夜の帰り道1章
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それは青天の霹靂だった。
今まで生きてきた中で全く縁が無かったこんなインパクト抜群の言葉が思い浮かんでしまうほどの大事件が起きた。
発端は今朝、HRが始まる少し前。担任宛に掛かってきた電話だった。
ハナちゃんが風邪を引いて高熱を出したみたいだ。
それを聞いた担任はすぐにクラス委員長を呼び出し、そのことを伝えた。委員長は大慌て。先生の制止を振り切り、始業前のクラスに駆けこむと、迷惑にも勝手に学級会を開いてしまった。勿論テーマはハナちゃんの代役をどうするか、だ。
突然のことに動揺するクラスメイト達。けれど、少し経って冷静さを取り戻した子達から「ハマケンと仲の良い同じ部活のひなはどう?」とか、「台本係なら台詞も問題ないだろうし、もりっちは?」とか、ちらほらと案が出てきた。
これなら大丈夫か。
一安心した私は「2人なら大丈夫そうだよね」なんて適当に合わせつつ、今週末までに提出の漢字ワークをこそこそと進めた。
今なら思う。この時、私が取るべき行動はそんなことじゃなかった…と。
さっきのひなちゃんやもりっちなどなど、代役ができそうな子が5~6人くらい候補として出されて、あとはその内の誰かに決めるだけ、というところで臨時の自主HRも決着が付き、授業も全て終わった放課後。部活に行く準備をしていた私の周りをクラスで一番目立ってる女子のグループが取り囲んだ。
「何?どうしたの?」
カバンの整理をする手を止め、ぐるり、と彼女達を見渡す。正直あんまり話したことのない子数人に同時に話しかけられるのは緊張を超えて薄ら怖い。
「小宮さんに話があるの。劇のこと。私達と一緒に来てくれる?職員室」
真ん中の一際強気な子が校則違反スレスレのウェーブのかかった明るい髪から甘ったるい花の香りを振りまいて言った。
「…分かった」
嫌な予感しかしないし、このまま部活に行ってしまいたいけれど、真ん中の彼女とその後ろの超ミニスカートとだっぼだぼのルーズソックスの子、それに、たっぷりのラメでキラキラと光るピーチピンクのリップの子の迫力に負けて、私は仕方なく彼女達に従った。
彼女達に促されるままに職員室に入ると、担任が「待ってました!」と言わんばかりの笑顔で振り返った。
「どうも」と形ばかりの会釈を返して、担任の元へ行く。
担任はまず先に私に深々と頭を下げた。
「お願い小宮さん!主人公の姫の代役、引き受けてください!!!」
そして、職員室中に響き渡ってるんじゃないかと思う大きな声でそう告げられた。
やっぱりそうきたか。めんどくさ…
私はぐっと目を瞑った。そして…
「嫌です」
ハッキリとそう答えた。のだけれど担任も女の子達も顔色一つ変えない。私が断るのは予想の範囲内ということなのだろうか。だからと言って私がどうこうすることもないけれど。
「とにかく、私は姫の代役はやらないので、失礼します」
わざと深く頭を下げてみせると、女の子達は私の意図が分かったのかムッと顔を顰めた。
「なによ。いつも部活が、部活がってクラスのこと、ほとんどやんないでさ。所詮マネージャーのクセに」
蛍光灯の光で不自然にギラギラ光る唇を動かして、女子達の1人がそう言うと、他の女子達も口々に私の悪口を言い始めた。
容姿のことや普段のクラスでの私のことをとやかく言われたところでそこまでダメージはないけれど、一生懸命頑張っている部活のことを言われるのはどうしても許せない。
「なに、その言い方?」
真っ先に部活のことを言い出したサイドの子を睨みつけると、今まで黙っていた先生が突然「皆落ち着きなさい」とよく通る声で言った。
「あなた達」
椅子をくるりと回し、先生は女子達に体を向ける。
「冷静になりなさい。学級会で姫の役を頼もうと決めた人達に断られてしまい、焦る気持ちも分かる。だけど、今のように小宮さんに関係のない悪口を言うのはダメでしょう」
「それは…」
そう呟くと女子達はバツが悪そうに担任から目を逸らした。いい気味だ。
「小宮さん」
「はい」
続いてこちらを振り向いた担任に返事を返す。担任はいつになく真剣な表情でこちらを見据えていた。
「あなたもあなたですよ」
担任の表情が厳しいものに変わる。
どきり、と私の背中を冷汗が伝った。
