短編
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上手くいかない。
そう思う日が、名前には時々訪れる。
勿論それは、失敗を引きづることによる偏狭的な考え方で、自分の厭世的な思考によるものだとわかっている。
気乗りしない自分のせいで、運を引き寄せられないというべきか。
だからと言って、楽観的な思考へと意識を変えることも叶わなずに、名前はただ、無心にPCと向き直る。
いつの間にか仕事場に残っているのは自分だけになっていて、名前は大きく嘆息した。
これが、今日限りの出来事なら我慢できたかもしれないが、ここのところ、毎日こんな生活ばかりだ。
仕方がない。名前を突き動かしているのはただそれだけの義務感だった。
突然、机の上に無造作に置かれた携帯が震える。
仕事の連絡だろうかと素早く手に取って確認するも、意外な相手からの連絡に名前は拍子抜けした。
今、どこにいますか?
唐突な連絡だった。けれど、特に意味はないのだろうと思う。
彼からくる連絡はいつも突然だけれど、用を成さないことばかりだったからだ。
彼は不定期に忙しい仕事をしていると聞いたし、たまたま時間が空いたのだろう。
まだ、仕事。
ただ一言そう打って、そのまま返信を見ずに、携帯を伏せる。
ゆっくり文面を選ぶ暇がないわけじゃないけれど、今はまだ気が抜けなくて、名前は再びPCに向き直った。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ようやく、仕事の区切りがついて、名前は大きく息を吐く。
どうせ明日もある作業で、明日もこの続きをしなきゃいけないのだと考えるとやっぱり気落ちしたけれど、仕方ないと腹を括るしかないのだろう。とりあえず、どうにか家に帰れることが嬉しくて、名前は大きく腕を伸ばした。
すると、見計らったように、再び携帯小さく震える。
今、どこにいますか?
先ほどと同じ相手からの、同じ質問の通知だった。
けれど今はほんの少しだけ達成感があって名前は少しだけ微笑んだ。
今やっと終わったところ。今から帰るよ。
そう打って送ると、すぐに既読はついたものの、返信は来なかった。
きっと彼なりに忙しいのだろう。
既読スルーなんて気にする歳頃でもないので、名前はそのまま携帯をポケットにしまうと、上着を羽織って、荷物をまとめて席を立った。
外はとても暗かった。
随分前に日が落ちたのだなと他人事のように思う。
けれど都心部だからか、こんな夜遅くでも道路には車が行き交っていて、その素早いライトは名前には少し眩しかった。誰もいないバス停の時刻表を確認すると、ギリギリ運行しているようで安心する。
けれど、あらかじめ時刻を確認していなかったせいで、20分ほど待つことになってしまった。
仕事場で時刻を確認する手間を惜しまなければ、こんな寒空の下で待つ必要はなかっただろうに。
…やっぱり今日は上手くいかないなあ、
思わず吐いた溜息は真っ白になって空に立ち登る。
冷たい風が首元に吹き込んできて、慌ててマフラーを何重にも巻き直した。
ぼんやりと空を見上げて星の数を数えていると、突然、バス停の停車位置に車が止まった。
それはよく見かける黒塗りの車。
夜遅くで、しかも人気の少ないこの時間だ。もしかしたら犯罪に巻き込まれるんじゃないだろうかと、名前の頭の中を怖い文字が駆ける。誘拐?強姦?携帯の緊急通知ってどうやって鳴らすんだっけ、と緊張で固まっていると、おもむろに車の窓が空いた。
そしてそこから覗かせる、緊張感のない笑顔。
「乗っていきますか?」
運転席から、かがむようにして窓から顔を覗かせた彼は、思わぬ質問を投げかけてきた。
彼の突然の登場にも、そしてその言葉にも、心底驚いてしまって名前は目を瞬く。
