短編
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今日は嫌なことがあった。
そういう日は、身体の至る所に何かの雑菌が沸いている気がしてしまう。
気のせいだとしても、嫌な匂いや嫌な塵屑を自分の部屋に持ち込みたくなくて、だからすぐにでも浴槽に入りたくなるのが名前の癖だった。
帰宅後素早く衣服を脱ぎ、とにかくシャワーを頭から被る。
浴槽の蛇口を捻ったら、その間に髪の毛をいつもよりも入念に洗い、身体の隅々まで泡で満たす。
充分にお湯が張る頃合いをみてから浴槽に浸かる。
一連の動作は確かにいつもより時間はかかってしまうけれど、高音で響く水音が心地よくて、嫌なことを隅々まで流してしまう水の潔さが嬉しくて、長く時間を費やしてしまうのが常だった。
それは何か今までの自分とは一線を引けた気がして。
その時になってようやく自分の犯した失敗や理不尽な仕打ちを俯瞰して見ることができると思う。
いや、できると思っていた。
…今日までは。
「うーーーーーーーーーーっ」
思わず出してしまった唸り声が浴室に響く。
反響して聞こえる声は、ますます膨れ上がっていているように思えた。
膨れ上がって彼方まで行って、そのまま溶けて無かったことにしてほしい。
けれど忘れたいわけでもなく、それも大切な記憶なのだけれど。
いつもなら丁寧に乾かす髪の毛も、今日はタオルを巻くだけにとどめた。
服を着るのも億劫で、下着だけ身につけてから部屋着を持って廊下に出る。
乾き切っていない髪の水が廊下に滴り落ちるのも気にせずに、名前はソファに雪崩れ込んだ。
…だめだ、今日は気力がない。
空腹感は漠然とあるけれど、自分ひとりの食卓を想像するとなんだかすごく寂しく思ってしまうし、気を紛らわそうと携帯の通知を確認するも、今日に限ってひとつもないし。
ひとりの部屋がやけに広く感じられて、こういう時、彼がいたら少しは気が紛れるのだろうかと無用な考えが頭をよぎった。
そうして、彼に連絡してしまおうかと自暴自棄な自分が囁く。
でも。
それでも、忙しい彼に無邪気な独占欲を演じるのは気がすすまなくて。
会いたいのだと、そばにいてくれるだけで良いのだと、素直に伝えるのも申し訳なくて。
誰にでも優しい彼ならきっと、すぐに心配してくれるのかもしれないけれど。
彼に依存するのだけは避けたくて、彼を苦しめるのだけは悲しくて。
気怠げな胸の息苦しさと一緒にもう、今日は眠ってしまおうかと、名前は携帯を手放した。
ーーーーーー
「なー、いるかーー?」
突然聞こえた大きな音に、名前は驚いて目を開けた。
かすかばかりの寒気を覚えて、慌てて時計を見ると、とうに数時間を経過したところだった。
思いの外長く眠ってしまっていたことに驚きを覚えつつ、それと同時に、こんな夜遅くに誰だろうと不思議に思った。
「おーい、寝ちゃったかーー?」
扉を叩く鈍い音と、聞き覚えのある優しい低音。
それは、今しがた思考の最中に居た本人その声で、けれど彼に会えることが信じられない。
忙しい彼がこんなところに来るわけがないと否定をしながらも膨らむ期待に落ち着かなくて、名前は慌てて、近くにあった上着を急ぎ羽織ると、玄関の扉をそっと開けた。
ーーーーーー
「雨に降られちゃってさ、」
だから助かったよ、と彼は心底安心した様に笑って、名前からタオルを受け取る。
先程、ひょこりと扉から申し訳なさそうに顔を出した彼は、ちょっと雨宿りさせてくれないかな?と人懐っこい笑顔で名前に頼んだのだ。
確かに彼が家に来たことは何度かあって、だから雨宿りとして寄り道してくれたのは不思議じゃない。
それでも、今日に限って本当に会えるなんて思っても見なくて、名前は高鳴る鼓動を押さえつけるように息を殺して佇んだ。
…それにしても落ち着かない。
受け取ったタオルで体を拭う彼は、どことなく色っぽくて名前はつい見入ってしまう。
濡れてしまった帽子や上着を慌てたように脱ぐ様や、いつもよりしっとりとして量が抑えられている髪の毛や、少し透けた服からでも見える鍛えられた体躯。
いつもと違う彼の風貌に目が離せなくて、平生を装いながら目で追ってしまう自分が恥ずかしくて、目に毒以外の何者でもないと強く思った。
だから少しでも気を紛らわせようとしたつもりなのだ。
「シャワー、浴びてきますか?」
思わず出てしまった言葉に、彼はびっくりしたように名前を振り返った。
それから、固まったように目を見開いて、「いいの、?」と小さな声で応える。
