短編
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一区切りついた時には、夜も更ける時刻だった。
ずっと机に向かっていたせいか、体が訛ったみたいに重くて、隠神は嘆息する。
探偵机には書類が乱雑に置かれたままだが、まあ、あらかた片付いたところだろうと楽観的に思う。
あたりはやけに静まり返っていて、時刻も夜半時と思われた。
兎に角、コーヒーでも入れてゆっくりしようと、席を立った時だった。
突然、カランと涼やかな音が聞こえると同時に、かすかに漂う柔らかな香り。
扉を挟んで聞こえるそれは、バーの店に客が来たことを知らせていて、探偵絡みの事件だろうかとどこか冷静になる自分がいる。けれど、その柔らかな香りに意味もなく、胸が疼いた。もしかしたらと期待した自分がいたかもしれない。
何かに突き動かされるように足を急いで隣接しているバーへと向かった。
ーーーー
「こんにちわぁ」
扉の前に佇んでいたのは、よく見知った彼女だった。期待したどおりで安堵する自分もいるが、普段とは違う彼女の様子に隠神は不思議に思う。
いつもより、おぼつかなくて、頬も少しだけ火照っている。
どこかの飲み会の帰りなのだろうか。
「名前。どうしたんだ。」
声をかけると、彼女は瞬きを数回繰り返して、驚いたように顔をあげた。
それから彼と目が合うと、とろけるように破顔する。
「隠神さんだ〜」
えへへ、と彼女はやけに上機嫌で、とろんとした瞳を隠神に向けた。
彼女の滅多に見ないその瞳に、彼は焦燥感をいだく。
「酔ってるの?」
攻めるような言い方にならないように、ゆっくりと名前に問いかけると、名前は嬉しそうに、バレました?、と笑った。
「実は、ほんのちょっとだけ。」
えへへ、と、名前は照れたように頬をかく。
「でも、そんなに酔ってないですよ。だから、もっとお酒を飲みたいです。」
だめですか?と身を乗り出すように上目遣いで瞳を向ける。
彼女はきっと、俺がその顔に弱いことを知っているのだろう。
何飲みたいの?と聞くと、彼女は生ビールで!と元気よく笑った。
ーーーーーーーー
カウンターの席に彼女を座らせて、自分はカウンターの奥にと進む。
ジン、トニックウォーター、ウォッカ、テキーラ、様々な銘柄が並ぶ棚を横目に見ながら、冷蔵庫で冷やしておいたグラスを2つカウンターに置き、彼女ご所望の、これまた冷蔵庫でキンキンに冷えた生ビールを出す。
そうしてカウンターに2つ並べた狸柄のコースターを置くと彼女は何故か、やけに喜んだ。
お揃いですね?一緒に飲んでくれるんですか?と目を輝かせて隠神に笑いかけてくる。
「ビールでいいの?」
「はい!ビールでいいです、そしてお揃いがいいです!」
ビールだったらお揃いにできますもんね!、と、彼女は、さも当然かのように言ってのける。
あたかも、ビールでなかったら俺が一緒に飲まないといっているようだった。
たしかにカシスオレンジとか言われてたら一緒に飲まなかっただろうけれども。
コースターの上に置いた2つのグラスに、キンキンに冷えたビールを注ごうとすると、彼女は慌ててグラスを傾けた。
ちらりと彼女をみると、いつもより頬が赤い。それだけではなく、先ほどは暗くて見えなかったからだろうか、ライトに照らされて見える名前はいつもよりまつ毛が濃くて、長くて、アイシャドウも色鮮やかで、唇だって濃いように思える。
胸の疼きと嫌悪感がじわりと広がる。
「あー!こぼれちゃいますよ!」
彼女の明るい声で、隠神は我に返った。
おっとっと、と言いながら彼女はグラスを戻すと、ありがとうございます、今度は私が注ぎますね、と屈託なく笑った。
彼女の笑顔はいつだって優しくて無邪気だ。
それはきっと自分だけに向けられたものではないだろうけれど。
「はい、注げましたよ!」
得意気な彼女から目が離せない、
「…隠神さん?」
ぼうっとしていたからだろうか、慌てたように名前が言う。
