短編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
街も寝静まる夜深く。
昼間は子供達の騒ぐ声でいっぱいだったこの部屋も、夜になると物音ひとつならないような静けさになる。
その静けさに一種の背徳感を感じながら、某探偵事務所の特等席で、コーヒーを飲むのが、彼は好きだ。
いつものマグカップにドロップコーヒーをセットしてからお湯が沸くのを待ち、
その間に読み溜めていた新聞や小説を探し当て、そうこうしている内にポットが甲高い音を響かせる。
湯気のたつポットをそっと傾けて注ぐと、ほろ苦い特有の芳しい香りが鼻腔を満たした。
その沸き立つような香りを肺いっぱいに充しながら、隠神はひとり、思考の時間に浸っていた。
最近、乱雑とした出来事ばかり起こるように思う。
同居人が一人増えたということも原因なのだろうか。
それまでは部屋に篭もりがちだった二人も、張り合いが出たのか楽しそうに騒いでいるし。
彼に興味をそそられて重い腰をあげた陰気な策士も、彼とやけにそりの合う素直な狐の娘も、彼に惚れたという大人びた桃色の彼女も、最近ではよく顔を出す様になったし。
全て彼の素直で偽りのない優しさが引き寄せたものなのかもしれない。
それとも彼の強大な力が数多い苦難を乗り越えた所以か。
賑やかな子供たちの喧騒を思い出しながら、どちらにしても良い傾向だと隠神はほくそ笑んだ。
きっと彼らの苦難に伴う出会いは今後、数多くの仲間と共に幸いをもたらすのだろう。
温かくなったコップにゆっくりと手をつけて、隠神は思考に浸るようにコーヒーを口に含んだ。
ほろ苦く温かい液体は、乾いた喉をじんわりと満たし、心なしか疲れも癒していくようだ。
すると、安心したからだろうか、腹の奥から低い音が聞こえて、急な空腹感に襲われた。
そういえば、最近はまともな食事も食べていなかったかと、隠神は呆れたように苦笑する。
最後に食べたのは確か…
忘れかけてた出来事が脳裏に鮮明に呼び起こされて、彼は酷く胸が軋むのを感じた。
あの日は確かに自分でも可笑しかったと、そう思う。
後味の悪い事件だったからだろうか、突如脳裏に浮かんだ無邪気な笑顔を思い出して無性に顔を見たくなってしまった。けれどそれは珍しいことではなく、むしろ魔が悪かったというべきなのだろう。逃れようのない雨に降られた時に、じゃあ、雨宿りという名目にすればいいのでは、と短絡的な行動が伴ってしまったせいなのだ。
あの日の自分の行動を考えると、いまだに言い訳めいた事ばかり浮かんでくることに隠神は苦笑した。
自分の掲げる目標に反し、自分の、人間との付き合い方、にはどうも唸るものがある。
…特にあの子に関しては。
隠神は、小さな嘆息を吐いて、机の上に放って置かれた携帯を手に取る。
それから、不在着信一件と無機質に表示された画面を見つめた。
あの晩の出来事は深酒のせいに違いない事は明確だけれど、彼女の言葉に、彼女との関わり方を見直さなければと焦燥感を駆られたのは、紛れもない事実なのだ。
彼女の寂しさをわかっていても尚、自分は無かったことにしてしまいたかった。
彼女の優しさも、嘆きも、悲しみも、自分に向けられた恋慕でさえ。
いつも無邪気に笑う彼女があそこまで自分を見抜いていたことには少々驚いたけれど。
そこまで追い詰めいていた自分が歯痒いと思う反面、曖昧なままなら、巻き込ませずに、彼女と過ごせると思った。
無かったことに出来るのなら、そうしてしまいたかった。
恐らく、自分は無遠慮に、彼女に踏み込みすぎたのだと今なら思う。
いつの間にか彼女と過ごす時間がかけがえのないものに変化するのに、時間はかからなかったのだから。
泥沼のように嵌まり込む前に早々に諦めればよかったのに。
そうすればこんなにも、胸が抉られるような嫉妬と後悔に苛まれることはなかっただろうに。
日々の雑用に忙殺される毎日を送ってもなお、彼女が脳裏から離れないなんて。
隠神は、携帯に表示された懐かしい名前から逃げるように目を逸らす。
今更遅いとわかっていても尚、彼女と距離を置くことが、最善の策だと思ってならないのだ。
カラン
涼しい音が鳴ると同時に扉の開かれる音がして、隠神は驚いて振り返る。
こんな夜更けに誰だろうか、いつもの通り、お客だろうか。
それとも。
脳裏に浮かんだ泣き顔を、振り払うように席から立って、隠神は店の表に向かった。
「期待はずれって顔ですね。」
すみませんね、とやけに癇に障る言い方で、扉の前の彼は答えた。
突然の来客は、隠神の範疇を越えた相手だった。
相容れない立場の自分を前にして、悪びれもせず堂々と立っている彼に、隠神は少々呆れる。
それから要件は?と出来る限り静かに尋ねた。
彼と話をするのは気が進まなくて、できれば早く要件をすませてほしい。
「そんなに急がなくてもいいじゃありませんか。」
野火丸は、大きな瞳を緩やかに細めながら、やけに間延びした声で言う。
「でもまあ、僕にとっても長居は無用なので、難しいところですけどね」
そう言って、はあ、と白々しいため息を吐くと、対面したままの隠神の横をすり抜ける。
そして、さも当然のようにカウンターに向かい、我が物顔で椅子に座った。
あどけない顔面に反して、彼は相変わらず好戦的だ。
