短編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
広々とした事務室に自分のキーボート音だけが響く。
いつも慌ただしくて人の絶えないこの場所も、今は静寂に満ちている。
時計の針が指し示す数字はとうに終業時刻を過ぎていて、名前はたまらず嘆息した。
目の前に置かれた仕事の量を考えると、終電の時刻に帰れるかさえも正直怪しい。
だからといって、手を抜いて少しでも齟齬のある情報を書き込んだら、あの人絶対怒るしなあと、上司の説教顔が難なく思い浮かぶ。
彼に見つかったら嫌味な言葉できっとネチネチ言うに決まってる、いやそれ以上かも。
ふとすれば彼に対する悪態ばかりが思い浮かんで、名前は小さく失笑した。
とりあえず、キリのいいところまでは仕上げてしまおう、と思い直すように息を吐き、名前は再びキーボードを叩き始める。
「あれ、まだ帰ってなかったんですかー?」
突然、やけに間延びした声が、静かな部屋に響く。
集中していたからだろうか、その声が、あまりにも突然聞こえたので、名前は驚いて顔を上げた。
暗い部屋にうっすらと浮き上がる高身長の人影。
扉付近に首を傾げて立っているその人影に、名前はバレないように嘆息する。
「こんな夜遅くまで、残って働いてるなんて大変ですねー」
夜遅くまでと言われて、ふと時計に目をやると、いつの間にか半刻を過ぎていた。
けれど仕事の進み具合は上々で、このままいけば終電時刻には間に合いそうだと名前は少し安心する。
だからこそ、タイミングの悪い彼の登場には、呆れざるを得ない。
名前は彼に一瞥を向けると、そのまま残りの仕事に取りかかった。
「まだ終わらないなんて、よっぽど難しい仕事なんですね〜」
明るい声で他人事のように呟く彼に、名前はほんの少しの苛立ちを覚えた。
…誰のせいだと思ってるんだ。
「進捗はどうですか?」
彼はニヤリと笑うと、高身長をかがめて、名前のパソコンを覗き込む。
いつもの可愛らしい風貌と異なるせいか、不覚にも鼓動が高鳴って、正直、解せない。
自身の風貌も魅せ方も熟知している彼は、時にそうやって他人を煽っては楽しんでいる節がある。
こういうのは相手をしないに限る、と名前が無視を決め込んで仕事を進めていると、彼はほんの少し怪訝な顔をした。
「あれ、怒ってます?」
不思議そうに首を傾げて覗き込む彼に、名前は深く眉を寄せた。
「…いいえ、」
「そうですかー?でもなんだか気が立ってません?」
顔を寄せながら、名前に話しかける彼は楽しそうだ。
けれど、わざわざ彼のために仕事を中断するのは億劫で、名前は眉をよせたまま仕事を続けた。
彼こそ仕事を増やした張本人であるという事実が、苛立ちを増幅させたのかもしれない。
「大丈夫です。」
「ええー?でも眉間に皺がよってますよ、綺麗なお顔が台無しですね?」
「そんなことありません。」
「もちろん怒ってる名前さんも嫌いじゃないんですよ、でも怒らないに越したことはないというかー」
「怒ってません。」
「ああ、ほらやっぱり。」
…しつこい。
「怒ってません!」
こめかみに青筋を浮かべながらも、名前はできる限り冷静な声で彼に返した。
狐の戸籍を集めろだの、その能力を確認して裏を取れだの、目星のついた狐の性格とその来歴を探れだの、無理難題な仕事を押し付けてくることも。
しかもそれらを通常業務はこなしながら、秘密裏でやらなければならないことも。
そもそも部下の使い方が酷い上司を持ってしまったことだって。
「怒るわけ、ありません。」
名前の内心の悪態に気付いているのか、彼は子供のような明るい笑顔で名前に微笑む。
「それはよかったです。」
笑みの裏にはどれだけの、腹黒さを隠しているのか計り知れない。
名前はバレないようにため息を吐いた。
「それで、なんの御用でしょうか?」
また仕事の追加ですか?