「確かに、彼女達の態度はよくないものでした。しかし、あなたが文化祭の準備を面倒臭がって協力的でなかったのも事実です。話し合いや作業の時、舞台稽古の時、皆が皆やる気に満ちていたわけではないでしょうけど、他の授業の課題をしたり、別のことをしてサボっている人はあなた以外にいませんでしたよ」
「…はい。すみません」
担任の言っていることは尤もだった。何も反論できない。
けれど、それでも私は舞台に出たくはなかった。舞台よりも部活が大事だった。部活のことを考える時間を増やすために、課題は空いた時間にちゃっちゃと済ませてしまいたい。たった一人サボったってなんとか回せるような文化祭の準備を犠牲にしたって別にいいじゃない。と、そう思う。
「…これからはクラスで決めた小道具係の仕事も、話し合いも積極的に参加します。だけど、舞台には立ちたくないです」
先生や女子達からふい、と目を逸らした。真面目に準備に参加しないで周りに迷惑をかけていた、って分かった上で代役をやりたくない、とは少し言い難いものがあった。
「そうですか」
先生もまた私からふっと目を逸らした。視線の先には黒ボールペンでたくさんのバツ印が付いたクラス名簿。女子の名前はハナちゃん以外みんな大きなバツがかけられていた。
「すいません」
それを見て、私の口からぽろりと謝罪の言葉が漏れた。
先生は名簿から顔を上げず、周りの女子達は目にたっぷりと涙を溜め、今にも泣きだしてしまいそうな顔をして、こちらをきっと睨みつけていた。
居た堪れない気持ちになりながらも、私は「失礼しました」とお辞儀をしてすぐにその場を立ち去った。
「小宮ー!」
前田の声にハッとして顔を上げる。
そうだ、私、今、部活中だったね。
「な、なに?どうかした?」
驚きのあまりバクバクと脈打つ胸を押さえて問いかける。
私、変じゃないよね?ちゃんといつも通りに反応できているよね?
「いや、俺はどうもしねえけど」
前田は面喰ったように一つ瞬きをする。なによこれ、前田のこの反応、どういう感情なのよ?
「あ、そう」
言いながらまた私は前に向き直る。部活、集中しなきゃ。
「なあ、小宮」
「なに?やっぱりなんか用事?」
「…用事っつうか、洗濯機止まってんぞ」
「洗濯機…あ!今、洗濯中!!!てか、え!?止まってる…!?」
目の前の洗濯機に目を遣ると、確かに洗濯完了の赤ランプがチカチカ点滅している。
「うそ…本当に終わってる。なんで?いつもは終わったらタイマー鳴るのに…もしかして壊れた…?」
カチカチと目の前のボタンを手当たり次第に押す手をべしっと払って前田は怪訝な顔を向ける。
「何言ってんだお前?さっきからずっとビービー鳴ってたのを今俺が止めてやったんじゃねえか」
「え?前田が?」
ありえない!とガバリと蓋を開けて中を覗き込む。ムワッと安い洗剤と水道水の塩素の匂いが鼻を刺す。シワシワと芋虫のように縮こまった紺と黄土色。ちゃんと脱水まで終わっている。
「…ごめん。前田、ありがとう」
ほっとしたような胸が気味悪くざわつくような不思議な気分でいそいそと籠に洗濯物を詰める。びしょびしょに濡れた冷たい洗濯物が手に張り付いていつも以上に気持ち悪い。
「おい待てよ小宮!」
ちょうど目の高さくらいにまで山盛り詰め込んだ籠を抱えた私を後ろから呼び止める前田の声。言葉の端に私を心配してくれている気持ちが見えたけど今の私にはそれがとても煩わしく思えた。
今日の練習も滞りなく終わり、後は帰るだけ、というところでマネージャーの中で不運にも私だけが黒木に呼び出された。
最悪。と思いながらも黒木に付いて部屋のパイプ椅子に腰掛けると、黒木は早速「手短に言う」と話を始めた。
「小宮、お前クラスの劇の代役をやれ」
「は…?」
頭を金属バットか何かで殴られたかのような衝撃が私を襲った。
「今、何と仰いました?」
「クラスの劇の代役を引き受けろ、と言った」
頭を真っ白にして、手のひらに汗までかきはじめた私とは対照的に黒木は至極冷静だった。
「もう一度言う。小宮、代役を引き受けろ」
「あ、あの…聞こえています。でも、なぜ監督がそんなことを言うんですか?何よりもバレー部を重んじる監督がそんなことを仰るなんて信じられないです」
ぎゅう、と両手を握りしめるとべちゃりと嫌な音を立てて手の中で汗が広がった。
監督は淡々と続ける。
「職員室でのお前達の言い合いを聞いていた」
目の前が真っ白になった。
ウソでしょう…?あれ、聞かれていたの…?
