夜の帰り道1章
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夏休みも明けてしばらく経ち、9月も中旬に差し掛かってきた頃、全国出場常連と言われる他県の強豪校達が連日代わる代わる道場破りかの如く練習試合にやってきた。
先のインターハイで坂見台に敗退し、さらに腹立たしいことにその坂見台がインターハイ本番であっさり敗けてしまったことで「今年の誠陵は恐るるに足らず!」という不名誉な噂が広まっていると聞く。このところやってくる相手チームにも少なからずその噂を確かめに来ているところもあるだろうと容易に想像できる。
あの試合はウチが弱くなったから敗けたわけではない、坂見台がウチよりも強かったから敗けたのだ、とウチの部員は口を揃えて言うだろうけれど、実際、その坂見台がインターハイで結果を残せていないならそうは思えないということも分かる。
だけど、これはいい機会でもある。だってこちらから出向かなくても全国の強いチームと試合ができるなんて願ったり叶ったりだ。
打倒坂見台!そして全国大会優勝!のために皆やる気も十分。
今日も練習試合無敗記録更新に向けてとにかく頑張らないと。
スコアを付けて、飲み物の用意をして、時間を見つけて倉庫の掃除をして…やることは山積みだ。
気合を新たに、私はナッツやさとちゃんと共に校門前へ相手チームの出迎えに向かった。
試合開始から10分が経過した。1セット目は大差を付けて先取して、今は2セット目。10-2とウチが大幅リード中だ。
「ライン、入ってます!」
千葉のライン際ギリギリを狙う強烈なスパイクサーブを目の当たりにし、相手チームのマネージャーが悔しそうに旗を上げる。
これで11-2だ。
続く千葉のサーブ。これもジャストミートだ。再びライン際ギリギリをめがけてボールが落ちていく。
「まだだ!」
しかし、相手チームの副キャプテンが反応!大きく逸れはしたが球は大きく打ち上がった。
「主将!頼みます!!!」
セッターがそれをふわりとネット際へ運ぶ。
「任せろ!うおおおお!!!」
相手チームキャプテンがそれに応え、今日一番のジャンプを飛ぶ。
そして…
「おらああっ!!!」
今日一番の絶好球を放った。
「クソッ!ブロックが間に合わねえ!すまん前田、後は任せる!!!」
「おう!」
工藤のブロックを超え、猛スピードで向かってくる球に得意のフットワークで追いついた前田は球を真正面で捉える。
よし、これならすぐ次の攻撃に繋げられる。
なんたって前田は…
「ぐあっ…!」
前田の受けた球が強烈なスパイクの余韻を残したまま手薄な後方へ打ち上げられる。
「オーライ」
佐野が素早く移動し、辰巳にトス。
辰巳の殺人スパイクが決まった。
プレーが乱れてヒヤリとする場面もあったけれど、ミスをしたことでより気が引き締まったのか、動きのキレがどんどん増していく。最後は意表を突いた前田のバックアタックで得点。さらに点差を大きくして勝利した。
ベンチに引き上げてくる皆にそれぞれ声をかけてスクイズを渡していく。
千葉も工藤もいつもよりちょっとテンションが上がっているような気がする。
「前田、お疲れ様。最後のバックアタック、すごかったよ。かっこよかった」
ラストの一際高くて強い一撃を思い返して、興奮している私はついうっかりそんなことを口走ってしまった。
「ああ」
しかし、意外にも前田は冷めた態度でスクイズに口を付けた。
前田のその行動になんだか違和感を感じる。
そういえば、いつもなら試合の後は真っ先に私のところにやって来ていた気がする。今日みたいに決勝点を決める大活躍をしたらなおさら。こっちには他にやることあるんだっていくら言ったってしつこく着いて来て、あのプレーがどうたらこうたらって長々と余計な自慢話を始めてなかなか止まらないというのに。
「えっと。前田、大丈夫?体調悪かったりとかもない?」
「べつに。フツー」
「そう。ならいいけど」
話せば話すほど前田の様子がおかしいような気がしてくるけれど、だからといって前田に何を言えばいいのか、何を聞いてみればいいのか全然分からない。
いつも話している中で前田も不機嫌になることくらいあるし、暴言を吐くことだってある。あのくらい素っ気ない態度を取っている前田なんてさして珍しいものでもないはずなのに、なぜ私はこんなにも落ち着かないのだろう。
「ため息!」
そう言いながら、ナッツは前田の背中を見送って項垂れる私の肩を叩いた。
「え?なに?ため息?どうしたの、急に?」
「小宮ちゃんがため息吐いていたから気になって。どうしたの?前田君のこと?」
私の分もスクイズの籠を持ち上げるとナッツは顔を寄せてそんなことを言う。
「前田は関係ないよ」
咄嗟にそう答えると、ナッツはなぜかおかしそうに笑った。
「そっか。ごめんね。でも前田君の様子もおかしかったしもしかしたらそうかなって思ったんだよね」
「前田の様子?」
無意識に気になったことが口をついて出てしまった。
まずい、と思ってナッツの顔を伺うと、ナッツはさっきと変わらない笑顔で続ける。
これは、私が前田のことを気にしてるのは多分最初からバレていたのかもしれない。
「前田君がおかしいなって思ったのはね、小宮ちゃんが話しかけてもずっとツーンとした態度取ってるから。前田君ってワンちゃんみたいにいつも小宮ちゃんを見ると小宮ちゃん大好き~って感じで走ってっちゃうけど今日はそんな感じじゃないなって思ったんだよね」
「え?そんな犬みたいなかわいい感じしないよ、前田は。それにナッツの言ってることちょっと大げさじゃない?前田は嫌味な態度の時ばっかりだし、素っ気ない時も結構あるんだけど」
とは言いながらもナッツの言っていることには少なからず心当たりはある。自分がナルシストみたいに思われたくないから認めたくはないけど。
