短編
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身動きの取れない身体。
背中には冷たい床の感触。
後頭部は大きな手のひらの感触があって。
タバコと香水の匂いはいつもより強く感じる。
そして何より、
触れられるほどの距離にある、深い黄金色の瞳。
側から見たら床に押し倒されているような状況に、彼女はただただ目を見張るばかりで。
胸の奥底から響き渡る鼓動の高鳴りがやけにうるさくて、名前は酷く混乱した。
…どうしてこうなったんだっけ。
眼前に広がる現実感のない状況に、冷静な自分が考える。
確か、たまたま私が何もないところで滑ってしまって。
ちょうど荷物を運んでいたから両手が塞がっていて。
ああ、倒れる、って思った時に、焦った隠神さんの顔が見えて。
その瞬間、凄い勢いで頭が引き寄せられたんだ。
名前に覆い被さったままの彼は、文字通り目と鼻の先にいる彼は、驚いたように目を見開いている。
右手で名前の頭を抱きかかえながら、自身の左手の負傷もかばったせいで、彼は片腕だけを床についている状態だ。
上体を起こすにも、片方は名前の後頭部で、片方は負傷しているわけだから、腕の分しか起き上がれない。
だから、彼の大きな胸に覆われながら、上から覗き込まれている状態で。
つまり、互いの吐息さえ肌で感じてしまうほどの距離で。
目の前にある彼の射抜くような双眸に、ようやく状況が呑み込めた名前は、床に組み敷かれたまま息を呑んだ。
彼をこんなに近くで感じるなんて、滅多にない。
いや、まず皆無だ。
すっきりとした鼻先も、澄んだような深い双眸も、優しげに垂れたその目尻も。
ふさふさとした柔らかそうな髪の毛や、その隙間から垣間見える白目がちな大きな瞳が、全てが新鮮で、名前は胸が苦しかった。
それだけでなくて、覆い被さった彼の服の隙間からは、均整の取れた体つきが垣間見えてしまう。
広い胸板と、すらりとした脚。
そして服の隙間から覗く鎖骨と、そこから首にかけての筋が、酷く無防備だ。
男性なのに、いや、男性だからというべきか、溢れ出んばかりの色気に名前は眩暈がする。
ただ距離が近いだけなのに、胸の高鳴りがうるさくて、鼓動が激しく鳴り響いている。
あまりにもうるさいその心音が彼に聞こえてしまうんじゃないかと不安になって、名前は無意識のうちに息をのんだ。
いつも以上に彼を感じるこの距離に、どうしようもない胸の疼きと、彼に触りたいという身勝手な欲を意識してしまって。
こんなに近くに彼を感じるのに、触れられないことが、はかなくて、じれったくて、むなしくて。
下半身に痺れるほどの甘い衝動が駆け抜けて、呼吸が苦しくて続かない。
動悸が激しいのは、苦しくて切なくて酷くもどかしいのは。
目の前にある深い澄んだ双眸から目を離せない。
酷く綺麗な瞳が、驚いたようにこちらを見つめたまま固まっている。
潤んだ瞳に反射する自分の瞳だって、彼女みたいに瞠目しているのだろうか。
彼女の温かさをやけに近くで感じる気がして、彼は内心の動揺を隠すのに必死だった。
彼女をこんなに近くで感じるなんて、滅多にない。
いや、まず皆無だ。
彼女に会うたびに溢れ出てしまいかねない自分の欲をひた隠しにして。
彼女を自分のものにしたいと願うたびに、まだだと自分をとどまらせる。
けれど、彼女に触れたくて。
吐息を感じるほどの近さで彼女を見つめたくて仕方がなかったのだから。
だからこそ、こんな機会は願ってもみないことだった。
彼女の瞳は扇情的に揺れていて。
彼女の肌は透き通るように白くて美しい。
彼女の唇はふっくらとして鮮やかなピンク色で。
このまま自分の欲に任せて、彼女の甘く柔らかな肌に噛み付いて、酷く官能的な甘やかな唇に吸い付いてしまえたなら。
このまま彼女だけを感じて、彼女の口内も肌も何もかもを自分の欲の赴くままに求めてしまえたなら。
このまま酔いしれるような幸福感に溺れてしまえたなら。
…彼女を、自分だけのものに、してしまえたなら。
「…名前、」
掠れたような声が響く。
すると一瞬、彼女の瞳の奥が、熱に浮かされるような情欲を掻き立てる色に染まったのがわかった。
…ああ、もういっそこのまま。
「好きです。」
甘く艶のある唇が、控えめに動いた。
それと同時に優しく、鈴のような柔らかな声が二人だけの部屋に反射する。
自分の口から出るはずだったその言葉は、けれど明瞭な声となって、彼の耳に甘く響く。
それは自分が長年我慢して、彼女に伝え損ねたままの言葉に間違いはなかった。
驚いて彼女を見つめると、酷く悩ましげな瞳をしたまま、彼を真っ直ぐに見つめている。
それから彼女は控えめに手を差し出すと、そのまま遠慮がちに彼の頬を撫でた。
