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大國日神記第十一話: 幽天殯宮挽歌(ゆうてんあらきのみやばんか)

 目が覚めた。相変わらず螭春華の天井は函梅宮よりもかなり高い。時間の感覚が無いので今が何時(いつ)なのかも分からず、異様な疲労から体が動かなかった。

 自分がまだ贖罪の為に戦わなくてはいけない事は理解している。だが、あまりに大きすぎる苦しみに耐えられぬ脳が動くのを拒否し、未だ頭はぼんやりとしていて記憶に現実味がない。

 人は心を持つ、故に傷付く。人が恒久の時を生きられぬのは心があるからだと言う者もある。心は“生命として存在するだけ”を重視するならば無い方が良い代物であるのだろう。

 体は生きる為、心という何処にあるかも分からぬ己(おのれ)を制御しようとする。心に直接作用は出来ぬので、体は持ち主の脳を縮小させていく。考える事が苦しみとなってしまうからだ、考える事に殺されてしまうからだ。

 いつの日かTVで見たそんな話を思い出していた。今の思考停止状態はきっとこれなのだろう。

 やっと少しずつ体の感覚が戻ってきて、それに伴い痛みも湧いてくる。自分は、腕を強く拘束されている様だ。自傷が止まらなかったのか。

……………

 雪は小さな木箱を抱えて座っている。木箱の中身は風文神の心臓だ。あの日から一夜明けたが、それでも未だ心臓を喰う心構えが出来ていなかったのだろう。ただ、いくら血で汚れても良い用に軽装ではあった。

 雪の神威と元々の生命力から蘇勒の回復は異様に早いが、それでも一刻も早くまた剣を持ってもらわなくては困る。文を喰い、神威を増やせたらもっと早く治療する事が出来るだろうし、漱の思いを無駄にしない為には喰う他ない。

 箱の中身を取り出す。手に冷たい血が付き、既に胃の内容物を吐いてしまいそうだった。何故こんな状況で風文神の貌が脳裏に浮かぶのか、動悸が止まらなくなる。

 口を付け、一気に噛みちぎると血がダバダバと溢れ出て雪の太ももを真っ赤にした。頭がぐらぐらする、口の中が血の味で満たされて逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。

 一口では喰えない。残った物を一気に口に詰め込み、手で覆った。思わず地面に頭を付け、蹲(うずくま)り、嗚咽する度に長い髪が床にずるずると擦れる。体が何度も飲み込むのを拒否するが、それを無理やり押し込んで、何とか物を胃まで落とした。

 動けない。疲弊し、腹を抑えたまま蹲っている。呼吸を整えようとしたが、口を開けた瞬間に吐き出してしまいそうだったので急いで口を抑えた。

 次第に腹の中が暖かくなってくる。冷や汗をかいて冷えた体の内側から、暖かな風が吹き始めた。しかしすぐに起き上がり動く事は不可能で、ゆっくり瞼を閉じる。

 文殿はこれで良かったのだろうか、私には分からない。東雲漱を生かした私は間違っていないだろうか。文殿が彼に絶望のまま死んで欲しくない事くらいは分かる。でも、彼のこれからに希望なんてあるのだろうか。

 彼は蘇勒に憧れている。なんとか蘇勒が彼と上手くやってくれれば、まだ罪を贖えているという安堵の喜びくらいは味わえるだろうか。でも、蘇勒の希望はきっと私の幸せなのだろう。私が死なず幸せに生き残るだなんてそんな事、不可能に決まっている。そしてそれが不可能なら、漱が蘇勒の希望の糧になる事もまた、不可能なのだ。

 彼に死なないという枷を与えてしまった。これで私も蘇勒も死ねば、彼は本当にただ一人になってしまう。文殿、私は彼を殺せない。だけど、彼はどうすれば救われるのですか。どうすれば、貴方を救えるのですか。

………………

「語る殿、雷丘周辺の地形や結界の情報を調べてきました、錦繍雅の者に地図を描かせてある。受け取ってください」
「ああ、ありがとう幽玄。往疫祓の回復も早い。予想よりも早く作戦を実行に移せそうだね」