其の不安げな声に幾ばくかの愛らしさを感じて心が揺さぶられた名前は、もちろんですと笑顔で返した。
思いの外、嬉しさが顔に出てしまったのだろうか、隠神さんは一瞬固まった様に瞬きをすると、息を吐くように苦笑してから、じゃあ、お言葉に甘えようかな、と廊下に消えていった。
浴室からかすかに響くシャワーの音を聞きながら、名前はぼんやりと考える。
リビングのソファに腰掛けていても尚聞こえるかすかな水音に、心が揺さぶられる様な安心感を覚えながら。
それはとても違和感があって緊張を誘うのだけれど、やはり酷く嬉しかったのだ。
…彼が来てくれた。
雨宿りという思いもよらない名目だったけれど、今日はとりわけ彼に会いたくて、仕方なかったのだから。
いつでも仕事に取り掛かっている彼に連絡をするのはなかなか勇気が決まらなくて、難しいけれど。
今日会えたことが嬉しくて、少しでも彼と長くいられる用事を作りたくて。
少しあからさまに思えるかも知れないけれど、やっぱり軽い食事を作ろう、彼が食べなければ明日の朝食にしてしまおう、と、名前は備え付けの台所に向かった。
いつの間にか、重い気だるさは消えていて、それが酷く恥ずかしかった。
暫くすると、浴室からでた隠神さんが「良い匂いがするね」とリビングにひょっこり現れた。
「もし良ければ食べて行きませんか」と意を決してそう尋ねると、「いいの?」と綻んだように笑う。
断られるとばかり思っていた名前は、彼の承諾に驚いたように目を見開いた。
「え、食べてくださるんですか?」
「何驚いてんの、そっちが誘ってくれたんでしょ?」
「でも、お子さんはよろしいんですか?」
「誤解を招く表現だなあ、同居人ね、でもまあ、あいつらはあいつらで用意するみたいだし。」
「そうなんですか、」
「まあ、あれだよ、名前ちゃんが寂しいかな、と思ってさ、」
あえて冗談でそう言ったのだろう、少し煽った様に言ってのけた彼に、けれど名前は困ったように瞳を揺らした。
名前にとっては図星そのもので、突然の口説き文句に対処しきれなかったのだ。
耐えかねたように、それはありがたいですね、と俯いて呟くと、まあそんな緊張しないでよと、笑ったような楽しんだような声色で、クシャりと頭を撫でられた。
もしかして、子供扱いされてるのかもしれない…
不信感を顔に出してじとりと彼を見つめると、彼は焦ったように笑ってから、「じゃあ、食べようぜ、冷めちまう、」と催促する。
それでもやはり夕食まで彼と一緒に過ごせるのが嬉しくて、「はい、」と名前は弾んだ声で彼に応えた。
鮭のムニエル、ほうれん草のおひたし、軽い炒め物と、ご飯と味噌汁と卵焼き。
短時間で軽く作れるものや冷蔵庫の作り置きなどで構成された貧相な食卓にもかかわらず、彼はうまいな、と意外にも美味しそうに食べてくれた。
むしゃむしゃと、皿の上の料理が少しずつ隠神さんの口の中に消えていく。
自分の作った料理を、誰かが美味しい、と食べてくれる事がこんなにも嬉しいとは知らなかった。
いつもは一人で閑散としている夕食が、今日はこんなにも温かい。
小さな食卓に二人分の料理が並んでいることも、テーブルを挟んで反対側に彼がいることも、なんだか信じられなくて、なんだかひどく安心して名前はつい綻んで笑う。
ふと、彼は声を出さずに笑っている名前を見て、訝しげに「なに、今日は上機嫌だね?」と尋ねた。
「もしかして、何かいいことあった?」
珍しいことのように、彼が首を傾げて尋ねる。
彼の垂れ目の奥が優しげに揺らいでいて、だから名前は少しだけ彼に甘えたい気分になる。
「いいこと、は今日はあんまりでした。」
少し眉を寄せながら名前は続けた。
「でも、いえ、なんだか嬉しくて、」
笑みを浮かべながらそう答えると、彼はさらに首を傾げる。
「嬉しい?」
「はい、いま、隠神さんとご飯をご一緒できることが。」
嬉しいです、と笑うと、彼は目を見開いてから、照れたように頬を掻く。
それから、「そうか、」とはけのない声でそう呟いた。
彼のそのような態度はなかなか見ないもので、物珍しくて、箸を進めるのも忘れていると、名前が見つめていることに気づいたからだろうか、彼は今度は大きな声で、「やめだ、やめ!酒でも飲みたい気分だな」と徐に席を立って部屋を物色し始める。
彼の稀に見る子供っぽい焦った仕草がおかしくて、笑いを堪えながら、「日本酒でよければお持ちしましょうか」と聞くと、彼は、いいねと承諾して「笑ってられるのも今のうちだぞ、」と恨めしそうに呟いた。
