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新人王戦の傷も治りきっていないのに日本を飛び出していったあの夏から1年が経とうとする頃、一郎はひょっこり戻って来た。それも最悪な形で。
いつもの帰り道。今日は忙しかったから遅くなってしまった。明日も朝早いし、とちょっぴりヒヤヒヤしながらも背に腹は代えられぬと少し早歩き気味に普段は使わない街灯の少ない近道を行く私の腕を何者かが突如ぐい、と掴んで引き寄せた。
え…?と思っている内に強張った身体が丸太のように太く熱い腕に羽交い絞めにされる。
どうしようどうしよう…とにかく声を上げないと…!!!
はく、と震える口を開いた私の顔に恐らく下心を持った頬が擦り寄ってくる感覚。やがていやらしく熱い息を吐きかける相手の口が耳に触れた。
終わった。私、もう…
「莉緒」
耳元で大好きな一郎が私を呼ぶ声がする。本当ならきっと汚いおっさんがなんかハアハア言ってるだけなのをあまりの恐怖心から無理矢理そうやって上書きしているだけだ。幻聴だ。第一、一郎がこんなところにいるわけがない。一郎ごめんね。でもこうでもしないと私きっと…
「…一郎」
「久しぶりだな莉緒。会いたかったぜ」
耳元の変態が囁く言葉がやけに差し障りのない内容だ。しかも本物の一郎と今会っても同じことを言いそう。え…?どういうこと?私の脳みそが結構全力でイマジナリー一郎を作り込みにかかってるってこと…?
「莉緒、こっち向けよ」
声と言い方だけが一郎の変態野郎がついに変態野郎らしく強引に片手で私の頬を掴んで後ろへ捻った。
あ…今逃げられたじゃん。やばいもう詰んだ…振り向いたら小汚い脂ぎったデカいおっさんがにやにやしてるんだ…!!!うわ無理もう想像するだけで吐きそう。そんなのになんかされたら私もう生きていけないよ…うわうわうわやばい照らさないで街灯…!!!絶対絶対嫌だけどせめてイマジナリー一郎の顔をしっかり作り込んでから…!!!
「莉緒」
「……」
いや!!!本当に一郎なんかい!!!!!!
「…うわああああ!!!ふざけんな馬鹿野郎!!!!!!」
「うおっ…!!!」
抱き締められた腕の中、大きく振り被ると私は渾身の力で一郎の顔面を殴りつけた。
吹っ飛んでいく一郎の顔面をほとんどスローモーションのような視界で捉えながらどんどん頭が冷めていく。あー、去年の手紙の住所見て待ち伏せしてたな、とかそういう状況判断と同時に現在進行形で感じている怒りがどんどん具体的な言葉になっていく。
よろ、と身体をふらつかせて困惑の表情を浮かべる一郎に私はすかさず詰め寄った。
「ねえ!ちょっと!ものすごい怖かったんだけど今の何!?夜だよ今!家の近くだよここ!突然男に後ろから羽交い絞めにされたら不審者に襲われたと思うでしょ!!!!!!
普通に声掛けるとかできなかったわけ!?!?!?」
「……」
言いたいことが伝わっているのかイマイチ分からないムスッとした表情をこちらに向け、だんまりを決め込むのに余計に腹が立って睨み上げれば、短気な一郎はすぐに口を開いた。
「…不審者じゃねえ。恋人なら抱き締めた感覚で分かれよ」
「はぁ!?1年も会わずに放置した癖に偉そうに!!!そういうのは毎日会ってたくさん甘やかしてくれるスーパーイケメン彼氏にしか許されない台詞なんです~!!!」
そうやって言い返すと分かりやすくハッと目を見開く一郎。既成事実を作ろうとすぐに腰に回って来る手を叩き落として防げば、ほらやっぱりまた不満げに顔を顰めた。
そういうところが不審者っぽいのよ。宮田一郎からド変態痴漢野郎に改名したらどうなの?
「莉緒」
ムスッとしたまま懲りずに手を伸ばしてくる一郎の手を再びはたくと、私は一歩後退って距離を取る。
「ねえ、一郎さぁとりあえずそれらしい雰囲気に持っていけば誤魔化せるって思ってるでしょ」
「……」
そう言うと途端に一郎の不埒な手が固まる。図星なんかい。と頭の中で辛辣なツッコミを入れながらもう一度力の抜けたその手を叩き落とす。
「あのさあ、一郎がキモいくらいテンション上がっちゃってるのなんとなく分かるけどさ、これはないからね。
最低限、帰ってくるのを先に連絡して待ち合わせしてからだから。それでも怖いけど!私にだって色々都合あるから。高校生の時と違うからね!!!」
「……」
「ちょっと全然目が合わないんだけど?分かってんの???
つまり、一郎はもっと私のこと考えて!!!ってこと!!!」
大声を上げたからか漸く顔を上げた一郎の眉間にびしっと指を刺す。
痛そうにぎゅっと目を瞑る一郎をじっと見つめてみる。
しばらくの迷いの後、一郎はこちらを伺うように目線を上げた。
「…別に、お前のこと考えてねえわけじゃねえよ。ボクシングしてねえ時は大体お前ばっかりだぜ」
「……」
考えろって言ったらこれだ。私、というか女の子が好きそうな少女漫画みたいなロマンチックなセリフをとりあえず吐く。
一郎が元々少女漫画のヒーローキャラを地で行くような人間ではあるのは分かってる。これだってきっと素で言っている。だけどなんか今は正直信じてあげられない。
もう私は少女漫画でただきゃーきゃー言えるだけの子供じゃない。もちろん少女漫画の展開にちっとも心が動かない大人でもないけれど。
でも、やっぱり無意識かもしれないけどちゅーとかぎゅーとかきゅんとくるセリフで簡単にメロメロになって一郎のいいようにできちゃう子に思われるのは悔しい。
「…もういい。今日は疲れてるから帰る」
そう言い捨てると、私は有無を言わさずその場を後にした。
自宅に着くと、「まだ話は終わっていない」とばかりに電話が激しく鳴り響いていた。
「うるさ…」
私はさっさと電話から離れた寝室に籠ると、引きっぱなしの布団を頭から被った。
次の朝、目覚ましの音で飛び起きた私は猛烈に後悔した。
落とし忘れたメイクにボサボサの髪。極めつけは激臭のする汗と皮脂に塗れた身体だ。
これも全部一郎のせいだ。腹立つ。
イライラの原動力もあってか、私は普段じゃ想像もつかないような手際のよさでシャワーを浴びると、全ての支度を整えた。
まあ、いつもと出る時間あんまり変わんない。これならイケるでしょ。ナイス私!!!