けれど、カウンターの奥をチラチラ見ながら、期待するような目をこちらに向けてくるので、隠神は渋々飲み物の準備をしなければならなかった。
「…カフェオレ、ですか、」
隠神が用意した飲み物に、野火丸は、そこに並んでる名酒でもいいんですよ、と不服そうに呟く。
私物だからな、と肩をすくめると、それは残念です、と彼はグラスに口をつけた。
それから意外にも、氷の入ったグラスを潜らせながら思案するように静かになる。
早く帰らせようと思っていた隠神も、流石に何かの要件があるのかと、腹を括ってカウンターに座った。
あたりはしんと静まりかえっていて、鳥の鳴き声すら聞こえない。
氷が重なる涼やかな音だけが、部屋の中で響いている。
今日は異様なほどに一段と静かで、やけに落ち着かないな、と隠神が煙草に火をつけた時だった。
「そろそろ、限界を感じてきた頃ではないですか?」
静かに口を開いた野火丸は、思い出したように皮肉的に笑って呟く。
抽象的な彼の物言いに、隠神は、やけに唐突だな、と悠然とした態度で笑ってみせた。
野火丸は隠神の態度に気にする事なく、グラスの氷を眺めながら呟く様に続ける。
「橋渡しになるといっても、相手から認識されてもいなければその助力自体に疑問を抱くのではありませんか?」
見返りはなんです?と自問するように彼は呟く。
そして隠神とは目を合わせずに、グラスの氷を弄んで、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「人は偏向的で閉鎖的で僅少な価値観をもつただの怪物です。
人を尊重するといっても、その実情は、怪物のそれと同様に多種多様だ。
害がないとわかったとしても尚、差別的な問題は大いに残るのでは?
それでも隠神さまはその問題を、拾い上げては解決しようとするおつもりですか?」
要件の見えない彼の呟きに、けれどようやく彼の悩める事象が垣間見えた様な気がして隠神は目を見開いた。
珍しいことに彼は人間との生き方に対する、挑発とも言える忠告と見解を、言い表しにきたのかもしれない。
見かけによらず、彼は案外真面目なのだろう。
隠神の些細な動揺に気づくことなく、野火丸はグラスを揺らして俯いたまま続けた。
「人との共存、それは確かに高尚なことです。素晴らしいことです。
けれど、酷く周りくどい。
それならいっそ、人の心を掌握した上で、共存という名の分配を行うのはどうですか。
支配の中で人との糸口を見つけるのは足りませんか。」
野火丸は訴えるように顔を上げた。
それから、沈黙を続けていた隠神の瞳を見上げる。
真意の読めない隠神の表情は、けれど、酷く悲痛な面持ちをしていて、野火丸は狼狽する。
隠神はどこかに想いを馳せるように目を細めると、それは俺も考えたけどね、と嘆息した。
「支配、のあとの尊重は、やはり反感を生むものだよ。」
鋭利な視線を諌めるように笑い返した隠神は、ゆっくりと煙草の煙を燻らせる。
紫煙は緩やかに立ち上り、部屋の天井で静かに消えた。
「でも、」
それでもやはり納得がいかなくて、野火丸が反抗しようと口を開くと、そうだな、と隠神は遮るように笑った。
それから、眉をひそめて、自嘲するように笑う。
「…言わんとしていることは、痛いほどわかるよ、」
静かに、解けるように答えると、隠神は乾いた声で笑った。
困惑、憤慨、悲嘆、放棄、そのどれともつかない表情をしながら、けれど瞳は焦がすように確かな意志を持っている。
その見たこともない彼の面持ちに野火丸は喉まで出かけた言葉をグッと飲み込んだ。
聡明な彼は、けれど、人間に儚げな希望さえも抱いているのだろうか。
「…それでも、僕は、隠神さまに賛成できません。」
静かにグラスを飲んでいた野火丸は、喉を大きく震わせると明瞭な声でそう言った。
「だって、尊重という名の自由を相手に与えたところで、それが意図した方向に進む保証はどこにもありませんから。」
少なくとも狐の僕にはできそうもありません。と、彼は確かな意思で隠神に目を向けた。
侮蔑を孕んだ鋭い眼光が、口角を不自然にあげて呆れたように嘆息する。
そして一瞬、祈るように目を伏せた。
…だから、あなたにお任せします。
どこか嘆願するように絞り出された小さな呟きが静かな部屋にそっと響く。
それは反響するように隠神の脳裏に響いた。
想像もつかない彼の言葉に隠神は瞠目する。
不可解な彼の一端を掴んだようで、もう一度問い正そうとするも、野火丸は突然素早く席を立った。
それから、我介せずというように手早く帰り支度を始めている。
…冗談だったのだろうか。
けれど相対した彼の双眸は確かな意志を持っていた。
隠神は暫く度肝を抜かれて沈黙する。
「そういえば、」
椅子にかけていた上着を羽織ると、野火丸が突然、思い出したように声を出した。
それから取り直したようにいつもの笑顔を向けると、これは独り言なんですけどね、と大きな声で前置きをした。
「熱を、出したそうですよ。」
脈絡なく紡がれた言葉に、隠神は理解が追いつかない。
意味がわからなくて眉を寄せると、野火丸は深く言及することなく続けた。
「尊重、するのも大切だとは思いますがね、」
野火丸は先程とは打って変わり、落ち着いた態度で隠神に向かい合う。
「尊重という身勝手で、相手を無遠慮に突き放すのはどうかと思います。」
それは一緒にいる世界を、諦めたことになりませんか?
