短編

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名前

彼女が好きで、仕方ないのだ。







いつも通りの見慣れた街頭は、いつも通りに心許無く路地を照らし続けている。
すっかり日も沈んでしまうと、辺りはしっとりとした静けさに覆われてしまう。
当たり前に続く日常は、当たり前の様に安心感をもたらすけれど、時にほんの少しの寂寞感を感じさせる。
自分のヒールの音が規則的に響き渡る音を聞きながら、名前は大きく嘆息した。



いつものように仕事からの帰り道を歩いていると、見慣れない黒塗りの車が目に入る。
黒塗りなんて物騒だなぁとか、こんなところに駐車するなんてどんな用なのかなぁとか、漠然と疑問が浮かぶけれど、そこまで興味が湧くことではなかった。
それより、すぐにでも家に帰って、泥のように眠りたい。
今日は早めにお風呂に入って、それからあたたかいご飯を作ろう、シチューでもカレーでも、一品で済むものにしよう。
重い体を引きずりながら、黒塗りの車を通り越したところで、名前さん、と名を呼ばれた気がした。
それがどうしてだか、やけに懐かしい声色で、名前は疑問に思う。



確かに、疲れた時はなぜか、緊張感のないだらしのない奴のことを思い出してしまう癖はあった。
だからだろうか、突然聞こえたその声は彼のものと酷似している。
慌てて周りを見渡すも、目星き相手はどこにも見当たらなかった。
もしかしてとうとう幻聴まで聞こえてしまったのだろうか。
自分の疲れ具合に呆れると同時に、いつの間にか、奴の存在を植え付けられていることがまざまざ思い知らされて、そのことがとても恥ずかしい。
やっぱり今日は疲れているんだ。
自分の預かり知らぬところで、彼が忘れられない存在になってしまったことが酷く悔しくて、それでも尚聞こえる幻聴に、名前は無視を決め込んだ。



名前さんってば!」

後ろからかけられる大きな声と同時に、突然、手首を掴まれる。
驚いて、そのまま後ろを振り返ると、記憶そのままの、ちょっと呆れたような白目がちな垂れ目と、目があった。



「もう、本当に不用心なんですから。」

少しだけ息を切らしたように見える彼は、やれやれ、と名前の前で肩をすくめた。
何度呼んだと思ってるんですか、それともあえて無視したんすか?と彼は訝しそうだ。

「ぼんやりしてたんだよ。まさか、君がくるとは思ってなかったから。」

遠慮がちに目を逸らしながら、名前がそう答えると一転、そうですかあ〜と彼は嬉しそうに顔をニヤつかせた。

「意外でしたか、うれしいですか?」

「別に…」

「ええ〜?それは嘘でもうれしいとか言ってくださいよ」

尚もニヤニヤと笑う彼を、名前はできる限り冷たく一瞥する。

「それで?」


ニヤついている彼を尻目に、名前はするりと掴まれていた手を振り払った。


「それで、突然どうしたの?」

また、借金?


不審げな目を向ける名前に、彼は、違いますよ!!と大袈裟に手を振る。
それからちょっと呆れるように、「っていうか、」とため息を吐く。

「俺が名前さんに借金したことありました?」

「ええと、」

「ないですよ!!なんでそこで悩むんすか!」

彼は勢いよく名前に突っ込むと、ちゃんと借りる相手は決めてるんですから、と怒ったように呟く。
名前もすぐに、やばい相手から借りるくらいなら、私から借りればいいのに。と返すと、俺だって見栄を張りたいんすよ、と彼は口を尖らせた。


「…そうじゃなくて、ですね。」

彼は慌てたように背筋を伸ばすと、わざとらしい咳払いをして緩んでいた頬を収める。

「今日は名前さんに伝えたい事があるんですよ。」

仰々しく前髪をかき上げる彼はどこか得意げに笑った。
似合わない仕草はやめた方がいいよ、と呟くと、え、辛辣っす!と陽気に笑う。

「見てくださいこの車」

彼は自信満々に、駐車してあった黒塗りの車を指で示した。

「うん?」

その得意げな意図がわからなくて、名前が首を傾げると、彼はじれったそうに、だから、と続けた。

「俺が乗ってきた車なんです。」

「どこかで借りてきたの?」

「いーえ。違います。」

「じゃあ盗んだとか?」

「そんなことしませんよ!それも違います。」

「じゃあ何?」

黒塗りの車なんて、と名前が訝しむと、彼は嬉しそうに、さらに目を細めて笑った。

「仕事の車なんです。」

「仕事…?」

仕事と言われても曰く付きの職業しか思いつかない。
名前は首を傾げて、まさか…と、窺うように彼を見た。

「ついに、やばいものに手を出して…?」

なんでそんなことするの。と冷めた目で見つめると、違います!!と焦ったように彼は言った。

「全然違いますよ!なんでそんな物騒な方向に考えが向くんですか、もっと健全です。」

健全です、と言いながらも、彼の瞳は瞬間、不安げに揺れる。
名前はその一瞬に少しの疑問を抱いたけれど、大きく不安に思うことなく、彼の得意げな顔を見つめた。
そ、そんなに見つめられると照れますよ〜と茶化して笑う彼に少しの腹立ちを覚えそうになり名前は眉を寄せる。

「なに?」

彼女のほんの少しの苛立ちを感じ取ったからだろうか、彼は焦ったように再び咳払いすると、実は…、と再び背筋を伸ばした。
それでも出し惜しむかのように、ふふふ、とニヤけて笑う。

「実は…」

やっと本題か、と名前が呆れて彼を見つめると、彼は一層得意げに笑った。

「公務員になったんです!」

この俺が!