「ちょっと、飲み過ぎじゃない?」
食後酒は強い酒でもあまり酔わない、と言われるけれど、嘘だと思う。
友人から貰いっぱなしになっていた、一升瓶の日本酒を空けた時は、まあ、2合ずつくらい飲んで、残ったら贅沢な料理酒として使おうかな、なんて呑気に考えていた。
それなのに一杯目からなんだか口が饒舌になったような気がするのだ。
緊張していたせいもあるのだろうか、今日はやけにお酒の酔いが早い。
さらに頭の思考回路も少し能天気になり始めて、まだいけるだろうと、いつの間にか3合ほど飲んでいた。
だって隠神さんなんてもっと飲んでるし、と意味のない言い訳まで考えてしまう。
「大丈夫です。こんな日があってもいいんです。」
隠神さんから心配するようにかけられた言葉を、名前は笑ってそう返した。
明日はお休みだし、こんなに美味しいお酒なんて久々だし、隠神さんだっているし、と最後の言葉は消えるように呟く。
「そうなの、?」
彼は納得いかないように眉を寄せて、それでも飲み過ぎのような気がするけど、と訝しげに酒を煽った。
「隠神さんこそ、酔ってらっしゃらないんですか?」
自分だけ心配されるのが悔しくて、応酬のようにそう返すと、彼はグラスの氷を突きながら苦笑する。
「俺?、俺もいつもより酔ってるよ、」
手元を見ながらそう返す彼は、けれど、酔っているようには見えなくて、名前は少し眉を寄せた。
彼は酔わないのだろうか、それとも積み重ねた経験で飲み方を心得ているのだろうか。
いつだって彼との差を歴然と見せられて、名前は少し寂しかった。
だからだろうか、いつもより思考が淀んで、彼を困らせてやりたいという思いが疼く。
「今日は、隠神さんにお会いできて本当に嬉しかったんです。」
突然の発言に、案の定、彼は驚いたように顔を上げて目を見開く。
自分でも突拍子もない発言だと思うけれど、不思議と恥ずかしさは消えていた。
それ以上に彼を驚かすことができたのが嬉しくて名前は情に任せてそのまま続ける。
「最近何もかもうまくいかなくて、一人の部屋が寂しくて、隠神さんに会いたくて、だからすごく嬉しかったんです。」
隠神さんに会いたかったのだと心の底から伝えたくて、彼の優しげな瞳を見つめる。
突然の告白に戸惑ったのだろうか、目を瞬かせる彼が愛おしくて思わず顔が綻んだ。
「本当は前から会いたかったのですけど、お電話するのが申し訳なくて。」
依頼人を装ってでも声を聞こうかと思ったことは何度かあるが、要件がいつも空っぽで、恥ずかしくてやめたのだ。
彼が忙しいかったら邪魔でしかないだろうしと、いつも勇気が出なかった。
連絡先を表示しては、そのまま画面を閉じる行為を意味もなく反復していた。
「だから、隠神さんが、家に寄ってくれるなんて思いもしませんでした。」
名前は恥ずかしそうにはにかみながら続ける。
酔いのせいかうまく話せているか不安だ。
「今日は来てくれて、本当にありがとうございます。」
名前が深々と頭を下げると、彼は、戸惑ったように、そんな、と声を上げた。
それから、いやいや、とか、そんな礼することじゃないだろ、とか慌てたように呟く。
困ったような声だったので、彼の余裕を打破できたのかと嬉しくなって顔を上げると、意外にも、彼は焦ったように、必死に自分の顔を手で仰いでいた。
酔ったのだろうか、少し顔が赤いように思う。
「…隠神さん?」
訝しく思って声をかけると、彼は目を逸らしながら、あのなあ、とか、あ〜クソ、とか声にならない呟きを吐いた。
それから、はあ、とあからさまなため息を吐いて、名前の方へ向き直る。
「いいか、名前、」
彼は指を立てて、小さな子に注意するように声をひそめる。
「あんまり、簡単にそんなこというんじゃあないぞ、」
いいね?と確認する様に顔を覗き込まれて、名前はその顔と声の近さに動悸が早まるのを感じた。
「え?べ、別に、簡単に言ってるわけでは…」
「ましてや今の状況を考えろ、女の部屋に押しかけた男に向かって、そんなことを言う危険性を名前はちゃんと理解してるのか?」
「き、危険性って、隠神さんのことですか…?」
理路整然と状況を整理されて、名前は段々と酔っていたはずの頭が冷静になるのを感じた。
そして彼の気迫に押されて少し体を逸らすようにしながら彼の話を聞いてしまう。
「そう。名前の言葉で相手が勘違いをするかもしれない、」
「勘違い…」
彼の言っている意味がわからなくて反芻する。私の言った言葉が勘違い…?
