合理と非合理の境目はどうやって定めるのだろうか、…人間にとって『利』か『害』かだろうか、だが、多層的な万象がただの二分に出来るだろうか。いや出来ない。
人間には、清濁が相混ざり紡がれた時間が堆積し、生まれた現在を己が都合で二分する事が出来なければ、好奇心という無闇奔放で不安定非合理の権化の様な存在の一部が人間の利を生み出してきた事実を否定する事も出来ない。
俺は人も叡智も神も肯定する。人間の進歩の果てが、合理追求の果てが、神の排除であるのならば、それに異を唱えなければならない。
………………………………………
「大耀!敵だ!凄い量の神威が此処に向かっている…戦いは俺がやる!お前は逃げろ!」
「分かりました丹羽様…敵の目星は付きますか!」
丹羽は見るからに焦っていた。頬に汗が伝う。
「…覇頭ノ大詔だ」
語尾が震える。だが、双つの剣を持つ手に一つのブレもない。
「…覇頭ノ大詔、戦の化身か。…奴は概念の神です。何か物体として彼を表す物はない。戦という概念そのものです。故に奴の体は神降ろしをしたとしても肉体らしい肉体ではなく、再生可能の莫大なエネルギー体でしょう。…丹羽様!奴に外傷を作り、そこから忌繰りの毒を流し込み殺しましょう!そうすれば瞬間蘇生を防げるはずです」
そう告げて、神社の者数人と共に大耀は神社から離れた。彼は非常に足が遅いが、神社に残るよりは離れる方が安全だろう。
数刻待たずして雲蒸の扉が紙の様に破れ去る。その破片が丹羽の頬を掠めた。
「俺を殺しに来たか」
「戦神は我一柱で十分だ。潰す。丹羽造」
覇頭の振るう大剣を足場にし跳躍、そのまま双剣で肩を抉り取り背後を取った。そのまま脇腹の肉も抉り取る。
…馴染んできた。勇虜次との戦闘を通し、忌繰りの力の制御が以前よりも格段に上手くなっている。
覇頭は蹌踉(よろ)めきもしない。血が沸騰して傷口を塞いでいく。
「む、これが大耀の言った再生能力か…」
大剣が宙を割く。太い柱をも破壊し、雲蒸の天井が次々と落ちて行く。神威の強さ、力の強さ共に覇頭のが圧倒的優勢であるが、速さと技の正確さは丹羽の方が上である。瓦礫舞う中を疾風(はやて)の様に駈け、一撃また一撃と覇頭の体に切り傷を加えた。
再生能力は凄まじいが、完全に以前加えた傷が治ってる訳ではないらしい。内側の神威が漏れ出さぬ様に表面を覆っているだけで、表面より奥に入った傷はまだ残っている。傷を加えれば加えるほどそれは連鎖し体が柘榴(ざくろ)の様に弾けていく。
「ちょこまかと、鼠風情が!」
丹羽の額に大剣で一閃朱が引かれ、顔を仰反(のけぞ)る。
「ウ“ッ!!」
そのまま腹を思い切り蹴られ、丹羽の体がぶっ飛んだ。参道に転がり、吐いた血が乾いた地面に吸い込まれた。
此処は手水舎(ちょうずや)くらいしかない空間だ。入り組んだ場所で撹乱しながら戦う丹羽には都合が悪い。追撃が来る前に体を起こし、剣を構える。焦る、あの覇頭と開けた場所でやりあって勝てる気がしなかった。
…………………………………………
大耀と雲蒸の者数人は神社近くの森を行っていた。丹羽が示した覇頭ノ大詔の入ってきた方と真逆の森である。
足場が悪く、ただでさえ運動が苦手な大耀にとっては非常に厳しい道のりだ。神社の方からは何か崩れる様な轟音が響き続けている。
平城洛は夏は雨が多く、冬は乾燥している。土は乾き切り、紅葉はもうその土の中に吸い込まれた。もうじきに冬だろうか。
暫く走り、暗い森の終わりが見えてきた。
「皆、もう森を抜けます。近くに公民館があるのでとりあえずそこで待機しましょうか」
振り返った。誰もいない。神社の者達は何処へ行ったのか、スッと頭の中身が溢れていく様な気がした。
後ろから首を締め上げられる。締めているのは自分より背が低い…女性か。
筋肉の盛り上がった、鋼鉄の様に硬い腕で首を絞められている。その骨格自体は自分よりも細く女性の物であるはずなのに抵抗出来ぬほどに強い。
「お前たちが雲蒸の裏から出て行くのが見えたのでな、追ってみるとやはり神依児か」
やはり女性の声である。物凄い力をかけているはずなのに全く声に震えがない。振り向けず、相手の顔を伺う事は出来なかった。そのまま締め上げられて行く。
視界の端に何か映った。…雲蒸の者が倒れている。男たちがこの女性一人に声も挙げぬまま次々と締め殺されていったのか、それ程の技術、彼女はどうやって…。殺されかけているにも関わらず興味が湧いてしまう。
口から最後の空気が抜けた。頭がふわふわと白くなって行く。これが死か、以前から気になっていた物だ。胸の奥から何事にも代え難い興奮が沸々と湧き上がってきて、少し口許が緩んだ。
