短編
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身動きの取れない身体。
背中には冷たい床の感触。
手首には強い圧迫感。
タバコと香水の香りはいつもより強く感じる。
前にも同じようなことがあった気がする。
けれど、何よりも。
「もう、逃がさんからな、」
断言するように耳元で囁かれた低音と、たれ目で金色色のどこか血走ったような瞳が広がって、酷く高鳴る胸の動機に名前は耐えられそうになかった。
時刻は夜半過ぎ。
仕事のついでだからと来てくれた隠神さんと語り明かして。
明日は休みだから、お酒も飲もうという話になって。
いつもなら、お酒に強い隠神さんが確実に生き残るはずなのに。
そうでなくても、最近はお酒を飲み過ぎないようにしているのに。
お酒に酔って、酔わされて。
隠神さんも、やけに饒舌になっていた気がする。
家の中だしと、気の緩みもあったのだろう。
気づいた時には、世界がぐるぐると回っていた。
おぼつかない足取りのせいか、酔いのせいか、そのまま、床に寝転ぶ。
笑いながら天井を見上げると、隠神さんが浮かない顔でこちらを見ていた。
「隠神さんも一緒に、寝ましょ?」
両手で手招きして笑いかけると、彼は、一瞬眉を寄せた。
それから徐にこちらに来ると、そのまま彼女の上にまたがるようにして床に手をつく。
表情の読めない彼の端正な顔が広がって、突然動悸が鳴り響くのを感じた。
押し倒される、というのはこういうことかと、一種の既視感に苛まれながら。
眼前に広がる彼の射抜くような瞳に、呼吸が止まる気がして、めまいと動悸が鳴り止まない。
いつも以上に彼を間近に感じる吐息に、名前は理解が追いつかなかった。
「なあ、知ってる?」
淡い吐息を混じった低音が耳元の奥をかすめるように広がって、痺れるような感覚が全身に広がる。
それがやけにくすぐったくて身をよじると、満足そうにこちらを見下ろす彼の瞳と目が合った。
その満足げな顔さえ、名前には見たことがなくて、じわりと広がる胸の疼きに耐えられなくてたまらず目をそらす。
すると、何が気に入らなかったのか隠神さんは、なあ、と語尾を強めて呟いた。
その声が思いの外、いつもの余裕綽々の声とは反対の、むしろ子供っぽいような声色で、不思議に思ってちらりと伺う。
不安げな名前の瞳と目が合うと、隠神さんは眉を寄せて少し不服そう嘆息した。
「なあ、名前。」
どこか甘えるような酷く優しい低音で、自分の名前を囁かれて、その色っぽさに、名前は目を見開く。
甘い疼きが、痺れが、酷く苦しく体の中をよじ登る。
この人に名前をよばれるのが、こんなに苦しくて切ないなんて。
そんな甘ったるい瞳をこちらに向けるなんて。
実感が湧かなくて、逃げ出したいような、泥沼にはまり込みたいような、胸の疼きが全身を蝕む。
「俺がどれだけ我慢してると思う?」
唐突に顔を近づけた彼は、再び囁くように呟いた。
酷く熱っぽい瞳を向けて耳元で囁く彼の声が全身を響かせている。
声も顔も体温も吐息も、近すぎるこの状況に、頭の回転が追いつかない。
「いつも無防備でさあ、」
彼は楽しそうに笑みを滲ませると、その大きな手の甲で、名前の頬を撫でるように触る。
「誰に対しても屈託なく笑うしさあ、」
優しげな手つきで、彼女の頬を撫でると、そのまま包みこむように手を添わせた。
「俺だけのものにできたらどんなにいいか。」
大きな手は、さわさわと名前の頬を滑るとそのまま、名前の耳に滑らかな髪をかける。
「…名前。」
首筋から鎖骨へと、手でゆっくりと撫でられて、その触れるか触れないかの手つきに、名前はぞわりとした甘い痺れを感じた。
切なくて、焦ったくて、息苦しい。
それなのに酷く幸福で。
首筋をゆるゆると触る彼の指先は、名前の、やわらかな曲線を描く胸元へと降りていく。
激しく鳴り響く心拍数が、彼にバレてしまいそうで恥ずかしくて、痺れるような幸福感に酔いしれてしまいそうで。
名前は思わず強く目を瞑った。
「 」
酷く小さい音が呟くように溶けて、けれど、優しげな手の温かみが突然、ゆっくりと離れていった。
彼がその一瞬なんて言ったのか聞き取れなくて、慌てて目を開けると、その直後、大きな手で視界を覆われる。
「え…?」
真っ暗な視界に不安になって名前が呟くと、酷く小さな舌打ちとため息が聞こえた。
それは、自嘲するような、諦めたような、馬鹿にしたような、声色で。
彼の聞いたことのない声に、名前は漠然とした焦燥感を抱く。
覆われた手から感じるぬくもりさえ不安に思えて、名前は息を呑む。
胸騒ぎがして、耐らず彼の名前を呼ぶと、一瞬たじろいだ声が聞こえた。
「隠神さん…?」
「なに…?」
どこか距離を置いたような、少し、つっけんどんな声。