あなたはきっと、こんなこと、言うべきじゃ無いって怒るんだろうと思うけれど。
優しいあなたは何もかも無かった事にして、いつも通りの日常を送れというかもしれないけれど。
でも。
もう胸に秘めておくことができないくらいに溢れ出てきてしまうんです。
あなたのことが心配で。
いつもあなたを考えてしまう。
どこかで体を壊してないだろうかって。
今何をしているんだろうって。
まさかこんなに大きい怪我をしてくるなんて。
どれだけ心配したと思っているんですか。
彼女は慈しむように彼の頬を優しく撫でると、怒ったように眉を寄せた。
あなたが強くて、いろんな方から頼りにされるのは知っています。
優しくて強いあなたは、きっと、私の知らないところで戦っている。
それは多分、あなた自身のためだけじゃないんでしょうけど。
そして私が聞いたって、なんにも教えてくれないんでしょうけど。
彼女は眉を寄せながら仕方なさそうにふふっと笑って目を細めた。
それでも、あなたが何者かなんて、そんなことはどうだっていいんです。
些細な違いに翻弄されるような想いじゃないんです。
あなたが生きてさえいれば、それでいいんです。
あなたと一緒に時間を過ごすことができれば、私はとても、幸せなんです。
あなたはきっと、わからないと思うけれど。
彼女は寂しそうに視線を落とすと、切なく瞳を揺らす。
けれど頬に触れたままの手のひらは、優しく柔らかに彼の頬を包んでいた。
こんな、息が苦しくて胸が疼いて、焦ったくて切なくて、でも酷く幸せな眩暈のするような幸福感に、
あなたは気づいてくれないと思います。
それでも。
彼女は唇を噛んだ。
それから泣きそうな顔で笑う。
…あなたが、好きです。
彼女の潤んだような瞳に、彼は二の句が継げなかった。
彼女の甘い囁きが、耳の奥から離れない。
こんな状況で、そんなことを囁いて。
それで俺が我慢できると、彼女は本当に、そう思っているのだろうか。
彼女の潤んだ瞳と目があって、彼はたまらず唾を呑み込む。
…ああ、でもそうだ。
この痺れに、今は、溺れる、わけにはいかない。
彼女の澄んだ瞳から目を逸らした彼は、そのままゆっくりと息を吐いた。
それから、彼女の頭に添えていた右手をするりと床から剥き取って、思いっきり上半身を起こす。
彼女の上から、退いた彼は、自身の髪をかきあげると苦悩するように眉を寄せて床に座った。
彼は下唇を強く噛んで、悩ましげに頭を抱える。
「…隠神さん?」
彼女の不安げな声色に、けれど、彼には何も言葉を返せなかった。
自身の至らなさがどうしようもなく悔しくて、彼女の大切な言葉に胸が締め付けられて声が出せない。
彼女を守りたいくせに、臆病な自分が歯止めをかける。
彼女は酷く大切で、だからこそ守るべきはずなのに、それ以上に彼女を失う事の方が怖い。
大切ならば、その覚悟を決めるべきなのだ。
少しでも失う危険が伴うのならば、すぐにでも隣に置いておくべきなのだ。
けれど。
どう足掻いったって、どう考えたって、彼女を突き放す方が、彼女のためになると思って仕方がない。
「俺は…」
酷く、掠れた声だった。
もう何年も話し方を忘れたみたいに声が出ない。
けれど、早々に、彼女を突き放さなければ。
できる限りひどい言葉で彼女を拒絶しなければ。
俺と一緒になるよりきっと、彼女は同じ人間と年月を共に過ごす、べきなのだ。
どうにか口を開けた彼は、けれど、突然、包まれるような温かい感覚を覚えた。
不思議に思っていつの間にか強くつぶっていた目を開けると、困ったような温かな瞳と目があう。
「隠神さん、」
彼女は、酷く甘くて優しい声色で、微笑んだ。
彼女の手のひらは、温かな手つきで、彼の頭を規則的に撫でている。
戸惑いがちに、けれど酷く確かな手つきでゆっくりと。
それはまるで、赤子をあやすみたいに。
「大丈夫です。」
小さいけれど明瞭な声が部屋に響く。
どこか芯のある強い声だった。
大丈夫。
唱えるように言葉が何度も重ねられた。
それと同時に、慈しむ様な温かな手のひらが何度も彼の頭を撫でる。
「だから、そんな泣きそうな顔、しないでください」
私はここにいますから。
優しく囁かれた声に、隠神は、ただ目を見張った。
そしてそのまま、泣きそうな顔で彼女を見つめる。
…名前。
俺はお前が。
今は、まだ。
声にならない声は、決して彼女の耳に届くことはない。
けれど、彼自身の胸の内で、耳鳴りのように反響した。
彼女の温かで柔らかな手のひらも、声も、瞳も、どれもが幸福で。
締め付けられるほどの痛みを伴うそれに、酷く胸が苦しい。
ああ、そうだ。
このまま何もかもかなぐり捨てて、彼女を掻き抱いてしまえたら。