ピン、ポーン…
そう思ったのも束の間。玄関の扉に手を掛けたところでチャイムベルの音が短く響く。
あー…開けなくても分かる。一郎だこれ。
これから出掛けるって時に面倒臭いなとは思うけど居留守を使う余裕もない。私は渋々扉を開けることにした。
「よぉ…」
そこに立っていたのは意外や意外。しょぼくれた様子の宮田一郎君(20)であった。
「なんで電話に出ない?」くらいのセリフは覚悟していただけあって正直拍子抜けだ。
「…おはよう」
とりあえず、と軽く片手を挙げてみる。釣られてもたもたと手を挙げかける一郎にイラつきつつもそれじゃ終わらないので親切にも会話を切り出してあげることにした。
「で?何しに来たの?私、忙しいから手短に済ませてよね」
「…どこか出掛けるところだったのか」
強く返されたことに戸惑っているのか分かんないけど、一郎は私の持つ鞄へ不自然に視線を移した。
「そうだけど?」とお望み通り荷物がみちみちに詰まった重~い鞄を一郎の目の高さまで持ち上げてやる。すると一郎はふっと目を閉じて何やら考える素振りを見せると、私の鞄を取り上げて肩に掛けた。
「は?」
突然の紳士的対応に呆気に取られる私に一郎が流れるように空いた手を差し出す。
「なに?これ」
「送ってく。駅まででいいか?」
「え、うん。いい、けど」
指先が触れるなり軽く引かれる腕に合わせて前に出ると、一郎が地面をカツ、と革靴の底で叩いた。
「段差」
「…知ってるし。ここ、私の家だから」
「家とかどうとか関係なく転ぶだろ。お前、そそっかしいから」
段差を跨いで超えた私の腰をそっと抱き寄せるその手も信じられないくらいスマートだ。なに!?昨日徹夜で練習でもしたの!?!?!?
「…一郎、あんたまさか…うわっ!」
今の名推理(?)を披露しようとしたところで不意打ちで引かれる腕。思わずつんのめってしまうと、得意げに笑いながら「ほらな」と一郎が覗き込んできた。
「今のは一郎が突然手を引っ張るからでしょ!私1人だったら絶対転ばなかった!!!」
掴まれた腕をぶんぶん振って抗議するも、「はいよ」と流される。腹立たしい!一連の件全てにおいて悪いのは完全に一郎ただ1人なのに…!
「そんなことより莉緒、お前時間平気なのかよ?俺はいつまでこうしてたって構わねえけど」
「は?時間?」
一郎がジャージの下から覗かせたやけに高級そうな腕時計に目線を移す。
別に大してべらべらと喋ってたワケじゃないし大丈夫じゃないの~?
って!
ええ…!!!
もうこんな時間~!?!?!?
「やばい!やばいやばいやばい…!!!次の電車逃したら遅刻…!!!一郎!ダッシュ!!!」
一郎の馬力で引っ張って!と願いを込めて腕を引けば、一郎ははあ、と深くため息を吐いた。
「お前な…危ないだろ。諦めて遅刻しろ」
ノリノリで繋いできたクセに離そうとする一郎にそうはいくか!と握る手に力を込める。
「…遅刻しそうになったの一郎が話しにきたからじゃん。責任取ってよね」
「……」
「分かった!駅まで引っ張ってくれたら昨日のやらかし全部チャラ!これでどう!?」
「…OK。振り落とされんなよ」
強く握り直される手によし!と思ったのも束の間、ジェットコースターにでも乗せられたのかというくらいのスピードと浮遊感が身体を襲った。
「え!?わ、わ、わ…!!!一郎ストップストップ!!!早すぎる!!!」
「は!?走れっつったの莉緒だろうが!」
「で、でもこんな早いなんて聞いてない!無理無理止まって~!!!」
「バカ!お前!ここで止まったら向こうの信号渡れねえだろうが!!!」
「うそ!?困る困る…!!!一郎!全速前進!!!」
そう叫べば一郎は大きく頷いて点滅する信号に向かってギアを上げた。
自分から言っといてなんだけど早くも体力が限界だ。それなのにまだ速くなるなんてどんな苦行よ…!!!
自分の両の脚が絡まって転ぶ寸前の私を一郎は力づくで引っ張って駅までのストレートを爆走する。もう腕が千切れてしまいそうだ。肩回りの筋肉が悲鳴を上げている。めちゃくちゃ怖い。一郎のことをパワー不足とかいうボクシング雑誌に訴えてやりたい。コイツ、めちゃくちゃやばいですよ!!!って。
漸くいつもの通りふざけたことを考えられる程度には余裕が出てきたところで、ぐるりと一郎がこちらを振り向いた。その顔にはあの意地の悪~いにやにや顔が張り付いていていて、私は瞬時にただならぬ嫌な予感を察知した。
「莉緒」
「嫌だ待って無理だから絶対ダメ!!!」
「まだなんも言ってねえだろ」
「一郎が何をしたいかまるで分かんないけど碌なことじゃないから絶対嫌!!!」
「ふぅん。じゃあ、勝手にさせてもらうぜ?」
「は!?!?!?ちょっとダメって…!ぎゃああああああ!!!!」
ワケもわからず回しまくりのコーヒーカップみたいに遠心力マシマシでぐるんっと反転させられる身体。なんとこの野郎勝手にルート変更した挙句一切減速しないでコーナーを曲がりやがった…!!!
回った弾みで勢いがついたのをいいことにまた1つギアが上がる。「あり得ない~…!」と力なく訴えれば「近道」なんて楽しげな声が返ってくる。コイツ…マジでほんと覚えてなさいよ…!!!
「ほんとほんとほんと最悪!!!一郎絶対車とか乗んないでよ!?人が死ぬから!!!」
「安心しろ。ボクシングで忙しくて当分そんな暇ねえから。ほら、ラストスパートだぜ。もう少し踏ん張れ」
「え!?ちょ…!これ以上早くなんの!?もう無理だって走れないって!!!いやああああ!!!」
道行く人をぐりんぐりん避けながらも容赦なく加速して、とうとう改札前、待ち合わせの定番大時計台にぶつかりそうになったところで一郎はビタッと急停止した。
「う、うわあっ!!!」
私が勢い余って前に倒れかかるのを見越して回り込むと、一郎は余裕の笑みを浮かべて腕を広げる。こうなってんのは誰のせいだと思ってんのよ~!!!