「それで組み敷かれたって、男と女とじゃあ、力は歴然なんだ。」
だから、
「そんなこと、言っちゃだめだ。」
断定するように、はっきりと言われて、名前は自分が拒絶されているように感じた。
自分は子供で、だから酔いに乗じて伝えた言葉も、彼に届かないということなのだろうか。
私の彼に会いたい、会えて嬉しいという本心も、子供の間違いで済まされてしまうのだろうか。
私はいつまで経っても彼にとっては子供なのだろうか。
「違うんです、」
意を決して言った言葉は涙に濡れていた。
「勘違いなんかじゃ、ないんです。」
この感情が、この胸の疼きが勘違いなわけなくて。
「言葉にするのも、簡単じゃなくて、」
お酒の力を借りたとしても、それは寸分も違わない本心で。
「私は、隠神さんだから、」
彼に気づいて欲しい一心で、
震える両手を抱え込む。
「私は」
ぼやける視界で彼が息を呑むように思えた。
「私は、隠神さんのことが、「名前、」」
名前の言葉を遮るように、大きく、けれど明瞭な声が響いた。
それから彼は優しい目をして誤魔化すようにわしゃしゃと、名前の髪をくしゃくしゃに撫でる。
「無理しなくていい、」
どうしてそんな泣きそうな顔で笑うんですか、と名前は軋む胸を堪えて問いただしたかった。
彼がずっと前から、自分を子供扱いするのは知っていた。
子供という年齢の区別をすることで、どこか一線を引いていることも。
前に一度、どうして子供扱いするんですかと聞いたことがある。
私だってもうお酒を飲める歳で、世間からしたらおおよそ子供と呼べる年齢ではないというのに。
そう言うと彼は困ったように瞳を揺らして、「俺からしたら、子供だから。」と突き放すように、そう呟いたのだ。
納得がいかなくて問いただそうと彼を見ると、彼の瞳は深い黄金を潤ませていて。
悔しそうに結ぶ唇も、悲しそうに歪ませた眉も、切なそうに細めた優しげな瞳も。
何もかもが胸に響いて。
どうしてそんなに悲しそうにするんですか、どうしてそんなに寂しそうにするんですか、歯痒いのは、悔しいのは、傷つくのは、私の方じゃないんですか、なんて、自分勝手に言葉が浮かんで。
どうしたって彼に問いただすことができなかった。
それは今日と同じように。
けれど今日は、どうしたってそんな歯止めは効きそうになかった。
「隠神さんは、いつだってそうです、」
思わずでた本音は、堰を切ったように涙をあふれ出させた。
「どうして、子供扱いするんですか、どうして、有耶無耶にするんですか、
私はそんなに頼りないですか、
私はそんなに、」
全身の胸が悲鳴を上げたように途端に苦しくなる。
息苦しくて、声を出すのも億劫で、涙が後から後から溢れ出て、
自分でも歯止めが効かないように苦しくて、切なくて。
涙を堪えようと息を堪えてもただ嗚咽が漏れるばかりで。
みっともなく泣く自分は、やはり子供なのだろうと、わかってる。
こんなところが彼から嫌われる所以なのかもしれないと、わかってる。
それでも涙が止まらなくて。
全身の気だるさは、
息苦しさは、
この喉の渇きは、
どうしてこんなにも悲しくて、切なくて、届かないのだろう。
「一緒にいてくれるだけで、いいんです、」
どうにか嗚咽を堪えて出した声は、けれど、酷く明瞭に響いた。
「要件がなくても電話がしたい、声が聞きたい、そんなわがままは言いませんから、」
それでも今日は、酔いにかまけてどうしても伝えたくて、
これが独りよがりだとわかっていても、
彼の望む答えじゃないとわかっていても、
それでも今日は止められなくて。
「それでも、子供扱いだけは、突き放されるのだけは、嫌なんです。」
彼がどんな顔をしてるかなんて、どうしたって見れなくて、ぼやける視界の中でそう叫ぶ。
「あなたの、安心できる場所になりたい、守られるだけでなくて守る存在にも、なりたい、対等で、ありたい。」
ぼやける視界の中で、彼がこちらに手を伸ばしているように見えた。
「だから、そんなに悲しそうに笑わないでください、」
朧げな視界で彼が笑ったような気がする、最後の悲鳴のような願いは彼に届いたのだろうか。
彼の手のひらが頭に乗せられた感覚とともに、名前は俄に意識を手放した。
ーーーーーーーー
眠った彼女の髪の毛を掬いながら、彼はひとりため息を溢す。
自身の変化の能力で作った睡眠薬で彼女を眠らせたところまではよかった、
けれど、彼女の声が頭にこびりついて離れない。
彼女を子供扱いしたのは、彼女に指摘された通り、突き放すためだった。
彼女はいつでも優しくて、彼女との時間がかけがえのないものだと実感するたびに、酷く胸が軋むのが耐えきれなかった。
彼女の笑顔に癒されるたびに、この子を守らなければいけないと痛感して。
その度に、自身の職業も、種別も、理解する。
怪物は人の正気を吸って生きている。