内心の疲れが顔に出ないように返すと、いいえ、と彼は流暢に返事をした。
「名前さんに会いに来ました。」
彼の突然の口説き文句に、けれど、名前は、彼に目もくれず口元だけで笑った。
それから、疲れ滲ませたように嘆息する。
「そうですか。」
彼の言動に微塵も狼狽えることなくそう答えると、なぜか今度は彼がため息を吐く。
あーあ、と、わざとらしい大きな声まで聞こえる。
「そうですか…って本当に意味わかってます?」
訝しそうにこちらを見る彼に、名前はパソコンを見つめたまま、もちろん、と返した。
「勿論ですよ。お疲れのところ大変ですね、それで仕事の追加内容は?」
彼の口説き文句じみた言葉は、彼なりの礼儀に過ぎない。
おそらく仕事の後ろめたいことでもあるのだろうと、名前は自分なりの憶測を立てた。
些細な口説き文句に翻弄されては、彼の部下が務まるはずないのだ。
微塵も動じない彼女に、彼は呆れたように苦笑した。
それから、かすかな微笑をたたえて彼女を覗き込む。
「ありませんよ?」
今のところは。
含みを持たせるように彼は彼女の瞳を見て笑った。
その不思議な対応に、名前は内心首を傾げる。
…じゃあなんでわざわざ煽りに来たんだろう。
不信感をできる限り顔に出さないように表情を収めて、名前はキーボードを叩き続けた。
「そうですか。」
…だんだん疲れてきた、もう彼の話を聞くのはやめよう。
彼との応酬さえ面倒になってしまったからか、名前はそう決め込んで口を結んだ。
「ああ、そういえば、」
しばらく、静かに名前のそばでくつろいでいた彼は、思いついたように手を叩く。
独り言にしては大きな声で呟くと、大袈裟に咳払いをした。
「隠神さまにお会いしましたよ。」
「えっ?」
思いも寄らない人の名前に、名前は驚いて声をあげる。
慌てて彼を振り向くと、彼はうわあ、と冷ややかな顔をして名前を見つめた。
「いま、なんて?」
「だから隠神さまですよ。ちょうど昨日あたりですかね、群馬県から帰ってきたらしいです。」
よかったですねー、と棒読み口調で返されるも、名前は彼に向き合って目を輝かせた。
「それで、お元気でした!?」
今回のヤマは確か、隠神さまが気になさってた事件だったんでしょう、負傷者は?
前のめりにそう尋ねると、面倒だなあ、と彼は吐き捨てるように呟く。
「負傷者も死傷者も最低限で済みましたよ。まあ、最低限、ですけど。」
「負傷者?隠神さまは?」
慌てて焦ったように彼に詰め寄ると、彼は目を逸らして嘆息した。
「まあ、あの隠神さまですからね。ちょっと毒にやられるくらいで済んだみたいですよ。それもすぐに治ってましたけどね。他の皆さんも若干一名を除いて負傷者はいません。」
まあ、大丈夫でしょう。
吐き捨てるように呟いた彼に、名前は安心したように嘆息して、目を輝かせながら笑みを漏らす。
毒にやられる、というところは引っかかるけれど、彼がいうのなら大丈夫なのだろう。
そもそもあの隠神さまがちょっとのことで大怪我をされるはずはないのだ。
「それは良かった…、です。」
心底安心してしまって、思わず感嘆の息が漏れる。
けれど、思いの外自分の声が大きくなっていたことに気づき、名前は少しだけ赤面する。
突然、隠神さまの話題を出されてしまったものだから、大人気なくも動揺してしまったみたいだ。
野火丸さんの前にも関わらず、我を忘れてしまった自分を、名前は少しだけ恥じていた。
「ねえ、名前さん。」
再び、静かな部屋に、彼の明瞭な声が響いた。
顔を手で覆いながら、ほてった熱を冷やしていた名前は、その意外にも落ち着いた声に驚いて彼を振り返る。
すると、さっきまで冷ややかに名前を見つめていたはずの彼が、なぜだか神妙な顔つきでこちらを見ていた。
皮肉的な微笑みも、可愛らしく演じられていた瞳も、今はなぜだか消えていて、その代わりどこか物憂げな表情。