俺が神依児に選ばれた時、特に悲しくも苦しくも思わなかった理由は一つ信仰心もあるが、それ以上に死に対する好奇心であった。己の身を以って、鮮烈なる死を感じてみたい。誰にでもいずれは来るものではあるが、衰えた頭ではなく、肉体の絶頂期に死を全身で感じてみたかった。
体の痙攣が止まらない。今まで自分であったこの体が、全く別の物質になった様に自分の意思に抗う。その壮絶なる力。堪らない。強い苦しみが返って安堵を運んでくる。体が泥となり溶けて行く様な、心地いい終焉だ。
大耀の体ががっくりと落ちる。漢南は彼の首から腕を引き、その体を地面に寝かした。
途端、全身に針が刺さったかの様な痛みが漢南を襲う。体が動かない。臓腑が何かに締め付けられている。
漢南の足元から炭で描かれた様な紋様が湧き上がり、彼女の肌に模様を刻み始めた。その紋様は、正しく忌繰りの物である。
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覇頭との撃ち合いにはキリがない。何の障壁もない場所での丹羽は圧倒的に不利であり、その体には無数の傷が刻まれていた。覇頭の傷口は既に全て表面が塞がれ、血が止まっている。
丹羽は焦っていた。結界から大耀が今、交戦状態なのが分かる。森の方に駆けようとしても覇頭に全て遮られるのでそちらには行けないし、奴はどんなに打とうとも怯まないので隙がない。
双剣が重く感じられてきた。だが、行かねば。
「悪いが!通らせて貰うぞ覇頭よ!!」
丹羽が双剣を掲げる。覇頭が大剣を振る。丹羽の左手の双剣の刃の鋒(きっさき)と丹羽の右腕が宙に舞い、落ちる。
剣を握ったままの腕が自分の後方に転がる音がして、結界からの反応が途絶えた。
…負けた。俺と共に駆けてきた神依児は今、正に命終えた所か。最期に顔くらい見たかった。
太陽の様に明るい彼の顔を一瞬絶望が翳(かげ)らせた。覇頭が大剣をまた振ろうとしている映像が音もなくゆっくりと見えて、その俊敏な足はもう石の様に動かなかった。
急に覇頭の動きが止まる。そして、彼の体に忌繰りの紋様が一瞬にして張り付き、彼の体をその力で焼き始める。覇頭の呻き声でハッと目を覚まし、左手が微かに動いた。
そうか…俺たちが手に入れた呪いの品の本当の力は、単なる強化ではなく、持ち主の命を奪った相手を縛りつける事だったのか。
…大耀が腕に紋様を刻まれたまま、その品を持ってきた時の事を思い出していた。嗚呼、やはりうぬは最高の神依児だぞ!
雄叫びを挙げ、欠けた双剣を覇頭の肩に落とし、そのまま押し込んだ。切る用途では使えない鈍(なまくら)を無理矢理な力で相手の体にねじ込み、ギリギリと裂いていく。沸騰した血が丹羽の全身に降り掛かり焼いて行くがそんな物、最早障壁ではなく覇頭の肩が裂け、骨を叩き割り、そのまま胸までも裂ける。
強い呪いの気が覇頭の体の中に送られ、血液に乗り全身に回った。そして呪いが尽きると同時に丹羽の腕は力を失い、垂れ、その体は覇頭にもたれかかる前にふわりと光の粒となり、消えた。
………………………………………………
「覇頭!覇頭、大丈夫か」
事を終え、雲蒸神社の方へ戻った漢南が見たのは参道で倒れている覇頭だった。戦闘時の鬼神の様な姿は解除され、浅黒い肌の美丈夫が全身から血を出し気を失っている。
右肩を敷き、うつ伏せになったその体を仰向けにした。するとグラリと彼の右肩が取れそうになる。肩から胸にかけてパックリと裂けていた。人間ならば即死しているはずの怪我であるが、不幸中の幸いで心臓に至る直前でその傷は止まっていた。…覇頭のこの厚い体を素手で叩き割るなんて、物凄い馬鹿力だ。
「あの、珍妙な技のせいか…」
漢南は覇頭が既に血を沸騰させて治癒を進めているのを見れば、治癒を助ける為の応急手当をして、その側に座り込んだ。彼が起きるのを待っているのだろう。
「覇頭、少し手こずっているな、」
漢南は自らの腕に齧り付き、そのまま肉を少々引き裂いた。溢れ出た血を覇頭の口に垂らす。治癒に使う為の血を増やしてやっているのだ。
「…む、漢南…か」
「ああ、大変だった様だな。このまま剛毅悼まで帰れるか?」
覇頭はゆっくり起き上がるが、一瞬グラつく。傷の表面が塞がれていても体内に呪いが堆積されてしまっているのだろう。
「覇頭、大丈夫か。とりあえず丹羽造の心臓を喰え、」
「う“ぅ”、おかしな気が体を巡っておる。…が、明日にはまた出る」
漢南が蹌踉(よろ)めく覇頭を支える。彼女は覇頭がやりたい様にやれば良いと感じている様で、彼の発言に頷き、そのまま片手に持った心臓を彼の前に差し出した。覇頭はそれをガッと掴んで噛みちぎる。
「ま、今日はまともに動けそうじゃないから遠慮なく私に持たれていろ…明日は螭春華か、一尺八寸 蘇勒に会うのが楽しみだ」
「…我が殺さねばならんのは淡雪切神だけだ、神依児は漢南の好きにすれば良い」