警鐘
name changes
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
兄が死んだ
自衛隊に所属していて面倒見も良く、人格者であり、私の自慢である立派な兄は最期に人を守って死んだらしい、ヘリに搭載してある録音機が兄の勇姿を残していた
そんな最期を聞き、兄らしい最期だと父親は腫れ上がった瞼を隠しながら力なく笑って、母親は静かに涙を流していた、数十年一緒に暮らしている家族だがこんな表情を見るのは初めてで、私は無意識に兄に助けを求めていた、いつもなら兄の腕を掴む私の手は虚空を切ったあの時の感覚は暫く忘れられそうにない
そんな兄の葬儀の会場の中心に設置された棺桶の中に兄は居ない、あるのは乾いた血が付着した兄の手帳だけだ、遺体はどうしても見つからなかったらしい
それほどまでの凄惨な事故の中、兄は人を守って死んだ、立派な最期だ
「宏にぃ……」
兄の代わりである手帳に向けて手を合わせる、兄を呼んだが当然その呼び方に反応する人間はもう居ない、ずっと一緒に居たはずの兄はもうこの世のどこにも居ない、それはとても残酷な事実で、その事実から目を背けてしまっているのか、今この状況が現実とは思えない
まるで夢の中にでもいるかのような、地に足が着いていないような、そんな感覚に陥っている
母は私の隣で力なく立っているだけだ、もしかしたら母も私と同じような感覚に陥っているのかもしれない、そんな事を思いながら兄の遺影を見据えた
「仕方ないなナマエは、ここは兄ちゃんに任せろ」
「流石宏にぃだね、私の自慢のお兄ちゃんだよ」
遺影の写真はいつものように優しく微笑んでいる宏にぃで、優しい性格の兄を私はよく頼っていたのを思い出した、妹の無茶振りに兄はしっかりと応えていて、私の自慢の兄だった
兄の姿を思い出すと共に、もう二度と戻らない他愛のないただの日常が愛おしくて、切なくて、目に薄く涙の膜が張る、ゆっくりと目を閉じればその涙の膜はホロリと私の頬を伝う
「ナマエ」
不意に兄の声が聞こえた気がした、ゆっくりと閉じていた瞼を開けるが目の前に広がるのは兄が死んだと言う現実だけだ
私は幽霊という物を信じていない、この夏の時期になるとよく兄と話していた、幽霊は本当に存在しているのかと、この世の中は生きている人間だけでも窮屈なのに幽霊なんて存在していたらもっと窮屈になってしまうと、そう感じて私は幽霊は存在しない物だと考えている
しかし、今聞こえた声は確かに私の鼓膜を震わせていた、幻聴かと思ったがそれにしてはハッキリと聞こえすぎていると感じた
「……宏にぃ……?」
思わず声がした方に向かって戸惑いながらも兄を呼んだ、しかし私の視界に広がるのは兄の葬儀に参列してくれた人達の姿や低い声でお経を詠み上げる住職さんだけだ、当然兄の姿はない
先程のはやはり幻聴だったのだろう、私の名前を呼ぶ時の兄はいつも穏やかな表情をしていて、怒った表情なんてほとんど見た事がなかった、だから私は優しい兄に甘えてよくわがままを言っていた
懐かしさを感じながら視線を兄の遺影に戻して再び手を合わせた、線香の香りが漂ってくる
「ナマエ、俺だよ」
「ッ!!!!」
線香の香りに気を取られ、お経の声が意識の遠くに行った時、確かに背後から兄の声が聞こえてきた、幻覚だとか幽霊の声などではない、確かに私の鼓膜を揺らした声は兄のものだ
思わず息を飲み、勢いよく振り向いたがやはり兄の姿はない、先程と同じ光景が広がっているだけだ、参列してくれた人達、お経を詠み上げる住職さん、と順番に目をやった時不意に部屋の隅に見えた青色に意識が向いた
さっきまであんな物があったのかと首を傾げてしまう、薄暗い青色の中に赤色の花や暗めの色をした植物の模様が描かれている様に見える
「母さん……あれ、なに?」
「静かにしなさい」
思わず隣にいた母親に声をかけたが軽くあしらわれてしまった、それと同時に声を聞かれてしまったからか、下を向いていた人達が顔を上げて不思議そうに私を見始めた
釈然としなかったが視線を元に戻し、兄の死を悼もうと再び兄の遺影と対峙する、ふと気になって兄の遺影に反射して写る私の背後に目をやった、そこで確かに誰かが立っているのが見え、思わず息を飲んだ時
「ナマエ」
先程と同じように兄の声が背後から聞こえた、今度はハッキリと私の鼓膜を揺らしたのが分かった、この声は、先程から聞こえていたこの声はやはり私の幻聴などでは無い、そう確信して私はゆっくりと振り向いた
私の兄はよく笑う人だった、いつもヘラッと口角を上げ、優しく笑っていて、三十路を迎えてから目元に皺が現れ始めたのを困ったように笑いながら言っていたのを覚えている、しかしその笑顔が私は好きだった、兄の笑顔は見ているこっちまで心が温まるような気がしてしまう程優しさに満ちていたのを覚えている
「俺だよ、俺……、兄ちゃんナマエに会いに来たんだよ」
振り向いて目をやった少し先には暗がりに立っているので姿はハッキリとは見えないが兄と背丈が似ている人が立っていた、ヘラッと笑ってこちらに手を振っている
よく見えないが笑顔の雰囲気が兄と似ている気がする