「代役を引き受ける人間がいなくてクラスの出し物の実施が危ぶまれる事態らしいな」
「い、嫌です!」
監督とバッチリ目が合う。背筋が緊張でびいん、と不自然に伸びるのが分かる。
それでも私は必死に訴えた。
「納得できません。特に部活にも所属しておらず、暇な生徒ならまだしも、私はマネージャーとしてバレー部で毎日朝早くから夜遅くまで頑張っています!貢献してます!監督と同じでクラスより部活の方が大事なんです!!!」
「思い上がるな」
監督の言葉が私を遮った。
「立場を弁えろ小宮。お前はバレー部のマネージャーである以前にこの学校の生徒で、クラスの一員だ。バレー部よりもまずはクラスを優先すべきだろう」
「……」
監督の命令に、担任の正論が重なる。
身体がぶるぶると異様なまでに震えてくるのが分かる。
気を張っていないと涙も溢れてきそうだ。できることなら身体の奥底から湧き上がるこの悔しさと怒りを目の前の監督にそのままぶつけてしまいたい。
私は気休めに深く息を吐いた。
「あの、お言葉ですが、今の言葉、他の部員にも言えるのでしょうか。辰巳には?前田には?彼らが私と同じ状況になった時、同じこと、言えるんですか?」
「言わない」
「…だったら!」
監督の言葉に一筋の光明を見た。私はバシン、と机を叩き、立ち上がる。けれど、奇妙なことに勝利を確信して自身に満ちる私を目の前にしても監督の態度は至って落ち着いていた。
「奴等はバレーで頂点を極めるために学校側が入学を望んだ人間。あるいはそういった人間よりも高い実力を示してレギュラーの座を勝ち取った人間だ。一般の生徒として入学し、マネージャーをしているお前や、レギュラーの座を勝ち得なかった控えの人間と違う扱いをするのは当然だ」
「…はい」
返す言葉もない。監督の言うことは厳しく残酷でこれまで培ってきたマネージャーとしての己を打ち砕く受け入れ難いものだった。
でも、これまでマネージャーとして努力を重ねてきたからこそ、監督の言葉の正しさをひしひしと感じるのだ。
俯く私に監督の声が降りかかる。
「お前はよく働き、私を含めたバレー部の者達に信頼されている有能なマネージャーであることは間違いない。だが、有能なマネージャーは他に2人もいる。お前はバレー部に必要な人間だが不可欠な人間ではない。そのことを肝に銘じて励め」
黒木監督は立ち上がると、明かりを消し、部屋を後にした。
扉が閉じられる音が耳に届いた途端、私の目からついに、堪えきれなくなった涙が溢れ出す。
私はみっともなく流れる涙を腕で無理矢理に堰き止めながら、監督の後を追う。
外に出ると、もうとっくに監督の気配はなく、ただ真っ暗な空間が広がっていた。
「う、うぅ…」
私は力なくその場に崩れ落ちた。
制服や靴下が砂で汚れるのが嫌で嫌で仕方ないのに、今の私には立ち上がる気力が残されていなかった。
それが惨めでまた涙が零れてきた。
ギイイイイ…
と、その瞬間、獣の鳴く声のような不気味で恐ろしく高い音が耳を劈いた。
ぼたぼたと涙と鼻水を零しながら両手を顔から離す。
真っ黒な影に染まった手のひらの先、涙と鼻水に塗れた指先だけが眩しすぎるくらいに白く、妖しく光っていた。
その様子に目を奪われていると、聞き慣れた声が耳に届いた。
「…小宮?」
その声は私の名を呼ぶと、ガシリと肩を掴んできた。
「おいどうした?何泣いてんだよ?」
声は次第に焦りを含んで乱れ、私の身体を後ろからガクンガクンと揺すった。
何も答えたくない。何も話したくない。
その意思表示のつもりで私は頭を激しく横に振る。
「~~っ…!!!」
「こっち来い!小宮!!!」