ビールお気に召しませんでしたか、と不思議そうに訪ねる名前に急いで微笑み返した。
「ああ、ありがとうな、」
気を遣わせまいと、名前に微笑むと、彼女は驚いたように目を瞬いた。
それからさっと目を逸らされる。
「ええと、じゃあ、乾杯しませんか…?」
瞳を彷徨わせながら、名前は隠神に言う。
そうだな、と隠神はのんびりと呟いた。
うーんと、じゃあ、、と考えあぐねるようにしたあと名前の方をチラリと見た。
「じゃあ、名前と出会えたことに、乾杯?」
ちょっと臭すぎるか?と恥ずかしそうにつぶやくと、名前はそれに被せるように明るい声を出した。
「乾杯!!!」
隠神さんと出会えたことにも、です。
えへへ、と名前も照れたように笑った。
ーーーー
それからしばらく色んなことを話した。
最近あった出来事や、仕事の話、趣味の話。
彼女と話すと、時間が矢のように過ぎていくのは何故だろう。彼女と過ごすゆっくりとした時間が大切で、平和な時間がいつまでも続けばいいと願う。
「そういえば今日飲み会で、こんなことを聞かれたんです。」
「うん?何を聞かれたの?」
いいですか?と彼女は人差し指を出して囁くようにする。
「『君、名前なんて言うの?』です。」
意外な言葉に彼は怪訝な顔をした。
「どういうこと?知り合いの仲じゃないのか?」
「そうなんです、知り合いですけど聞かれるんですよ、」
おかしいでしょ?と彼女は笑った。
「じゃあ、私が隠神さんに聞くので、代わりに答えてくれませんか?」
「俺が名前になりきって答えるってこと?」
「なりきらなくてもいいんですけど…、隠神さんがその飲み会に参加したとして、です。」
「わかった、」
急に始まった余興に、隠神は訝しく思いながらも一緒に演じることにした。
彼女は喉を鳴らすと、
じゃあ、続けますね、
と唐突に下を向く。
「君、名前なんて言うの?」
俯いたまま、突然かけられた言葉に、意味がわからなくて、隠神は首を傾げる。
「隠神です」
「へえー隠神って言うんだね、うーん、でもそれって苗字かな?」
胸を反らせて横柄とした態度で、名前は演じきっているようだ。
「ええーっと、苗字ですけど」
「名前は、なんて、言うの?」
再び、名前は尊大に、問いかけた。
ああ、そういうことかと、隠神は合点がいく。
「隠神、鼓八吉、です。」
「鼓八吉くんっていうんだね。」
ニヤリと、名前は笑った。
なるほどな、と隠神は笑うと、名前も得意気に頷く。
「そうです、そうなんです!」
名前はうんうん、と思い出すように続ける。
「相手の呼び名がわからないなら直接、聞いてくれたらいいのにって思いませんか、」
名前は堰を切ったように前のめりになって話し出した。
「それで、わけもわからず名前を言うと、今度は妙に馴れ馴れしく名前呼びをする方だっているんですよ、ほんっとに珍しいことだとは思うんですけど、なんかちょっと違うなぁって思いませんか?」
名前呼びって結構大事なものだと思うから。
不服そうにしている名前を横目に、確かになぁ、隠神は呟いた。
けれど、心の中では、嫌な感情が澱んでくる。
名前が、どこかのだれかに名前呼びをされたのかと思うと、嫌なくらいに腹がたった。
もちろん俺には関係ないことだと、一歩引いているのは自分自身だけれど。
知らない誰かに会うために、いつもと違う身だしなみをしているのだと思うと、先ほどと同じような嫌悪感がじわじわと、ふつふつと、広がっていく。
その感情を、どうにか表に出さないようにと理性で蓋をして、のんびりと話を続ける。
「うーん、でもそれも立派なコミュニケーションなんじゃないの?」
間延びしてそう答えると、それはそうなんです、だからわかるんですけど、と名前は言った。
「一言、名前呼びしていいですかって聞いてくれるだけで印象が変わるのに、って思っちゃうんです」
そんなこと思ってしまう私は生意気なんですかね、と名前は肩を落として笑った。
「いやあ、一度気になると結構気になるもんだよ、こういうのは。」