「隠神さん。」
断言するように名前が再び問いかけると、ムスッと拗ねたような声で、「何?」と再び返事が聞こえた。
「好きです、」
ふわりとその単語だけが浮かんで、熱に浮かされたように、名前はその言葉を口走る。
「好きです、優しげなその瞳も、どこか達観したようなその微笑みも。」
大きな手で覆われた視界の中で、名前は、彼が息を呑んだ気がした。
「力強いその胸板に、思いっきり抱きつきたいだなんて、そんなことだって考えてしまうんです。」
こんなこと恥ずかしくて、いつもなら言葉にできないけれど。
「どこか不安げなその瞳だって、私はすごく大好きで。」
彼の瞳を思い浮かべるだけで、鼓動は酷く騒がしい。
「隠神さんの声も胸も髪の毛だって。全部ひどく愛おしいんです。」
後から後から出て来る言葉に困惑しながら、名前は彼女の視界を覆う大きな手の甲に、遠慮がちに手を重ねる。
「隠神さん。」
彼のゴツゴツとした感触とその温もりに安心しながら、名前は仄かに笑みを漏らした。
「聞き飽きたかもしれないけれど、私は貴方が大好きです。」
「あのなあ、」
名前の言葉を黙って聞いていた彼は、痺れを切らしたように大きな声を出した。
それから、彼はおもむろに、名前を目隠しするように覆っていた手を退ける。
視界が一気に明るくなって、その眩しさに目を細めると、怒ったような、呆れたような彼の瞳が名前を覗き込んでいた。
「ほんっと、いいかげんにしろよ」
いつもの隠神さんなら出さないような、語尾の強い、怒った声。
意外にも真剣なその瞳に、名前は目を瞬く。
「名前おまえ…、さっきの話、聞いてたか?」
彼は精悍な眉を歪ませると、問い詰めるように、名前の鼻先に指を示した。
「…そういう、とこだぞ。」
声を絞った、低い、彼の声。
それと同時に、甘いお酒の息がかかって、動悸は一気に激しくなる。
彼の瞳孔は野生の獣みたいに血走った瞳をしていて、そこから目を逸らせない。
胸が苦しくて、手で退けようとするも、名前の両手はいつの間にか、彼の手に組み敷かれていた。
思いの外近い距離にある彼の顔に、慌ててのけぞろうとするも、背中には変わらず硬い板。
そういえば組み敷かれているんだったと、他人事のように思い出す。
「名前。」
彼の薄い唇から、目が離せない。
ゆっくりと彼の唇が近づいて。
同時に、柔らかな感触が唇に触れて。
慌てて目を瞑ると、一瞬の間の後、激しく唇を求められる。
吸い付くように何度も何度もかぶりつかれて息継ぎが追いつかない。
胸の疼きが、全身に熱をもたらして、激しい幸福感で、どうにかなってしまいそうで。
唇だけじゃ、足りなくて、胸が酷く切なくて、息が、できなくて。
自分じゃないみたいな、酷く甘美な息が、漏れる。
「っだめだ、」
けれど突然、彼は、ふとそれをやめた。
驚いて名前が目を開けると、自身の唇を強く噛んだ彼が、悔やむように息を吐いた。
「すまん。」
名前が目を見開くと、彼は徐に上半身を起こす。
それから、慌てたように目を逸らすと、何も言わずにスッとそこから立ち上がって、呆然としている彼女から背を向ける。
彼の行動に驚いて目で追うと、大きな背中は無言で自分の上着を手に取った。
「ま、まって。」
彼のやろうとしていることがわかって、名前は切羽詰まった声を出す。
その一瞬、彼の足が止まったのを見て、ほんの少しだけ安心した。
けれど彼の垣間見えた瞳を思い出して、名前は胸がいっぱいになる。
それは今までだって何度もあった、時節見せる彼の悲しそうな瞳と酷似していた。
「どうして、そんなに怖いんですか?どうしてそんなに不安なんですか?」
胸が苦しくなるほど詰まっていて、掠れたような声だった。
「私が、頼りないですか?
私じゃ、貴方に不釣り合いですか?、
…どうして。」
声が震えそうになって、けれど、名前は誤魔化すように大きな声で続ける。
彼の優しげな笑みが浮かんで、息苦しくて。
彼の背中さえ朧げに滲んでいて、名前は強く唇を噛む。
震えた声が出てしまいそうで、嗚咽がもれてしまいそうで、名前は必死に息を堪えた。
「…でも、それでもいいと思うんです。」
涙に濡れた声は、けれど、凛としていた。
「一緒にいるだけで、何か変わることもあると思うんです。」
貴方と過ごす優しい記憶はいつも私を元気づけてくれるから。
「私は、あなたが好きだから、」
どんなことしたって、簡単に揺らぐ気持ちじゃないから。
だから、
「待ってますから、」
ぼやけた視界に、叫ぶように名前は続けた。
「いつだって、待ってますから、」
名前はそういうと、彼の背中に屈託なく笑いかける。
彼がそれに気付いたかは、わからない。
逡巡するように足を止めたままの彼は、ようやく、振り切るように足を進めた。