それはすなわち、近しい人間であればあるほどその影響は大きくて。
ましてや怪物屋として様々な矢面に立つ自分であれば尚のこと。
いつどこで狙われるともしれないのに、一人で生活を送るいたいけな彼女を巻き込むわけにはいかないのだ。
…わかっていたと、思っていたのに。
彼は、静かに席を立つと、机の上で眠った彼女の頬を優しく撫でる。
それから彼女の膝下と頭に腕を差し込んで彼女の身体を抱き起すとそのまま寝室へと運んだ。
初めて入る寝室は、綺麗に整頓されていた。
どこか花のような香りが鼻腔をくすぐって、少し動悸が早くなる。
胸に抱く彼女の華奢で柔らかな身体を実感しそうになって、彼は慌ててそっとベットの上に下ろした。
「……いぬ、が、み、…さん、」
ほっとため息を吐くのも束の間、唐突に漏れたかの彼女の声に、彼は驚いて固まる。
慌てて彼女を確認すると、彼女は規則正しく息を吐いていて、眠り続けているようだ。
「…名前、」
彼女の頬には涙の跡がついていて、彼はそれを慈しむように笑って拭うと、静かにその場を後にした。
そういう日は、身体の至る所に何かの雑菌が沸いている気がしてしまう。
気のせいだとしても、嫌な匂いや嫌な塵屑を自分の部屋に持ち込みたくなくて、だからすぐにでも浴槽に入りたくなるのが名前の癖だった。
帰宅後素早く衣服を脱ぎ、とにかくシャワーを頭から被る。
浴槽の蛇口を捻ったら、その間に髪の毛をいつもよりも入念に洗い、身体の隅々まで泡で満たす。
充分にお湯が張る頃合いをみてから浴槽に浸かる。
一連の動作は確かにいつもより時間はかかってしまうけれど、高音で響く水音が心地よくて、嫌なことを隅々まで流してしまう水の潔さが嬉しくて、長く時間を費やしてしまうのが常だった。
それは何か今までの自分とは一線を引けた気がして。
その時になってようやく自分の犯した失敗や理不尽な仕打ちを俯瞰して見ることができると思う。
いや、できると思っていた。
…今日までは。
「うーーーーーーーーーーっ」
思わず出してしまった唸り声が浴室に響く。
反響して聞こえる声は、ますます膨れ上がっていているように思えた。
膨れ上がって彼方まで行って、そのまま溶けて無かったことにしてほしい。
けれど忘れたいわけでもなく、それも大切な記憶なのだけれど。
いつもなら丁寧に乾かす髪の毛も、今日はタオルを巻くだけにとどめた。
服を着るのも億劫で、下着だけ身につけてから部屋着を持って廊下に出る。
乾き切っていない髪の水が廊下に滴り落ちるのも気にせずに、名前はソファに雪崩れ込んだ。
…だめだ、今日は気力がない。
空腹感は漠然とあるけれど、自分ひとりの食卓を想像するとなんだかすごく寂しく思ってしまうし、気を紛らわそうと携帯の通知を確認するも、今日に限ってひとつもないし。
ひとりの部屋がやけに広く感じられて、こういう時、彼がいたら少しは気が紛れるのだろうかと無用な考えが頭をよぎった。
そうして、彼に連絡してしまおうかと自暴自棄な自分が囁く。
でも。
それでも、忙しい彼に無邪気な独占欲を演じるのは気がすすまなくて。
会いたいのだと、そばにいてくれるだけで良いのだと、素直に伝えるのも申し訳なくて。
誰にでも優しい彼ならきっと、すぐに心配してくれるのかもしれないけれど。
彼に依存するのだけは避けたくて、彼を苦しめるのだけは悲しくて。
気怠げな胸の息苦しさと一緒にもう、今日は眠ってしまおうかと、名前は携帯を手放した。
ーーーーーー
「なー、いるかーー?」
突然聞こえた大きな音に、名前は驚いて目を開けた。
かすかばかりの寒気を覚えて、慌てて時計を見ると、とうに数時間を経過したところだった。
思いの外長く眠ってしまっていたことに驚きを覚えつつ、それと同時に、こんな夜遅くに誰だろうと不思議に思った。
「おーい、寝ちゃったかーー?」
扉を叩く鈍い音と、聞き覚えのある優しい低音。
それは、今しがた思考の最中に居た本人その声で、けれど彼に会えることが信じられない。
忙しい彼がこんなところに来るわけがないと否定をしながらも膨らむ期待に落ち着かなくて、名前は慌てて、近くにあった上着を急ぎ羽織ると、玄関の扉をそっと開けた。
ーーーーーー
「雨に降られちゃってさ、」
だから助かったよ、と彼は心底安心した様に笑って、名前からタオルを受け取る。
先程、ひょこりと扉から申し訳なさそうに顔を出した彼は、ちょっと雨宿りさせてくれないかな?と人懐っこい笑顔で名前に頼んだのだ。
確かに彼が家に来たことは何度かあって、だから雨宿りとして寄り道してくれたのは不思議じゃない。
それでも、今日に限って本当に会えるなんて思っても見なくて、名前は高鳴る鼓動を押さえつけるように息を殺して佇んだ。
…それにしても落ち着かない。
