海に溶けて消える
name changes
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(三人称視点)
夏、その季節に似合うのは眩しいくらいの青い空、風鈴、夏野菜、スイカ、蝉の鳴き声、暑い日々、冷たいアイス……様々あるが、海が真っ先に思い浮かぶ人は多いだろう、だが夏の海は気を付けなければいけない事が多い
特に彼岸の時期、一般的に盆休みに位置するこの時期には、水辺に死者が集まり生者を引き込むと言われる事がある
「ナマエ!しっかりして、ナマエ!」
第三者によって浜辺に引き上げられた女性は力無くぐったりとしていて、その横で友人が名前を叫んでいた、ナマエは決して泳げない訳ではなかった、運動神経は良い方で水泳もお手のものだったが途中、何かに深海へ引き摺り込まれる様に溺れてしまった
ナマエの名前を何度も呼ぶ友人の声はナマエには届かない、やがて連絡を受けた救急隊が人だかりを分けてナマエの元へとやってくる、この時点でナマエの呼吸は確実に止まっていた
「…………あれ?」
時を同じくして、ナマエはハッキリと目を覚ましていた、しかしナマエが目を覚ました場所は先程まで泳いでいた海ではなかった、そこはまるで水族館にあるような大きな水槽がある室内でナマエは何度か瞬きをしながら辺りを見渡す
まるで静かな海の中にいる錯覚が起きる程精錬された部屋、水槽の向こう側には様々な魚が優雅に、それでいて自由に泳いでいるのが見える、そんな空間に露出の高い水着を着たナマエは実に不釣り合いだった
ゆっくりと立ち上がればナマエの身体は海水で濡れている訳でもなく砂で汚れている訳でもない、不自然な程に小綺麗な状態でそこにいた、まるでナマエと言う存在だけがそこに運ばれて来た様な……
パタンッとどこからか扉が閉まる音がした、弾かれた様に音がした方へ顔を向けるナマエ、やがて視界に入って来たのはまるで彫刻の様な端正な美しさを持つ金色の髪をした長身の男性だった、まるで美しさを絵に描いたようなどこか浮世離れした男性は明らかに日本人とは異なり外国の人物だとすぐに分かった、これもまた先程まで自分がいた日本では珍しい人物の登場にナマエの脳内はすっかりパニックを起こしていた
「あ、あの……私、気付いたらここにいて……」
「……」
たまらず男性に縋る様に声をかけるナマエの問い掛けに男性は沈黙を持って答えた、表情は全く読めない無表情な上に男性とは視線も合わない、しかしだからと言ってナマエの発する言葉が通じてない様には見えなかった、ナマエの声に男性はほんの僅かに眉を顰めたからだ
「……面倒な」
「えっ」
低い男性の声が空気を震わせた、どこか品のある声色ではあるが紡がれた言葉と口調は実に暴力的だった、心底面倒くさいと言った態度で男性は踵を返した、男性の言葉と態度、そして背中を向けられてしまった事にナマエはすっかり唖然としてしまい気の抜けた声が口から漏れ出した
男性について行くべきか、それともここで待っているべきか、何もかもが分からずナマエはただオロオロとその場で右往左往していた、少しして再びパタンッとどこからか扉が閉まる音がして重く低い足音を響かせて先程の男性がやって来た、先程と異なるのは男性の手に手鏡の様なものが握られている
「あのっ……」
「帰れ、ここは貴様の様な者がいて良い場所じゃない」
意を決して声をかけようとしたナマエの言葉を遮る様に男性はそう言い捨てて手鏡の様なものをナマエに向けた、そこに映っていたのはまさに先程まで自身がいた海でナマエは思わず息を呑んだ
しかし"帰れ"と言われても小さな手鏡でどうやって"帰る"と言うのか、手鏡を向けられたままナマエは困惑した表情で手鏡と男性を見比べた、男性は視線を合わせようとはしなかったが無表情で手鏡を向けていたがやがて不思議そうに手鏡へと目を向けた
男性、ギリシャ神界の大海の暴君であるポセイドンの予定ではこの手鏡を向ければ目の前にいる水着の女性は手鏡へと吸い込まれていく筈だった、しかし待てど暮らせどその現象が起きる様子はない、やがてポセイドンは手鏡を下ろし不機嫌そうにナマエに問いかけた
「ここに来る前はどこにいた、どうやってここに来た」