「来いよ。莉緒」
「絶対嫌!!!」
もつれる脚を必死に踏ん張ってよろよろと体勢を直そうとするも、あれだけ引き摺り回された私にはそんなことができる体力なんて残っているわけがない。誠に遺憾ではあるが、私は優しくてカッコ良くてめいいっぱい甘やかしてくれる、そんな理想的な彼氏様の胸に飛び込まざるを得なかった。
ぼふっと音を立てて倒れ込む私をそれはそれはスマートに抱き留めると、一郎は指先でいやらしく私の顎を掬い上げた。
「なかなかに熱烈なハグだな。莉緒さんよ。昨日の俺のがかわいく思えてくるぜ」
「うるさい!これは不本意な事故!昨日のは配慮の欠けたセクハラ!まるで違う!!!」
睨み上げる私をまるで子供でもみるように見つめながら一郎は「ふうん、じゃあそういうことにしといてやる」と笑った。
「で?電車の時間は大丈夫なのか?」
言いながら一郎は背後の時計台を指す。
「…あ!!!マズい!!!もうあと3分で来る!!!」
すぐさま一郎から鞄をひったくると、私は慌てて改札を抜けた。
「一郎!ギリセーフで間に合いそう!ありがとう!!!」
一瞬の振り返り際、大きく手を振れば、一郎はふっと気障に笑って片手を挙げた。
去っていくジャージの背中を思いながらなんとか滑り込んで死守した座席に腰を落ち着ける。
あ、そういえば一郎の用事を聞くの忘れてた…
どうせ昨日のことを謝りに来たとかそんなんだと思うけど、万が一重要なことだったら面倒臭いな…
「はぁ~」
今日、家に帰ったら電話の1つでもしてあげるかぁ~…
早々に決定すると、私は抱え込んだ鞄に顔を埋めて、昨晩の睡眠不足を解消すべく目を閉じた。
今日も今日とてくたくたになるまで頑張った私は、同じくくたくたの社会人と学生の集団に押し潰されながら電車に揺られていた。
この乗るだけでも疲れる電車、どうにかならないものかな。いや、この値段で移動できるだけでもありがたいのにこれ以上のサービスを求めちゃいけないか…
駅に着いた途端、どこからどの野郎がかけているのか分からない圧倒的なパワーで押し出される。最寄り駅だからまだいいけど別の駅だったら殺意湧いてたよマジで。
溢れる人達が自分勝手にごちゃごちゃ作った列の中から多分これが行きたい方向に繋がってるやつだなというのを長年の勘だけを頼りに見つけて加わっていく。
のろのろとホームを進んで行くその列に、私が先頭だったらもっとガンガン歩いていくのに!といつもの通りムカつきながらも日本人の性でどうしても列を外れられない。
やっとのことで改札を抜けると、私は待ってました!とばかりに早歩きで構内を出た。
そんな私に向かって真っ直ぐに歩いてくる割と大柄な男が1人。
ヤツはどこのNo.1ホストだよとツッコミたくなるような上下白のスーツに身を包んで周りの女子を年齢問わずきゃあきゃあいわせながらもそちらには一切目もくれずこちらに直進してくる。昨日のお説教で言ったことを守ろうとはしてくれているようだけど目立ちすぎて迷惑なことこの上ない。これで女性にモテるというのにあまり自覚がないのも笑えない。あー…他人のフリをしたい…!
「よぉ」
背景に大輪の薔薇を背負って待ち伏せ犯の一郎がふっと笑う。と、同時に周囲の女性の目も私に向いた。それぞれ思うところはあるようだが、大半は「なんだ彼女いるのか」といったような諦めの表情で安心する。
差し出された手に鞄を掛けると、背負った後、もう片方の手もこちらに向けられる。今朝のことを思い出して握ってやると、一郎は満足げに私の腕を引いて歩き始めた。
「莉緒」
しばらく歩いたところで徐に一郎が振り向いた。
あー、昨日のことだな。
一郎の握り返す手が珍しくふるり、と震えたので予想は確信に変わった。
正直面倒臭いというのも勿論あるけれど、ここで私から言ってしまったら一郎のためにもよくないよね、とあえて不愛想に返事をしてみる。
「なに?」
自分はぶっきらぼうな態度を取ることが多い癖に他人に不愛想にされるのに慣れていない一郎からすっと言葉が出てくるか多少不安はあったが、大丈夫だったようだ。一郎はこちらをちら、と一目見るといつも通り話し始めた。
「今朝言えなかった用事、今言っていいか?」
「いいよ」
即答で答えれば黙り込む一郎。そういうところにかわいげを感じないわけではないけれど、そんなことで時間を使うくらいなら正直家に帰って寝たい。初めて恋人ができたばっかりの学生みたいなノリに呆れつつも待ってあげれば、しばらくの睨み合いの後ようやく一郎がふう、と息を吐いた。
「お前、強くなったな」
「…は?」
なんだそりゃあ…
予想外のセリフにズッコケそうになる私の腕を先回りでぐい、と引くと、一郎はふ、とどこか寂しそうに笑った。
「ほんとになんなの?意味分かんないんだけど」
「ああ、いい女になった、と思ってな。昔のお前だったらこうやって触れてやって甘やかしたら絆されてコロっといってたぜ」
言いながら頬を撫でようとずり上がる手を叩き落とす。けれど一郎は指を絡めて私の手のひらを捕らえるとそのまま改めて頬に触れてきた。
「…言っておくけど、昔の私も一郎の考えていることくらいお見通しだったからね」
「ふうん。分かってても我慢できなかったんだ?」
頬を撫でる指が顎を持ち上げて擽る。まるで犬や猫にするみたいに。
嫌、と首を振ると、その手は意外にもすぐに離れていった。
「なあ、莉緒」
「…なに?」
まだぞわぞわしている顎を掻きむしりたい気持ちを抑えて答える。上ずった声に耐えきれずにふい、と俯くと、頭上から笑う声がした。
「やっぱり変わんねえな、お前」
「それは一郎もでしょ。私のことからかって遊んで…小学生と同じだからね、そういうの」
「そうだな。莉緒、そろそろこっち向けよ」
ふに、と指先で耳を包まれる。それも嫌!と目で訴えればすぐに手が離れていくけれど、それでも引く気はないのか、一郎は真っ直ぐに私の方を見つめて「莉緒」と名前を呼ぶ。
「昨日は悪かった。もうお前の嫌がることはしない」
ちら、と一郎の視線が私のフェイスラインを伝う。試しにこて、と首を傾げて誘ってみればぴく、と肩が震えるが再び手を出してくることはなかった。
「一郎」
呼び掛ければ真っ直ぐに私の目を見つめる。
昨日のことは確かに嫌だったし、めちゃくちゃ怒ったし、面倒臭いヤツって思いもしたけど、今朝走ってくれた分でチャラにしていいって言ったじゃない。もう一郎が気にする必要なんてなかったのに。謝ったら私が思い出しちゃって怒りがぶり返すかもとか考えなかったのかな?