「たしかに前田君って小宮ちゃんのことからかったり、しつこく構ってたり、あとたまにちょっとツンツンしてる時もあるけど、あれは多分小宮ちゃんに心を許してるっていうか、甘えてるって感じだと思うな~」
「…私はそういうのじゃない、と思うけど」
「そっか。でも、前田君がマネージャーの中で一番小宮ちゃんとよくしゃべるし、仲良しさんなのは事実なわけなんだから、ちょっと話を聞いてあげたらどうかな?ほら、選手のメンタルケアもマネージャーのお仕事でしょ!」
「そこまで言うならナッツがやればいいんじゃない?」
私と前田のラブシーンを作ろうとしている気配を感じて、そう返してみると、ナッツは籠を胸に抱え直してこちらに向き直った。
「だめ!だって私は工藤君のお話を聞く係だもん」
気恥ずかしそうに笑いながらそう言うと、ナッツは「はいっ」って私に籠を一つ押し付けるて、さっさと体育館外の水道へ走って行ってしまった。
「待ってよ」
私はなんとなく苛立つ気持ちを抱えながらナッツを追った。
ナッツの言うマネージャーとしてっていうのも分かるし、前田のことちゃんと心配している。だけど、前田に話しかける気にはなれない。
納得できないまま、無駄にぐるぐる考えて、結局その後の部活に全然集中できなかった。
時刻は23時過ぎ。
倉庫の整理なんて明日以降に回せばよかったのに、他のことでいつもならやらないような失敗を連発してナッツにもさとちゃんにもたくさん迷惑をかけてしまった分、これくらいはきっちりやらなきゃ落ち着かなくって、つい、居残りをしてしまった。
ダラダラと作業を終わらせた後で、明日の朝練の予定を思い出す。
なんだか気が滅入ってしまいそうだ。そして、こんなどうしようもない状態になってしまっている自分が本当に情けない。
前田のことだってそう。本当はすごく気にしてる癖に何も聞けない。
前田のことだからもうとっくにいつも通りに戻ってる可能性だってあるし、私ばっかり気にしてたって仕方ないのに。なにやってるんだろう、私。
そんなことを考えながら、重い足取りで校門を目指していた私の目に、信じられないものが飛び込んできた。
体育館の明かりが点いているのだ。
嘘でしょ。もう23時過ぎてるんだよ。練習試合の後もいつものメニューをこなして、それから黒木考案の超ハードな特訓だってやった。明日だって朝の5時半から練習の予定もある。それなのに睡眠時間を削ってまで練習をするなんて自殺行為だ。
そんな無茶をしでかすようなのは、辰巳。いや、それとも…
考えるよりも先に私は体育館に向かって駆け出していた。
「前田」
体育館の古くなった重い引き戸を思いっきり体重をかけてこじ開ける。
やはり、中には強い照明に照らされて不自然に明るくなった壁の一角に一心不乱にボールを打ち付けている前田がいた。
「前田!」
カバンを放り投げて、外履きのまま駆け寄る。
マネージャーとして、なのか前田を心配して、なのか理由付けをする余裕もなく、ただ夢中で白球を追う前田の肩を掴んだ。
「前田!何してるの?部活はとっくに終わってる。居残りにしてもこんなのはやりすぎ。ハードワークだよ。今すぐやめて」
「うるさい」
力無くそう言うと、前田は私から逃げるように壁に近付き、思いっきりボールを叩きつけた。
「うるさくない!マネージャー命令、今すぐやめて」
私は前田の固い腹に腕を回して、こちらに引き戻すように体全部を使って引っ張った。
「明日の練習試合、前田も出るんだよ。前田がいなくたってウチは勝てるけど、これまでみたいにウチが一番実力を出して勝つためには前田は必要でしょ」
勢いよく壁にぶち当たったボールはパンッと間抜けな音を立ててあらぬ方向へ飛んでいく。
「は?小宮?お前、なんでこんなとこにいるんだよ?」
ゆっくりと動きを止めて、腹に回された私の手を確かめるようにそっと握ると、前田はそう呟いた。
やっと止まってくれた…
ほっとして力が抜けてしまったのか、突然足元がふらついた。
丁度いい位置にある前田の背に凭れると、案外収まりがよかったので、そのままそこに顔をうずめた。
「私は倉庫の整理してたの。それより、前田こそなんでこんな時間まで練習してたの?今日中にクリアしないといけないような課題もなかったでしょ。こんなの危険じゃん。意味ないよ」
我ながらこんなことを言える立場じゃないな、と思う。だって、今言ったことは全部私のことでもある。
「倉庫の整理?何やってんだお前。そんなもん、時間が余った時にやれよ。人のこと言えねえじゃん」
いつもと変わらぬテンポを保って話してはいるけれど、声のトーンは低いし、なにより凭れている背中は少し熱をもって不自然に上下している。限界は近かったようだ。
「前田が無理をしてたのも事実でしょ」
そう返すと、前田は滴り落ちる汗をTシャツの肩口で乱暴に拭った。
「うるせえな。無理をしてでもできるようになんなきゃいけねえんだよ。
そうじゃなきゃ次の全国でも勝てねえんだよ。
なあ、小宮、お前も見ただろ、今日の試合。情けねえったらねえよな。相手エースの球、セッターに返せなかったんだぜ。こんなんで俺、誠陵イチのレシーバーなんて名乗れねえよ…クソッ…!!!」
言いながら、何度も力任せにユニフォームを擦り付けて、前田は額を拭っていた。
もう拭う汗なんてほとんどないのに。
「何言ってんのよ」
私は、前田の背中から少し体を離した。
「前田が打ち返せないような球、他の人が受けられるワケないじゃない。あれは、仕方なかったと思う!」
「…お前こそ何言ってんだ」
先程までとは一転、骨が粉々に砕けてしまいそうなくらい激しく、前田は私の手を握りしめた。
「誠陵の裏エースが、誠陵イチのレシーバーが、相手に競り負けることが何を意味するのか分かってんのか!?
チームの敗北だよ。
なあ、それでもさっきの甘っちょろい言葉、言えんのかよ!?