 語るが幽玄から貰った紙を開く。まだ協力関係を組んでから数日しか経っていないのに、その紙には丁寧に雷丘周辺の地形と結界の情報について書かれてあった。

「雷丘神社は険しい山の上にあります。その山自体が天然の要塞になってはいますが、神威の質からして結界自体は弱いし、山が入り組んでいるので結界の抜け道も多い。その抜け道に瘴気を出す式神を仕掛けましょう」
「なるほど、良いね。式神作りなら僕の神依児も得意だ。手を借りると良い」

 頷く。幽玄にとって明はかなり好感触であったし、彼女はアリーナに大國日の文化について色々と教えてやっているそうなので信頼できる。

「ならばまず、往殿の神威を有した式神を作り、そこに瘴気を注ぎ込みましょう」

…………………

 霹靂はあの日からまともに外を出歩けていない。莫大な神威を得た代わりに片目も片腕も失い、それが元に戻る事はなかった。ただ漠然と御舞幽玄之神を殺そうと思ってはいたが、逆に言えばそれだけだ。

 季四は霹靂の様子を気にかけていたし、酷い怪我を初めて見た時はひっくり返りそうになってしまっていたが、以前と変わらない態度で接している。本当は霹靂の生活の補助をしてやりたい気持ちもあったが、変に近寄るのは返って不敬だろうし、何となく霹靂様なら大丈夫だろうといったあやふやな信頼を持っているので敢えて多くは触れなかった。何よりも霹靂自身が補助されるのを拒んでいる。

 時に霹靂は突発的な発作に見舞われた。それは長い時には十分ほど続き、彼の体を痛め付ける。最初は怪我の後遺症かと思ったが、その正体はあまりに強大過ぎる海幸の神威が彼の体の中で暴れているのであった。

 普段は馴染んでいるその神威が、突然フッと異物の様に彼の体内に現れる。そしてそのまま肉体を内側から強引に破壊する様に弾けるのだ。

 その痛みが彼を襲う度に彼は海幸の事が頭に浮かぶ。彼女の凛々しい横顔や、彼女の体を大剣で貫いた感触や、彼女の心臓を喰った時の吐き気が身体中に走り、ただただ漠然とした憂鬱を運んでくるのだ。

 自分でさえも海幸の神威を操り切れない事が彼の誇りを傷付け、彼の脳みそに刻々と死んでしまいたい様な気を刻む。

…………………

「では語る殿、設置をするぞ」

 山中の結界が届かない場で、語ると幽玄とアリーナは往疫祓の瘴気を注ぎ込んだ小さな箱を設置する場所を探していた。明は遥の家で刻之気の二人と共にいながら、式神を飛ばし雷丘上空から監視をしていた。

 箱は六つ。それを雷丘神社を中心に六芒星の形に仕掛け、簡単には外されない様にするのだ。

 雷丘の山は険しい上に整備されている道が全て結界内なので、一行は道なき道を行くはめになった。今回ばかりはいつも薄着のアリーナも、登山用の厚いコートを羽織っている。

 設置には長い時間がかかる。箱自体は地面に埋めるだけで構わないが、相手に勘付かれない様に神威を使った移動が不可能なので、軽く見積もっても移動だけで合計六時間以上かかるだろう。

 ふわりと浮遊しながら進んでいる幽玄と語るでさえも困難な山をアリーナは足で進んでいた。彼女の体はしっかりとした骨格に実戦で生まれたしなやかな筋肉が付いていたが、それでも少女のそれである。山を駆け巡るのは困難そうであったが、流石はプロの傭兵。決してニ柱に遅れる事等なかった。

………………………

「おかえりなさい、上手くいったようですね」
「そうだね。とりあえず気付かれなくて良かった。まあでも、効果はすぐに出ないから、様子見をするしかないね」

 泥だらけの三人が遥の家に帰ってきた。どうやら設置自体は何の障害もなく上手くいった様だ。

「ギャハハハハ!でこっぱち様、泥だらけじゃのぉ!雅やかじゃのぉ!」
「なんだァ!幽玄はどんな姿でも美しいんだぞ!」

 ギャイギャイと言い争いをする往疫祓とアリーナが見えていない様な冷静さで幽玄は
「この神と協力するのは一時的であっても不本意だったが、とりあえず上手くいったのは貴方達の協力のおかげだ。特に語る殿、感謝します」
と柔らかく微笑んだ。