二の句を告げない名前を見て、彼は目を細めた。
それから酷く得意げに、乗らないんですか?と笑顔で催促してくる。
「寒いでしょ?」
彼の笑顔はどうしてこんなに優しいのだろう。
屈託のない笑顔で言われると、頷く以外の選択肢なんてない気がしてくる。
彼女が肯定したのを確認すると、助手席なんて、特等席ですからね、と彼は自慢げに鼻を鳴らした。
「たまたま、仕事が暇になったんです。同僚を送り届けて、次の仕事まで時間が空いたんで、名前さんどうしてるかなーと思って。」
助手席にいる名前を気遣ってか、彼はちらりとこちらを伺うと、ハンドルを持ち直しながら、笑って言った。
「てっきり、もう帰ってるかと思いました。間に合って良かったです。」
呟くようにいう彼の横顔がやけに明るくて、咄嗟に言葉が詰まってしまった。
疲れていたからだろうか、名前はなぜだか、彼の顔を見れなくて、ふと目をそらす。
彼の笑顔が羨ましかっただけかもしれない。
けれど彼に心配をかけるのは億劫で、できる限り明るい声を出す。
「私の方こそ、とても、助かったよ、ありがとう、」
出した声はなかなかごまかせていると思ったのに、彼はなぜか静かに笑って、寝てもいいですからね、と酷く優しい声で笑った。
車内では、彼も名前も始終、無言だった。
特に喋ることもなくて、単に疲れていたのだと思う。
言葉が浮かんでこなかったのだ。
ほんの少しだけ彼を横目で伺うと、彼は特に気にしていないようだった。
それよか、少し明るいように思える。
そういえば、今日は何かの記念日だっけ、と頭の片隅に過ぎるものがあって、名前は眉を寄せる。
…今日は1月の何日だっけ、ええと…
ぼんやりした頭をフル回転させながら、今日の日付を計算すると、案の定、というべきか、とても大切な日であったことを今更思い出した。
…しまった、完全に忘れていた。
彼にとっての大切な日に、わざわざ彼の方から会いにきたというのもおかしな話だが、それも彼らしいと思う。
しかしながら忘れていたのが申し訳なくて、名前はこっそり肩を落とす。
それから、できる限り沈んだ声色にならないように、あのさ、とつぶやいた。
「お誕生日、おめでとう、梅太郎くん。」
意外にも静かな声で言うと、あれ?と彼は素っ頓狂な声を出した。
それから、意外、と言う顔をして、目を瞬く。
「ありがとうございます」
彼は快活に笑うと、やっぱり、と続けて笑った。
「名前さんにそう言ってもらえると嬉しいっす。」
彼の無邪気なその笑顔に、名前は思わず唇をかむ。
仕事に追われるばっかりじゃなくて、できることならきちんとお祝いをしてあげたかった。
サプライズで、むしろこちらから彼を招待して、ちょっとしたプレゼントでも。
調子の良い彼はきっと、大袈裟にでも喜んでくれただろうに。
ものすごく勿体無いことをした気がして、思い通りにできない自分が悔しくて、名前は彼の笑顔を直視できなかった。
すると、彼女の素振りに気づいたかはわからない、彼はクスリと笑みをこぼす。
「プレゼント、気を遣わないでくださいね。」
彼女の心を見透かしたように静かに彼は言った。
「俺は、俺なりに誕生日を満喫してるんです。」
それから、一旦言葉を止めると、彼は恥ずかしそうに、ええとですね、と口をまごつかせた。
「実は、名前さんに会いたくて。」
彼は呟くように続ける。
「なんだか何もかも上手くいかなくて、不安なことばっかだったんですけど、なんでか、名前さんに会いたいなあって。不思議ですけど。」
ご褒美なんです、と彼は笑った。
「名前さんに何かして欲しいわけじゃなくて、俺が、名前さんと一緒に居たくて。格好がつかないですけど。」
笑ってください、と彼は言った。
再び車内は静寂に包まれた。
彼の言葉を反芻しながら、名前は窓に頭を預ける。