荒々しくそう怒鳴る声が聞こえたかと思うと、私の身体は無理矢理引っ張り上げられ、ごろんと寝転んだ状態で宙に浮いた。その後に膝裏と背に激しい痛み。
「うぐう…っ!」
咄嗟に顔を庇うように覆った手に触れたモノをぐっと握りしめると、それはじっとりと湿って、むわりと強い脂っこくて酸っぱい臭いを放った。
私は、この感覚を知っている。そう思った。思っただけで一つも安心できなかったけれど。
バタリと扉が閉められる音が響き渡り、一瞬にして目の前が真っ白になった。
ドカドカと重い足音を立てて前に進んだかと思うと、声の人物はミシリ、と安いパイプ椅子を軋ませた。
何が起きたのか理解が追い付かず、ぶるりと震えたのも束の間。その人物は私を抑え込むように私の上に覆いかぶさり、抱き締めた。
その腕から逃れようと身を捩り、抵抗すればするほどその力は増していった。そして、その人物はついに私の身体の震えを力づくで止めてしまった。
「ねえ、やめてよ。これ、前田の仕業でしょ?離して…!」
掴んだ練習着に顔を押し付け、みっともなく泣く私に前田は間髪入れずに吐き捨てた。
「やだね」
今まで生きてきた中で全く縁が無かったこんなインパクト抜群の言葉が思い浮かんでしまうほどの大事件が起きた。
発端は今朝、HRが始まる少し前。担任宛に掛かってきた電話だった。
ハナちゃんが風邪を引いて高熱を出したみたいだ。
それを聞いた担任はすぐにクラス委員長を呼び出し、そのことを伝えた。委員長は大慌て。先生の制止を振り切り、始業前のクラスに駆けこむと、迷惑にも勝手に学級会を開いてしまった。勿論テーマはハナちゃんの代役をどうするか、だ。
突然のことに動揺するクラスメイト達。けれど、少し経って冷静さを取り戻した子達から「ハマケンと仲の良い同じ部活のひなはどう?」とか、「台本係なら台詞も問題ないだろうし、もりっちは?」とか、ちらほらと案が出てきた。
これなら大丈夫か。
一安心した私は「2人なら大丈夫そうだよね」なんて適当に合わせつつ、今週末までに提出の漢字ワークをこそこそと進めた。
今なら思う。この時、私が取るべき行動はそんなことじゃなかった…と。
さっきのひなちゃんやもりっちなどなど、代役ができそうな子が5~6人くらい候補として出されて、あとはその内の誰かに決めるだけ、というところで臨時の自主HRも決着が付き、授業も全て終わった放課後。部活に行く準備をしていた私の周りをクラスで一番目立ってる女子のグループが取り囲んだ。
「何?どうしたの?」
カバンの整理をする手を止め、ぐるり、と彼女達を見渡す。正直あんまり話したことのない子数人に同時に話しかけられるのは緊張を超えて薄ら怖い。
「小宮さんに話があるの。劇のこと。私達と一緒に来てくれる?職員室」
真ん中の一際強気な子が校則違反スレスレのウェーブのかかった明るい髪から甘ったるい花の香りを振りまいて言った。
「…分かった」
嫌な予感しかしないし、このまま部活に行ってしまいたいけれど、真ん中の彼女とその後ろの超ミニスカートとだっぼだぼのルーズソックスの子、それに、たっぷりのラメでキラキラと光るピーチピンクのリップの子の迫力に負けて、私は仕方なく彼女達に従った。
彼女達に促されるままに職員室に入ると、担任が「待ってました!」と言わんばかりの笑顔で振り返った。
「どうも」と形ばかりの会釈を返して、担任の元へ行く。
担任はまず先に私に深々と頭を下げた。
「お願い小宮さん!主人公の姫の代役、引き受けてください!!!」
そして、職員室中に響き渡ってるんじゃないかと思う大きな声でそう告げられた。