でも…
一郎のそういう泥臭いところ嫌いじゃないよ。好き。真面目でさ、こうじゃなきゃダメって思ったらなにがなんでもやるの。
「一郎はさ、なんで私が怒ったかとかちゃんと分かってる?」
もう許したっていいって思ってる。だけど自分のためにも向かってきてくれる一郎のためにもあえて突き放すような口調で言った。
一郎もここは「ああ」って言葉足らずに済ませちゃいけないって分かっているのかゆっくりと口を開いた。
「今後、莉緒の嫌がることはしない。約束する」
「私が嫌なこと、一郎に分かるの?」
「…分からない。けど、莉緒が嫌がってるなって思ったらやめるよ。次はもうしない」
言いながら顔へ伸ばそうとした手を寸でのところで止める。咄嗟に動いてしまったのか、一郎はバツが悪そうに視線を逸らした。
堪らなくなって私はそのまあるい頭に触れた。
「おい!」
「なに~?嫌だった?」
そうやって手を離すと。一郎はムッとこちらを睨みつけてくる。
「…ガキ扱いがな。触んのは、別に、いい」
「え~?じゃあ一郎ちゃんにはもう触れなくなっちゃうね」
ひらりと手を振ってみせれば、一郎は一瞬だけ目線を外して、でもすぐにずい、と頭を寄せてきた。
「ガキ扱いが嫌なんじゃないの?」
お望み通り頭をわしゃわしゃと撫でてやる。ぐちゃぐちゃにかき回しているのにするすると指を抜けてまた真っ直ぐに戻っていく硬い髪が愛おしいやら腹立たしいやらで複雑な気持ちになってくる。いや、やっぱりムカつくな…
躍起になって撫でる髪に力を込めると、ふっと笑い声が漏れた。
なによ。ちょっと痛いくらいにやってるのに余裕ね。
「なに笑ってんのよ」
「いや?何にそんなムキになってんのかと思ってな」
「なってないし!」
ぐり、と撫でる指に力を込めてやる。また一郎が笑った。
「お前、結構上手いじゃねえか。マッサージ。頭洗うのとか向いてんじゃねえの?」
「はあ?」
あまりにも意味が分からなくて手が止まる。それが気に入らなかったのか一郎がぐりぐりと頭を押し付けてくる。
そういうのいいから説明しろ、と頭を軽くはたけば、ようやくぐりぐりをやめてこちらに向き直った。
「お前に撫でられんの悪くねえってことだよ」
「なあ、莉緒」
「なに?」
「明日の誕生日、これがいい」
先程まで撫でてやっていた私の手を取ると、一郎はそれを再び頭にぽん、と乗せる。
「…いいけど。撫でるだけ?安上がりだね今年は」
去年の黒歴史エアメールを思い出しながら求められるままに手を動かしてやる。あれは結構高くついたし後がすこぶる面倒だったし楽なリクエストで助かったな…
「違えよ」
すり、と私の手に頭を擦り付けると、一郎は不敵に笑った。3秒前の私ごめん!やっぱり嫌な予感がする。
「風呂で俺の頭を洗えって意味」
「へ…?お風呂…?一緒に…?」
ぷしゅう…と湯気を吹き出してしまいそうな程顔が熱くなってくる。
その様子を見て一郎はおかしそうに目を細める。
「まあ、そういうことになるんじゃねえの?」
「~っっっ…!!!」
あまりのことに動揺する私の腕を取ると、一郎は指先にちゅっとわざと大きな音を立てて口付けた。
びくりと肩を跳ねさせる私に一郎が問う。
「嫌だったか?キス」
「嫌じゃなかった…です」
「風呂は?」
「…水着着てていいならいいよ」
ちゅ、ともう片方の手にも唇が触れる。驚いて顔を上げた時、ようやく私が俯いていたことに気付いた。
目が合うと、逃さないとばかりに指を絡めた両手が引かれる。こつん、と額がぶつかると、一郎は内緒話でもするようにいたずらに笑った。
「脱がせやすいヤツにしろよ」
「…嫌。簡単に脱げないヤツ着てく」
「ふうん。じゃあ全部脱がせるまでいっぱいかわいがってやらねえとな」
「バカ…!!!」
押し退けようとしてもふっと笑って鼻と鼻が触れ合っちゃうような距離にまで顔を寄せてくる。近すぎてどうにかなっちゃいそうなのにおでこをぎゅう、とくっつけられてしまえばほとんど動けない。嫌なことはしないって言ったのに…一郎の嘘吐き…!!!
せめて、とぎゅうと目を瞑ってもう一度俯く。お願いだからこれ以上近付いてこないで。
「ねえ、一郎」
「なんだよ?」
熱い吐息が掛かってむずむずする鼻を啜る。でもやっぱりまだ落ち着かない。
「明日も明後日も私朝から晩まで忙しいんだけど」
「ふうん。それで?」
「お誕生日は週末でもいい?一応2日間空いてる…から」
はっと息を飲む音がした。
一郎…?
そろりと目を開けば目と目が合った瞬間、一郎の瞳がとびきり甘く蕩ける。
「OK。週末2日間俺も空けておく」
「ん…」
それだけなんとかお返事をすると、一郎は絡めた指先に熱っぽく力を込めた。
「なあ、キス、してもいいか?今、口に」
「だめ。今、ここ外だから」
「…OK」
ムッと顰められた顔が離れていく。
そのまま一郎はちゅっとわざと音を立てて見せつけるように自分の手の甲に口付けた。
なにやってんだろう…?
ぽかんとしている隙だらけの私の腕を再び引く。
え?ほんとになに!?
