不穏な隣人、月島さん
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飲み会の一件からしばらく経ち私の記憶も薄れてきた頃、いつものように資料を作っていると背後から上司が近付いてくる気配を感じた、この雰囲気だと頼みにくい案件を伝えに来たか、何かの雑用を頼みに来たかのどちらかなので気が重くなる
チラリと時計を見ると今ならギリギリ定時で帰れそうだ、その部分に関しては許せるがギリギリに頼み事をしてくるのは本当に勘弁して欲しい、近付いてくる上司の気配を感じながら私は少しでも今ある仕事を片してしまおうとタイピングに集中した
「瀬田さんちょっと良いかな」
「はい」
文字を数十文字打った頃やはり上司から声をかけられた、すぐさま振り向いて貼り付けた笑顔を向けると上司は安心した様に目元を緩めた、作り笑いと本当の笑いの違いが分からないのは如何なものかと思うが私がどうこう言う物ではないのでグッと言葉を飲み込んだ
上司はペラペラと書類を片手に説明をしてくる、それを半分聞き流しながら聞くとどうやら書類にハンコを押してもらわないといけないのだが、上司本人はこれから会議があるので時間が合わないので代わりに貰ってきて欲しいと言う事らしい、どこに貰いに行けばいいのかと聞いた時私は思わず自分の耳を疑った
上司が口にしたのはイザコザがあった彼の所属する部署だったのだ、忘れかけていた嫌な思い出が一気に溢れ出てくる、途端に吐き気のような気持ち悪さに襲われたがグッと堪えて貼り付けた笑顔を向けたまま上司から書類を受け取る、所属する部署に行くと言うだけなのだ直接彼に会う訳では無い
「じゃあよろしくね瀬田さん」
「はい」
ニコニコと口角を上げたまま表情筋をキープして返事をすると上司は機嫌良さそうに会議室へと向かった、その後ろ姿を眺めながら私は自分の瞳が上向きになっていくのを感じていた、きっと正面から見たら白目を剥いて笑みを浮かべている変顔とも取れる私の顔面があるのだろう、イライラがピークに達すると白目を剥いてしまうのは私の短所だ
瞳をいつもの位置に戻した後改めて書類に目を通して中身的にも今すぐに声を掛けた方が向こう側に迷惑もかからないだろうと考えて私は重たい腰を上げて事務室から出た、エレベーターを使い部署のある階へと向かう、通路の先にある事務室がうちのと比べて忙しない雰囲気を出している気がした
「失礼します……」
事務室の扉をノックして一言声をかけてから扉を開けると部屋の中はやはりどこか忙しなく各々バタバタと動き回っていた、ふと目が合った一人の女性に申し訳なく声をかけてハンコを押してもらう旨を伝える、書類に目を通すと女性は一人の男性に声をかけて名前を呼んだ
のそのそとやって来た男性は書類に目を通すと相槌を打ちながらポンポンとリズミカルにハンコを押していく、その様子をただ眺めているだけではどこか居心地が悪く感じて思わず気を紛らわすために声をかけてしまった
「ここの部署はなんだか忙しいですね…」
「急に辞めた奴がいるからな」
ボソリと聞こえるか聞こえないか位の声量で呟いたが男性の耳には聞こえたようだ、男性は困った様に笑った後ハンコを書類から離した、そして相当ストレスを溜め込んでいるのか半ば愚痴る様に最近の部署についてポツリポツリと話し出した
最近辞めた奴と言うのが例の彼だと言われた時は思わず絶句してしまった、思わず気になってしまい理由などを聞いてみると"明確な理由は不明、だが、彼は辞める数日前に無断欠勤をしていて、その後「とても恐ろしい事があった」と漏らしていた"と言われた、どんな理由であれ引き継ぎの作業をせずに辞めたらしいので困っているそうだ
薄らとクマができている目元を指で押えながら男性は書類を返した、礼を言って受け取ると男性はまたのそのそと自分のデスクへと戻って行った、私も自分の部署へ戻るためにいそいそと事務室を出た
「……"とても恐ろしい事があった"……か」
通路を歩きながら思わず先程聞いた彼の言葉を呟いてしまった、一体何があったのか、好奇心に駆られて問いただしたい気もしたが彼とはもう関わりたくないので無駄に首を突っ込む事は無いだろう、辞めてくれたのもこの部署の人達には申し訳ないがとても有難い事だった
「これで気にせず平和に仕事出来る」
エレベーターに乗りながら誰もいない個室でそう呟いた、仕事を辞めたのならもうあの飲み会での出来事は綺麗さっぱり忘れる事ができるだろう、ホッと安心した時自分の部署の階に着いた、そのまま自分のデスクへ戻るとなんとも言えない安心感に包まれた
会議から戻ってきた上司に何と嫌味を込めて書類を渡そうかと考えながら私は再び残業回避のためにカタカタとデータを入力していく、キーボードを打ち込む私の指はいつもよりどこか軽くてタイピングのスピードも心做しか上がっていた
そんなこんなでいつもより早く作業が終わり、上司にも嫌味を込めた書類を渡せたので清々しい気分で定時帰宅をした、久しぶりの時間で定時というのはこんなにも人が多かったのかと驚いてしまう、人の波に押される様に駅に辿り着き改札を通って満員電車に押し込まれる
「ぐぇっ……苦しい」
よりにもよって若干スペースの取りやすい壁側ではなく通路側の密集地帯に立ってしまい様々な人に当たりながら電車に揺られる、自分の体から離れた所にある鞄を必死に寄せてなんとか落ち着ける位置に移動できた、こうもすしずめ状態だと仕事中よりも疲れてしまうなぁと思いながらボーッと車内の天井に吊り下げられている広告を見つめる
