第一話


カタカタと不規則に鳴るキーボードを指で弾く音が混在するオフィス、後方では少し古いコピー機がインクを絞り出して印刷をする音が響き、不定期に鳴り響く電話の呼出音が心臓の動きを速くさせる、そんな環境に囲まれながらカタカタと正確にデータを打ち込んでいると"今日中にやってくれ"と言う理不尽な言葉と共に紙の束が机に置かれた

紙の束を私の机に置いた人物…上司にバレないようにチラリと時計を見ると昼過ぎだ、今日中にならねばならぬ仕事なら何故朝一番に言ってくれなかったのだろうかと文句を言いたくなるのをグッと飲み込んで顔面に笑顔を貼り付けて笑みを浮かべて頷く


「……こりゃ今日も残業かなぁ……」


私の頷きを見て満足そうに自分のデスクへ帰って行く上司の背中を密かに睨んだ後溜め息混じりにそう呟いて私は紙の束との闘いを始めた、最近定時に帰れた記憶が無いのが士気を削いでいく、とりあえず帰りに何か買って帰ろうと思いながら私はまたカタカタとキーボードを弾く

最後の一文字を打ち終えて忘れずに確実にデータを保存してついでに印刷も行えば今日の業務は終了だ、グッと伸びをして息を吐くと共に室内を見渡す、昼過ぎの活気のあるオフィスとは打って変わって今はもう二、三人しか居ない部屋は空気が澱んでいる様に感じた

印刷し終えた書類をまとめて自分の机に置いた後、いそいそと帰る支度をする、時計の針は既に帰宅ラッシュの時刻を大幅に過ぎている、電車が空いているのはありがたいがこう言う時間帯には変な人がウロつき始めるので少々怖い

足早にオフィスを飛び出してそのままエレベーターに乗り込み私は会社を出た、そのままいつも通っている道を歩き駅に向かう、改札を通って電車の時間を確認してからホームに向かい電車を待つ、やはり車内は空いていて私は車両の隅の席に腰かけた


「疲れたぁ……」


はぁ…と溜め息をついて思わずそう呟いたが、私の声は電車の発信音でかき消された、電車に揺られる事数十分、我が家のある駅に着いたので即座に降りてついでに駅内にあるコンビニに寄って今日の夜ご飯を調達してから駅を出た

弁当の温かさを感じながら我が家のあるアパートへと向かう、駅チカなのでそんなに歩く必要が無いのが疲れた体にはありがたい、カンカンと錆止めの塗装が剥げた階段を上りふと自分の部屋の方へ顔を向けた時


「瀬田」


と自分の名前を呼ばれた、階段の方からの様だったのでクルッと身体ごと振り向くとそこには階段を上っている途中のスーツを着て深い緑色のネクタイを閉めた坊主頭の男性がこちらを見上げて微笑んでいた


「月島さん、奇遇ですね」


声をかけてきたのが隣人の月島さんだと分かると私は思わず口角が上がり声のトーンも少しだけ高くなった、私が声をかけるのと同時に月島さんは階段を上り終えて私のすぐ横に立った、が、すぐに視線を下に移動させて私の持っているレジ袋を見ると顔を顰めた


「またコンビニ弁当か」

「えへへ、残業でしたからもう自炊する気力もなくて……」


まるで親が子を叱る様な口調で私のレジ袋を指さした月島さんに思わず苦笑しながら残業だったと少しだけ愚痴を零した、時間が合うと言う事は月島さんも私と同じ残業だったのかもしれないのに少々軽率だったかもしれない


「残業か……あまり無理はしない方がいい、それに面倒かもしれないがたまには自炊してちゃんとした温かい飯を食べた方が身体に良いぞ」

「耳が痛いです……善処します」


月島さんは私の"残業"と言う単語に反応して腕を組んだが少し優しい口調で諭すように温かいご飯を食べた方が良いと言った、正論でしかなくて思わず本当に耳が痛くなる気がした、最近では手料理が全てではないという意見が出てきてはいるが、確かにコンビニ弁当などは楽ではあるがどこか冷たさを感じると言うか、手料理と比べて味気がないと言うか……そんな雰囲気があるので、肉体的にも精神的にもしっかりと自炊した方が良いのかもしれない

しかし、こうしてわざわざ私の為に注意喚起をしてくれる月島さんは本当に優しいと言うか、面倒見がいいと言うか、オカン気質と言うか……とにかく月島さんがこうして気を配ってくれている事にどこか安心する気がするのだ