やっぱりそうきたか。めんどくさ…
私はぐっと目を瞑った。そして…
「嫌です」
ハッキリとそう答えた。のだけれど担任も女の子達も顔色一つ変えない。私が断るのは予想の範囲内ということなのだろうか。だからと言って私がどうこうすることもないけれど。
「とにかく、私は姫の代役はやらないので、失礼します」
わざと深く頭を下げてみせると、女の子達は私の意図が分かったのかムッと顔を顰めた。
「なによ。いつも部活が、部活がってクラスのこと、ほとんどやんないでさ。所詮マネージャーのクセに」
蛍光灯の光で不自然にギラギラ光る唇を動かして、女子達の1人がそう言うと、他の女子達も口々に私の悪口を言い始めた。
容姿のことや普段のクラスでの私のことをとやかく言われたところでそこまでダメージはないけれど、一生懸命頑張っている部活のことを言われるのはどうしても許せない。
「なに、その言い方?」
真っ先に部活のことを言い出したサイドの子を睨みつけると、今まで黙っていた先生が突然「皆落ち着きなさい」とよく通る声で言った。
「あなた達」
椅子をくるりと回し、先生は女子達に体を向ける。
「冷静になりなさい。学級会で姫の役を頼もうと決めた人達に断られてしまい、焦る気持ちも分かる。だけど、今のように小宮さんに関係のない悪口を言うのはダメでしょう」
「それは…」
そう呟くと女子達はバツが悪そうに担任から目を逸らした。いい気味だ。
「小宮さん」
「はい」
続いてこちらを振り向いた担任に返事を返す。担任はいつになく真剣な表情でこちらを見据えていた。
「あなたもあなたですよ」
担任の表情が厳しいものに変わる。
どきり、と私の背中を冷汗が伝った。
「確かに、彼女達の態度はよくないものでした。しかし、あなたが文化祭の準備を面倒臭がって協力的でなかったのも事実です。話し合いや作業の時、舞台稽古の時、皆が皆やる気に満ちていたわけではないでしょうけど、他の授業の課題をしたり、別のことをしてサボっている人はあなた以外にいませんでしたよ」
「…はい。すみません」
担任の言っていることは尤もだった。何も反論できない。
けれど、それでも私は舞台に出たくはなかった。舞台よりも部活が大事だった。部活のことを考える時間を増やすために、課題は空いた時間にちゃっちゃと済ませてしまいたい。たった一人サボったってなんとか回せるような文化祭の準備を犠牲にしたって別にいいじゃない。と、そう思う。
「…これからはクラスで決めた小道具係の仕事も、話し合いも積極的に参加します。だけど、舞台には立ちたくないです」
先生や女子達からふい、と目を逸らした。真面目に準備に参加しないで周りに迷惑をかけていた、って分かった上で代役をやりたくない、とは少し言い難いものがあった。
「そうですか」
先生もまた私からふっと目を逸らした。視線の先には黒ボールペンでたくさんのバツ印が付いたクラス名簿。女子の名前はハナちゃん以外みんな大きなバツがかけられていた。
「すいません」
それを見て、私の口からぽろりと謝罪の言葉が漏れた。
先生は名簿から顔を上げず、周りの女子達は目にたっぷりと涙を溜め、今にも泣きだしてしまいそうな顔をして、こちらをきっと睨みつけていた。
居た堪れない気持ちになりながらも、私は「失礼しました」とお辞儀をしてすぐにその場を立ち去った。
「小宮ー!」
前田の声にハッとして顔を上げる。
そうだ、私、今、部活中だったね。
「な、なに?どうかした?」
驚きのあまりバクバクと脈打つ胸を押さえて問いかける。
私、変じゃないよね?ちゃんといつも通りに反応できているよね?