「どうして、あの人なんですか?」
静かな声が、反響するように部屋に響く。
その真意が読めなくて、名前は彼を見返した。
「なんの…ことですか、」
突然の彼の言葉に、名前が動揺してそう答えると、彼は、別に隠さなくていいんです、とあきれるように呟く。
「わかっているでしょう?」
彼の断言するようなその言葉に、何もかも見透かされているような気がして名前は目を見張った。
狐は、その能力の高さゆえに、他の種族と差別化されることがよくある。
特にこの業界に入ってからは、その差別を否が応でも強いられた。
他の種族よりも能力が高いことを前提とされた、酷く理不尽で身勝手な考え方。
どこか押し付けがましいその考えに、名前が疲れ果てていた時だった。
「どうしたの、浮かない顔だね?」
おそらくそれは全くの偶然だろう。
いつもの仕事の帰り道、偶然迷い込んでしまった路地の先に、その人はいた。
タバコの匂いに混じったその微かな匂いで、すぐに化け狸だとわかったものの、優しく労われるようなその言い方に、不覚にも心が揺さぶられてしまったのを覚えている。
「狐が夜中にこんなところまで誘い込まれるなんて、よっぽどのことじゃない?」
この際、狐とバレてしまったことはどうにでもよかった、ただ、漠然と、この人になら相談できるんじゃないかと、理由もなくそう確信してしまった。
だから。
その時からあの人に、並々ならぬ感情を、寄せているのだろう。
野火丸の攻めるような言い方に、名前は考えを巡らせるように下を俯く。
彼の鋭いその視線から、言い逃れられないような気がして、名前は戸惑うように呟いた。
「あの人は……」
名前は思い悩むように呟くと、それから一つ一つ辿るように言葉を選ぶ。
「私に、無いものを持ってるから。」
彼女の確信めいた呟きは、確かな意思を持って部屋に反響する。
「好きなんです。」
ぶれたり迷ったりしない、芯がある人そのものなんです。あの人の確固たる意志の持った価値観に触れてしまって。私の悩んでたことは、なんてちっぽけなんだろうって。格好良くて、羨ましくて。
「もっと、近づきたいんです。」
種族の違いをも超えて論じられた突破口のような見解を、あの人の口から聞いた時、憑き物が抜け落ちるみたいに自身の気持ちが軽くなった。
それはあくまで詭弁なのかもしれないけれど、一時だけでもその夢に縋ってみたかった。
目を輝かせて語るあの人に、自分には無い何かを感じて心底憧れてしまった。
彼女の深い双眸は、焦げるような瞳をして真っ直ぐに彼を見つめる。
彼女の瞳は澄んだように輝いていて、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
意思を持ったその瞳に、けれど、野火丸は溢れ出る嫌悪感を露わにする。
胸の奥底から湧き出るどす黒い感情。
彼は、嘲笑するように鼻を鳴らした。
「それが叶わない願いであってでも、ですか?」
種族が違うのはこの際目を瞑りましょう。
でも、もうすでに相手に恋仲がいるというのはどうですか?
その二人は、本人たちの意思に関係無く、とても強く想いあっています。
あなたの思惑なんてきっと、彼は歯牙にも掛けないでしょう。
だから、
「あなたの入り込む余地なんて、これっぽっちもありません。」
断言するような明瞭な言葉が、静かな部屋に透き通った。
彼の瞳は射抜くように、彼女の瞳を見つめている。
彼女が二の句を継げないでいると、彼はうっすらと笑みを浮かべた。
「ねえ、名前さん。」
甘く、優しい、声だった。
「どうして、落ち込んでいないんですか?」
あなたは今しがた振られたというのに、全く気にもしていない。
あなたにとって、彼の感情なんて、無関心なのではないですか。
本当は彼の理想にすがっては、幻想を抱いているだけなんじゃないですか。
あなたのそれは、憧れであって、恋ではないのでしょう?