有無を言わせないポセイドンの問いかけにナマエの背筋は自然と伸びていた、戸惑いながらもポセイドンにここに来る前の事をポツリポツリと話し始める
自身が海にいた事、そこで泳いでいたら溺れてしまった事、意識がなくなる瞬間は薄らと覚えてはいるがそれ以降気付いたらここにいた事……話を進めていくとみるみる男性の表情は不機嫌になっていった、それが自分のせいなのかとナマエは不安になってしまうが自分ではどうする事もできなかった
やがてポセイドンは再び踵を返して何処かへと消えて行った、残されたナマエは呆然としていたが、やがて自分の身に何が起きているのか考えるのを諦めてこれは意味不明な夢だと無理矢理結論を付けて、自身の脳内に呆れながら夢の中にしては実にリアルに動く水槽の向こうの魚達を眺める事にした
水族館でも見た事がない様な様々な色をした魚や見た目が豪華な魚、色は地味ではあるが優雅に泳ぐ魚……それらをただ静かに見つめていると再びどこからか扉が閉まる音がした、水槽に向けていた視線を音がした方へ向けるとやって来たのは先程の男性ではなく、人間とは少し風貌が異なる執事服を着た男性だった、その見た目に驚くナマエに丁寧な所作で男性はお辞儀をして話し始める
「初めまして、プロテウスと申します……貴方様は人間でいらっしゃいますよね」
「は……初めまして……えぇ、私は人間、ですが……」
「ここは天界、それもポセイドン様の領域でございます、どうやってここに来たのかは不明ですが、おそらく臨死体験をされた関係で魂が誤って迷い込んでしまったと仮定しています」
「臨死、体験……」
プロテウスと言う男性は更に続けて話す、先程の男性がポセイドンである事、ここに迷い込んでしまった以上ここである程度の面倒は見るがそれはあくまでも帰るまでの短期間である事、この世界の食べ物は口にしない事、臨死体験の末迷い込んで来たと仮定するがこれから冥界の王であるハデスが来て魂の状態を確認する事……
まるで漫画の世界の様な単語の羅列にナマエの頭は益々混乱状態だったが不思議とこの出来事が夢でない事が分かった、もし夢であるなら自分の脳内で作られるため自分の性格上もっと簡単な設定である筈だと考えての事だった、やがて話し終えたプロテウスは手慣れた手つきでナマエに羽織物をかけた
シンプルな白いシャツではあるがナマエにとっては少し大きく、丈が膝上あたりまであり、腕の部分も何度か折り込まれてようやく手が出せた、見た目を整えたプロテウスはそのまま何も言わずに部屋を出て行った、再び一人になったナマエは小さく溜め息をついた
「困ったなぁ……どうしよう、お魚ちゃん」
その場に座り込み、水槽の向こう側で優雅に泳ぐ魚に声をかけるナマエ、そんなナマエの様子をポセイドンは密かに扉の隙間から覗き込んでいた
自身の元に現れた人間、何の許可もなく自分の領域に土足で踏み込んできた事に初めは腹を立てていたポセイドンだったが、目の前の人間がなんの力も持たない非力な存在な上に自身の身に何が起きたのかも分からない察しの悪さ、まさに雑魚だ、雑魚ごときに神である自分が感情を揺さぶられるのは正しくないと彼女の事は従者のプロテウスに任せようとしたのだが彼はこうして扉の隙間から様子を見ている
それには訳があった、こうして人間が生きながら自身の元にやってくる事自体が初めてで、しかも服装は自身の領域である海を楽しむ為の服装をしており、今彼女は話の通じない魚に向かって語りかけている、それだけで彼の中の微かな好奇心に火がついた、一体どれほど愚かな雑魚なのか、それを考えられずにはいられなかった
「ん?あっちに何かあるの?……あれ、ぽせいどん?さん?」
水槽を漂っていた魚が一匹ポセイドンの視線に気付き目を向けていた時、一点を見つめる魚に気付いたナマエがその方向に振り返った、当然扉の隙間から様子を窺っていたポセイドンと目が合う、ナマエは先程プロテウスから聞いた名前をおずおずと口に出して不思議そうに首を傾げる
ポセイドンはまさか名前を呼ばれるとは思っていなかったので微かに驚いたが表情には出さず、何も言わずその場から立ち去った、ナマエが思わず後を追うがポセイドンの脚の長さからナマエが部屋を出た時にはすでに回廊を曲がっていた、ナマエに見えたのは曲がり角を曲がる際に微かに揺らいだ眩い黄金の毛先だけだった