驚いている間に一郎は先程の手の甲を私の唇にぐっと押し付けると、得意げにふっと笑った。
「週末、楽しみにしてる」
手の甲に付いたリップを舐め取ると、一郎は人質に取っている私の鞄を背負い直して先を進み始めた。
「ちょっ…!!!」
慌てて取り返そうと駆け出すけれど、上機嫌に揺れる鞄は指先を掠めてひらりと躱されるだけだった。
いつもの帰り道。今日は忙しかったから遅くなってしまった。明日も朝早いし、とちょっぴりヒヤヒヤしながらも背に腹は代えられぬと少し早歩き気味に普段は使わない街灯の少ない近道を行く私の腕を何者かが突如ぐい、と掴んで引き寄せた。
え…?と思っている内に強張った身体が丸太のように太く熱い腕に羽交い絞めにされる。
どうしようどうしよう…とにかく声を上げないと…!!!
はく、と震える口を開いた私の顔に恐らく下心を持った頬が擦り寄ってくる感覚。やがていやらしく熱い息を吐きかける相手の口が耳に触れた。
終わった。私、もう…
「莉緒」
耳元で大好きな一郎が私を呼ぶ声がする。本当ならきっと汚いおっさんがなんかハアハア言ってるだけなのをあまりの恐怖心から無理矢理そうやって上書きしているだけだ。幻聴だ。第一、一郎がこんなところにいるわけがない。一郎ごめんね。でもこうでもしないと私きっと…
「…一郎」
「久しぶりだな莉緒。会いたかったぜ」
耳元の変態が囁く言葉がやけに差し障りのない内容だ。しかも本物の一郎と今会っても同じことを言いそう。え…?どういうこと?私の脳みそが結構全力でイマジナリー一郎を作り込みにかかってるってこと…?
「莉緒、こっち向けよ」
声と言い方だけが一郎の変態野郎がついに変態野郎らしく強引に片手で私の頬を掴んで後ろへ捻った。
あ…今逃げられたじゃん。やばいもう詰んだ…振り向いたら小汚い脂ぎったデカいおっさんがにやにやしてるんだ…!!!うわ無理もう想像するだけで吐きそう。そんなのになんかされたら私もう生きていけないよ…うわうわうわやばい照らさないで街灯…!!!絶対絶対嫌だけどせめてイマジナリー一郎の顔をしっかり作り込んでから…!!!
「莉緒」
「……」
いや!!!本当に一郎なんかい!!!!!!
「…うわああああ!!!ふざけんな馬鹿野郎!!!!!!」
「うおっ…!!!」
抱き締められた腕の中、大きく振り被ると私は渾身の力で一郎の顔面を殴りつけた。
吹っ飛んでいく一郎の顔面をほとんどスローモーションのような視界で捉えながらどんどん頭が冷めていく。あー、去年の手紙の住所見て待ち伏せしてたな、とかそういう状況判断と同時に現在進行形で感じている怒りがどんどん具体的な言葉になっていく。
よろ、と身体をふらつかせて困惑の表情を浮かべる一郎に私はすかさず詰め寄った。
「ねえ!ちょっと!ものすごい怖かったんだけど今の何!?夜だよ今!家の近くだよここ!突然男に後ろから羽交い絞めにされたら不審者に襲われたと思うでしょ!!!!!!
普通に声掛けるとかできなかったわけ!?!?!?」
「……」
言いたいことが伝わっているのかイマイチ分からないムスッとした表情をこちらに向け、だんまりを決め込むのに余計に腹が立って睨み上げれば、短気な一郎はすぐに口を開いた。
「…不審者じゃねえ。恋人なら抱き締めた感覚で分かれよ」
「はぁ!?1年も会わずに放置した癖に偉そうに!!!そういうのは毎日会ってたくさん甘やかしてくれるスーパーイケメン彼氏にしか許されない台詞なんです~!!!」
そうやって言い返すと分かりやすくハッと目を見開く一郎。既成事実を作ろうとすぐに腰に回って来る手を叩き落として防げば、ほらやっぱりまた不満げに顔を顰めた。
そういうところが不審者っぽいのよ。宮田一郎からド変態痴漢野郎に改名したらどうなの?
「莉緒」
ムスッとしたまま懲りずに手を伸ばしてくる一郎の手を再びはたくと、私は一歩後退って距離を取る。
「ねえ、一郎さぁとりあえずそれらしい雰囲気に持っていけば誤魔化せるって思ってるでしょ」
「……」
そう言うと途端に一郎の不埒な手が固まる。図星なんかい。と頭の中で辛辣なツッコミを入れながらもう一度力の抜けたその手を叩き落とす。
「あのさあ、一郎がキモいくらいテンション上がっちゃってるのなんとなく分かるけどさ、これはないからね。
最低限、帰ってくるのを先に連絡して待ち合わせしてからだから。それでも怖いけど!私にだって色々都合あるから。高校生の時と違うからね!!!」
「……」
「ちょっと全然目が合わないんだけど?分かってんの???
つまり、一郎はもっと私のこと考えて!!!ってこと!!!」
大声を上げたからか漸く顔を上げた一郎の眉間にびしっと指を刺す。
痛そうにぎゅっと目を瞑る一郎をじっと見つめてみる。
しばらくの迷いの後、一郎はこちらを伺うように目線を上げた。
「…別に、お前のこと考えてねえわけじゃねえよ。ボクシングしてねえ時は大体お前ばっかりだぜ」
「……」
考えろって言ったらこれだ。私、というか女の子が好きそうな少女漫画みたいなロマンチックなセリフをとりあえず吐く。
一郎が元々少女漫画のヒーローキャラを地で行くような人間ではあるのは分かってる。これだってきっと素で言っている。だけどなんか今は正直信じてあげられない。
もう私は少女漫画でただきゃーきゃー言えるだけの子供じゃない。もちろん少女漫画の展開にちっとも心が動かない大人でもないけれど。
でも、やっぱり無意識かもしれないけどちゅーとかぎゅーとかきゅんとくるセリフで簡単にメロメロになって一郎のいいようにできちゃう子に思われるのは悔しい。
「…もういい。今日は疲れてるから帰る」
そう言い捨てると、私は有無を言わさずその場を後にした。
自宅に着くと、「まだ話は終わっていない」とばかりに電話が激しく鳴り響いていた。
「うるさ…」
私はさっさと電話から離れた寝室に籠ると、引きっぱなしの布団を頭から被った。
次の朝、目覚ましの音で飛び起きた私は猛烈に後悔した。
落とし忘れたメイクにボサボサの髪。極めつけは激臭のする汗と皮脂に塗れた身体だ。
これも全部一郎のせいだ。腹立つ。
イライラの原動力もあってか、私は普段じゃ想像もつかないような手際のよさでシャワーを浴びると、全ての支度を整えた。
まあ、いつもと出る時間あんまり変わんない。これならイケるでしょ。ナイス私!!!