受け取ったタオルで体を拭う彼は、どことなく色っぽくて名前はつい見入ってしまう。
濡れてしまった帽子や上着を慌てたように脱ぐ様や、いつもよりしっとりとして量が抑えられている髪の毛や、少し透けた服からでも見える鍛えられた体躯。
いつもと違う彼の風貌に目が離せなくて、平生を装いながら目で追ってしまう自分が恥ずかしくて、目に毒以外の何者でもないと強く思った。
だから少しでも気を紛らわせようとしたつもりなのだ。
「シャワー、浴びてきますか?」
思わず出てしまった言葉に、彼はびっくりしたように名前を振り返った。
それから、固まったように目を見開いて、「いいの、?」と小さな声で応える。
其の不安げな声に幾ばくかの愛らしさを感じて心が揺さぶられた名前は、もちろんですと笑顔で返した。
思いの外、嬉しさが顔に出てしまったのだろうか、隠神さんは一瞬固まった様に瞬きをすると、息を吐くように苦笑してから、じゃあ、お言葉に甘えようかな、と廊下に消えていった。
浴室からかすかに響くシャワーの音を聞きながら、名前はぼんやりと考える。
リビングのソファに腰掛けていても尚聞こえるかすかな水音に、心が揺さぶられる様な安心感を覚えながら。
それはとても違和感があって緊張を誘うのだけれど、やはり酷く嬉しかったのだ。
…彼が来てくれた。
雨宿りという思いもよらない名目だったけれど、今日はとりわけ彼に会いたくて、仕方なかったのだから。
いつでも仕事に取り掛かっている彼に連絡をするのはなかなか勇気が決まらなくて、難しいけれど。
今日会えたことが嬉しくて、少しでも彼と長くいられる用事を作りたくて。
少しあからさまに思えるかも知れないけれど、やっぱり軽い食事を作ろう、彼が食べなければ明日の朝食にしてしまおう、と、名前は備え付けの台所に向かった。
いつの間にか、重い気だるさは消えていて、それが酷く恥ずかしかった。
暫くすると、浴室からでた隠神さんが「良い匂いがするね」とリビングにひょっこり現れた。
「もし良ければ食べて行きませんか」と意を決してそう尋ねると、「いいの?」と綻んだように笑う。
断られるとばかり思っていた名前は、彼の承諾に驚いたように目を見開いた。
「え、食べてくださるんですか?」
「何驚いてんの、そっちが誘ってくれたんでしょ?」
「でも、お子さんはよろしいんですか?」
「誤解を招く表現だなあ、同居人ね、でもまあ、あいつらはあいつらで用意するみたいだし。」
「そうなんですか、」
「まあ、あれだよ、名前ちゃんが寂しいかな、と思ってさ、」
あえて冗談でそう言ったのだろう、少し煽った様に言ってのけた彼に、けれど名前は困ったように瞳を揺らした。
名前にとっては図星そのもので、突然の口説き文句に対処しきれなかったのだ。
耐えかねたように、それはありがたいですね、と俯いて呟くと、まあそんな緊張しないでよと、笑ったような楽しんだような声色で、クシャりと頭を撫でられた。
もしかして、子供扱いされてるのかもしれない…
不信感を顔に出してじとりと彼を見つめると、彼は焦ったように笑ってから、「じゃあ、食べようぜ、冷めちまう、」と催促する。
それでもやはり夕食まで彼と一緒に過ごせるのが嬉しくて、「はい、」と名前は弾んだ声で彼に応えた。
鮭のムニエル、ほうれん草のおひたし、軽い炒め物と、ご飯と味噌汁と卵焼き。
短時間で軽く作れるものや冷蔵庫の作り置きなどで構成された貧相な食卓にもかかわらず、彼はうまいな、と意外にも美味しそうに食べてくれた。
むしゃむしゃと、皿の上の料理が少しずつ隠神さんの口の中に消えていく。
自分の作った料理を、誰かが美味しい、と食べてくれる事がこんなにも嬉しいとは知らなかった。
いつもは一人で閑散としている夕食が、今日はこんなにも温かい。
小さな食卓に二人分の料理が並んでいることも、テーブルを挟んで反対側に彼がいることも、なんだか信じられなくて、なんだかひどく安心して名前はつい綻んで笑う。
ふと、彼は声を出さずに笑っている名前を見て、訝しげに「なに、今日は上機嫌だね?」と尋ねた。
「もしかして、何かいいことあった?」
珍しいことのように、彼が首を傾げて尋ねる。
彼の垂れ目の奥が優しげに揺らいでいて、だから名前は少しだけ彼に甘えたい気分になる。
「いいこと、は今日はあんまりでした。」
少し眉を寄せながら名前は続けた。
「でも、いえ、なんだか嬉しくて、」
笑みを浮かべながらそう答えると、彼はさらに首を傾げる。
「嬉しい?」
「はい、いま、隠神さんとご飯をご一緒できることが。」
嬉しいです、と笑うと、彼は目を見開いてから、照れたように頬を掻く。
それから、「そうか、」とはけのない声でそう呟いた。
彼のそのような態度はなかなか見ないもので、物珍しくて、箸を進めるのも忘れていると、名前が見つめていることに気づいたからだろうか、彼は今度は大きな声で、「やめだ、やめ!酒でも飲みたい気分だな」と徐に席を立って部屋を物色し始める。