「余を呼ぶとは余程の事なのだな、ポセイドンよ」
しばらくすると冥界から余裕のある笑みを浮かべたハデスがポセイドンの元へとやって来た、他ならぬ弟の頼みとあらばと自身の溜まっている職務を一時放棄しやって来た敬愛する兄をポセイドンは表情を変えずに迎える
そのままハデスはポセイドンとプロテウスの案内により水槽のある間へと通された、中に入ればそこには部屋の中心で座り込みただ静かに水槽を仰ぎ見ている女性の姿があった、それが件の迷い込んできた人間なのは一目で分かり、ハデスは静かにその女性の魂の状態を確認する
気配に気付いたナマエが振り向くとそこにはポセイドンとはまた違う圧を背負うハデスが立っていて思わず息を呑んだ、ハデスは声をかけるわけでもなくただ静かにアメジストのような色をした瞳でナマエを見つめている、そしてしばらくしてハデスはナマエへと近付き、その頬を自身の手の甲で優しく触れた、ハデスのその行動はただ魂の状態を正確に確かめる為のものであったがハデスの背後でポセイドンがほんの僅かに指先を動かした
「……ふむ、ポセイドン、そなたの考えは正しい、これは臨死体験状態の人間の魂だ、肉体との繋がりがまだ微かにあるのを感じる」
ナマエに向けていた視線をポセイドンへと向けてハデスは淡々と話し始める、視線こそ合わないもののナマエは今目の前にいる男性が話しているのは自分の事でそれを聞き漏らさずにいるべきだと言う事は直感で理解していた
「この人間の身体が今後どうなるかは分からない、以前の様に力を取り戻せば自然と魂は呼び戻され、ここに来た事すら忘れるかもしれんな、稀に覚えている者もいるらしいが現時点では何とも言えない」
「……身体がもたなければどうなる」
「魂と肉体の繋がりがなくなれば死者と同じよ、余の領域になるだろうな……まあそなたが手放したくないと言えば余はそれに従うが?」
「馬鹿な事を言うな」
ハデスが見たナマエの魂の状態は肉体との繋がりがあるものの一時的に肉体のエネルギーが枯渇し魂と分離してしまい戻れなくなった状態で、大きな事故などで意識を失った人間が彼岸を見たと言ったり天国を見たと言ったりする時の臨死状態と同じだった、そう言った魂は大抵ハデスの領域である冥界に迷い込むがナマエの場合は何らかの原因で少しズレて天界のポセイドンの元へと迷い込んでしまったらしい
もし、現在人間界にあるナマエの肉体のエネルギーが完全に無くなり、所謂、生命活動が終われば肉体との繋がりは消えてナマエはハデスが冥界で飽きる程見ている死者と同じ括りになる、ほんの少しの冗談を交えてハデスはポセイドンにそれを伝えた、自分が人間如きに入れ込むなどありえないと一蹴するポセイドンの反応を見てハデスは楽しそうに目を伏せて笑った
「冗談だ、そう怖い顔をするな……人間よ、せいぜい身体が力を取り戻すのを願う事だ……干渉はできんがな、それと自身の体を大事にしろ、貴様の周囲には見えないが肉体と繋がっている線がある、それを何かで切ってしまうと身体が力を取り戻しても戻れぬぞ」
「……っ」
直前までポセイドンに冗談を言って笑っていたハデスはナマエを見下ろすと地を這うような低音を響かせた、それは彼なりのナマエに対する警告であった、もしこの天界での滞在中に見えないが確かにナマエの周囲に存在する肉体との繋がりの線を少しでも損傷してしまうと、もし身体がエネルギーを取り戻し生命活動を再始動しても魂は肉体から離れ戻る事ができなくなる
ハデスの言葉にナマエは思わず固唾を呑んだ、いつまで続くか分からない天界での生活、プロテウスに伝えられた事項を守りながら更には自身の身体に気を付けないといけない事実、ナマエの脳裏にこの部屋での軟禁生活が頭をよぎった時だった
「ふ、……まあ滅多な事で切れんがな、とりあえず神器の様な物には近付かぬ事だ」
険しい表情をしていたハデスが僅かに表情を和らげた、軟禁生活のような不自由な生活をしなくても繋がりが切れる事はそうそう無いと言う、例えあるとしてもそれは不用心に神器に触れたり、力の強い道具に触れたり、天界の食べ物を口にして別の繋がりを作ってしまったりした場合だとハデスは伝えた
「確かに伝えたぞ人間、せいぜい弟の領域での生活を楽しむと良い……ポセイドン、余は冥界に戻る、これから魂の審判の時間だ」
