短編
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「…日々に忙殺されている。」
目の前に置かれた様々な資料の山に埋もれながら、名前は長く息を漏らした。
最近はどうしても仕事が捗らない様な気がする。
やらなければいけないタスクの多さに辟易して、気合を入れて始めるも、思いの外そのタスクに時間がかかるということが多いのだ。
自分の仕事速度が下がったということもあるのだろうか、毎日終わらない仕事の数を数えては自分の能力のせいにして、自尊心が削られる、ということが多々あった。
背もたれに深く腰掛けて、名前は傍に置いたコップに手を伸ばす。
そのまま考えなしに口つけると、期待に反して液体は一滴たりとも落ちなかった。
「うわあ…」
コップの中身が空であることに少なからず落胆して、名前はようやっと席を立つ。
固まっていた身体が解れるような感触を覚えて、長い時間座りっぱなしだったことを自覚した。
ふと顔を上げて時間を確認すると、もうすぐ日付が変わりそうだ。
もうこんな時間かと再び落胆を覚えてから、同時に表示された日付を確認して、そのキリのいい数字に名前は笑みをこぼした。
星上の恋人の幸せを願いながら、ささやかな自分の願いを星に届けるというのはとてもロマンチックな行事だと思う。
日本古来の御伽噺をもとにしたというのも素敵だ。
チョコをあげたり仮装をしたりする大きなイベントはないものの、名前はこの日が好きだった。
こんな日なら、少しくらい願い事を言ったっていいんじゃないか、という気持ちになる。
ふと、あることを思い立った名前は空になったコップを洗うと、今度はそれに冷たいお茶を注いでベランダへ向かう。ベランダに続くドアを開けると、ぶわりと風が吹き込んできた。しかし意外にも生温かいそれに名前は苦笑する。
そうして、ポケットに入れていた携帯の連絡先を開いて表示した。
さて。
どうしよう。
特に用もない連絡やはり気がひけるものの、今日くらいは連絡してもいいんじゃないかと頭のどこかがささやいている。彼の睡眠を妨げたらどうする、仕事を邪魔したらどうする、という不安は尽きないものの、それでも自分の思いを純粋に表現することだって必要だと言い訳をする。
それでも。
ただ彼の声が聞きたくて。
気の迷いに任せて名前は赴くままに、彼の電話を鳴らした。
「…もしもし?」
数回の着信音の後、突然それは途切れて、衣擦れの音に変化する。
それと同時に、名前は高まる動機に胸がはち切れそうになった。
全身を駆け巡る脱力感のような何かに、呼吸の仕方を忘れたみたいに息がしづらい。
まさか電話に出てくれるなんて思わなくて、煩い胸を手で押さえながら、固唾を呑んだ。
「おう、もしもし、」
彼の返答が聞こえた瞬間、詰まっていた呼吸が大きく動き出す安堵感と解放感に襲われる。
それと同時に、この声だ、と思った。
自分が聞きたくてたまらなかった、あの人だ。
彼が電話に出てくれたという事実が、名前は心底嬉しくて、思わず笑みを漏らす。
嬉しさが滲み出てたのだろうか、それは微かな笑い声として電話越しに響いた。
「なに、どうしたの、?」
電話越しに突然笑い声が聞こえて驚いたのだろうか、彼が訝しんでいる様な声が聞こえる。
そんな些細なことさえも堪らなく愛おしくて、名前は胸が酷く熱くなるのを感じた。
「隠神さん、ですか?」
こんばんは、と遠慮がちに(笑っている時点で遠慮というのもおかしいが)尋ねると、こんばんは、と困惑したような声で返される。
「はい、隠神ですよ。」
どーしたの、と間延びしたような優しい声が紡がれて、名前はようやく浮き足立っていた気持ちが落ち着くような気がした。