全国で、次のインターハイで同じように俺がミスをして、敗けたとして、それでも同じように言えるのかよ!? え!?」
ぼたぼたと両の目から涙が零れた。だけど、これは押し潰された手が痛むからじゃない。
「…言えないよ。言いたくない」
震える声を無理矢理に押し出して私はそう答えた。
あんなにも選手と同じ気持ちで頑張ってると、マネージャーとしてプライドをもって部活に励んでいるのだと思い込んでいた。だけど、それはただ現状に満足しているだけ。私はその先のもっと大きなゴールへ向かって走ることを放棄していたんだ。
なんで、前田に言われるまで、そんなことにも気付けなかったんだろう。
選手の成長が大事なのは勿論のこと、彼らを支える立場の私だって成長しなきゃ、「打倒坂見台!」なんて叶うわけがない。そんなの当然じゃない。
「…ごめん、前田。相手チームの選手に競り負けたのを仕方なかった、なんてもう言わない。もしまた今日みたいなことがこれからも起きたら、マネージャーとして、部を強くするためにこれまで以上に全力を尽くすよ」
「ああ」
私の言葉を聞き受けると、前田は深く頷いた。そして、ゆっくり振り返ると、真っ赤になった私の手をそっと持ち上げた。
「こっちこそ、悪かったな。乱暴なことして。手、痛くねえか?」
「…大丈夫。ちょっとまだじんとするけど、こんなの少ししたら治ってるよ」
「そうか…ならいい」
私の手をそっと離すと、前田は自身の拳を固く握りしめて言った。
「俺は練習に戻る」
一つ深呼吸すると、前田は足元のボールを拾い上げた。
「ちょっと待った!」
壁に向き直ろうとする前田に私は叫んだ。
「なんだよ?」
「前田、今日の練習はもう終わりにして。ハードワークは認めないよ」
「は!?お前さっき自分で言ったことも忘れたのかよ!?マネージャーとしてここは俺の練習を応援して去るとこじゃねえの!?」
「だからこそでしょ!
今日は練習試合もして、黒木の超厳しい特訓もして、いつものメニューもこなして、っていつもより濃い練習してきたよね。それに明日も早朝練習の予定でしょ。
これ以上の練習は睡眠時間も削ってただ疲れるだけ。非効率的だし、なによりこのまま続けたら、身体を壊すかもしれない。絶対やめて」
「…壊れちまうんだったらそれまでってことだろ。今日はこのまま練習して、明日の練習もいつも通りこなす。これでいいだろ」
「よくない!」
これだけ言ってもなかなか納得してくれない前田に、苛立ってきた。しかし、今日は絶対に引くわけにはいかない。
ここで引いたら、前田は無茶な練習を重ねて、ケガや故障に繋がるかもしれない。もしかしたらそんなことじゃ済まない可能性だってある。
そういう無茶をして選手生命を絶ってしまう人間がこれまでにもたくさんいたってことは、マネージャーを始めてからいろんな本で見た、いろんな人から聞いた。
なにより、部内でそうして潰れて辞めていく人間を何十人と見てきた。前田だってそれを知らないわけじゃないだろう。
努めて冷静に、私は答えた。
「たしかに、厳しい練習は必要。それをやり抜く根性がなきゃやっていけないよ。でも、だからといって闇雲に動いていればいいってことにはならないでしょ。しっかり身体を休めて、万全の状態で練習をしなくちゃ身に付かない。私は、練習だけじゃなくて休みもしっかり取れって言ってるの。
それに、何?壁打ちって。そんなの今日の相手の球の10%の威力もないような緩い球をただ叩いているだけじゃない。やるだけ時間の無駄だと思うけど。本当に今日のプレーを振り返りたいならもっと再現性の高い練習をしなさいよ。1人で練習するなら、身体を鍛える方がよっぽど効果的。それもきっちり休んで、万全の状態で、だよ。
分かったらその無駄な練習するのやめてくれない?」
「な…」
言葉を失って立ち尽くす前田を押し退けて、私は転がったボールを片付け始めた。
「お、おい小宮、待てよ。お前の言いたいことは分かったから。けどよ…」
「何?反論は受け付けないよ」
片付けの手を止めぬまま私は答えた。悪いけど、このまま無茶をする前田を見過ごすわけにはいかないから。
「ちょっとでも練習してなきゃ落ち着かねえよ。どうにか、なんねえか?」
弱々しく項垂れて、そんなことを言う前田を見て、私はハッとした。
前田がこんな無茶な練習をしてたのは、さっき私に言ったチームを背負う覚悟のため、とか自分のプライドのために自分自身を高めたいってだけじゃなかったんだ。
前田は、自分の力不足で相手に敗けてしまうことが怖いんだ。
インターハイ予選で坂見台に敗けて、何もかもが手に付かないくらい呆然として、ついにこの前田の前だっていうのに涙を流してしまったあの日を私は思い出した。
前田はまた違った感じ方をしているのかもしれないけれど、悔しいという気持ちを抱えていることは同じはずだ。
ああ、そんな前田に今日は練習をやめろ、と言わないといけないのか。
嫌だな、なんか。
でも…
「今日はもうダメだよ、前田。練習は終わりにして」
だからこそ、ここで引いたらいけない気がした。前田を含めて誠陵の選手皆が万全の状態で練習に挑めるように頑張ることが、マネージャーとして部のために全力を尽くすということなのだと思うから。
「いや、でも…」
「でももだってもない。今日はもう練習禁止。
その代わり明日からは覚悟しておいて。休み時間も部活前後の空き時間も寮での時間も全部私が作るメニュー通りに過ごしてもらう。それで、効率的に練習して、休んで、万全の状態を保ったまま前田を今よりもっとレベルアップさせるから、私が。これでどう?」
「小宮!!!」
そう言った瞬間、前田は私をきつく抱き締めてきた。
「…ちょっと!何すんの!!!」
その弾みで腕一杯に抱えたボールが全て床に転がり落ちて、ぴったりと前田に身体が密着してしまう。
「ねえ、何してくれてんのよ、離して!」
もがく度に私の身体は前田に押し付けられる。けれど、背中に回された腕は優しく私を抱いていて、これでは怒るに怒れない。こんなのは変だ。
しかし、このどこか弱々しいけれど私を強く求めてくる手つきに、さっきの怯えきった前田のあの姿がどうしようもなく重なってしまうのが分かる。
私の中に眠る本能がそうさせるのか、私は考えることを放棄して前田に身を委ねた。
「…前田」
一度抵抗をやめると、ぐっと私と前田の距離は縮まった。
距離が近付く毎に身体が強張り、息が苦しくなっていく。なぜだか切ない気持ちになっていく。
咄嗟に固く目を瞑ると、猛練習の後の汗をたっぷり吸ったシャツの臭いがムワッと広がった。臭い、とは思うのに全然嫌な感じはしない。変態みたいなことを考えているようで恥ずかしいけれど、むしろこの感情も含めて癖になってきている。
それに、鍛え上げられた腕や胸板は硬いだけじゃなくて暖かくて、ちょっぴり柔らかくて包まれているとドキドキして胸が痛いくらいなのに、どこか安心してしまいそうな自分もいる。
このまま、前田を好きになって、前田を受け容れてしまってもいいのかも。
そう思った自分に気が付いた瞬間、私は居ても立っても居られなくなった。
腕の中に閉じ込められて満足に動けやしないけれど、身を捩って再度精一杯の抵抗をする。
前田はそれを押さえつけるように上から覆い被さる。
「やめてってば!」
頭突きをしようと振りかぶったところで、突然前田の腕が緩んだ。
「な、何よ急に。ああいうのやめてよ」
離れた瞬間、私は反射的にぎゅっと、自分の身体を隠すように腕を組んだ。
「なんだよ。お前だってさっき俺に抱き着いてきただろ。しかも後ろから」
「それは…ごめん。気持ちが高ぶってたというか、ほっとしちゃったというか…」
言われてやっと先程の醜態を思い出して俯く私に前田は何も言わない。
「…ごめん」
居た堪れなくなって再びそう言った。
「謝んなよ、俺も同じだから。小宮が俺のこと理解しようとしてくれて、それで、真正面からぶつかってくれたのが嬉しかった。
あと、俺より俺の身体のこととか練習のこととか考えてくれてんだなって知れたのもなんつうか、あー、さっきと同じになっちまうけど、嬉しかった。
やべえ、全然言いたいこと纏まんねえ。小宮、伝わってるか?」
「前田…」
見上げると。前田は気恥ずかしそうに首の辺りを掻いてわざとらしく目を逸らした。
ああ、もう!分かってる、分かってるよ。それはもう嫌になるくらい!