ナマエをもう一度見下ろすと、ハデスは踵を返し部屋の出入り口に向かって歩いた、ハデスの傍にプロテウスが付き添い見送りをするためにハデスと共に部屋を出る
残されたのはナマエとポセイドンの二人、ナマエはまだ少し冥王の圧に当てられた恐怖から微かに震えていた、ポセイドンはそんなナマエの様子を一瞥し、たかがあれだけで体を震わせるなど惨めだと思いながら先程ハデスがした様に手の甲をナマエの頬に当てた
「!」
ハデスと似ているが明らかにハデスとは違う、どこか慰める様なポセイドンの触れ方にナマエは目を大きくさせた、ポセイドンは表情も変えず何も言わなかったが、彼なりの人間に対する慈悲なのかとナマエは感じていた、彼の名前を呼ぶべきか、それともお礼を言うべきか、迷っている間にポセイドンの手は離れてしまった
「あの……短い間ですが、よろしくお願いします……」
「…………」
ポセイドンの手が自身から離れた時ナマエは意を決してそう言った、それは彼女なりの礼儀であった、彼の領域でこれから短期間だけでも生活するのに何も言わずにはいられなかった、自分に向かって頭を下げると言う殊勝な行動をするちっぽけな存在にポセイドンはなんとも言えない感情を抱いた、それは庇護欲なのか慈悲なのか、それとも別の感情なのか、今のポセイドンには分からなかった
神である自分ですら理解できない感情がある事が許せないポセイドンは静かに自身の感情に蓋をした、頭を下げる彼女に再び触れようとしたがもし触れればあの未知の感情が再び顔を出すと懸念して彼は密かに手を引き踵を返す、静かに出入り口に向かって歩く音をナマエは頭を上げる事なく聞いていた
パタンッと扉が閉まる音がした、ゆっくりと顔を上げるナマエの目に映ったのは扉の前で立っているポセイドンだった
「……あの……、?」
「…………来い」
「えっ」
短い一言を発したポセイドンはそのまま再び扉を開けて歩き出す、初めはその場で立ち竦んでいたナマエだったが部屋から出て行くポセイドンの金髪の毛先を見ながら発せられた短い単語の意味を悟り恐る恐るポセイドンの後を追い歩き出した
扉を出るとすぐに白亜の回廊が広がっていた、ポセイドンは長い足を存分に使い回廊を進む、駆け足で追いつくのがやっとのナマエを一瞥もせずにポセイドンは回廊を通った先にある木製の扉を押し開けた、ナマエの鼻腔に古い羊皮紙の香りとインクの香りが伝わった
ポセイドンのすぐ背後にいたナマエの視界に広がったのは数多くの書物だった、立派な装飾が施された背表紙が立ち並び書架の高さはナマエ身長を優に超えている、書架のそばには寝椅子がありその傍らには読みかけの本が何冊が積まれている
「あの部屋とここは立ち入りを許可する」
相変わらずナマエと視線を合わせないポセイドンだったが淡々とそう告げると踵を返して回廊を進んで行った、部屋に残されたナマエは初め、ポセイドンを追いかけようとしたがポセイドンの纏う雰囲気がそれを拒絶していた、仕方なく部屋に入り意味もなく並んでいる背表紙を撫でる
指先にほんの少し埃が付く、どうやらあまり利用されていない部屋の様だ、寝椅子の傍らにある本にもよく見ると薄らと埃が積もっていた、ナマエは寝椅子に腰掛けて身体を横に倒した
自身の身に起きた臨死体験という状態がまさかこんな事になるとは、それも日本の神ではなくギリシャ神話に出てくる神の元に行くとは思いもよらなかった、いつまでこの状態が続くのかも分からない、それはナマエの不安を無意識に煽っていた、目を瞑ってもグルグルと不安が頭を駆け巡って到底、眠る事は出来ない
そんな中、部屋の扉が開く音がナマエの耳に届いた、薄らと目を開けるとそこには先程部屋を出て行った筈のポセイドンがナマエの方に向かって歩いてくるのが見えた、ナマエは咄嗟に目を瞑り、所謂寝たフリをした、何故そうしたのかはナマエ自身も分からないが起きてるのを悟られると怒られるのではという考えが頭をよぎったのだ
結果的にそれは正解だった、ポセイドンはナマエが寝ているので近付いたのだ、もし起きているのを悟ればポセイドンは己の行動を恥じてナマエを罵倒して部屋から出ていただろう
「…………」