嫌悪感に蓋をして、俺も気になる時は気になるからなぁ、とのんびりと呟くと、そう言ってもらえると、ちょっと安心します、と名前は、はにかんで笑う。
その笑顔を見ながら、隠神はふと、思いついたことを言う。
「俺は?」
うん?と名前が不思議そうに彼に向き直る。
「俺は、いいの?」
名前呼びして。
すると彼女はぎょっとしたように目をまんまるくした。
隠神も彼女の顔に驚いて、焦るように取り繕う。
「そういえば、名前呼びだったな、今思えば失礼だったかな、」
すると彼女の頬が、みるみるうちに赤くなっていくのがわかった。
「あ、いえ、その、、、」
それからウロウロと瞳をせわしなく左右に振って、明らかに平静さを失っている。
「名前…ちゃん?」
俯きそうになる彼女の顔を覗き込むと、真っ赤にしている彼女と目が合った。
そんな表情、肯定してると言っているようなものだ。
その可愛すぎる態度に、隠神は胸を鷲掴みにされて、頬が緩むのを止められなかった。
「名前ちゃん、やっぱりダメか?」
猫撫で声を出して、甘えるように彼女に尋ねると、彼女は耳まで真っ赤にして両手で顔を覆った。
「隠神さんなら、」
顔を覆いながら、小さな声で、彼女が言う。
「隠神さんなら、良い、です、、」
口元が緩むのを止められない。
そうかそりゃあよかった、わざとらしく明るい声を出すと、彼女もほっと息を吐いて、両手を顔から退ける。
そのまま、目を合わせずに、グラスへと手を伸して、ビールをちびちび飲んでいた。
ビールはちびちび飲むものでもないだろうに。
「ああ、肩になんかついてるぞ、」
いたづら心に火がついて、おもむろに彼女に向かって手を伸ばす。
彼女は案の定、驚き肩をすくめた。
隠神は、何もついていない彼女の肩を払う振りをした。
「…名前。」
彼女の耳の近くでふっと息を吹きかけるように囁くと、彼女は、バッと驚いたように振り向く。
「意地悪しないでください!」
顔を真っ赤にして怒る名前が可愛らしくて、隠神は笑みを濃くした。
「絶対わざとだ、」
名前が恨めしそうに呟く。
「そうだな、意地悪しすぎた、」
ニヤニヤしながら隠神も呟く。
先ほどの嫌悪感はどこかにすっかりなくなってしまった。
それ以上に、彼女のこんな可愛い顔を見ることができたという幸福感と、自分だけだという優越感に、溺れてしまいそうだった。
ーーーーー
その後何杯か飲んだだろうか、カウンター上には乾いたグラスや缶がどんどん増えていた。
棚の酒瓶にはなんだか手を出しづらくて、先程から自分が買ってあった生ビールや酎ハイばかりを飲んでいる。
「…ちなみに、隠神さんは何てお呼びすればいいんですか?」
「うん?」
先ほどの話の続きです、と名前はグラスの端をなぞりながら言った。
「名前呼び、したことないなって。」
考えあぐねるように言葉を切って、俯きがちに彼女が言った。
「名前呼び…?」
「…もし、よければ、お名前で呼ばせてもらえませんか、、?」
呟くように小さな声だった。
驚いて彼女を見ると、頭を俯きがちにして、目がやけに泳いでいる。
酔っているのだろうか、いつも異常に落ち着きを失っているようだった。
彼女がそんなことを言うなんてちょっと意外だ、と酔った頭でぼんやりと思う。
「…ああ。」
自分もまた小さな、呟くような声だったように思う。
名前の好きなように呼んでくれ。
そう言うと、彼女は顔をあげて、ふんわりと、幸せそうに笑みを漏らした。
その笑顔を直視してしまい、なんだかむず痒い幸福感を覚える。
「ええと、じゃあ、」
彼女は照れくさそうに頬をかきながら、俯きがちに言った。
「こはち、さん…。」
その一瞬。
脳裏をよぎった悪夢。
何度も何度も見た悪夢。
『…ハチ、聞いてくれ』
全身の毛が逆立って、ぞっとするほど汗が噴き出る。
記憶の奥底に隠していた、もう何年も前のあだ名を、否応なく思い出される。
あの時の光景が、悪夢が、まざまざと思い出されて、全身の血の気が引いた。
『ハチ、鳴ちゃん、は』
ハチ、と呼ばれていた。あのころは。