「まあ、なんだ、むしろ謝るのは俺の方だけどな」
「え?」
真っ赤になった耳朶を弄りながら前田は観念したように口を開いた。
「さっきお前を抱き締めた時さ、なんかすっげえいい匂いしてきてさ、こう、なんだ背中とか腹とか触れてるとこも全部柔らけえし。俺も一応男だろ?だから、多少そういうようなことも考えたっつうか…な?」
「…は?」
今の前田の発言で、さっきまでの嬉しいような恥ずかしいようなどこかふわふわした気持ちが一気に消え失せた。
コイツ、そんなしょうもないこと考えてたの…!?
いや、考えるだけならしょうがないか。人間だし。でも、それにしてもわざわざそれを私に言う必要はないでしょ。何考えてんのコイツ…!?
「いや、でも、あれだ!尻は絶対触んねえようにしたし、おっぱいは…まあ、多少俺の腹の辺りに当たったりはしてたけどガッツリは触ってねえから!断じて、気持ちいいとか思ってねえから!安心してくれ!!!
つまり、その、この件に関しては本当に悪かったな!正直に言ったんだから許してくれよ、小宮!」
「最低!!!」
前田の話を聞き終えた瞬間、私は前田の顔に思いっきり平手打ちをかました。
「なんでだよ!ちゃんと謝ったじゃねえか!!!」
頬を押さえて怒る前田に私は床に転がったボールを抱えて何度も投げつける。
「そういう問題じゃない!バカなの!?本当に意味分かんない!!!」
「ちょっ…やめろよ!結構痛いんだけどそれ!ボール攻撃!」
「自業自得でしょ!!!
ちょっと考えたら分かんない!?例えば、私が前田のこと事故で触っちゃって、それでエッチなこと考えてるっていうのが分かったら気持ち悪いって思うでしょ!!!」
「なにそれ、めちゃくちゃ嬉しいんだけど!!!
待てよ…まさか、お前、さっきもなんか妄想とかしてたのか?!たしか、抱き締めた時結構くっついてたから俺のいろいろなとこが当たってたはずだよな!?おい、どんなこと考えてたんだよ!ほら、言ってみろよ」
「考えてるわけないでしょ!!!例えばの話よ、例えば!!!」
もう一回ボールを構えると、前田はバツが悪そうに目を泳がせた。
全く。本当にありえない。前田にデリカシーってものはないの!?
「なんだよ、偉そうなこと言いやがって。小宮結構ムッツリじゃん。どうせさっきもカゲキなこと、考えてたんだろ」
「最低!!!私、前田みたいにエッチなこと考えないから!!!前田みたいに!!!あと、ムッツリでもないから!!!」
性懲りもなくそんなことを呟く前田に足元に転がってたボールを全部フルスイングでぶつけると、私はカバンを抱えて体育館から走り去った。
信じられない。信じられない!信じられない…!!!
「~~~~っ!!!」
こんな状態の前田1人に練習の後片付けをさせるべきじゃないことは分かってるけど、今のは前田が全面的悪い!不可抗力だから!!!
今にも叫び出したいのを堪えて、私は家までの道の途中で息が切れてしまうまで夢中で走り続けた。
日曜日、全国大会連覇を目指す私達に休みはない。今日も朝から黒木監督の厳しい特訓が行われていた。
「遅い!今のはもっと素早く踏み込めたはずだ!次、前田」
「はいっ!!!」
返事をした瞬間、前田の顔面に向かって容赦なく球が飛んでくる。
それを両手で柔く受け止め、正確無比なコントロールで監督の手元へ返す。
「よし。次、辰巳」
返球をして、次の辰巳の番が回ってくるまでの間が永遠のように感じた。
あれ?待って…
今、監督…!!!