ポセイドンは静かにナマエを見下ろすとほんの微かに口角を上げ、手に持っていた毛布をナマエにかけた、元々ナマエが起きていたら勢い良く鼻頭に叩き付ける予定だったが目を瞑っているナマエを見てその不用心さに感心した、かつて彼の兄がそうした様に、ポセイドンは目の前にいるナマエと言う存在に対して守護欲に近い物を感じていた
神である自分よりもはるかに劣り取るに足らない存在である人類、だがポセイドンの蒼瞳から見たナマエはそれに当てはまらなかった、今まで天界から、あるいは海から見ていた醜い人類とは異なる美しさがナマエを一目見た時からポセイドンには見えていた
所謂一目惚れ、初めこそ内心一人で否定していたポセイドンだったが、彼女が不思議そうにポセイドンの名を呼んだ時には拳を握り締める程歓喜に震えていた上、ハデスの手が彼女に触れた時には自身の心の中で仄暗い嫉妬の炎が燃え盛るのを感じ、彼女が自分に言葉をかけた時には表情には出さなかったが眩い程の喜びに満ちていた、これを一目惚れと言わずしてなんと言うか
「そなたの名を、教えて欲しい」
それは誰に聞かれる事もなく消える筈だったポセイドンの本心だった、目の前の少女を"人間"や"雑魚"と呼ぶにはあまりにも相応しくないと思っての事だった、もしこんな事を少女の寝顔に聞いていると他神に知られれば数千年は話のネタにされてしまうだろうと思いながらポセイドンは彼女の眉間に微かにある皺に手を伸ばした
「……っ、ナマエって言います、私の、名前……」
ポセイドンの手が彼女の眉間に触れる前に溢れる様にポツリポツリと紡がれた言葉、ポセイドンの気配を悟りながらも空気を読んで目を瞑り続けていたナマエが耐えかねて発した物だった、バツが悪そうにゆっくりと目を開けたナマエの視界には唖然とした表情のポセイドンがいた
「す、すみません……寝たフリをするつもりはなかったんですが……」
「……無垢な顔して余を騙すとは」
謝罪をするナマエを見下ろしながらポセイドンは呟いたが、不機嫌な表情とは裏腹に彼の脳内は彼女の名前でいっぱいだった、ナマエと言う言葉の響きがこれ程までに心地よい物なのかと思ってしまう程、彼は早くもナマエと言う存在に毒されていた
ポセイドンはナマエの眉間に触れようとした手を丸め、中指を親指に引っ掛けてから勢い良く彼女の額を弾いた、無論手加減はしているが通常よりも勢いの強い弾きにナマエは目を白黒とさせてしまう
「痛っ……」
「……ふん」
薄らと涙を浮かべて自身の額を抑えるナマエを一瞥しながらポセイドンは屈めていた身を起こし踵を返した、徐々に離れていく背中を見てナマエは慌てて寝椅子から降りて引き止める様にポセイドンの逞しい腕を掴んだ、ナマエが触れるとポセイドンはすぐに足を止めてナマエの方に目を向けた、視線は合わないがその蒼い瞳はナマエの足元を見据えている
「あの、っ……毛布ありがとうございます、ポセイドンさん」
キュッとポセイドンの腕を握るナマエの手に力が微かに込められた、その力はポセイドンからすると最も簡単に振り切れる弱い物だったがポセイドンはそれをしなかった、ただ静かに彼女の足元に目を向けて彼女の言葉に耳を傾けていた、だがナマエからするとポセイドンは自分の行動に呆れている様にしか見えない、一度固唾を呑んでゆっくりとポセイドンの腕を掴んでいた手を離していく
ナマエの手が完全にポセイドンから離れた時、ポセイドンは再び前を向いて歩き出した、彼の心臓は早鐘の様に脈打っていたがそれを知らないナマエは遠ざかっていく背中をただ静かに見つめる事しかできない
ナマエは先程ポセイドンの腕に触れた手に目を向けた、血が通っているのかも分からない程ポセイドンの顔色は白く透き通っているが、触れた時確かに鼓動を感じた、トクットクッと血管が血を巡る感覚が確かにあった、人間は神が己の姿を模して作った話をナマエは思い出す、あれ程神々しい存在も自分と同じ様に血が通っているのだと思えば思う程ナマエは不思議な感覚に陥った、しかしそれと同時に
「夢じゃないんだよね……やっぱり……」
ナマエは一人静かに呟いた、ポセイドンに触れた感触はこの状況が夢や幻覚などでは無い事を静かに主張していたのだ、ナマエは溜め息をついた、今ここにはない身体に力が戻るまで、肉体と繋がっている線を傷付けることがない様に安静に過ごさねばならない状況を受け入れるしかなかった
