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大國日神記第一話:梅咲き初めし春

大國日神記第一話:梅咲き初めし春

京の梅はいつ頃から咲き誇っているのだろうか、俗世(ぞくせ)の騒々しさを意に介さぬ様、ただ匂やかに佇んでいる。

この涵梅宮(カンバイグウ)でも相変わらず梅は凛と咲き、流水が柔らかに流れ碧(みどり)の中に錦の様な鯉が揺蕩っている。東雲 漱(シノノメ ソソグ)はその様に美しい涵梅宮からも、忙しい世間からも隔絶された気だるい時間を延々と送っていた。

彼は真面目な人間ではあるが、己の今立たされている状況を受け止め飲み込む事はできていない。優しすぎるが故に身近な理不尽に気を病み過ぎて、未だに神を守るだとか他人を殺し生き残るだとかそういう所までは理解できていないのだ。

 ただ、得体も知れぬ焦燥感だけが彼を苛む。

………戦わなくては、他人を殺さなくては、剣を握らなければ…そうしなくては勝てない。

………………………………………………

「そうかね、じゃあ君は前に一度剣道をやっていたが暫くやってないって事だね?」
「あ、はいそうです…」

何故か隣町の道場にまで来てしまった、おれ、焦ってるのかな…。もう学生の時以来剣道なんかやってないのに家の奥から防具をひっぱりだして来たは良いものの着てみると少しぶかい…筋肉量が落ちてしまったのだろう、情けない気持ちになる。

「う〜ん、蘇勒〜!蘇勒こっちに来なさい!」
“はい”と返事し、キリリとした顔の少年が呼び出されおれの前に立つ。嫌な予感がしたがその通りだった、彼はおれと同じように十二幻神に仕えてる血筋の者だ。おれと違って彼は長男であるし、仕えているのも武神様であるが…。そうこう考えていると、少しも驚く気色(きしょく)なぞ見せずに“お久しぶりです”なんて頭を下げられて既に敗北感を味わいながら焦ってお辞儀をした。

「まあ、君よりずっと年下だがここで一番腕の立つ良い子なんでな、この子に稽古付けてもらってくれ!」
「え、おれ…絶対に蘇勒くんに勝てないと思います…」
「アハハ!勝てなくて当然だよ!この子には螭春華(あまはるばな)の武神様が付いてるからね、まずは基本的な動きから復習して!最後に簡単な試合でもしてもらいなさい」
「え…ええ…」

半ば強引に彼と二人きりにされてしまった。おれは気まずく思うが相手はそうじゃないらしく淡々と進んでいった。しかし、おれは相手の感情を考えることに気を取られてしまって結果は駄目駄目であった。

だって、この子ともあと数ヶ月で本気の殺し合いをしなくちゃいけなくなるかもしれないんだ…それなのにどうしてこの子はこんなに淡々としているんだろう。もしかしてうちの所みたいに嗣子ではない人が神依児(しんいじ)となったのだろうか。

最後の簡単な試合もあっさり負けてしまった。相手は手加減してくれていたんだろう、体の節々が痛む理由は全て自分が変に力を入れてしまったからだ。こんなんじゃ、本番ですぐに殺されてしまうな。

「ありがとうございました漱さん」
「はい、こちらこそ!…蘇勒くんはすごいですね、僕よりも六つも年下なのに」
辛いしもう帰ろうか、と思うがやはり気になる。少し彼に話でも聞いてみようかな。

「蘇勒くん、少しお話をしたい事があるんですが…、帰りにお時間いただけますか?」
震えながらそう聞いてみる、彼はそんなおれと裏腹にあっさりと了解してくれた。

………………………………

外は湿っていて服が肌に張り付き心地良いものとは言えなかったが、ぼんやり霞んだ夕焼け景色だけは趣があった。
「えっと、こんな事を聞いて申し訳ないのですが…」
緊張で相手の顔が見えない。うじうじしていると気持ち悪く思われるんじゃないかと不安になる。

「蘇勒くんの神社にはもう…神様は降りてきたんですか?」
「いや、まだです」
「そ…そうですか、変なこと聞いちゃってごめんなさい」
沈黙の時間が流れる。年下の子に突然こんな事聞いてしまって申し訳ないし気まずい。早く逃げ出してしまいたく思った。

「漱さん」
 不意に名前を呼ばれ、驚き顔をあげる。
「漱さん………焦っていても剣は上達しません。焦りは悪い結果を引き起こすものです」
そう言って彼は“じゃあ俺は帰ります、雨が降りそうですしね”と立ち上がりおれを置いていってしまった。

焦り…か、自分の感情がバレていたのが恥ずかしくて情けなくて放心したまま立ち尽くす。

そう言えば雨が降りそうだって言ってたな、おれも帰らなくちゃ…とゆっくり帰り道を歩き出す。今日だけで多くの恥をかいてしまった、すごく疲れる一日だったな。

ぼんやりと兄の事や最近起こった事を思い出しながら電車に揺られる。おれはもう大人だから泣けないけれど…ただ苦しくて、世界で自分は一人ぼっちになってしまったんだという輪郭のぼやけた孤独感だけが虚な体の中にあった。