「本当に月島さんは面倒見が良いですよね」


思わずポロッと零れた言葉に言った本人である私が驚いてしまった、言うつもりはなかったのだ、どこか嫌味に取られてしまうのではないかと心配だったのだ、できれば月島さんとは波風立てずにこのままの関係で居続けたい

傷付けていないだろうかと心配になりながらもゆっくりと月島さんの方を見ると月島さんは意外にも目を細めて口角を上げて微笑んでいた、その表情はどこか懐かしむ様な表情をしていて、嬉しそうにも見える、伏せがちな目の少しだけ見える瞳は光の加減か深い緑色に見えた気がした


「瀬田限定だけどな、懐かしいな、前世も同じ事を言われたな」


そう言いながら微笑む月島さんの笑顔に私も口元が緩んでしまう、"前世"月島さんがよく私に言う言葉だ、もちろん私は前世だとかはあまり信じていないし記憶がある訳でもない、だが月島さんは初めて会った時から私に言っていた、そりゃあ初めはヤバい人かと思って密かに身構えたが月島さんに敵意は無いのは明確だった、むしろ敵意とは真逆の好意を私に向け続けているのだ

そんな月島さんなので、私はいつからか月島さんは"前世を信じているロマンチストな人"だと認識して今もこうして隣人としての関係を上手く続けている、正直真面目そうな月島さんの口からそんな言葉が飛び出すなんてギャップがありすぎて膝から崩れ落ちそうになるが慣れてしまえば問題ない


「やっぱり前世ですか、月島さん本当にロマンチストですよね」

「む、安心しろ前世だけでなく今の瀬田もちゃんと見ているぞ」

「分かってますよ、ありがとうございます」


笑いながらいつものように月島さんの事をロマンチストだと言うと月島さんは少し顔を顰めて今の私もちゃんと見ていると言った、どうやら月島さんは前世にばかり囚われてはいないようだ、そんな月島さんの言葉に軽く返事をして私は自分の家の鍵を探した

ガサガサとカバンを探っていると月島さんも自分の家の前に立ち玄関の鍵を開ける、しかし私はまだ鍵を見付ける事ができなかった、確かにカバンに入れたと思ったがもしかして別のポケットなどに入れてしまったのだろうか……

半ば焦りながらポケットを探ったり、カバンの中を何度も見たりしたが見つからない、もしかしてどこかに落としてしまったのだろうか、このご時世家の鍵を落とすなんてどんな犯罪に使われるのか考えただけでも恐ろしいのに


「…………カバンの横についているポケットだ、いつも定期券を入れてる所」


一心不乱に鍵を探していると不意に月島さんがカバンを指さしてそう呟いた、え、と思わず声が漏れたが月島さんが言っていた場所を探すと見慣れた鍵が姿を現した、思わず手に持っている鍵と月島さんを交互に見てしまう


「さっき瀬田が探してる時に見えたんだ」

「あ、なるほど……ありがとうございました月島さん、お陰で助かりました」

「どうって事ない、それじゃあ、おやすみ瀬田」

「はい、おやすみなさい月島さん」


私が何故分かったのかと問う前に月島さんはサラリとカバンを探している時に見えたと答えた、納得しながら月島さんにお礼を言うと月島さんは微笑みながら頷いて私におやすみと言って家に入って行った、私も挨拶をしてようやく玄関の鍵を開けて家に入る

湯船を張りながら買ってきた弁当を電子レンジで温める、レンジの中でクルクルと回る弁当を眺めながら何気なく今日の出来事を振り返る、今朝は少し寝坊してしまいバタバタとしてしまった事や出勤ラッシュの混雑にやる気が削がれた事、お昼ご飯が美味しかった事や帰り際に仕事を押し付けてきた上司の事、先程会った月島さんの事……


「そう言えばあの時、鍵の入ってたポケットは月島さんから一番遠くの方だったのによく見えたなぁ……月島さんって視力良いのかな」


先程の鍵の一件の事をふと思い出して呟いた時、丁度温めが終了したらしく電子レンジから気の抜けた音が響いた、すぐにレンジの扉を開けて中にある温かい弁当を取り出す、座椅子に座って手を合わせてから弁当を口に運ぶ、確かに温かいがどこか心が満たされない気がした

明日は少しだけ頑張って自炊をしてみようか