「小宮!!!」
何が起きたか理解が追い付かず、固まっている私の前にやってきていた前田がすかさず声を掛ける。
顔を上げると、前田はVサインを作って得意げに笑った。
「見てたか、小宮、お前との練習の成果」
「うん。まあまあのデキって感じ。今日も追加練習が必要かな。この後体育館裏ね」
「手厳しいな。で、その後は俺の部屋でしっぽり…っつうわけだな」
「前田!なにちんたらしている!!!早く列に戻れ!!!」
「やべっ黒木だ!じゃ、小宮、また後で!忘れんなよ!!!」
「そっちこそ」
そう返して、私はコートに戻っていく前田を見送った。
さて、今日はこの前本で見つけた新しいトレーニングに挑戦してもらおうかな…
昨日、遅くまで考えた練習メニューを思い浮かべながら緩む口元もそのままに私も仕事に戻った。
でも、本当に部屋に連れて行かれそうになったら辰巳に協力してもらって必殺パンチだな…
先のインターハイで坂見台に敗退し、さらに腹立たしいことにその坂見台がインターハイ本番であっさり敗けてしまったことで「今年の誠陵は恐るるに足らず!」という不名誉な噂が広まっていると聞く。このところやってくる相手チームにも少なからずその噂を確かめに来ているところもあるだろうと容易に想像できる。
あの試合はウチが弱くなったから敗けたわけではない、坂見台がウチよりも強かったから敗けたのだ、とウチの部員は口を揃えて言うだろうけれど、実際、その坂見台がインターハイで結果を残せていないならそうは思えないということも分かる。
だけど、これはいい機会でもある。だってこちらから出向かなくても全国の強いチームと試合ができるなんて願ったり叶ったりだ。
打倒坂見台!そして全国大会優勝!のために皆やる気も十分。
今日も練習試合無敗記録更新に向けてとにかく頑張らないと。
スコアを付けて、飲み物の用意をして、時間を見つけて倉庫の掃除をして…やることは山積みだ。
気合を新たに、私はナッツやさとちゃんと共に校門前へ相手チームの出迎えに向かった。
試合開始から10分が経過した。1セット目は大差を付けて先取して、今は2セット目。10-2とウチが大幅リード中だ。
「ライン、入ってます!」
千葉のライン際ギリギリを狙う強烈なスパイクサーブを目の当たりにし、相手チームのマネージャーが悔しそうに旗を上げる。
これで11-2だ。
続く千葉のサーブ。これもジャストミートだ。再びライン際ギリギリをめがけてボールが落ちていく。
「まだだ!」
しかし、相手チームの副キャプテンが反応!大きく逸れはしたが球は大きく打ち上がった。
「主将!頼みます!!!」
セッターがそれをふわりとネット際へ運ぶ。
「任せろ!うおおおお!!!」
相手チームキャプテンがそれに応え、今日一番のジャンプを飛ぶ。
そして…
「おらああっ!!!」
今日一番の絶好球を放った。
「クソッ!ブロックが間に合わねえ!すまん前田、後は任せる!!!」
「おう!」
工藤のブロックを超え、猛スピードで向かってくる球に得意のフットワークで追いついた前田は球を真正面で捉える。
よし、これならすぐ次の攻撃に繋げられる。
なんたって前田は…
「ぐあっ…!」
前田の受けた球が強烈なスパイクの余韻を残したまま手薄な後方へ打ち上げられる。
「オーライ」
佐野が素早く移動し、辰巳にトス。
辰巳の殺人スパイクが決まった。
プレーが乱れてヒヤリとする場面もあったけれど、ミスをしたことでより気が引き締まったのか、動きのキレがどんどん増していく。最後は意表を突いた前田のバックアタックで得点。さらに点差を大きくして勝利した。
ベンチに引き上げてくる皆にそれぞれ声をかけてスクイズを渡していく。
千葉も工藤もいつもよりちょっとテンションが上がっているような気がする。
「前田、お疲れ様。最後のバックアタック、すごかったよ。かっこよかった」
ラストの一際高くて強い一撃を思い返して、興奮している私はついうっかりそんなことを口走ってしまった。
「ああ」
しかし、意外にも前田は冷めた態度でスクイズに口を付けた。
前田のその行動になんだか違和感を感じる。
そういえば、いつもなら試合の後は真っ先に私のところにやって来ていた気がする。今日みたいに決勝点を決める大活躍をしたらなおさら。こっちには他にやることあるんだっていくら言ったってしつこく着いて来て、あのプレーがどうたらこうたらって長々と余計な自慢話を始めてなかなか止まらないというのに。
「えっと。前田、大丈夫?体調悪かったりとかもない?」
「べつに。フツー」
「そう。ならいいけど」
話せば話すほど前田の様子がおかしいような気がしてくるけれど、だからといって前田に何を言えばいいのか、何を聞いてみればいいのか全然分からない。
いつも話している中で前田も不機嫌になることくらいあるし、暴言を吐くことだってある。あのくらい素っ気ない態度を取っている前田なんてさして珍しいものでもないはずなのに、なぜ私はこんなにも落ち着かないのだろう。
「ため息!」
そう言いながら、ナッツは前田の背中を見送って項垂れる私の肩を叩いた。
「え?なに?ため息?どうしたの、急に?」
「小宮ちゃんがため息吐いていたから気になって。どうしたの?前田君のこと?」
私の分もスクイズの籠を持ち上げるとナッツは顔を寄せてそんなことを言う。
「前田は関係ないよ」
咄嗟にそう答えると、ナッツはなぜかおかしそうに笑った。
「そっか。ごめんね。でも前田君の様子もおかしかったしもしかしたらそうかなって思ったんだよね」
「前田の様子?」
無意識に気になったことが口をついて出てしまった。
まずい、と思ってナッツの顔を伺うと、ナッツはさっきと変わらない笑顔で続ける。
これは、私が前田のことを気にしてるのは多分最初からバレていたのかもしれない。
「前田君がおかしいなって思ったのはね、小宮ちゃんが話しかけてもずっとツーンとした態度取ってるから。前田君ってワンちゃんみたいにいつも小宮ちゃんを見ると小宮ちゃん大好き~って感じで走ってっちゃうけど今日はそんな感じじゃないなって思ったんだよね」