ピン、ポーン…
そう思ったのも束の間。玄関の扉に手を掛けたところでチャイムベルの音が短く響く。
あー…開けなくても分かる。一郎だこれ。
これから出掛けるって時に面倒臭いなとは思うけど居留守を使う余裕もない。私は渋々扉を開けることにした。
「よぉ…」
そこに立っていたのは意外や意外。しょぼくれた様子の宮田一郎君(20)であった。
「なんで電話に出ない?」くらいのセリフは覚悟していただけあって正直拍子抜けだ。
「…おはよう」
とりあえず、と軽く片手を挙げてみる。釣られてもたもたと手を挙げかける一郎にイラつきつつもそれじゃ終わらないので親切にも会話を切り出してあげることにした。
「で?何しに来たの?私、忙しいから手短に済ませてよね」
「…どこか出掛けるところだったのか」
強く返されたことに戸惑っているのか分かんないけど、一郎は私の持つ鞄へ不自然に視線を移した。
「そうだけど?」とお望み通り荷物がみちみちに詰まった重~い鞄を一郎の目の高さまで持ち上げてやる。すると一郎はふっと目を閉じて何やら考える素振りを見せると、私の鞄を取り上げて肩に掛けた。
「は?」
突然の紳士的対応に呆気に取られる私に一郎が流れるように空いた手を差し出す。
「なに?これ」
「送ってく。駅まででいいか?」
「え、うん。いい、けど」
指先が触れるなり軽く引かれる腕に合わせて前に出ると、一郎が地面をカツ、と革靴の底で叩いた。
「段差」
「…知ってるし。ここ、私の家だから」
「家とかどうとか関係なく転ぶだろ。お前、そそっかしいから」
段差を跨いで超えた私の腰をそっと抱き寄せるその手も信じられないくらいスマートだ。なに!?昨日徹夜で練習でもしたの!?!?!?
「…一郎、あんたまさか…うわっ!」
今の名推理(?)を披露しようとしたところで不意打ちで引かれる腕。思わずつんのめってしまうと、得意げに笑いながら「ほらな」と一郎が覗き込んできた。
「今のは一郎が突然手を引っ張るからでしょ!私1人だったら絶対転ばなかった!!!」
掴まれた腕をぶんぶん振って抗議するも、「はいよ」と流される。腹立たしい!一連の件全てにおいて悪いのは完全に一郎ただ1人なのに…!
「そんなことより莉緒、お前時間平気なのかよ?俺はいつまでこうしてたって構わねえけど」
「は?時間?」
一郎がジャージの下から覗かせたやけに高級そうな腕時計に目線を移す。
別に大してべらべらと喋ってたワケじゃないし大丈夫じゃないの~?
って!
ええ…!!!
もうこんな時間~!?!?!?
「やばい!やばいやばいやばい…!!!次の電車逃したら遅刻…!!!一郎!ダッシュ!!!」
一郎の馬力で引っ張って!と願いを込めて腕を引けば、一郎ははあ、と深くため息を吐いた。
「お前な…危ないだろ。諦めて遅刻しろ」
ノリノリで繋いできたクセに離そうとする一郎にそうはいくか!と握る手に力を込める。
「…遅刻しそうになったの一郎が話しにきたからじゃん。責任取ってよね」
「……」
「分かった!駅まで引っ張ってくれたら昨日のやらかし全部チャラ!これでどう!?」
「…OK。振り落とされんなよ」
強く握り直される手によし!と思ったのも束の間、ジェットコースターにでも乗せられたのかというくらいのスピードと浮遊感が身体を襲った。
「え!?わ、わ、わ…!!!一郎ストップストップ!!!早すぎる!!!」
「は!?走れっつったの莉緒だろうが!」
「で、でもこんな早いなんて聞いてない!無理無理止まって~!!!」
「バカ!お前!ここで止まったら向こうの信号渡れねえだろうが!!!」
「うそ!?困る困る…!!!一郎!全速前進!!!」
そう叫べば一郎は大きく頷いて点滅する信号に向かってギアを上げた。
自分から言っといてなんだけど早くも体力が限界だ。それなのにまだ速くなるなんてどんな苦行よ…!!!
自分の両の脚が絡まって転ぶ寸前の私を一郎は力づくで引っ張って駅までのストレートを爆走する。もう腕が千切れてしまいそうだ。肩回りの筋肉が悲鳴を上げている。めちゃくちゃ怖い。一郎のことをパワー不足とかいうボクシング雑誌に訴えてやりたい。コイツ、めちゃくちゃやばいですよ!!!って。
漸くいつもの通りふざけたことを考えられる程度には余裕が出てきたところで、ぐるりと一郎がこちらを振り向いた。その顔にはあの意地の悪~いにやにや顔が張り付いていていて、私は瞬時にただならぬ嫌な予感を察知した。
「莉緒」
「嫌だ待って無理だから絶対ダメ!!!」
「まだなんも言ってねえだろ」
「一郎が何をしたいかまるで分かんないけど碌なことじゃないから絶対嫌!!!」
「ふぅん。じゃあ、勝手にさせてもらうぜ?」
「は!?!?!?ちょっとダメって…!ぎゃああああああ!!!!」
ワケもわからず回しまくりのコーヒーカップみたいに遠心力マシマシでぐるんっと反転させられる身体。なんとこの野郎勝手にルート変更した挙句一切減速しないでコーナーを曲がりやがった…!!!
回った弾みで勢いがついたのをいいことにまた1つギアが上がる。「あり得ない~…!」と力なく訴えれば「近道」なんて楽しげな声が返ってくる。コイツ…マジでほんと覚えてなさいよ…!!!
「ほんとほんとほんと最悪!!!一郎絶対車とか乗んないでよ!?人が死ぬから!!!」
「安心しろ。ボクシングで忙しくて当分そんな暇ねえから。ほら、ラストスパートだぜ。もう少し踏ん張れ」
「え!?ちょ…!これ以上早くなんの!?もう無理だって走れないって!!!いやああああ!!!」
道行く人をぐりんぐりん避けながらも容赦なく加速して、とうとう改札前、待ち合わせの定番大時計台にぶつかりそうになったところで一郎はビタッと急停止した。
「う、うわあっ!!!」
私が勢い余って前に倒れかかるのを見越して回り込むと、一郎は余裕の笑みを浮かべて腕を広げる。こうなってんのは誰のせいだと思ってんのよ~!!!