「夜分にすみません。お仕事中ではなかったですか?」
「ああ、ちょうど一息つこうと思ってたから、大丈夫だよ。」
そんなこと気にしなくていいのに、と彼は笑って呟く。
些細な優しささえ身にしみて、ありがとうございます、と名前は小さく返した。
「あの、こんな夜遅くになんですけど、用事は特になくてですね、」
語尾を弱めて、名前は思い悩むように言い淀む。
微かな嘆息のあと、白状するとですね、と続けた。
「隠神さんの、声が、聞きたくて。」
静かな夜に溶けるような声が響いて、自分で言った言葉ながら内心酷く動揺してしまう。
思い切って言った答えだけれど、恥ずかしさでどうにかなりそうだ。
電話越しだからか尚更印象深く聞こえるみたいで、動悸を早くさせていると、一瞬の沈黙の後、隠神さんが笑ったような声が聞こえた。
息を漏らして呆れたような、安心したような、声。
「、そうか」
掠れた低い声色に、ぞわりと胸の奥が疼く。
急に押し寄せる甘い感触に、できれば今は気付きたくなくて、名前は慌てて話を続けた。
「あの、星が、」
「うん?」
「星が綺麗かな、と思って今ベランダにいるんです、」
捲し立てるように話の内容を軌道修正すると、彼はいつものゆったりとした声で相槌をうつ。
ほし?と不思議そうに言った後、そうか、と納得したように呟いた。
「そうか、今日は七夕か、」
確かにあいつらも言ってたよ、と彼は笑った。
「何か皆さんでやられたんですか?」
彼の思い出すような声色に、名前が気になって質問すると、そうだなぁと、彼は呟いた。
「ああ、晶が今日はロマンチックな日だって、てるてる坊主を作ってたよ。」
記憶を辿るように笑みを滲ませる彼の声が聞こえる。
「てるてる坊主ですか、古典的ながらすごく素敵ですね?」
ふふっと笑いを滲ませると、そうだろ、と彼も笑った。
「それに引っ張られた他二人も、渋々一緒に作って、必死に顔を描くわけ。その顔がまた独特でさ、我が家のベランダにはてるてる坊主が3つあるよ。」
可愛い顔と、無表情な顔と、少し歪んだ顔を思い描いて、名前はその愛くるしさに笑った。
なんだかんだで調律が取れているように思う。
「じゃあ、今夜雨が降ってないのは皆さんのおかげですね」
名前が笑いながらそう尋ねると、そうかもな、柔らかい声で優しく返された。
「短冊は、飾ってないんですか?」
七夕といえば、と考えて、名前は続けて質問する。
「ああ、短冊も、確かにみんなで書いたかなあ、」
のんびりと語る彼の声を聞きながら、名前は3人が楽しく遊んでいるところを想像する。
想像の中の隠神さんは見守るように優しく微笑んでいて、空想ながら、ほんの少しだけ赤面した。
「皆さん、なんて、書いたんでしょうね?」
なんとなく3人の書きそうなことが思い浮かんで苦笑しながら続けると、そういえば確認してないなあ、なんて書いたんだろうなぁ、と彼も苦笑したように呟く。
「なんとなく、想像はつくけどね。」
後で見てこようかな、と彼は楽しそうに声を弾ませた。
心安らぐ彼の声を聞きながら、ベランダの柵に寄りかかって、名前はぼんやりと周りを見渡す。
つい先程までは、曇って見えなかった外の空が、藍色の光とともに仄かに明るくなっている。
暗闇に段々と目が慣れてきたせいか、意外にも明るい夜の景色に名前はたまらず空を仰いだ。
「…隠神さんは、なんて書いたんですか、?」
まだらな星の光をたどりながら、名前が静かに尋ねると、彼はほんの少し驚いたように思えた。
俺も書いたって言ったっけ、と不思議そうに話す彼の呟きに、隠神さんはお優しいですから、と返す。
苦笑したようにくぐもった声が聞こえた。
そうだなあ、と出し惜しむように彼が続ける。