挑発するようなその双眸に、静かな殺気が湧くことを、どこか俯瞰した頭が察した。
周りの気配が寒くなり、じわりと炙り殺されるような圧倒的な力の差を感じる。
穏便だった彼の瞳が、一瞬にして燃え盛るような殺意と敵意に染まった。
焚き付けたのは自分のせいながら、明白すぎる彼の豹変ぶりに、野火丸は思わず息を呑む。
「彼女に、」
鋭い眼光を野火丸に向けながら、牽制するような声で彼は言った。
「彼女に、何をした?」
胸の奥深くから絞り出したような、静かな声だった。
畏怖を感じるその双眸に野火丸は肝を潰しながら、なるほどこれは確かに手厳しいと、どこか冷静な頭が呟く。
けれど、ここで引き下がるのは僕の意向に反するのだ。
僕は僕なりの意味があってここまで来たのだから。
「何もしていません。」
毅然とした態度で野火丸は目を逸らさず答えた。
「彼女に何かあったのなら、それは僕のせいではなく、間違いなく、あなたのせいです。」
明瞭な声でそう言うと、彼は驚いたように瞠目して、それから息を吐くように笑った。
すると俄かに先程までの殺気が消えて、冷たかった部屋の空気が元に戻る。
逆撫でするような言葉を続けて彼を挑発するつもりだった野火丸は、彼の期待はずれな微笑に拍子抜けした。
「それで、?」
身構えたままの野火丸に、隠神は悠然とした態度で紫煙を燻らせると、柔らかく問いかけた。
「俺を煽って、何が目的だ?」
驚くような彼の変わりように、野火丸は頭の処理が追いつかない。
本気で彼を怒らせるすんでのところまでいったと言うのに、彼は全く答えていないようだった。
それどころかむしろ合点がいったように優しげに笑っている。
今更ながらに、つけ入る隙が微塵もない彼の懐の深さに直面したようで、野火丸は暫く愕然とした。
「…煽るなんて、人聞きが悪いですよ、隠神さまの本心をつきたかったと、そういう目的です。」
至って平静を取り繕うように野火丸はゆっくりと嘆息する。
「ほう、?」
「別に敵に回したくってこんなことしてるわけじゃないんです。隠神さまと戦うつもりも、毛頭ありません。」
両手を肩の上で開いて手のひらを見せながらひらひらと揺らすと、彼は、うん、と続きを促した。
「今回の件は、僕の個人的な感情で動いていまして。」
滑るように動いてくれる舌に感謝しつつ、野火丸は穏やかに進める。
「僕なら、相手自身の意思で、何処にも行かないような鳥籠を用意しますけどねって話です。」
おかしいですか?と顔色を変えないでいる彼に、野火丸はいつものように笑ってみせた。
すると、一瞬眉を寄せたように何か思考に走った彼は、暫くしてから、そうか、と掠れた声で呟く。
何かに思いを馳せるように、酷く優しげな顔をした。
「…参考に、するよ。」
お前の言うことも一理ある、と、頷くように彼は微笑を漂わせる。
ありがとう、と囁くような小さな声で、呟かれたような気がした。
暗くなった帰路を辿りながら、野火丸は一人考える。
多くの怪物から慕われ、畏れられる彼は、酷く得難い感情を持て余しているようにも見えた。
彼女に関する一瞬の殺気は、けれど彼の本心の断片を垣間見せているのだろう。
優しげな彼の双眸と殺気だったあの一瞬を思い起こしながら、彼を敵に回すのはもう、うんざりだと、
野火丸は夜の空を仰いで嘆息した。