思いも寄らない彼の発表に、彼女は驚いて、目を丸くした。









「ねえ、本当に大丈夫なの?」

頬杖をつきながら、名前はぼんやりと呟く。
目の前のテーブルには二つのグラスが置いてあり、その向こうには満足げな彼が、居住まいを崩して座っていた。
ほんの少し酔いが回っているせいか、頭の回転が緩やかに動いているようで、名前はため息を吐く。




帰り道で再開した彼は、先程自信満々に名前に言い放った後、そのまま当然のように名前の家についてきた。
仕事中じゃなかったの?と尋ねるも、いいんです、と足を止めるのをやめなかったのだ。

だから、もうそこから彼のペースに狂わされていたのかもしれない、と名前は思う。
ちょっと汗かいちゃったのでシャワー借りてもいいですか、を皮切れに、美味しい匂いがしますね、と夕食をねだってきたり、冷蔵庫を勝手に開けて、俺の好きなお酒置いてあるじゃないですか、と我が物顔で食後酒を注いだり。
夕食も美味しいと言ってくれたし、お酒もちょうど飲みたい気分だったからいいものの、彼の変わらない調子の良さに名前は苦笑するばかりだった。

「大丈夫ですよ!大した用事は起きませんから。」

「仕事中なのに?」

「ええ、大丈夫っす!」

「公務員が飲酒運転なんて洒落にならないよ?」

「まあ、それはそうっすね。」

彼は楽しそうに名前に笑いかけて、けれど、頬を緩めたままグラスを仰ぐ。
それから、少し思案するように俯くと、スッと顔を上げて名前を見つめた。

「俺にとっては名前さんとの時間が大切っすから。」

「でも意外だったよ。」

彼の演技かかった振る舞いを気にする事なく名前が続けると、つれないなあ〜、と小さく呟く声が聞こえた。

「本当に仕事見つけるなんて。」

「あ!そうでしょう?驚きました?」

嬉々として彼が嬉しそうにこちらに目を向けてくるものだから、その人懐っこい瞳が犬みたいで名前は小さく苦笑した。

「そうだね、その仕事が本物か、訝しむくらいには驚いてるよ。」

彼が空いたグラスにお酒を注いでいるのを呆然と見ながら答えると、ええ〜と不満げな声が聞こえた。

「正真正銘、公務員ですよ、しかも刑事。」


なんなら手帳見ますか?と彼は意気揚々と話しかけてくる。

「だからこそ、不思議なんだよ。仮に警察官だとしたら、あまりにも早すぎる。」

「そんな気にしすぎですって。結果、俺が公務員になったんだからいいんじゃないすか。」

「そうかなあ、」

彼は得意げに、ほら、と手帳を見せびらかして快活に笑う。 

「あの梅太郎くんが、試験に通れるとは思わないし。」

「え!?俺そんなに馬鹿な方じゃないはずっすよ。」

「警察なんて突拍子ない気がするし。」

「それはまあ、俺の能力が認められて抜擢されたって感じなんすよ」

「あの博打好きでギャンブラーの梅太郎くんが、警察官なんて厳格な役職につくなんて。」

「えへへ、まあ、否定はしないっすけど。」

ついニヤけるように笑う彼に、別に褒めてるわけじゃないよ、と名前は苦笑する。

「やっぱり刑事なんておかしいよ」

内心で底はかとない不安が駆け抜けて、彼が何かしでかしたんじゃないだろうかと、また何か危険な橋を渡っているんじゃないだろうかと、何故か名前は肝が冷える気がした。























「それより。」

名前の暗澹とした表情に気付くことがなく、彼は突然、酷く冷静な声で名前に向き直る。
珍しく背筋を伸ばして、居住まいを正しているみたいだった。

「何?」

グラスを傾けながら名前が彼に目を向けると、彼は緩んでいたはず頬をパチパチと手で叩いている。
咳払いまでして、心なしか、どこか緊張しているみたいだ。

名前さん、あの、聞いてください。」



彼が珍しく真剣な表情で、疑問に思いながらも、名前も釣られて背筋を伸ばす。



「うん。」

「…俺、公務員になりました。」

「うん?」



真剣な瞳を向けられて、名前は耐らず首を傾げる。
それさっき聞いたよ?と返すと、そうじゃなくて、と焦るように続けた。



「俺、仕事につきました。」



どうですか?と、両手を広げて、何かを主張するみたいに再び真剣な瞳を向けられる。

「…うん。」

それでも尚意味がわからなくて、曖昧に返事をすると、彼はえっ、と大きな声で発した。
それからガクッと肩を下ろして、そんな事じゃないかと思いましたよ…と項垂れる。

「え、なに?なんでそんなに落ち込んじゃうの。」

「ひどい。やっぱり覚えてなかったんですね?」