そうしてようやく自宅近くの駅に辿り着き、私は人を掻き分けてホームへ降り立った、ふぅ…と一息ついて腕をグルグルと回して満員電車で溜まった疲労を少しでも発散してから改札へと向かう
「瀬田」
改札を通ろうと定期券を手探りで探していた時雑踏に紛れて自分の名前を呼ばれた、思わず振り向いて声の主を探した時見慣れた坊主頭が見えて思わず口元が緩んでしまった
「月島さん」
私の名前を呼んでくれた人の名前を呟く、隣人の月島さんは私の元へいそいそと駆け寄ると少し襟元を正した後軽く会釈をした、それに合わせて私もペコリと頭を下げる、その一連の流れがなんだか面白くて笑ってしまう
「珍しいな、今日は定時か」
「月島さんの方も定時上がりは珍しいんじゃないですか?」
「まあな」
お互い定時上がりが珍しいと言い合う社畜同士仲良く話しながら改札を通過する、世間話をしながら歩く道はいつもの帰り道と同じ道順なのに今日はどこか明るく見える気がした
私の自炊が続いているお陰で食費が浮いて貯金がしやすくなった事や月島さんの何がなんでも湯船に浸かると疲れが一気に取れる話など、為になる様なならない様な話をしながら歩くとあっという間にアパートに辿り着く
二人で階段を上りそれぞれの家の玄関まで行っていつものように"おやすみなさい"と言い合う、何も変わらないいつも通りの日常だ、カチャリと玄関の鍵を閉めてベッドに腰掛けようとした時だった、視界の隅で何かが動いた気配がした、それと同時にカサカサとした音が鼓膜を微かに震わせた
「……ひぃっ!?」
何気なく音のした方に目を向けた時だった、思わず声が出てしまう程の恐怖が私を包み込んだ、カサカサとした音、視界の隅に僅かに見えた黒い影……私の握り拳と同じくらいの大きさの虫だ、それも足が多く飛ぶタイプ、わさわさと動くそれは見ているだけでも気持ち悪さがゾゾゾッと背筋を撫でる
なんとかして外に逃がそうとしてとりあえず机に置いたままだったチラシを使い虫の位置を変えようと考えて、ゆっくりとした動作でしゃがみチラシを手にしようとしたが私が動くと同時に虫の動きも止まった、こちらに気付いたのだ、部屋の空気がピンッと張り詰めた空気に変わる
このまま一気にチラシを使って窓に向かって跳ね飛ばそうと考えて虫が動く前に素早くチラシに手を伸ばした瞬間、私の動きを察知して虫があろう事かこちらに向かって動き始めた、カサカサカサッと虫独特の気持ちの悪い音が響く
「ぎゃああああああっっ!!!!来ないで!!!!」
声が近所に響いてしまうと考える暇もないまま叫ぶ、叫ばないと無理だった、叫び声を上げると同時に玄関に向かって逃げるが何を考えているのか虫もこちらに向かって動いてくる、その様子を見てまた一際大きな声を出してしまう
「どうした瀬田!?」
「つ…!!月島さんっ!!助けてくださいっ!!」
玄関に向かっていると扉の向こうから月島さんの慌てた声が聞こえてきた、恐らく私が騒いでいるのを聞いてわざわざ来てくれたのだろう、なんとありがたい事だろうか、思わず咄嗟に助けを求めてしまう、そうしている間にも虫はこちらに向かって来る
現時点の私の位置からでは手を伸ばしても玄関を開ける事は出来ない、月島さんが助けに来る前に私と虫は衝突してしまう、そうなったらきっと私は暴れ狂ってしまうだろう、何とかしてそれだけは避けたい、あわあわと焦っていると勢い良く玄関の扉が開いた
「大丈夫か瀬田ッ!?」
「月…月島さぁん!!」
玄関を開けてくれたのはやはり月島さんだったが、抵抗するためにチラシを丸めて握り締めている私を見て何か拍子抜けた表情をしていた、玄関が開いて外の空気を感じ取ったのか虫はポカンとしている月島さんの足の間を通って外に出て行った
「……何があったんだ?」
「あ、えと……お騒がせしてすいません……」
私と月島さんを包む沈黙が苦しかった、いまだに状況が掴めないでいる月島さんにとりあえず私は謝罪した、そして再び虫が入って来ないように扉を閉めてもらってから月島さんに先程起きた出来事を軽く説明する、初めこそは真剣な表情で聞いていた月島さんだったが、私が騒ぎだした犯人が虫だと知ると表情筋が仕事をしなくなった
全てを説明し終わると月島さんは深く深く溜め息をついてから、私が聞いた事もない声を上げて終いには"来ないで"と叫んでいたのを聞いて何か不審者に襲われたのではと心配したと、疲れた顔をして話した
「まさか虫とは……」
「すいません……本当に……」
「まあ、怖かったよな」
再び深く溜め息をついて月島さんはジョリジョリと坊主頭を撫でるように掻いた、申し訳なくなって再び謝罪をすると月島さんは困った様に笑った、とりあえず何事も無くてよかったと言って月島さんは出て行った、そんな月島さんの背中に向かって私はもう一度頭を下げた
月島さんが自分の家に入ったのを確認してから私も扉を閉めて鍵をかけた、そこでふと、初め帰って来た時に鍵をかけ忘れていたのかと思い立った、先程月島さんが家に入って来た時私は扉の鍵を開けていなかったのだ、それなのに月島さんが入って来たと言う事は忘れていたとしか考えられない
生憎、虫騒動のパニックで前後の記憶があやふやになってしまっている、しっかりと鍵をかけなくては最近は物騒な世の中になっているので防犯は確実に行った方がいい、そう自分に言い聞かせて私はついでにドアチェーンも付ける事にした