彼の稀に見る子供っぽい焦った仕草がおかしくて、笑いを堪えながら、「日本酒でよければお持ちしましょうか」と聞くと、彼は、いいねと承諾して「笑ってられるのも今のうちだぞ、」と恨めしそうに呟いた。
「ちょっと、飲み過ぎじゃない?」
食後酒は強い酒でもあまり酔わない、と言われるけれど、嘘だと思う。
友人から貰いっぱなしになっていた、一升瓶の日本酒を空けた時は、まあ、2合ずつくらい飲んで、残ったら贅沢な料理酒として使おうかな、なんて呑気に考えていた。
それなのに一杯目からなんだか口が饒舌になったような気がするのだ。
緊張していたせいもあるのだろうか、今日はやけにお酒の酔いが早い。
さらに頭の思考回路も少し能天気になり始めて、まだいけるだろうと、いつの間にか3合ほど飲んでいた。
だって隠神さんなんてもっと飲んでるし、と意味のない言い訳まで考えてしまう。
「大丈夫です。こんな日があってもいいんです。」
隠神さんから心配するようにかけられた言葉を、名前は笑ってそう返した。
明日はお休みだし、こんなに美味しいお酒なんて久々だし、隠神さんだっているし、と最後の言葉は消えるように呟く。
「そうなの、?」
彼は納得いかないように眉を寄せて、それでも飲み過ぎのような気がするけど、と訝しげに酒を煽った。
「隠神さんこそ、酔ってらっしゃらないんですか?」
自分だけ心配されるのが悔しくて、応酬のようにそう返すと、彼はグラスの氷を突きながら苦笑する。
「俺?、俺もいつもより酔ってるよ、」
手元を見ながらそう返す彼は、けれど、酔っているようには見えなくて、名前は少し眉を寄せた。
彼は酔わないのだろうか、それとも積み重ねた経験で飲み方を心得ているのだろうか。
いつだって彼との差を歴然と見せられて、名前は少し寂しかった。
だからだろうか、いつもより思考が淀んで、彼を困らせてやりたいという思いが疼く。
「今日は、隠神さんにお会いできて本当に嬉しかったんです。」
突然の発言に、案の定、彼は驚いたように顔を上げて目を見開く。
自分でも突拍子もない発言だと思うけれど、不思議と恥ずかしさは消えていた。
それ以上に彼を驚かすことができたのが嬉しくて名前は情に任せてそのまま続ける。
「最近何もかもうまくいかなくて、一人の部屋が寂しくて、隠神さんに会いたくて、だからすごく嬉しかったんです。」
隠神さんに会いたかったのだと心の底から伝えたくて、彼の優しげな瞳を見つめる。
突然の告白に戸惑ったのだろうか、目を瞬かせる彼が愛おしくて思わず顔が綻んだ。
「本当は前から会いたかったのですけど、お電話するのが申し訳なくて。」
依頼人を装ってでも声を聞こうかと思ったことは何度かあるが、要件がいつも空っぽで、恥ずかしくてやめたのだ。
彼が忙しいかったら邪魔でしかないだろうしと、いつも勇気が出なかった。
連絡先を表示しては、そのまま画面を閉じる行為を意味もなく反復していた。
「だから、隠神さんが、家に寄ってくれるなんて思いもしませんでした。」
名前は恥ずかしそうにはにかみながら続ける。
酔いのせいかうまく話せているか不安だ。
「今日は来てくれて、本当にありがとうございます。」
名前が深々と頭を下げると、彼は、戸惑ったように、そんな、と声を上げた。
それから、いやいや、とか、そんな礼することじゃないだろ、とか慌てたように呟く。
困ったような声だったので、彼の余裕を打破できたのかと嬉しくなって顔を上げると、意外にも、彼は焦ったように、必死に自分の顔を手で仰いでいた。
酔ったのだろうか、少し顔が赤いように思う。
「…隠神さん?」
訝しく思って声をかけると、彼は目を逸らしながら、あのなあ、とか、あ〜クソ、とか声にならない呟きを吐いた。
それから、はあ、とあからさまなため息を吐いて、名前の方へ向き直る。
「いいか、名前、」
彼は指を立てて、小さな子に注意するように声をひそめる。
「あんまり、簡単にそんなこというんじゃあないぞ、」
いいね?と確認する様に顔を覗き込まれて、名前はその顔と声の近さに動悸が早まるのを感じた。
「え?べ、別に、簡単に言ってるわけでは…」
「ましてや今の状況を考えろ、女の部屋に押しかけた男に向かって、そんなことを言う危険性を名前はちゃんと理解してるのか?」
「き、危険性って、隠神さんのことですか…?」
理路整然と状況を整理されて、名前は段々と酔っていたはずの頭が冷静になるのを感じた。
そして彼の気迫に押されて少し体を逸らすようにしながら彼の話を聞いてしまう。
「そう。名前の言葉で相手が勘違いをするかもしれない、」
「勘違い…」
彼の言っている意味がわからなくて反芻する。私の言った言葉が勘違い…?