「だからなに?」

しくしくと、顔を両手で覆う彼を見やると、その指の隙間から、ちらりと覗く彼の瞳と合う。

「約束したじゃないですか。」

「約束?」

「そうです、名前さんが俺と距離を置く、って言った時。」



確かに、一時期あまりにも家に居座る彼に、もういい加減にしないと距離を置く、と彼に言った事がある。
その時期彼は本当にぐうたらしていて、やることといえば賭け事と借金することしかないくらいの、暇人だった。
名前の家に居座るようになってから、その態度がより加速したような気がして、罪悪感もあったからか、彼に説教まがいのことをした事があったのだ。
その後ぷっつりと彼とは連絡を途絶えていたから、気にしていなかったのだけれど。



「その時に、言ったんすよ。」



口を尖らせるように彼は呟くと、そのまま、射抜くような視線を名前に向ける。



「何、を、?」






「…借金返して仕事ついたら、惚れ直す、って。」







拗ねるように彼は呟くと、そのままスッと目を逸らす。
そして、小さく下唇をかんだ。





「…俺、名前さん本気なんだと思ってました。」

名前さんは嘘をつくような人じゃないから。





ぽつりと小さな声でそういうと、彼は肩を落として、項垂れるように下を向く。
さっきまで浮き足だっていた彼が、今は嘘みたいに落ち込んでいて、名前はかける言葉を失った。
いつも飄々としているせいで、正直、彼の今の落胆ぶりが、演技なのか本心なのかさえ、わからない。
けれど、彼の射抜くようなその瞳が、どうしてだかやけに真剣で、名前はなぜだか息苦しかった。



「…ご、ごめん。」


居心地が悪くてたまらずこちらから謝るも、彼は全くこちらを見てくれない。
向かいの椅子に座っているせいか、彼の俯いた顔が伺えなくて、名前は慌てて席を立つ。


「梅太郎くん、」




彼の近くにひざまづいて、彼の顔を下から伺おうとするも、尚更拗ねてしまったのか、彼は、ふいっと顔を背けてしまった。




「…俺、名前さんのために頑張ったんすよ、借金だって返したし。」


「借金も返したの!?」





ええ!?と、名前は驚いて声を出す。

…あんなにたくさんあったのに。






「…本当に、返したの?変なこと、してないの?」

「そうですよ。それなのに、刑事なんておかしいとか、梅太郎くんに似合わないとか、言うんですもん。」





しくしく、と小さく啜り泣くような声が聞こえて、名前は慌てて彼の肩に手をおく。

…確かに、頑張った相手に対して、自分は少し軽薄だったのかもしれない。

小さくなってしまった彼の背中がなんだか申し訳なくて、ごめんね、と彼の耳元で囁くように謝る。





「よく頑張ったんだね、」

よしよし、とあやすように彼の背中を撫でると、何故か小刻みに彼の肩が小さく震えた。





それから一瞬沈黙が流れてその後。


ブッ!




部屋に大きな音が鳴り響く。
続いてなんとも言えない匂いが広がった。






「え、、」




ふと気づくと、いつの間にか眼前に広がる、彼のしたり顔。


その近さに名前が目を見開くと、彼は勝ち誇ったように、ゆっくりと笑みを濃くした。




名前さんの唇、奪っちゃいました。」







意図が分からなくて、名前は目を瞬く。

けれど、唇に柔らかな感触を感じた記憶はなくて、だからすぐに、彼が嘘を言ったのだとわかった。

でもその、彼の嬉しそうな顔が、あまりにも無邪気で。

名前は胸から湧き上がるおかしさに、どうしても耐えきれなくて、名前は思わず吹き出した。


「ふふっ」


突然笑い出した名前に、彼は驚くように目を見開く。

けれど、彼のそんな顔も酷くおかしくて、彼のつく嘘の一つ一つが楽しくて。


「わかった、はめたのね?」


嘘みたいな彼の言葉が楽しくて、
安心したみたいな幸福感が、どうしてか酷く愛おしくて、
名前は笑いが止まらない。


笑い転げている名前を見て、彼は驚きつつも、安心するように笑みをこぼした。


「バレましたか?」


彼は肩をすくめると、すみません、とちょっと申し訳なさそうに首を傾げる。

けれど、それさえ何故だか酷く温かくて、名前は柔らかな笑みをたたえる。




「でも、名前さんのために頑張ったのは本当ですよ」




囁くように呟いた彼は、酷く優しげな瞳で笑った。





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