馴れ馴れしく、はじめからハチ、と呼ばれていた。
甘く、若かったあのころ。
自分のせいで何もかも失った、
全ての選択を間違えた、
自分があの時、正しい判断をしていれば、
自分が慢心せず、言われた通りに彼女を守っていたならば、
そもそも、自分が人間と、関わりを持つこと自体がだめだったのか、
そうだあのときじぶんの、
「どうしましたか、?」
澄んだ声が聞こえて慌てて顔を上げる、
しまった、うっかりかんがえこんでしまっていた
「気分、悪いですか、?」
心配そうな彼女の顔に、何故かあの時の2人の顔がだぶって、つい彼女の瞳から目を逸らす。
いや、
なんでもないんだ
けれど、
出した声は、水をしばらく飲んでなかったみたいに乾いた声だった。
「やっぱり、隠神、にもどしてくれないか、」
途端に彼女が息を呑んだ。
彼女の顔が見れなくて、たまらず視線を下に落とす。
わかってる、自分がどれだけ身勝手かなんて。
名前の手が、ぎゅっと、固くこわばる。
「俺は、ダメなんだ。」
口から、するりと言葉が漏れた。
「だから、名前は、」
とろけたように破顔する彼女の笑顔が、頭をかすめた。
「名前は、」
幸せを滲み出して自分に微笑む彼女が脳裏にこびりついて離れない。
「もっと良い奴を見つけてくれ、」
君の隣にいるのは、俺じゃない。
「名前呼びする相手は、たぶん俺じゃない。」
先ほどから息継ぎがうまくできなくて、いつもみたいな平常心が、どこかに置いてきたかのように胸が苦しかった。
これで、きっと合っている。
間違ってないと理性的な自分が叫んでいる。
けれど、彼女になんて声をかけたらいいか、わからなかった。
重くのしかかったような沈黙を割ったのは彼女の方だった。
「わかりました。」
すみません、まだ早かったですね、と呟く彼女の声に、そうじゃないんだと言いたかった。
彼女をひどく渇望しているのに、失うことの方がひどく怖かった
いいんです、と沈んだ声が聞こえた。
大丈夫なんです、わかってるんです、と、それは名前自身にも言い聞かせているような呟きだった。
彼女がどんな顔をしているかわからなくて、彼女を見ることができなかった。
肝が潰れて、喉がカラカラに乾いていた。
「いぬがみさん」
やけに明るい声だった。
「やっぱりこっちの方が言いやすいです」
彼女は明るく笑った。
呼ばれていたかった、彼女にどんな愛称だろうと、呼ばれたかった。
呼ばれても、自分の罪を思い出さない自分がよかった、純粋に彼女に呼ばれたことを喜べたらよかった。
ハチと呼ばれた、かつての愛称を、自分の罪を、まざまざと思い出すような俺は、名前につりあわない。
そんなこと、わかっていたのに。
君は、こんなにも、僕に優しい。
彼女の小さな頭に、壊れないように自分の手を重ねる。
そうして大事に、大事に守るように頭を撫でる。
彼女は、驚いたように彼を見つめた。
君を傷つけてでも遠ざける僕を許して欲しい。
それは名前、お前を守るためだから
彼女の髪はやわらかで、指に吸い付くように滑らかだった。
それでも、もし、
こんなことを思うなんて、自分は酷く身勝手だと思った。
もし、俺の準備ができたら、
きっとそんなことはないだろうけれど。
いつか、君を迎えに行ける時がきたら、
そんな夢みたいなことはきっとできないだろうけれど。
待っててほしい
声にならない声は、喉元で乾いたように消えていく
瞼越しに見える彼女の大きなひとみは今は伏せられている。
隠神が撫でるのを、受け止めているようだった。
2人とも、何も言わなかった。
長い間、そうしていた。
また、お家に遊びにきてくださいね、
いつでも構いませんから、
彼女は下を向きながら、彼に撫でることを許したまま、つぶやいた
おい、それ、色んな男に言ってるんじゃないだろうなぁ、
ちゃんと大事なやつだけに決めとけよ、
茶化したようにそう答えると
言ってませんよ、と彼女は、ふてくされたように頬を膨らませた。
彼女は、眩しいほどに綺麗だった。