……………………………………………

人並みに頑張って、人並みにズルをして、人並みに苦しんで、人並みに笑った人生だった。おれはそれで良いと思っていたし、いつか人並みに恋をして結婚して働いて…気付いたら死んでいるものだろう、とも思っていた。そう望んでいた。

梅が咲き初(そ)めた頃、あの神は唐突におれの前に現れた。神を降ろし、共に組み殺し合いをする。そんな非現実的な話がそのまま実体となって現れたようで恐ろしく、ただ呆然と跪(ひざまず)く事しか出来なかった。

淡い金色の光が溢れ、密閉空間であるにも関わらず春の柔らかい風が光とともに堂を満たす。

その神はおれの平凡な人生で得た言葉じゃ言い表せない程に美しかった。薄い梅鼠色の細くて柔らかい髪の毛が揺蕩(たゆた)い、新草(にいくさ)のように光を含んだ羽衣を通して優しそうに微笑む顔が見える。

「我の名は風文神(カゼフミノカミ)。まあ、なんだ、好きなように呼んでくれれば良い」

古風で堅苦しい語に似つかわしくないふわりとした落ち着いた声である。その主がおれの名を呼ぶ、優しく響く声がおれの処刑を言い渡すように聞こえた。

選ばれたのは隣にいる兄ではない、おれだったからだ。

それからは記憶が曖昧だ。兄の様子も顔もうっすらとしか浮かばない。気付けば兄は消えて、おれはぽっつりこの宮に美しすぎる神と二人きりで残されてしまったようだった。

その神に嫌いだという感情は抱かなかった。彼は正真正銘おれの平和を崩した存在であったが、優雅で優しく聡明なその神に歪んだ感情など向ける事が出来なかった。ただ己の非力さを痛感するばかりである。

彼を守らなければいけないなんて事、分かってはいる。でも今まで命を賭して何かをするだなんて考えた事も無かったから実感が湧かない。いざという時におれが身を持って彼を守ってやるなんて出来る訳無いよという感情、恐怖と焦りだけが募って日々は過ぎていった。

「どうしておれを神依児に選んだんですか?」

………………………………………………………

驚き、少し飛び跳ねて辺りを見渡す。電車の中で寝てしまっていたようだ。恥ずかしさがこみ上げる。

外は雨が強く降り、電車の中には誰も人がいない。

……乗り過ごしてしまった。

幸いまだ一駅過ぎてしまったくらいだ、雨が苦しいが決して歩いて帰れない距離ではない。

そそくさと次の駅で降りる。この辺りはかつておれの通学路であったし、丁度剣道の道具を持っていたが為に懐かしさを覚えた。

不器用にタオルを取り出して頭に乗せて小走りで家に向かって走る。家に近付けば近付く程人通りは少なくなりいつしかおれは一人になっていた。

……………………………………

…おかしい、もう既に家についているはずなのに…

涵梅宮へ至る前の少し長くて端が木で覆われた参道をずっとずっと繰り返しているような気がする。まだ、戦いは始まっていない…だから誰かに襲われるなんてありえない。そうだけど…

胸に満ち満ちてくる不安感から荷物をぐじゃぐじゃの地面に置き、竹刀だけを取り出した。寒気と恐怖で小刻みに震えながら後ろに振り向く、誰もいない。辺りを見渡しても誰もいない。

 雨音と自分の心音しか聞こえないせいでこのだだっ広い空間が閉鎖空間の様に感じられた。

「やあ」
「あっ!??!?うわっっっ!」

声がする。少年のようにも女性の様にも聞こえる甘ったるい声。それが耳の後ろからフッと現れて、俺は腰を抜かし地面に尻餅をついた。

「あ…うわ…お、お前…や、君は………神…様……………?」
震えながらとりあえず竹刀だけは握る。相手は若々しい紅色の頬を持った中性的な姿に、暗い色の平安装束。そしてそれに似つかわしくない派手な桃色をした長い髪がこの雨の中でも濡れずに漂っていた。

「うん!その通り!ボクはこの大國日で一番可愛い恋愛の神様!喋喋喃喃(チョウフノウナン)って言うんだ!」
屈託のない笑顔で相手はそう名乗った。おれも聞いた事のある都会の若い子に人気の神様だ。

「ま、まだ、戦いは始まっていないはずです…それなのに、どうして…?」
「うーん、キミが困っているから助けにきたってところかな」
助けにきた?おれを…?どうして恋愛の神様なんかが…

「そそぐクン!お兄さんの事で困ってるみたいだね?ボクなら元に戻せるよ!だからその代わりにボクに力を貸してくれないかな?」
「ど…どうしてそんな事知ってるんですか、おれの家族のことを知ってるなんておかしいですよ!」
「それはね、ボクがカミサマだからだよ!困ってる子はほっとけないんだ〜」

そうやって少女のように笑った神は泥の上で尻餅をついているおれにゆっくり手を差し伸べた。





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