「ああ、いいよ。次会う時は殺し合いだね」

「ははは…語る殿とやりあうのは中々に堪えそうだ。考えたくないな…ではお暇させていただこう」

…………………………

「あ〜あ、明のおねーちゃんとも次会ったら殺し合いかぁ。明のおねーちゃん優しくて、可愛くて、髪が黒くて長くて、如何にもオークニビ美人!って感じで大好きなのにな〜」
 アリーナはそうボヤきながら幽玄と共に帰路を辿っている。アリーナは殺しのプロだから、“口では色々と言っても決して仕事に支障は出さない”と幽玄は分かっている為、彼はただ静かに笑うだけだった。

「ああ、確かに美しい女性だった。……アリーナ、ここで多くは話せないが、またすぐに次の動きに移ろうと思う。忙しくなるが構わないか?」
「うん!勿論だよ幽玄!オレさま…最近あまり役に立ててない気がしてるんだ。思いっきり使ってくれよ!」
「頼もしい。流石俺の神依児だ!次はアリーナの力が絶対に必要な仕事だ!沢山任せるぞ!」

 常に清らな貌に上品な仕草であるのに、幽玄は信者の話をし始めると非常に大袈裟で滑稽な仕草をする。アリーナはそれが可笑しくて愛おしくて堪らなかった。扇子で隠しても細まった目尻が見えている、自分は期待されているのだ。

……………………………

 三田 漢南は武器を使わない。武器は彼女を縛る物でしかないし、彼女自身が使いたくないからだ。

 漢南はこの戦いを勝ち残れば家の当主にしてやると告げられている。男尊女卑が根付く剛毅悼では前代未聞の話だ。男衆からは不平不満や嫉妬の視線が向けられ、女衆からは嫌な期待の視線が向けられた。

 漢南が武器を使わないのは、戦いの間だけでも家の呪縛を感じたくないからというのもあっただろう。彼女は今日もまた家から離れた場所で一人修練に励んでいる。

 三田家が旧時代的かつ閉鎖的で息苦しいのは仕方のない事であった。覇頭ノ大詔を祀る為に人喰いの儀は止められない。しかし、今の時代に人喰いを大っぴらにする事も出来ない。結果として剛毅悼の辺りは外との繋がりが少なくなり、三田家は人喰いで生まれる人々の恨みを一身に受ける立場となった。

 三田家は漢南の様に生まれてすぐに窮屈な生活を強いられる家だ。しかし、同時に覇頭ノ大詔という災害にも似た神を抑える…言わば防波堤でもある家なのだ。

「覇頭、いつ出る。もうそろそろって言ってただろう。私は戦うのが楽しみだ」
「特に用意しなければならない物はない。我と漢南の身一つで十分だ」
「ならば出るか、お前が言った。殺したい神とは誰だ」

 漢南の瞳が煌めき“強いやつだったら良いな”と呟き、手の骨を鳴らした。

「丹羽造。我と同じ戦いの神だ。殺さねばならない」

………………………………

「何故、こんな場所に結界が」

 幽玄とアリーナは神録京(ジンロクキョウ)に来ていた。神録京はこの大國日の政(まつりごと)の中心であり、木材を特殊な組み合わせ方で螺旋状に縦へ縦へと伸ばした不思議な建物が中心となっている。

 ここは十二幻神の会合の場としても使われ、神喰いの儀の発表もここで行われた。そのため中立であるはずの場にも関わらず、螺旋の塔には強力な結界が張られている。

 今まで幽玄以外に誰もここを注目しなかったのだろう。結界は長い時間をかけ作られている様で到底壊せそうにもない。

「幽玄。大丈夫か?神威を持って入ったら気付かれるぜ」
「ああ、大丈夫だ。こんなに強い結界だと神威を持っていなくてもどっち道気付かれるだろう。…この怪しさ、逆に楽しくなってきたな…俺の“見込み”が当たっているかも知れない。アリーナ、細心の注意を払って行こう」