「え?そんな犬みたいなかわいい感じしないよ、前田は。それにナッツの言ってることちょっと大げさじゃない?前田は嫌味な態度の時ばっかりだし、素っ気ない時も結構あるんだけど」
とは言いながらもナッツの言っていることには少なからず心当たりはある。自分がナルシストみたいに思われたくないから認めたくはないけど。
「たしかに前田君って小宮ちゃんのことからかったり、しつこく構ってたり、あとたまにちょっとツンツンしてる時もあるけど、あれは多分小宮ちゃんに心を許してるっていうか、甘えてるって感じだと思うな~」
「…私はそういうのじゃない、と思うけど」
「そっか。でも、前田君がマネージャーの中で一番小宮ちゃんとよくしゃべるし、仲良しさんなのは事実なわけなんだから、ちょっと話を聞いてあげたらどうかな?ほら、選手のメンタルケアもマネージャーのお仕事でしょ!」
「そこまで言うならナッツがやればいいんじゃない?」
私と前田のラブシーンを作ろうとしている気配を感じて、そう返してみると、ナッツは籠を胸に抱え直してこちらに向き直った。
「だめ!だって私は工藤君のお話を聞く係だもん」
気恥ずかしそうに笑いながらそう言うと、ナッツは「はいっ」って私に籠を一つ押し付けるて、さっさと体育館外の水道へ走って行ってしまった。
「待ってよ」
私はなんとなく苛立つ気持ちを抱えながらナッツを追った。
ナッツの言うマネージャーとしてっていうのも分かるし、前田のことちゃんと心配している。だけど、前田に話しかける気にはなれない。
納得できないまま、無駄にぐるぐる考えて、結局その後の部活に全然集中できなかった。
時刻は23時過ぎ。
倉庫の整理なんて明日以降に回せばよかったのに、他のことでいつもならやらないような失敗を連発してナッツにもさとちゃんにもたくさん迷惑をかけてしまった分、これくらいはきっちりやらなきゃ落ち着かなくって、つい、居残りをしてしまった。
ダラダラと作業を終わらせた後で、明日の朝練の予定を思い出す。
なんだか気が滅入ってしまいそうだ。そして、こんなどうしようもない状態になってしまっている自分が本当に情けない。
前田のことだってそう。本当はすごく気にしてる癖に何も聞けない。
前田のことだからもうとっくにいつも通りに戻ってる可能性だってあるし、私ばっかり気にしてたって仕方ないのに。なにやってるんだろう、私。
そんなことを考えながら、重い足取りで校門を目指していた私の目に、信じられないものが飛び込んできた。
体育館の明かりが点いているのだ。
嘘でしょ。もう23時過ぎてるんだよ。練習試合の後もいつものメニューをこなして、それから黒木考案の超ハードな特訓だってやった。明日だって朝の5時半から練習の予定もある。それなのに睡眠時間を削ってまで練習をするなんて自殺行為だ。
そんな無茶をしでかすようなのは、辰巳。いや、それとも…
考えるよりも先に私は体育館に向かって駆け出していた。
「前田」
体育館の古くなった重い引き戸を思いっきり体重をかけてこじ開ける。
やはり、中には強い照明に照らされて不自然に明るくなった壁の一角に一心不乱にボールを打ち付けている前田がいた。
「前田!」
カバンを放り投げて、外履きのまま駆け寄る。
マネージャーとして、なのか前田を心配して、なのか理由付けをする余裕もなく、ただ夢中で白球を追う前田の肩を掴んだ。
「前田!何してるの?部活はとっくに終わってる。居残りにしてもこんなのはやりすぎ。ハードワークだよ。今すぐやめて」
「うるさい」
力無くそう言うと、前田は私から逃げるように壁に近付き、思いっきりボールを叩きつけた。
「うるさくない!マネージャー命令、今すぐやめて」
私は前田の固い腹に腕を回して、こちらに引き戻すように体全部を使って引っ張った。
「明日の練習試合、前田も出るんだよ。前田がいなくたってウチは勝てるけど、これまでみたいにウチが一番実力を出して勝つためには前田は必要でしょ」
勢いよく壁にぶち当たったボールはパンッと間抜けな音を立ててあらぬ方向へ飛んでいく。
「は?小宮?お前、なんでこんなとこにいるんだよ?」
ゆっくりと動きを止めて、腹に回された私の手を確かめるようにそっと握ると、前田はそう呟いた。
やっと止まってくれた…
ほっとして力が抜けてしまったのか、突然足元がふらついた。
丁度いい位置にある前田の背に凭れると、案外収まりがよかったので、そのままそこに顔をうずめた。
「私は倉庫の整理してたの。それより、前田こそなんでこんな時間まで練習してたの?今日中にクリアしないといけないような課題もなかったでしょ。こんなの危険じゃん。意味ないよ」
我ながらこんなことを言える立場じゃないな、と思う。だって、今言ったことは全部私のことでもある。
「倉庫の整理?何やってんだお前。そんなもん、時間が余った時にやれよ。人のこと言えねえじゃん」
いつもと変わらぬテンポを保って話してはいるけれど、声のトーンは低いし、なにより凭れている背中は少し熱をもって不自然に上下している。限界は近かったようだ。
「前田が無理をしてたのも事実でしょ」
そう返すと、前田は滴り落ちる汗をTシャツの肩口で乱暴に拭った。
「うるせえな。無理をしてでもできるようになんなきゃいけねえんだよ。
そうじゃなきゃ次の全国でも勝てねえんだよ。
なあ、小宮、お前も見ただろ、今日の試合。情けねえったらねえよな。相手エースの球、セッターに返せなかったんだぜ。こんなんで俺、誠陵イチのレシーバーなんて名乗れねえよ…クソッ…!!!」
言いながら、何度も力任せにユニフォームを擦り付けて、前田は額を拭っていた。
もう拭う汗なんてほとんどないのに。
「何言ってんのよ」
私は、前田の背中から少し体を離した。
「前田が打ち返せないような球、他の人が受けられるワケないじゃない。あれは、仕方なかったと思う!」
「…お前こそ何言ってんだ」
先程までとは一転、骨が粉々に砕けてしまいそうなくらい激しく、前田は私の手を握りしめた。
「誠陵の裏エースが、誠陵イチのレシーバーが、相手に競り負けることが何を意味するのか分かってんのか!?
チームの敗北だよ。
なあ、それでもさっきの甘っちょろい言葉、言えんのかよ!?