「いや、俺はどうもしねえけど」
前田は面喰ったように一つ瞬きをする。なによこれ、前田のこの反応、どういう感情なのよ?
「あ、そう」
言いながらまた私は前に向き直る。部活、集中しなきゃ。
「なあ、小宮」
「なに?やっぱりなんか用事?」
「…用事っつうか、洗濯機止まってんぞ」
「洗濯機…あ!今、洗濯中!!!てか、え!?止まってる…!?」
目の前の洗濯機に目を遣ると、確かに洗濯完了の赤ランプがチカチカ点滅している。
「うそ…本当に終わってる。なんで?いつもは終わったらタイマー鳴るのに…もしかして壊れた…?」
カチカチと目の前のボタンを手当たり次第に押す手をべしっと払って前田は怪訝な顔を向ける。
「何言ってんだお前?さっきからずっとビービー鳴ってたのを今俺が止めてやったんじゃねえか」
「え?前田が?」
ありえない!とガバリと蓋を開けて中を覗き込む。ムワッと安い洗剤と水道水の塩素の匂いが鼻を刺す。シワシワと芋虫のように縮こまった紺と黄土色。ちゃんと脱水まで終わっている。
「…ごめん。前田、ありがとう」
ほっとしたような胸が気味悪くざわつくような不思議な気分でいそいそと籠に洗濯物を詰める。びしょびしょに濡れた冷たい洗濯物が手に張り付いていつも以上に気持ち悪い。
「おい待てよ小宮!」
ちょうど目の高さくらいにまで山盛り詰め込んだ籠を抱えた私を後ろから呼び止める前田の声。言葉の端に私を心配してくれている気持ちが見えたけど今の私にはそれがとても煩わしく思えた。
今日の練習も滞りなく終わり、後は帰るだけ、というところでマネージャーの中で不運にも私だけが黒木に呼び出された。
最悪。と思いながらも黒木に付いて部屋のパイプ椅子に腰掛けると、黒木は早速「手短に言う」と話を始めた。
「小宮、お前クラスの劇の代役をやれ」
「は…?」
頭を金属バットか何かで殴られたかのような衝撃が私を襲った。
「今、何と仰いました?」
「クラスの劇の代役を引き受けろ、と言った」
頭を真っ白にして、手のひらに汗までかきはじめた私とは対照的に黒木は至極冷静だった。
「もう一度言う。小宮、代役を引き受けろ」
「あ、あの…聞こえています。でも、なぜ監督がそんなことを言うんですか?何よりもバレー部を重んじる監督がそんなことを仰るなんて信じられないです」
ぎゅう、と両手を握りしめるとべちゃりと嫌な音を立てて手の中で汗が広がった。
監督は淡々と続ける。
「職員室でのお前達の言い合いを聞いていた」
目の前が真っ白になった。
ウソでしょう…?あれ、聞かれていたの…?