車窓から流れる景色は眩しいほどに綺麗だった。
道を照らす電灯の光が、規則的な速さで窓の外を流れていく。
こんな時間でもあかりのついてる建物は沢山あって、空に煌めく星は窓からでも眩しく映った。
ふと、心地の良い音楽が車内に流れていることに気づく。
確か、前に自分が好きだと言った曲。
ゆるゆると流れる車窓の景色に合わせて、ゆったりとした音楽が、ゆっくりと心を溶かしていく。
…ああ、なんて自分はちっぽけなんだろう。
上手くいかない日は誰にだってある。
誰だって血の滲むような努力をして、理不尽な仕打ちにも耐えていて、だから、こんなにも眩しいのに。
彼の優しい気遣いに心の中で感謝して、名前は強く目をつぶる。
すると唐突に、涙腺を熱いものが駆け抜けた。
胸の奥底から、堰を切ったように熱い何かが止めどなく溢れてきて、彼女は戸惑った。
彼女自身、なぜ、涙が出るのかもわからなくて。
けれど、涙を拭うのも億劫で、彼から顔を背けて、変わらず窓を見つめていた。
流れる世界がゆっくりとぼやけて、彼女は強く唇をかんだ。
するといきなり、車窓の景色の流れが止まる。
信号でもない場所で急停止した車を不思議に思うと、突然、腕を掴まれた。
それから、強い力で引っ張られて、彼の方を強制的に、向かせられる。
突然のことに驚いて、目を見開くと、それ以上に目をまんまるにした彼と目があった。
涙で目をいっぱいにしていたことも忘れて、彼の瞳を見つめると、彼は、驚いたように目を瞬いた。
それから今度は急に、眉を寄せると、唇を噛んで、一文字に結ぶ。
いつも穏和な彼がなかなか見せない、怒ったみたいな表情だった。
「名前さん」
強い語尾で、彼は彼女の名前を呼んだ。
それは返答を期待していない、少し諌めるような言い方だった。
「何があったんですか。」
彼は真っ直ぐに彼女の瞳を覗き込む。
眉を寄せて、何かを堪えるような顔だった。
見たことのない彼の表情に彼女は戸惑って、けれど、嗚咽を堪えるのに必死だった。
何言ってるの、とか、気にしなくて良いのに、とか、一蹴すればよかったのかもしれない。
「誰に、やられたんですか。
何を、されたんですか。」
彼の声は意外にも淡々としていた。
けれど、瞳の奥底から射抜くような、視線を受ける。
ぼやけた視界でもわかるほどに、彼は真剣だった。
「…なに、も、ないよ、ごめん。」
「名前さん。」
彼に気を遣わせるのが申し訳なくて、ひりつく喉を抑えて答えると、彼の眉間の皺はますます濃くなった。
「…何もないわけ、ないじゃありませんか。」
彼が優しく手を引くと、彼女は難なく彼の胸板に受け止められた。
彼の胸板は意外にも男らしくて、名前は戸惑う。
それから、彼女の背中を抱え込むように、彼は力強く抱きしめた。
「俺だって、男です。」
彼は、断言するように続けた。
「年下だけど、れっきとした男です。
確かに、格好良くはないですし、頼りないかもしれないけれど、
…惚れた女の子の泣き顔に、冷静では、いられないんです。」
聞いたこともない必死な声に、名前は目を見開く。
「今は、頼りないかもしれないけれど、格好良く、なりますから。俺がいますから。」
彼は必死に言葉を探しているみたいだった。
「だから、」
切羽詰まったように、彼は彼女の肩を強く掻き抱く。
「だから、…安心してください。」
彼の息を殺したような言葉に、名前は胸がいっぱいになった。
彼の優しさに、苦しいくらいに息ができなくて、熱いものが駆け抜ける。
彼女はたまらず、彼の服を握った。
裾が伸びるのも構わずに、名前はしがみつくように握ると、彼の胸に頭を埋める。
悔しくて、切なくて、でも酷く幸せで。
後から後から涙が流れた。
なんでこんなに安心するのだろう。
温かな手のひらは、いつまでも、ゆっくりと名前の頭を撫でていた。