全国で、次のインターハイで同じように俺がミスをして、敗けたとして、それでも同じように言えるのかよ!? え!?」
ぼたぼたと両の目から涙が零れた。だけど、これは押し潰された手が痛むからじゃない。
「…言えないよ。言いたくない」
震える声を無理矢理に押し出して私はそう答えた。
あんなにも選手と同じ気持ちで頑張ってると、マネージャーとしてプライドをもって部活に励んでいるのだと思い込んでいた。だけど、それはただ現状に満足しているだけ。私はその先のもっと大きなゴールへ向かって走ることを放棄していたんだ。
なんで、前田に言われるまで、そんなことにも気付けなかったんだろう。
選手の成長が大事なのは勿論のこと、彼らを支える立場の私だって成長しなきゃ、「打倒坂見台!」なんて叶うわけがない。そんなの当然じゃない。
「…ごめん、前田。相手チームの選手に競り負けたのを仕方なかった、なんてもう言わない。もしまた今日みたいなことがこれからも起きたら、マネージャーとして、部を強くするためにこれまで以上に全力を尽くすよ」
「ああ」
私の言葉を聞き受けると、前田は深く頷いた。そして、ゆっくり振り返ると、真っ赤になった私の手をそっと持ち上げた。
「こっちこそ、悪かったな。乱暴なことして。手、痛くねえか?」
「…大丈夫。ちょっとまだじんとするけど、こんなの少ししたら治ってるよ」
「そうか…ならいい」
私の手をそっと離すと、前田は自身の拳を固く握りしめて言った。
「俺は練習に戻る」
一つ深呼吸すると、前田は足元のボールを拾い上げた。
「ちょっと待った!」
壁に向き直ろうとする前田に私は叫んだ。
「なんだよ?」
「前田、今日の練習はもう終わりにして。ハードワークは認めないよ」
「は!?お前さっき自分で言ったことも忘れたのかよ!?マネージャーとしてここは俺の練習を応援して去るとこじゃねえの!?」
「だからこそでしょ!
今日は練習試合もして、黒木の超厳しい特訓もして、いつものメニューもこなして、っていつもより濃い練習してきたよね。それに明日も早朝練習の予定でしょ。
これ以上の練習は睡眠時間も削ってただ疲れるだけ。非効率的だし、なによりこのまま続けたら、身体を壊すかもしれない。絶対やめて」
「…壊れちまうんだったらそれまでってことだろ。今日はこのまま練習して、明日の練習もいつも通りこなす。これでいいだろ」
「よくない!」
これだけ言ってもなかなか納得してくれない前田に、苛立ってきた。しかし、今日は絶対に引くわけにはいかない。
ここで引いたら、前田は無茶な練習を重ねて、ケガや故障に繋がるかもしれない。もしかしたらそんなことじゃ済まない可能性だってある。
そういう無茶をして選手生命を絶ってしまう人間がこれまでにもたくさんいたってことは、マネージャーを始めてからいろんな本で見た、いろんな人から聞いた。
なにより、部内でそうして潰れて辞めていく人間を何十人と見てきた。前田だってそれを知らないわけじゃないだろう。
努めて冷静に、私は答えた。
「たしかに、厳しい練習は必要。それをやり抜く根性がなきゃやっていけないよ。でも、だからといって闇雲に動いていればいいってことにはならないでしょ。しっかり身体を休めて、万全の状態で練習をしなくちゃ身に付かない。私は、練習だけじゃなくて休みもしっかり取れって言ってるの。
それに、何?壁打ちって。そんなの今日の相手の球の10%の威力もないような緩い球をただ叩いているだけじゃない。やるだけ時間の無駄だと思うけど。本当に今日のプレーを振り返りたいならもっと再現性の高い練習をしなさいよ。1人で練習するなら、身体を鍛える方がよっぽど効果的。それもきっちり休んで、万全の状態で、だよ。
分かったらその無駄な練習するのやめてくれない?」
「な…」
言葉を失って立ち尽くす前田を押し退けて、私は転がったボールを片付け始めた。
「お、おい小宮、待てよ。お前の言いたいことは分かったから。けどよ…」
「何?反論は受け付けないよ」
片付けの手を止めぬまま私は答えた。悪いけど、このまま無茶をする前田を見過ごすわけにはいかないから。
「ちょっとでも練習してなきゃ落ち着かねえよ。どうにか、なんねえか?」
弱々しく項垂れて、そんなことを言う前田を見て、私はハッとした。
前田がこんな無茶な練習をしてたのは、さっき私に言ったチームを背負う覚悟のため、とか自分のプライドのために自分自身を高めたいってだけじゃなかったんだ。
前田は、自分の力不足で相手に敗けてしまうことが怖いんだ。
インターハイ予選で坂見台に敗けて、何もかもが手に付かないくらい呆然として、ついにこの前田の前だっていうのに涙を流してしまったあの日を私は思い出した。
前田はまた違った感じ方をしているのかもしれないけれど、悔しいという気持ちを抱えていることは同じはずだ。
ああ、そんな前田に今日は練習をやめろ、と言わないといけないのか。
嫌だな、なんか。
でも…
「今日はもうダメだよ、前田。練習は終わりにして」
だからこそ、ここで引いたらいけない気がした。前田を含めて誠陵の選手皆が万全の状態で練習に挑めるように頑張ることが、マネージャーとして部のために全力を尽くすということなのだと思うから。
「いや、でも…」
「でももだってもない。今日はもう練習禁止。
その代わり明日からは覚悟しておいて。休み時間も部活前後の空き時間も寮での時間も全部私が作るメニュー通りに過ごしてもらう。それで、効率的に練習して、休んで、万全の状態を保ったまま前田を今よりもっとレベルアップさせるから、私が。これでどう?」
「小宮!!!」
そう言った瞬間、前田は私をきつく抱き締めてきた。
「…ちょっと!何すんの!!!」
その弾みで腕一杯に抱えたボールが全て床に転がり落ちて、ぴったりと前田に身体が密着してしまう。
「ねえ、何してくれてんのよ、離して!」
もがく度に私の身体は前田に押し付けられる。けれど、背中に回された腕は優しく私を抱いていて、これでは怒るに怒れない。こんなのは変だ。
しかし、このどこか弱々しいけれど私を強く求めてくる手つきに、さっきの怯えきった前田のあの姿がどうしようもなく重なってしまうのが分かる。
私の中に眠る本能がそうさせるのか、私は考えることを放棄して前田に身を委ねた。
「…前田」
一度抵抗をやめると、ぐっと私と前田の距離は縮まった。
距離が近付く毎に身体が強張り、息が苦しくなっていく。なぜだか切ない気持ちになっていく。
咄嗟に固く目を瞑ると、猛練習の後の汗をたっぷり吸ったシャツの臭いがムワッと広がった。臭い、とは思うのに全然嫌な感じはしない。変態みたいなことを考えているようで恥ずかしいけれど、むしろこの感情も含めて癖になってきている。
それに、鍛え上げられた腕や胸板は硬いだけじゃなくて暖かくて、ちょっぴり柔らかくて包まれているとドキドキして胸が痛いくらいなのに、どこか安心してしまいそうな自分もいる。
このまま、前田を好きになって、前田を受け容れてしまってもいいのかも。
そう思った自分に気が付いた瞬間、私は居ても立っても居られなくなった。
腕の中に閉じ込められて満足に動けやしないけれど、身を捩って再度精一杯の抵抗をする。
前田はそれを押さえつけるように上から覆い被さる。
「やめてってば!」
頭突きをしようと振りかぶったところで、突然前田の腕が緩んだ。
「な、何よ急に。ああいうのやめてよ」
離れた瞬間、私は反射的にぎゅっと、自分の身体を隠すように腕を組んだ。
「なんだよ。お前だってさっき俺に抱き着いてきただろ。しかも後ろから」
「それは…ごめん。気持ちが高ぶってたというか、ほっとしちゃったというか…」
言われてやっと先程の醜態を思い出して俯く私に前田は何も言わない。
「…ごめん」
居た堪れなくなって再びそう言った。
「謝んなよ、俺も同じだから。小宮が俺のこと理解しようとしてくれて、それで、真正面からぶつかってくれたのが嬉しかった。
あと、俺より俺の身体のこととか練習のこととか考えてくれてんだなって知れたのもなんつうか、あー、さっきと同じになっちまうけど、嬉しかった。
やべえ、全然言いたいこと纏まんねえ。小宮、伝わってるか?」
「前田…」
見上げると。前田は気恥ずかしそうに首の辺りを掻いてわざとらしく目を逸らした。
ああ、もう!分かってる、分かってるよ。それはもう嫌になるくらい!