 幽玄は神喰いの儀の矛盾に気付き、その謎を明かす為にここに来た。他の神々も聡明な者ならばこの儀が人間にとっても非合理的である事に気付いているだろう。だが今は命が狙われている上、気付いた所でどうしようもないので誰もその謎を明かすための行動を起こさなかった。何か行動したとしても、人間の大量虐殺ぐらいである。

 幽玄は優しさと合理性が噛み合った聡明な神だ。合理的なだけか優しいだけの神なら他にもいるが、幽玄は私情に流されず常に冷静で、時に合理性を取り残酷な決断をしたとしても決して他者を思う心を失わない。そんな神である。

 幽玄は儀そのものを探る事にした。一見非合理的なこの儀にも必ず合理的な理由があるはずだと考え、それを知る事でより他の勢力より有利に立ち回れると思ったからだ。その上、幽玄はこの儀で己の信者達まで危険に晒される事に胸を痛めていた。戦いではこの様な優しい性質から生まれる非合理性はなるべく排除して行動している彼であるが、今回は感情と理性どちらも取れる行動である。やらぬ理由がなかった。

「アリーナ、お前の手を汚させるが構わないな」
「勿論だ!昨日話した通りだろ!」

 アリーナは煌々(こうこう)と輝く瞳で幽玄と目を合わせ、螺旋の塔の入り口に向かい走り始めた。幽玄はその後ろに続く。力強く地面を蹴り上げ結界に突っ込む。結界に触れた瞬間ズン、と全身に重力がかかるのを感じたが、そんな物は気にせずに手榴弾のピンを抜きそのまま扉を破壊した。

 アリーナは土煙の中から飛び出でて中にいた武装した人間をその場で全て射殺する。幽玄が塔の内部に入った頃には、既にアリーナ以外に生きている人間はなかった。

「この様な武装警備員までいるのか、神の会合も政治家の話し合いも行われていないのにな。ははは…アリーナ、俺たちはもしかしたら相当とんでもないものを引き当ててしまったのかもしれないな」
「確かに、あそこまで強力な結界を用意しておいて更に武装警備員まで置くなんて相当凝ってるよなぁ」

 初めて出会った時は、幽玄が自分の殺しという生業を見たら軽蔑する…とまではいかなくとも、多少嫌な気を起こさせてしまうのではないかと思っていた。

 だが、ここまで戦ってきて分かった。幽玄はオレさまの殺しを汚いだなんて思っていない。むしろ心強いとしてオレさまを近くに置いてくれている。それが何よりもアリーナにとって心が軽くなる気付きだった。

 幽玄は殺しを愉しんでいる訳ではないが、オレさまの強さを“美しさ”として認めてくれている!

「さ、行こうぜ幽玄!トロトロしてたら敵が増えちまうかもな!」

 錦繍雅の二人は螺旋階段を駆け上っていく、幽玄はアリーナに身体強化を施し、式神で辺りの視界を広げ、アリーナは現れる武装警備員を全て確実に射殺していった。彼女の技は正確で、その上普段の明るく剽軽(ひょうきん)な姿からは想像も付かぬほど丁寧だった。

 相手が動けない程に負傷しても、ナイフで確実に仕留める。未知の場所で、身元も目的も分からない敵と戦う。普通ならばその時点で怖気付いてしまいそうだが、アリーナの動きにその様な迷いは一つもなかった。美しい木目の床に血が染み込んでいく。

 塔はとても高いがとうとう終わりが見えてきた。こんなにずっと階段を登っているのにも関わらず、そこまで疲れを感じないどころか、風が気持ち良い。風は最早湿度を失い、秋の風になっていた。