「代役を引き受ける人間がいなくてクラスの出し物の実施が危ぶまれる事態らしいな」
「い、嫌です!」
監督とバッチリ目が合う。背筋が緊張でびいん、と不自然に伸びるのが分かる。
それでも私は必死に訴えた。
「納得できません。特に部活にも所属しておらず、暇な生徒ならまだしも、私はマネージャーとしてバレー部で毎日朝早くから夜遅くまで頑張っています!貢献してます!監督と同じでクラスより部活の方が大事なんです!!!」
「思い上がるな」
監督の言葉が私を遮った。
「立場を弁えろ小宮。お前はバレー部のマネージャーである以前にこの学校の生徒で、クラスの一員だ。バレー部よりもまずはクラスを優先すべきだろう」
「……」
監督の命令に、担任の正論が重なる。
身体がぶるぶると異様なまでに震えてくるのが分かる。
気を張っていないと涙も溢れてきそうだ。できることなら身体の奥底から湧き上がるこの悔しさと怒りを目の前の監督にそのままぶつけてしまいたい。
私は気休めに深く息を吐いた。
「あの、お言葉ですが、今の言葉、他の部員にも言えるのでしょうか。辰巳には?前田には?彼らが私と同じ状況になった時、同じこと、言えるんですか?」
「言わない」
「…だったら!」
監督の言葉に一筋の光明を見た。私はバシン、と机を叩き、立ち上がる。けれど、奇妙なことに勝利を確信して自身に満ちる私を目の前にしても監督の態度は至って落ち着いていた。
「奴等はバレーで頂点を極めるために学校側が入学を望んだ人間。あるいはそういった人間よりも高い実力を示してレギュラーの座を勝ち取った人間だ。一般の生徒として入学し、マネージャーをしているお前や、レギュラーの座を勝ち得なかった控えの人間と違う扱いをするのは当然だ」
「…はい」
返す言葉もない。監督の言うことは厳しく残酷でこれまで培ってきたマネージャーとしての己を打ち砕く受け入れ難いものだった。
でも、これまでマネージャーとして努力を重ねてきたからこそ、監督の言葉の正しさをひしひしと感じるのだ。
俯く私に監督の声が降りかかる。
「お前はよく働き、私を含めたバレー部の者達に信頼されている有能なマネージャーであることは間違いない。だが、有能なマネージャーは他に2人もいる。お前はバレー部に必要な人間だが不可欠な人間ではない。そのことを肝に銘じて励め」
黒木監督は立ち上がると、明かりを消し、部屋を後にした。
扉が閉じられる音が耳に届いた途端、私の目からついに、堪えきれなくなった涙が溢れ出す。
私はみっともなく流れる涙を腕で無理矢理に堰き止めながら、監督の後を追う。
外に出ると、もうとっくに監督の気配はなく、ただ真っ暗な空間が広がっていた。
「う、うぅ…」
私は力なくその場に崩れ落ちた。
制服や靴下が砂で汚れるのが嫌で嫌で仕方ないのに、今の私には立ち上がる気力が残されていなかった。
それが惨めでまた涙が零れてきた。
ギイイイイ…
と、その瞬間、獣の鳴く声のような不気味で恐ろしく高い音が耳を劈いた。
ぼたぼたと涙と鼻水を零しながら両手を顔から離す。
真っ黒な影に染まった手のひらの先、涙と鼻水に塗れた指先だけが眩しすぎるくらいに白く、妖しく光っていた。
その様子に目を奪われていると、聞き慣れた声が耳に届いた。
「…小宮?」
その声は私の名を呼ぶと、ガシリと肩を掴んできた。
「おいどうした?何泣いてんだよ?」
声は次第に焦りを含んで乱れ、私の身体を後ろからガクンガクンと揺すった。
何も答えたくない。何も話したくない。
その意思表示のつもりで私は頭を激しく横に振る。
「~~っ…!!!」
「こっち来い!小宮!!!」
荒々しくそう怒鳴る声が聞こえたかと思うと、私の身体は無理矢理引っ張り上げられ、ごろんと寝転んだ状態で宙に浮いた。その後に膝裏と背に激しい痛み。
「うぐう…っ!」
咄嗟に顔を庇うように覆った手に触れたモノをぐっと握りしめると、それはじっとりと湿って、むわりと強い脂っこくて酸っぱい臭いを放った。
私は、この感覚を知っている。そう思った。思っただけで一つも安心できなかったけれど。
バタリと扉が閉められる音が響き渡り、一瞬にして目の前が真っ白になった。
ドカドカと重い足音を立てて前に進んだかと思うと、声の人物はミシリ、と安いパイプ椅子を軋ませた。
何が起きたのか理解が追い付かず、ぶるりと震えたのも束の間。その人物は私を抑え込むように私の上に覆いかぶさり、抱き締めた。
その腕から逃れようと身を捩り、抵抗すればするほどその力は増していった。そして、その人物はついに私の身体の震えを力づくで止めてしまった。
「ねえ、やめてよ。これ、前田の仕業でしょ?離して…!」
掴んだ練習着に顔を押し付け、みっともなく泣く私に前田は間髪入れずに吐き捨てた。
「やだね」