その人の姿を捉えたと同時に周りの雑音が急に聞こえなくなった気がした、そして私の視界に線香の煙が立ち籠み始めた、独特の香りが鼻腔を掠める
「こっちに来てくれよナマエ、なぁ、返事をしてくれよ」
兄と同じ声、同じ話し方をするこの人は、見た目こそ変わってしまったのだが、もしかすると本当に……
「宏、にぃ……なの?」
その人の姿を見据えたまま弱々しく声をかけた、宏にぃは死んだ、それは理解している、しかし私は宏にぃの葬式の最中に返事を期待して宏にぃの名前を呼んだ、傍から見たらきっと気でも狂ったのだと思われてしまうだろう
しかし私は声をかけずにはいられなかった
その人は私の問いかけに口角を上げて答えた、嬉しそうに笑うその姿は宏にぃの姿をしているのにどこか恐怖心を煽り、私は背中に鳥肌が立つのが分かった、何か不気味な雰囲気を感じる
「ナマエ、どうしたのボーッとして、大丈夫?」
「あ……ッ、ご、ごめんなんか……」
「お前達兄妹は仲良かったからな……ショックだよな」
母親の声で我に返った、何が起こったのか分からず狼狽える私を見て、父は静かに同情した様な声色で私が兄の死にショックを受けているのだと言った、確かにそうなのかもしれない
気が付くと兄の葬式は静かに終わりを迎えていた、来てくれた人達や役員の人に頭を下げて私達家族は車に乗り込んだ、これからしばらくは兄の遺品整理に忙しくなるだろう
家に着き、各々疲れた様子で自分の部屋やリビングへと向かう中、私は自分の部屋に入る前に隣の兄の部屋に入ってみる事にした
キィ……ッと蝶番が軋む、部屋の電気を点けるとそこには以前から変わらないシンプルな間取りの兄の部屋があった、しかし一つだけ以前と違うのが、ベッドの上か椅子に座ってこちらを見て笑いかけてくれる兄の姿がない事だった
「……宏にぃ…………死ぬって、どんな感じなの?……怖かったの?……宏にぃは最期に何を思っていたの?」
誰もいない部屋に向かって問いかけた、兄の遺体は見ていないので私は兄の死に顔を見ていない、最期に何を思っていたのか表情で察する事も出来ない、遺っているのは輸送ヘリの中の音声だけ
珍しく焦った声を上げていたのと、音声が途切れる瞬間に後輩に向かって走る音と叫ぶ声、緊迫した警鐘音の中聞き取れたのはそれだけだ
「宏にぃ……会いたいよ」
ずっと溜め込んでいた本音を零すと同時に涙がポロポロと流れ落ちてきた、ずっとずっと思っていた、葬式が終わった後の車内でも、線香の香りが漂う葬式の会場でも、兄の死を告げられた時でも思っていた
兄に会いたい
その気持ちが明確になると同時に心臓が締め付けられるような感覚がした、礼服の上から自分の胸を手で抑えた、どうする事も出来ない感情がのたうち回り続ける
「ナマエ、お待たせ」
「……ッ」
不意に線香の香りが漂い、視界が遮られた、思わず目元に手をやるとそこには冷たいが人の手首があった、どうやら目を塞がれているらしい、耳元で兄の声が聞こえた、私の視界を塞いでいるのは兄だと直ぐに気付いた
「宏、にぃ……?」
「そぉだよ、俺だよ俺、ナマエがあの時ちゃんと返事してくれたから、こうして俺達の間に繋がりができてこっちに来れたんだ」
「……?」
私の問いかけに兄はよく分からない事を説明し始めた、詳しい事はよく分からないがとにかく兄が来てくれた事が嬉しかった、線香の香りと共にいつも兄が愛用していた香水の香りが僅かに香る
それだけで私はたまらなく嬉しくなり、しがみつく様に兄の腕を掴んだ、こんな夏の日なのに兄は着込んでいるようで肌の感覚はなかったが今ここに兄は確かに存在していると分かった
きっと、兄が死んだなんて嘘だったのだと本気で思った、全てが嘘で、私を驚かすために兄が仕組んだ事で、両親も仕掛け人なのだと、そう思った
「さぁ、ナマエ、一緒に行こう?兄ちゃんずっとナマエの事が気がかりだったんだ」
「行くってどこに……?と言うか宏にぃ、いい加減手を離してよ、宏にぃの顔が見たいよ」
「……ダメだよ、ナマエの返事を聞くまで俺はこの手を離せない」
私の目を塞いだまま兄は一緒に行こうと誘う、しかしどこに行くのか分からない、なんの脈絡のない兄の提案に私はただ困惑するだけだ、しかしそんな私に兄はただただ返事を急かす
兄の顔がまた見れるなら、あの太陽のような笑顔が見れるなら、何処に行く事になっても良いと思った、今はただただ兄が恋しい
「……良いよ、宏にぃと一緒に行くよ、何処でも……宏にぃはいつも私のわがままを聞いてくれたから……たまには私も聞かないとね」
なんだか照れくさくて私はちょっと冗談を混じえて兄の問に答えた、私の目を塞ぐ兄の手にほんの少し力が込められたのを感じた
「ごめんなぁ……ナマエ」
兄の謝罪が聞こえたと同時にゆっくりと私の目を塞いでいた兄の手が離れた、部屋の蛍光灯の光に怯えながらも目を開ける、しかし目の前に広がるのは先程まで居た兄の部屋ではなかった
真っ暗な夜空の下の屋外だった、夜風が冷たく私の頬を撫でている、何が起きたのか全く分からず目を見開いていると兄が私を呼ぶ
振り向いた後の視界に見えたのは、穴の空いた何かをこちらに向けて寂しそうに笑う兄の表情だ
向けられていたのが銃口だと気付いたのはそのすぐ後だった