 足を付ける前に手榴弾を最上階のフロアに放り投げ、アリーナはその爆炎の中に飛び込んだ。赤く大きな瞳が爆炎の中で輝く、中にいた八人の武装警備員は全てアリーナの姿を見る前に全てアッ、という間に眉間を貫かれ襤褸(ぼろ)の様に地面に転がっていた。

 アリーナが敵の生死を確認している後ろから幽玄が最上階に上がってくる。扇子で煙を払えば、アリーナの頭をぽんぽんと撫でた。

 幽玄の中性的で妖しい美しさは言うまでもないが、その手はアリーナよりも大きく、穏やかに笑むその雰囲気はどこか父親の様だった。アリーナの父はお世辞にも良い父とは言えなかったので、彼女は実の父以上に幽玄を深く慕っていた。

 煙が晴れ、幽玄の前に現れたのは彼の身の丈よりも大きな扉であった。それはあらゆる鎖の様な鍵がかけられ、その上に札や呪文までもが大量に書かれてある。

「これは………嗚呼、見た事がある。国殿の顔に彫ってあったアレと同じだ。だが、彼はもう死んだはず」

 幽玄は呆然とし、立ち尽くした。この扉が何かとんでもない物を孕んでいるのを察したが、この儀の意味は分からない。何故、天之御園彦の紋様が刻まれている。彼が何かこの儀に関わっているのか、彼が黒幕なのか。だが、彼は死んだと聞いたし、俺は実際に往疫祓神が天之御園彦の奇怪な技を使うのも見た。奴が彼を喰ったのだろう。

 自然と腕が扉に伸びていた。弾ける、扉に白い指が触れる前に何かが弾け、指先から全身に電流のような衝撃が走る。あの紋様がじわじわと幽玄の指から腕にまで伸び始め、その肌を、肉を、骨を焼き尽くしにかかった。

「幽玄、どうした!」
 幽玄が驚きと痛みの悲鳴を挙げるとすぐ、アリーナが駆け寄ってきた。腕を抱え込み苦しむ幽玄の肩を抱き、刻まれていく紋様を見てアッ、と小さな声を挙げる。それと同時に軽い発砲音が幾つか響いた。

…アリーナの胸が赤く染まっていくのを見た時、幽玄は反射的に彼女を抱え走り出していた。螺旋階段の真ん中に飛び降りる。頭が白くなっていた。ただ、この場にいてはいけない。それだけは分かった。

 幽玄は平静でないにも関わらず、落下しながら術を展開し、ふわりと着地すれば、すぐにこの建物を飛び出す。何処に行くのだろうか、そんな事何も考えられない。アリーナの体が熱く、このまま燃え尽きてしまいそうだった。

 アリーナは確実に敵の死を確認した筈だ。その事はアリーナ自身が最もよく分かっていた。だが、彼女は今まさに死を迎えんとする自らの状況に疑問は抱いていない。何故なら___を見たからだ。

 死体の腕に絡みつく紅い糸を見たからだ。

 幽玄の歩みが徐々に遅くなった。アリーナの体に空いた穴を見たからだろう。彼はもう走る事を止めた。日が暮れかかっている。伽藍(がらん)とした通りには二人以外誰もいない。幽玄は何も言わないままずっとずっとアリーナの顔だけを眺めた。見上げれば美しい紅葉があると言うにも関わらず、アリーナの顔ばかりをただただ眺めていた。紅葉より美しかったからかも知れぬ。

「…ごめん、しくじっちまった」
「構わない。…お前はよくやった」

「幽玄、こっち見てくれよ」

 幽玄はアリーナの顔だけを眺めているのにも関わらずアリーナはそう言った。幽玄がこの場の事ではなく、街の皆の事を考えていたからだろう。

 アリーナはそのまま呆然と幽玄の顔を見上げていたが、暫くしてニッと笑んだ。勝利の笑みだった。

 幽玄の瞳はいつも信者達を見ている。彼は誰か一人を特別扱いせず、信者を皆平等に愛していたのだ。その姿勢に憧れつつ、アリーナは彼の瞳を奪いたくも思っていた。その心は、幽玄をただ尊敬し崇拝するだけの対象ではなく、愛や恋の対象として見ていた証であった。