「来いよ。莉緒」
「絶対嫌!!!」
もつれる脚を必死に踏ん張ってよろよろと体勢を直そうとするも、あれだけ引き摺り回された私にはそんなことができる体力なんて残っているわけがない。誠に遺憾ではあるが、私は優しくてカッコ良くてめいいっぱい甘やかしてくれる、そんな理想的な彼氏様の胸に飛び込まざるを得なかった。
ぼふっと音を立てて倒れ込む私をそれはそれはスマートに抱き留めると、一郎は指先でいやらしく私の顎を掬い上げた。
「なかなかに熱烈なハグだな。莉緒さんよ。昨日の俺のがかわいく思えてくるぜ」
「うるさい!これは不本意な事故!昨日のは配慮の欠けたセクハラ!まるで違う!!!」
睨み上げる私をまるで子供でもみるように見つめながら一郎は「ふうん、じゃあそういうことにしといてやる」と笑った。
「で?電車の時間は大丈夫なのか?」
言いながら一郎は背後の時計台を指す。
「…あ!!!マズい!!!もうあと3分で来る!!!」
すぐさま一郎から鞄をひったくると、私は慌てて改札を抜けた。
「一郎!ギリセーフで間に合いそう!ありがとう!!!」
一瞬の振り返り際、大きく手を振れば、一郎はふっと気障に笑って片手を挙げた。
去っていくジャージの背中を思いながらなんとか滑り込んで死守した座席に腰を落ち着ける。
あ、そういえば一郎の用事を聞くの忘れてた…
どうせ昨日のことを謝りに来たとかそんなんだと思うけど、万が一重要なことだったら面倒臭いな…
「はぁ~」
今日、家に帰ったら電話の1つでもしてあげるかぁ~…
早々に決定すると、私は抱え込んだ鞄に顔を埋めて、昨晩の睡眠不足を解消すべく目を閉じた。
今日も今日とてくたくたになるまで頑張った私は、同じくくたくたの社会人と学生の集団に押し潰されながら電車に揺られていた。
この乗るだけでも疲れる電車、どうにかならないものかな。いや、この値段で移動できるだけでもありがたいのにこれ以上のサービスを求めちゃいけないか…
駅に着いた途端、どこからどの野郎がかけているのか分からない圧倒的なパワーで押し出される。最寄り駅だからまだいいけど別の駅だったら殺意湧いてたよマジで。
溢れる人達が自分勝手にごちゃごちゃ作った列の中から多分これが行きたい方向に繋がってるやつだなというのを長年の勘だけを頼りに見つけて加わっていく。
のろのろとホームを進んで行くその列に、私が先頭だったらもっとガンガン歩いていくのに!といつもの通りムカつきながらも日本人の性でどうしても列を外れられない。
やっとのことで改札を抜けると、私は待ってました!とばかりに早歩きで構内を出た。
そんな私に向かって真っ直ぐに歩いてくる割と大柄な男が1人。
ヤツはどこのNo.1ホストだよとツッコミたくなるような上下白のスーツに身を包んで周りの女子を年齢問わずきゃあきゃあいわせながらもそちらには一切目もくれずこちらに直進してくる。昨日のお説教で言ったことを守ろうとはしてくれているようだけど目立ちすぎて迷惑なことこの上ない。これで女性にモテるというのにあまり自覚がないのも笑えない。あー…他人のフリをしたい…!
「よぉ」
背景に大輪の薔薇を背負って待ち伏せ犯の一郎がふっと笑う。と、同時に周囲の女性の目も私に向いた。それぞれ思うところはあるようだが、大半は「なんだ彼女いるのか」といったような諦めの表情で安心する。
差し出された手に鞄を掛けると、背負った後、もう片方の手もこちらに向けられる。今朝のことを思い出して握ってやると、一郎は満足げに私の腕を引いて歩き始めた。
「莉緒」
しばらく歩いたところで徐に一郎が振り向いた。
あー、昨日のことだな。
一郎の握り返す手が珍しくふるり、と震えたので予想は確信に変わった。
正直面倒臭いというのも勿論あるけれど、ここで私から言ってしまったら一郎のためにもよくないよね、とあえて不愛想に返事をしてみる。
「なに?」
自分はぶっきらぼうな態度を取ることが多い癖に他人に不愛想にされるのに慣れていない一郎からすっと言葉が出てくるか多少不安はあったが、大丈夫だったようだ。一郎はこちらをちら、と一目見るといつも通り話し始めた。
「今朝言えなかった用事、今言っていいか?」
「いいよ」
即答で答えれば黙り込む一郎。そういうところにかわいげを感じないわけではないけれど、そんなことで時間を使うくらいなら正直家に帰って寝たい。初めて恋人ができたばっかりの学生みたいなノリに呆れつつも待ってあげれば、しばらくの睨み合いの後ようやく一郎がふう、と息を吐いた。
「お前、強くなったな」
「…は?」
なんだそりゃあ…
予想外のセリフにズッコケそうになる私の腕を先回りでぐい、と引くと、一郎はふ、とどこか寂しそうに笑った。
「ほんとになんなの?意味分かんないんだけど」
「ああ、いい女になった、と思ってな。昔のお前だったらこうやって触れてやって甘やかしたら絆されてコロっといってたぜ」
言いながら頬を撫でようとずり上がる手を叩き落とす。けれど一郎は指を絡めて私の手のひらを捕らえるとそのまま改めて頬に触れてきた。
「…言っておくけど、昔の私も一郎の考えていることくらいお見通しだったからね」
「ふうん。分かってても我慢できなかったんだ?」
頬を撫でる指が顎を持ち上げて擽る。まるで犬や猫にするみたいに。
嫌、と首を振ると、その手は意外にもすぐに離れていった。
「なあ、莉緒」
「…なに?」
まだぞわぞわしている顎を掻きむしりたい気持ちを抑えて答える。上ずった声に耐えきれずにふい、と俯くと、頭上から笑う声がした。
「やっぱり変わんねえな、お前」
「それは一郎もでしょ。私のことからかって遊んで…小学生と同じだからね、そういうの」
「そうだな。莉緒、そろそろこっち向けよ」
ふに、と指先で耳を包まれる。それも嫌!と目で訴えればすぐに手が離れていくけれど、それでも引く気はないのか、一郎は真っ直ぐに私の方を見つめて「莉緒」と名前を呼ぶ。
「昨日は悪かった。もうお前の嫌がることはしない」
ちら、と一郎の視線が私のフェイスラインを伝う。試しにこて、と首を傾げて誘ってみればぴく、と肩が震えるが再び手を出してくることはなかった。
「一郎」
呼び掛ければ真っ直ぐに私の目を見つめる。
昨日のことは確かに嫌だったし、めちゃくちゃ怒ったし、面倒臭いヤツって思いもしたけど、今朝走ってくれた分でチャラにしていいって言ったじゃない。もう一郎が気にする必要なんてなかったのに。謝ったら私が思い出しちゃって怒りがぶり返すかもとか考えなかったのかな?