「…名前さん。」
彼はゆっくりと彼女に近づくと、緩慢な動作で彼女の髪を撫でた。
優しげに細められた瞳は、慈しむように彼女に微笑む。
「僕の、夢にしませんか?」
差別と偏見にまみれたこの世界は、もっと、ずっと狂っている。
たとえその幻想が叶ったとしても、それはきっと、一時的なものに過ぎない。
変えるならもっと革命的で残酷なやり方が必要です。
僕なら、それができてしまう。
僕なら、
「貴方の願いを叶えられる。」
彼の瞳は、焦げるような、射抜くような鋭い光でこちらをじっと見つめた。
真っ暗で鋭いその瞳に、揺るがない強さを垣間見て。
惹き込まれるような目眩がする。
ああ、そうか、
差し出された大きなその手に、すがれさえすれば、いいのだろうか。
「それでも、」
伸ばそうとした手を、突然そのまま静止させると、彼女は大きく息を吸った。
「それでも、諦めきれません。」
あの日、声をかけてくれたあの人に、光を見たのは事実だから。
それが幻想でも詭弁でも、確固たる意思を持つ強さに、確かにあの時救われたから。
実際、あの人の理想論だけでは、この世界は結局変わらないかもしれないけれど。
あの人の強さに、近づきたいから。
それがどんなやり方でも。
「…なら、」
彼女は思案するように呟いて、俯いていた顔をゆっくりとあげる。
それから、真っ直ぐに、目の前の彼に対峙した。
「一緒にみるなら、貴方の夢にします。」
全てを貴方に預けるなんて、そんな誘惑のってあげません。
強くて皮肉屋で計算高くて腹黒くても、私は貴方の部下ですから。
貴方の夢くらい、隣で一緒にみさせてください。
そういうと、彼女は彼に笑いかける。
無防備で無邪気なその微笑みに、彼女なりの強さを垣間見て、彼は笑いが込み上げた。
何もかも杞憂に過ぎなかったと、ひどく安心している自分を感じながら。
「終わりましたか?」
どうにか今日の分の仕事が終わって、思いっきり伸びをしていると、それに気づいたらしい彼が呟いた。
彼は結局、名前の仕事が終わるまで、近くのソファで静かにしていてくれていた。
彼自身こそ、とても忙しく、寝る間も惜しいはずなのに、先に帰ることはしなかった彼の姿に、名前は正直驚いていた。
口は達者だけれど、やはり根は真面目で、律儀なのだろう。
彼の目論見は結局わからずじまいだったけれど、目の前の小さな親切が嬉しくて、名前は声を弾ませた。
「ええ、終わりました。」
笑顔で彼に答えると、彼はソファでゆったりとコーヒーを飲みながら、そうですか、と呟く。
随分かかりましたね、と嫌味な言葉はいつも通りだ。
「お待たせしてしまってすみませんでした。」
もう一度笑顔で、彼に微笑むと、彼は名前をチラリと見てから嘆息する。
「別に待ってはいませんよ、」
彼はそのまま意に介さないように名前から目を逸らす。
そのあからさまな態度に、名前が思わず笑みを漏らすと、彼はジロリとこちらを振り返った。
「それで?もう怒ってないんですか?」
呆れたように呟く彼に、名前は恥ずかしくなって赤面する。
「ええ、少し仕事が終わらなくて、気が立っていました…。」
すみません、と申し訳なくて頭を下げると、彼は、はあ、と大袈裟にため息をついた。
それから、思いっきり名前をけなすように鼻で笑う。
「怒ったり笑ったり、あなたは本当に大変ですね。」
その声色が思いの外、優しげで、名前は驚いて顔を上げる。
けれど、彼は先程と同じように、素知らぬ顔で、カップを傾けているだけだ。
…聞けるはずのない優しい言葉を聞いた気がする。
ひどく優しくて、温かい声で。
大切な相手を思いやるような、素直な。
あたかも想い人のように。
「なんですかー?」
そんな名前の驚きを知ってか知らずか、彼はいつものように少し冷めたような口ぶりで、名前に尋ねる。
皮肉屋で計算高くて腹黒い彼が、そんなことを言うとはやっぱり思えない。
名前は慌てて、なんでもありません、と苦笑した。