 今、彼の瞳には自分しか映っていない。それがアリーナにとっては心底良い気味だった。

 幽玄はこの瞬間になってやっと、自分の隣にいた少女の恋心に気付いた。今まで、誰か一人を愛した事など無かった。誰か一人を愛しては神としての働きに支障が出るだろうし、必ず自分よりも先に死んでしまう存在のただ一人を愛する勇気が無かったのだ。いや、勇気が無かったと言うよりかは幽玄が冷静かつ聡明すぎたのだ。

 その冷静さ故にただの信者一人一人との別れに心を痛める自分が、誰か一人を特別愛しその別れに耐えられるとは考えなかった。だが、もう良いだろう。今、正に死なんとする少女の死は、己の死と同じなのだ。愛したって良いだろう。

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「明のねーちゃん、どうしてオークニビってこんなに神様がいっぱいいるんだァ?オレさまがいた所ではその神様は本物じゃ無いだとか何だとか、って殺し合いしてたんだぜ、こんなに緩くて良いのかよ」

「ええ、大國日の神々は全知全能として君臨している物ではありませんからね。一方的な関係など無く、全てが全て互いに関わり合っていると考えるのよ。この國は千万無量の巡りの渦なの。八百万の神すらもその渦の一環であるから、そこに境界など引けない。故に争いは生まれない」

「へえ〜、変な國だなオークニビは。皆が関わり合わなきゃ駄目だから、過干渉で息苦しい時は息苦しくて、親切な時は親切なんだな」

「そうですね。お互いに関わり合う事は時に個としての人格を軽視する事になります。実は私も家の者と関わり合うと傷付いてしまうから、一度家から離れたの…でも大國日の関わり合いも悪い事ばかりじゃないわよ」

「確かにな、家は窮屈だけど、錦繍雅の踊り子さん達は見ず知らずのオレさまにも優しくしてくれるもん」

「大國日に終わりはない。終わりは新しい始まりという考え方なの。例えば、人は生まれた時が始まりで、死んだらそこでプッツリ終わるなんて事はない。世界は常に今までの過去が堆積して出来ていて、それを完全に上書きなんて出来ない。世界はTVの番組を切り替える様に切り替えられない。変わったと思ってもそこには常に過去の記憶が堆積している…

…だから、肉体が死んでもその魂は消えないと考えるの。肉体は魂の入っている器で、それが無くなっても魂は記憶を保持している。だから魂が強く記憶している人とは、また生まれ変わっても逢えるの。もし本人がその記憶を思い出せなくても、想いは堆積され残っているもの」

…………………………

「…幽玄、おれサマ、幽玄が好きだよ」

「ああ、そうか」

「…幽玄、オークニビでは死んだら一人で天国なんか行かずに、もう一度ここに生まれて来られるって聞いたんだ」

「…ああ、」

「…幽玄、もし次会ったなら…

…オレさまを幽玄の“お嫁さん”にしてくれないかな」

「…勿論だ」

……………………………………

 石畳みの隙間に血が伝っている。まだ新しい血だ。

 血を辿れば少女が倒れていた。美しい金髪で覆い隠された顔を窺う事は出来ないが、その身体は生きていた頃、溌剌とした青春の美を放っていたのだろう。死して尚、その紅い頬は眩さを湛えている。

 身体を内に曲げた少女は心臓を抱えていた。血も滴っていないただの模型の様な心臓である。

 この画を見て、誰が悲恋の成れ果て、二人の契りの果てと思おうか。そこに転がっている肉体は少女の物だけである。乾いた風が少女の頬を撫でた。

「まさか、こんな早々にここが嗅ぎ付けられるとはね、流石は幽玄クンと言ったところかな。あーあ、折角の戦力も殆ど殺されちゃったよぉ」

 若い女の甘さだけを集めたかの様な声。血の床を踏みしめながら少女の亡骸を見下ろし、彼女の腕から心臓を取り出した。

「幽玄クンの神威は柔らかくて人間の強化に向いている。これで依人クンをもっともっとカッコよく出来るね」
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