「家内安全、無病息災、かな、」
書きがちだけど、いい言葉だよね、と優しく笑う彼の声色に、名前の胸が、仄かに温かくなった。
わかります、と名前は続ける。
「是非叶えましょう、」
思いの外、前のめりな返答になったからだろうか、隠神さんは楽しそうに笑った。
「名前はさ、」
例えばどんなお願いするの。
お返しというように尋ねられた質問に、名前はそうですね、と唸る。
「交通安全、延命息災、開運招福、心願成就…?でもどうせなら七夕らしい、お願い事がいいですよね、」
考えるのだけでなんだか楽しくて声を弾ませて答えると、いいねぇ、と促された。
「そうですね…ああ、『会えますように』、にします。」
納得したように笑ってそういうと、彼は一瞬戸惑ったように口をつぐんだ。
突然の彼の沈黙に、名前は少し怪訝に思いながらも続ける。
「大切に思い合う二人が約束した日なのだから、どうせなら無事に会えたらいいなあなんて。」
ちょっと幼稚かもしれませんけど、と照れたように笑うと、ああ、そうか、と隠神さんの納得したような声が聞こえた。
「織姫と彦星が、ってことね、」
それはそうか、と焦ったように彼は続けて、電話越しに、いいな、と何度も頷く彼の声が聞こえる。
「名前らしくて、良いな。」
優しさをいっそう滲ませた低音が名前の胸を焦すのを感じた。
「名前。」
眩いばかりの星の光に照らされる空を眺めていると、彼の掠れた低音が耳に響いた。
声を呼ばれただけなのに、耳元で囁かれたようなむず痒さを感じて気がはやる。
彼との距離は酷く遠いのに、こんなにも近い彼の声は反則だ。
「…週末は、何してる?、」
突然予定の話題をふられて、名前は自分の耳を疑った。
忙しくて義理堅い彼が、予定を聞くなんて珍しくて、それはつまり期待を膨らませかねなくて。
たちまち早くなった胸の動機を必死で押さえつけながら、至って平静を装うように、名前は慌てて返事をする。
「週末の、予定は、ええと、ありません、」
今のところ…、と期待で胸が押しつぶされそうになりながら、どうにかそう答えると、彼はそうか、と悠然と相槌を打つだけだった。
なんでそんなこと聞くんですか、とか、隠神さんは何してらっしゃるんですか、とか質問は後から後から浮かんでくるけれど、どうしたって息が苦しくて、言葉がつっかえて出てこない。
鼓動がやけにうるさくて、居心地が悪い。
けれど彼も口を開かなくて、もしかして、自分が先走ってしまったんじゃないかと自己嫌悪になりかけた時だった。
「…週末、会いに行っていいか。」
静かな音で、断言されたように、ゆっくりと囁かれたその言葉に、胸が切ない悲鳴をあげる。
胸の奥がとろけるような甘い痺れをもたらして、息苦しくて酷く温かい。
脱力したように全身から力が抜けて、名前は柵に寄りかかったまま、座り込んだ。
「名前…?」
不安げに紡がれる自分の名前に、名前は滑り落ちそうな携帯を慌てて両手で支える。
それから、嬉しさのあまり弾んだ声が出ないか不安になった。
「、、あの、はい、是非っ、」
思い切って出した声は言葉にならなくて、名前は焦るように続ける。
「ぜひ、あの、是非、いらしてください、お待ち、してます。」
声色から嬉しさが滲み出るような音になってしまうのも気にせずに、名前は嬉しいです、と何度も笑って言った。
すると、電話越しに、そりゃあよかった、と安堵するような呟きが聞こえる。
心なしか彼の声も嬉しそうに聞こえて、名前はその幸福感に溺れそうになった。
現実感が持てなくて、名前は再び天を仰ぐ。
空はいつの間にか晴れていて、天の上の彼らもきっと、会えているのだろうかと、会えているに違いないと、心の底から確信した。