でも…
一郎のそういう泥臭いところ嫌いじゃないよ。好き。真面目でさ、こうじゃなきゃダメって思ったらなにがなんでもやるの。
「一郎はさ、なんで私が怒ったかとかちゃんと分かってる?」
もう許したっていいって思ってる。だけど自分のためにも向かってきてくれる一郎のためにもあえて突き放すような口調で言った。
一郎もここは「ああ」って言葉足らずに済ませちゃいけないって分かっているのかゆっくりと口を開いた。
「今後、莉緒の嫌がることはしない。約束する」
「私が嫌なこと、一郎に分かるの?」
「…分からない。けど、莉緒が嫌がってるなって思ったらやめるよ。次はもうしない」
言いながら顔へ伸ばそうとした手を寸でのところで止める。咄嗟に動いてしまったのか、一郎はバツが悪そうに視線を逸らした。
堪らなくなって私はそのまあるい頭に触れた。
「おい!」
「なに~?嫌だった?」
そうやって手を離すと。一郎はムッとこちらを睨みつけてくる。
「…ガキ扱いがな。触んのは、別に、いい」
「え~?じゃあ一郎ちゃんにはもう触れなくなっちゃうね」
ひらりと手を振ってみせれば、一郎は一瞬だけ目線を外して、でもすぐにずい、と頭を寄せてきた。
「ガキ扱いが嫌なんじゃないの?」
お望み通り頭をわしゃわしゃと撫でてやる。ぐちゃぐちゃにかき回しているのにするすると指を抜けてまた真っ直ぐに戻っていく硬い髪が愛おしいやら腹立たしいやらで複雑な気持ちになってくる。いや、やっぱりムカつくな…
躍起になって撫でる髪に力を込めると、ふっと笑い声が漏れた。
なによ。ちょっと痛いくらいにやってるのに余裕ね。
「なに笑ってんのよ」
「いや?何にそんなムキになってんのかと思ってな」
「なってないし!」
ぐり、と撫でる指に力を込めてやる。また一郎が笑った。
「お前、結構上手いじゃねえか。マッサージ。頭洗うのとか向いてんじゃねえの?」
「はあ?」
あまりにも意味が分からなくて手が止まる。それが気に入らなかったのか一郎がぐりぐりと頭を押し付けてくる。
そういうのいいから説明しろ、と頭を軽くはたけば、ようやくぐりぐりをやめてこちらに向き直った。
「お前に撫でられんの悪くねえってことだよ」
「なあ、莉緒」
「なに?」
「明日の誕生日、これがいい」
先程まで撫でてやっていた私の手を取ると、一郎はそれを再び頭にぽん、と乗せる。
「…いいけど。撫でるだけ?安上がりだね今年は」
去年の黒歴史エアメールを思い出しながら求められるままに手を動かしてやる。あれは結構高くついたし後がすこぶる面倒だったし楽なリクエストで助かったな…
「違えよ」
すり、と私の手に頭を擦り付けると、一郎は不敵に笑った。3秒前の私ごめん!やっぱり嫌な予感がする。
「風呂で俺の頭を洗えって意味」
「へ…?お風呂…?一緒に…?」
ぷしゅう…と湯気を吹き出してしまいそうな程顔が熱くなってくる。
その様子を見て一郎はおかしそうに目を細める。
「まあ、そういうことになるんじゃねえの?」
「~っっっ…!!!」
あまりのことに動揺する私の腕を取ると、一郎は指先にちゅっとわざと大きな音を立てて口付けた。
びくりと肩を跳ねさせる私に一郎が問う。
「嫌だったか?キス」
「嫌じゃなかった…です」
「風呂は?」
「…水着着てていいならいいよ」
ちゅ、ともう片方の手にも唇が触れる。驚いて顔を上げた時、ようやく私が俯いていたことに気付いた。
目が合うと、逃さないとばかりに指を絡めた両手が引かれる。こつん、と額がぶつかると、一郎は内緒話でもするようにいたずらに笑った。
「脱がせやすいヤツにしろよ」
「…嫌。簡単に脱げないヤツ着てく」
「ふうん。じゃあ全部脱がせるまでいっぱいかわいがってやらねえとな」
「バカ…!!!」
押し退けようとしてもふっと笑って鼻と鼻が触れ合っちゃうような距離にまで顔を寄せてくる。近すぎてどうにかなっちゃいそうなのにおでこをぎゅう、とくっつけられてしまえばほとんど動けない。嫌なことはしないって言ったのに…一郎の嘘吐き…!!!
せめて、とぎゅうと目を瞑ってもう一度俯く。お願いだからこれ以上近付いてこないで。
「ねえ、一郎」
「なんだよ?」
熱い吐息が掛かってむずむずする鼻を啜る。でもやっぱりまだ落ち着かない。
「明日も明後日も私朝から晩まで忙しいんだけど」
「ふうん。それで?」
「お誕生日は週末でもいい?一応2日間空いてる…から」
はっと息を飲む音がした。
一郎…?
そろりと目を開けば目と目が合った瞬間、一郎の瞳がとびきり甘く蕩ける。
「OK。週末2日間俺も空けておく」
「ん…」
それだけなんとかお返事をすると、一郎は絡めた指先に熱っぽく力を込めた。
「なあ、キス、してもいいか?今、口に」
「だめ。今、ここ外だから」
「…OK」
ムッと顰められた顔が離れていく。
そのまま一郎はちゅっとわざと音を立てて見せつけるように自分の手の甲に口付けた。
なにやってんだろう…?
ぽかんとしている隙だらけの私の腕を再び引く。
え?ほんとになに!?
驚いている間に一郎は先程の手の甲を私の唇にぐっと押し付けると、得意げにふっと笑った。
「週末、楽しみにしてる」
手の甲に付いたリップを舐め取ると、一郎は人質に取っている私の鞄を背負い直して先を進み始めた。
「ちょっ…!!!」
慌てて取り返そうと駆け出すけれど、上機嫌に揺れる鞄は指先を掠めてひらりと躱されるだけだった。
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