「それで組み敷かれたって、男と女とじゃあ、力は歴然なんだ。」
だから、
「そんなこと、言っちゃだめだ。」
断定するように、はっきりと言われて、名前は自分が拒絶されているように感じた。
自分は子供で、だから酔いに乗じて伝えた言葉も、彼に届かないということなのだろうか。
私の彼に会いたい、会えて嬉しいという本心も、子供の間違いで済まされてしまうのだろうか。
私はいつまで経っても彼にとっては子供なのだろうか。
「違うんです、」
意を決して言った言葉は涙に濡れていた。
「勘違いなんかじゃ、ないんです。」
この感情が、この胸の疼きが勘違いなわけなくて。
「言葉にするのも、簡単じゃなくて、」
お酒の力を借りたとしても、それは寸分も違わない本心で。
「私は、隠神さんだから、」
彼に気づいて欲しい一心で、
震える両手を抱え込む。
「私は」
ぼやける視界で彼が息を呑むように思えた。
「私は、隠神さんのことが、「名前、」」
名前の言葉を遮るように、大きく、けれど明瞭な声が響いた。
それから彼は優しい目をして誤魔化すようにわしゃしゃと、名前の髪をくしゃくしゃに撫でる。
「無理しなくていい、」
どうしてそんな泣きそうな顔で笑うんですか、と名前は軋む胸を堪えて問いただしたかった。
彼がずっと前から、自分を子供扱いするのは知っていた。
子供という年齢の区別をすることで、どこか一線を引いていることも。
前に一度、どうして子供扱いするんですかと聞いたことがある。
私だってもうお酒を飲める歳で、世間からしたらおおよそ子供と呼べる年齢ではないというのに。
そう言うと彼は困ったように瞳を揺らして、「俺からしたら、子供だから。」と突き放すように、そう呟いたのだ。
納得がいかなくて問いただそうと彼を見ると、彼の瞳は深い黄金を潤ませていて。
悔しそうに結ぶ唇も、悲しそうに歪ませた眉も、切なそうに細めた優しげな瞳も。
何もかもが胸に響いて。
どうしてそんなに悲しそうにするんですか、どうしてそんなに寂しそうにするんですか、歯痒いのは、悔しいのは、傷つくのは、私の方じゃないんですか、なんて、自分勝手に言葉が浮かんで。
どうしたって彼に問いただすことができなかった。
それは今日と同じように。
けれど今日は、どうしたってそんな歯止めは効きそうになかった。
「隠神さんは、いつだってそうです、」
思わずでた本音は、堰を切ったように涙をあふれ出させた。
「どうして、子供扱いするんですか、どうして、有耶無耶にするんですか、
私はそんなに頼りないですか、
私はそんなに、」
全身の胸が悲鳴を上げたように途端に苦しくなる。
息苦しくて、声を出すのも億劫で、涙が後から後から溢れ出て、
自分でも歯止めが効かないように苦しくて、切なくて。
涙を堪えようと息を堪えてもただ嗚咽が漏れるばかりで。
みっともなく泣く自分は、やはり子供なのだろうと、わかってる。
こんなところが彼から嫌われる所以なのかもしれないと、わかってる。
それでも涙が止まらなくて。
全身の気だるさは、
息苦しさは、
この喉の渇きは、
どうしてこんなにも悲しくて、切なくて、届かないのだろう。
「一緒にいてくれるだけで、いいんです、」
どうにか嗚咽を堪えて出した声は、けれど、酷く明瞭に響いた。
「要件がなくても電話がしたい、声が聞きたい、そんなわがままは言いませんから、」
それでも今日は、酔いにかまけてどうしても伝えたくて、
これが独りよがりだとわかっていても、
彼の望む答えじゃないとわかっていても、
それでも今日は止められなくて。
「それでも、子供扱いだけは、突き放されるのだけは、嫌なんです。」
彼がどんな顔をしてるかなんて、どうしたって見れなくて、ぼやける視界の中でそう叫ぶ。
「あなたの、安心できる場所になりたい、守られるだけでなくて守る存在にも、なりたい、対等で、ありたい。」
ぼやける視界の中で、彼がこちらに手を伸ばしているように見えた。
「だから、そんなに悲しそうに笑わないでください、」
朧げな視界で彼が笑ったような気がする、最後の悲鳴のような願いは彼に届いたのだろうか。
彼の手のひらが頭に乗せられた感覚とともに、名前は俄に意識を手放した。
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眠った彼女の髪の毛を掬いながら、彼はひとりため息を溢す。
自身の変化の能力で作った睡眠薬で彼女を眠らせたところまではよかった、
けれど、彼女の声が頭にこびりついて離れない。
彼女を子供扱いしたのは、彼女に指摘された通り、突き放すためだった。
彼女はいつでも優しくて、彼女との時間がかけがえのないものだと実感するたびに、酷く胸が軋むのが耐えきれなかった。
彼女の笑顔に癒されるたびに、この子を守らなければいけないと痛感して。
その度に、自身の職業も、種別も、理解する。
怪物は人の正気を吸って生きている。
それはすなわち、近しい人間であればあるほどその影響は大きくて。
ましてや怪物屋として様々な矢面に立つ自分であれば尚のこと。
いつどこで狙われるともしれないのに、一人で生活を送るいたいけな彼女を巻き込むわけにはいかないのだ。
…わかっていたと、思っていたのに。
彼は、静かに席を立つと、机の上で眠った彼女の頬を優しく撫でる。
それから彼女の膝下と頭に腕を差し込んで彼女の身体を抱き起すとそのまま寝室へと運んだ。
初めて入る寝室は、綺麗に整頓されていた。
どこか花のような香りが鼻腔をくすぐって、少し動悸が早くなる。
胸に抱く彼女の華奢で柔らかな身体を実感しそうになって、彼は慌ててそっとベットの上に下ろした。
「……いぬ、が、み、…さん、」
ほっとため息を吐くのも束の間、唐突に漏れたかの彼女の声に、彼は驚いて固まる。
慌てて彼女を確認すると、彼女は規則正しく息を吐いていて、眠り続けているようだ。
「…名前、」
彼女の頬には涙の跡がついていて、彼はそれを慈しむように笑って拭うと、静かにその場を後にした。