「まあ、なんだ、むしろ謝るのは俺の方だけどな」
「え?」
真っ赤になった耳朶を弄りながら前田は観念したように口を開いた。
「さっきお前を抱き締めた時さ、なんかすっげえいい匂いしてきてさ、こう、なんだ背中とか腹とか触れてるとこも全部柔らけえし。俺も一応男だろ?だから、多少そういうようなことも考えたっつうか…な?」
「…は?」
今の前田の発言で、さっきまでの嬉しいような恥ずかしいようなどこかふわふわした気持ちが一気に消え失せた。
コイツ、そんなしょうもないこと考えてたの…!?
いや、考えるだけならしょうがないか。人間だし。でも、それにしてもわざわざそれを私に言う必要はないでしょ。何考えてんのコイツ…!?
「いや、でも、あれだ!尻は絶対触んねえようにしたし、おっぱいは…まあ、多少俺の腹の辺りに当たったりはしてたけどガッツリは触ってねえから!断じて、気持ちいいとか思ってねえから!安心してくれ!!!
つまり、その、この件に関しては本当に悪かったな!正直に言ったんだから許してくれよ、小宮!」
「最低!!!」
前田の話を聞き終えた瞬間、私は前田の顔に思いっきり平手打ちをかました。
「なんでだよ!ちゃんと謝ったじゃねえか!!!」
頬を押さえて怒る前田に私は床に転がったボールを抱えて何度も投げつける。
「そういう問題じゃない!バカなの!?本当に意味分かんない!!!」
「ちょっ…やめろよ!結構痛いんだけどそれ!ボール攻撃!」
「自業自得でしょ!!!
ちょっと考えたら分かんない!?例えば、私が前田のこと事故で触っちゃって、それでエッチなこと考えてるっていうのが分かったら気持ち悪いって思うでしょ!!!」
「なにそれ、めちゃくちゃ嬉しいんだけど!!!
待てよ…まさか、お前、さっきもなんか妄想とかしてたのか?!たしか、抱き締めた時結構くっついてたから俺のいろいろなとこが当たってたはずだよな!?おい、どんなこと考えてたんだよ!ほら、言ってみろよ」
「考えてるわけないでしょ!!!例えばの話よ、例えば!!!」
もう一回ボールを構えると、前田はバツが悪そうに目を泳がせた。
全く。本当にありえない。前田にデリカシーってものはないの!?
「なんだよ、偉そうなこと言いやがって。小宮結構ムッツリじゃん。どうせさっきもカゲキなこと、考えてたんだろ」
「最低!!!私、前田みたいにエッチなこと考えないから!!!前田みたいに!!!あと、ムッツリでもないから!!!」
性懲りもなくそんなことを呟く前田に足元に転がってたボールを全部フルスイングでぶつけると、私はカバンを抱えて体育館から走り去った。
信じられない。信じられない!信じられない…!!!
「~~~~っ!!!」
こんな状態の前田1人に練習の後片付けをさせるべきじゃないことは分かってるけど、今のは前田が全面的悪い!不可抗力だから!!!
今にも叫び出したいのを堪えて、私は家までの道の途中で息が切れてしまうまで夢中で走り続けた。
日曜日、全国大会連覇を目指す私達に休みはない。今日も朝から黒木監督の厳しい特訓が行われていた。
「遅い!今のはもっと素早く踏み込めたはずだ!次、前田」
「はいっ!!!」
返事をした瞬間、前田の顔面に向かって容赦なく球が飛んでくる。
それを両手で柔く受け止め、正確無比なコントロールで監督の手元へ返す。
「よし。次、辰巳」
返球をして、次の辰巳の番が回ってくるまでの間が永遠のように感じた。
あれ?待って…
今、監督…!!!
「小宮!!!」
何が起きたか理解が追い付かず、固まっている私の前にやってきていた前田がすかさず声を掛ける。
顔を上げると、前田はVサインを作って得意げに笑った。
「見てたか、小宮、お前との練習の成果」
「うん。まあまあのデキって感じ。今日も追加練習が必要かな。この後体育館裏ね」
「手厳しいな。で、その後は俺の部屋でしっぽり…っつうわけだな」
「前田!なにちんたらしている!!!早く列に戻れ!!!」
「やべっ黒木だ!じゃ、小宮、また後で!忘れんなよ!!!」
「そっちこそ」
そう返して、私はコートに戻っていく前田を見送った。
さて、今日はこの前本で見つけた新しいトレーニングに挑戦してもらおうかな…
昨日、遅くまで考えた練習メニューを思い浮かべながら緩む口元もそのままに私も仕事に戻った。
でも、本当に部屋に連れて行かれそうになったら辰巳に協力してもらって必殺パンチだな…
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